第5話 プスコフ近郊(午後)

 スタラヤ=ルッサを飛び立ち、一路プスコフへ。

 今日3回目のスタラヤ=ルッサ〜プスコフの飛行だ。かなり燃料も食い、一度補給をしないとリガまで行けそうもないので、プスコフの空軍基地に着陸する必要があるのだが、ひとつ問題があった。


「マーシャ」

 と、ハンスは前を向きながら声をかけたが、返事はない。

 充分周囲に気を払って後席を振り向くと、マリーヤは座席に身を任せて、くぅくぅとかわいい寝息を立てていた。

 この小さい体で、朝早くから緊張を強いられるミッションをさせているのだ。疲れは当然だろう。アドルフも足元で目を閉じて寝ている。

「マーシャ」

 とは言え、このまま寝かしておく事もできない。2度目の呼びかけに足元のアドルフの耳が動き、顔を上げてワオンと鳴いた。

「ううん……、あ」

 アドルフの声で起きたらしい。マリーヤの目がぱっちりと開くと、ハンスとゴーグル越しに目があった。

「おはようさん」

「あ、お、おはようございます…寝ちゃってたんですね、わたし。ごめんなさい…」

「謝る事ないさ」

 正面に顔を戻したハンスにはマリーヤの顔色までは見えなかったが、声からは顔を赤らめている感じがする。


「もうすぐプスコフ上空だ」

 まだマリーヤが寝る前に、今回の飛行についてある程度の予定を話してはあるが、それをおさらいがてらに確認する。

「俺らの目的地はリガだが、ここで一度燃料補給の必要があるので、降りなきゃならない」

「わかってます。でもそうすると、わたしとアドルフが乗ったままだと困る、という事でしたね」

「その通り」

 給油にはそれなりに時間がかかるし、その間に不具合の有無や計器チェックなどの整備を受けるのが普通だ。それら整備兵の目から、ロシア人少女が乗っていることを隠し通すのは不可能と言える。

「だから、どこかにマーシャを降ろして、給油が済むまで待ってもらう必要があるんだが…」

 ただ、どこに降ろすか。シュトルヒはあまり場所を選ばす離発着できるが、ハンスもプスコフ周辺の地理に詳しいわけではない。


 プスコフには独ソ戦開始直後に1ヶ月ほど駐在した事があるが(その時にアドルフを拾った)、もう2年以上も前だし、平坦に見える雪原もその下に倒木や岩があることも考えられる。安全かつドイツ軍に見つからない着陸場所はどこかを考えていたが。

「凍結した湖に降りることにした。ほら、プスコフの北に大きな湖があるだろ?」

「湖に?降りられるんですか?」

「降りられる。というか、何度か降りた事がある」

 スタラヤ=ルッサにもすぐ北にイリメニ湖があり、遊び半分、緊急着陸場所の実験半分で、シュトルヒで降りてみた事があるのだ。

「この時期なら真っ平で分厚い氷が張っているから、強度は問題なし。雪も風が吹き飛ばしてくれるからあまり積もっていない」

 ただ、氷上なのでツルツル滑り着陸距離は2、3倍になる。機体が軽く着陸距離が短いシュトルヒだから出来る話で、普通の軍用機ではオーバーランしてしまうだろう。

「わかりました。ハンスさんにお任せします」

「よし、任された」

 シュトルヒの操縦桿を倒し、機体を降下させる。


 向かい風になる方向から氷結した湖上へランディング。出来るだけ速度を落としたが、それでもツツツーッと滑っていく。飛行機のスケートだ。

 やがて向かい風に押されて湖上に止まりそうになるので、少しエンジンをふかして岸辺につける。

「ほい、到着」

 風防を開け、凍てつく外気を取り込むと、足元に気をつけながら機外に降りる。

 アドルフはピョンと跳んで出て、氷に脚を滑らせながらも岸辺に。

 マリーヤは手を伸ばしたハンスに抱き止められる。

「とと」「わわわ」

 足場の悪い氷上だ。マリーヤを受け止めて多少よろけたハンスだが、すぐに踏ん張り、いわゆる「お姫様抱っこ」でゆっくりと運び、岸辺に降ろす。


「次は雪洞作りですねっ」

「だな。シュトルヒに道具があるから、持ってくるわ」

「じゃあわたしは下地をならしておきますね」

「よくわかってるな」

「わたしだってロシアの子ですから」

 ハンスやマリーヤといった高緯度帯の出身者なら、冬になれば雪洞を作って遊ぶことをやった事がない人はいないだろう。特にハンスのような男の子なら、自分たちだけの秘密基地を作る、あるいは作る雪洞の大きさや速さ、造型美を競い合うなど数え切れないほど作った。

 その他にも、急な地吹雪などで家に帰れなくなった時の緊急避難場所という、冬場サバイバルの意味合いもあり、作りかたは上の世代から教わって伝えられる。

 シュトルヒにも、雪集め用のシャベルや氷切り用のノコギリ、ツルハシにハンマー、楔まで積まれているのも、冬場の不時着時の備えのためだ。

 ハンスがそれらの道具を持ってきた時には、マリーヤは岸辺に迫る森の近くの平らな場所で、雪をかき分け凍結した地面を出していた。


 ハンスは湖面で氷を切り出し、その周りにC状に積み上げていく。氷の隙間にはマリーヤが雪を塗り込み隙間風を防ぐ。

 その動きは決して早いものではない。2人とも頭から体から防寒着を重ね着しているせいもあるが、あまり急いで汗をかくと、その汗が凍結して体温を奪うからだ。

 ロシア人の動きがスローモーションだと言われるのも、この冬場の環境が体に身についているためかもしれない。

 マリーヤとアドルフがしゃがんで入れる高さになると天上を半ドーム型に整え、最後は板状の氷を切り出し天頂に置いて完成だ。

 ハンスとマリーヤは軽くハイタッチしたあと、ハンスはシュトルヒに道具を返す一方、これまた緊急時用の小型灯油缶やマッチを持っていく。

 マリーヤは雪を被った下草や熊笹の下の、あまり湿気ていない木片を抱えて持ってくる。こういう知識も村の人々から教わっているのだろう。


 出来上がった雪洞の真ん中で、拾った木片に灯油をかけてともしびとする。

 青白く油臭さ満載の火だが、これひとつあるだけで温かさは全然違う。

 この中で、マリーヤが生きた湯たんぽともいうべきアドルフを抱えていれば、一晩過ごすことさえ出来そうだ。2〜3時間ぐらいならなんの問題もない。

「まだドイツ軍はこの辺にはいないようだが、気をつけるに越したことない」

 ドイツの撤退作戦によれば、フィンランド湾近くの街ナルヴァから川沿いに南下して防衛線をつくり、ペイプシ湖〜プスコフ湖の南北に細長い湖を経てプスコフまで固める。今はナルヴァとプスコフを固めることに力を入れているだろうが、撤退してくる部隊が増えればこの辺りも監視部隊が置かれるはずだ。

「わかってます。この中でじっとしますので」

 アドルフもワンとひと吠え。

「いい子だ。じゃ、ちゃちゃっと行ってくる」

「ハンスさんも気をつけて」

 マリーヤの声に背中に受け、後ろ手を振るハンスだった。


 プスコフのドイツ空軍基地に来たのは、今日2度目だ。

 午前に降りた時と比べると、駐機している機体がかなり増えている。前線各地の基地から撤退してきた飛行連隊のものだろう。多くの基地スタッフが取り付き、走り、忙しなく動く。

 また撤退支援のためか、2機の戦闘機が離陸していく。

 邪魔にならないように、滑走路脇の雪原にシュトルヒを降ろす。

 50~60mほど滑らせてエンジンを切ると、気がついてくれた2人の整備兵が近づいてきた。

 風防を上げ、ゴーグルを取るハンス。

「今日はもう上がりですかぁ?」

「いや、特別任務ってのを承っていてさー、ほらこれ」

 ハンスの出した命令書に2人の整備員は顔を覗き込んで読む。

「ははあ、するとこの後リガまで行くと」

「そそ。なので燃料を補給してもらいたい。あと整備も」

「わかりました〜…、と言いたいところですが、今燃料塔は順番待ちでしてぇ」

 整備員の顔が向いたところにある燃料塔には、待機中の飛行機が何機も。

「燃料塔は3つあるようだけど」

「燃料自体が充分にないんですよお。他の2つの燃料タンクは空で」

 そう言って苦笑する整備兵。それを受けて首をすくめるハンス。

 燃料だけではない。兵器も物資も兵員も、何もかもが足りてないのが今のドイツ軍だ。これでいつまで戦えるのか。

「じゃあ、コイツを預けていいか?腹も減ったしトイレにも」

「了解ですぅ。見た感じ、被弾もないようですし、計器チェックはしときます〜」

「頼むな」

 ハンスは飛行帽を取り操縦桿に引っかけ、操縦席から出る。


 駐機している様々なドイツ軍機の間を通り、施設の方へ歩いていく。

「それ、こっちこっち!」「その穴、ちゃんと塞いどき」「あー、こいつはおシャカだな」「危ねぇって‼︎」「友軍が待ってんだ、早くしてくれ!」「士官殿〜。焦らせたっていいことありませんぜ?」

 整備兵、操縦士たちの喧騒、離発着やアイドリングのエンジン音、修理や武器、弾薬が触れあう金属音などなど、駐機場は様々な音にあふれている。

「おい、あいつ脚出てねぇぞ!」

 不意に上がった声に釣られて、ハンスが滑走路に目を向けると、着陸体勢に入った1機のFw 190戦闘機の左脚が降ろされてない。

「被弾してるし、故障か?」「だめだ!パイロットは気がついてねぇ!」「手旗員は旗振って知らせてるんだが!」「あ〜っ」

 整備兵の声のなか、戦闘機はランディング。しかし脚の出てない左翼が滑走路につき、火花を上げる。着地した左翼に引き摺られる形で左側に滑走路から外れていく機体。

 やがて滑走路脇の積み上げた雪かき場の雪山に突っ込み、止まった。

「それっ」とばかりに、基地スタッフがわらわらと寄っていく。風防が上がり、自力でパイロットが機外に出たところを見ると、怪我はないようだ。

「炎上しなかったか」「燃料、ないんじゃね?」「他の駐機体に当たらんかったのは不幸中の幸いやなぁ」「でも、もう機体はダメっスねー」「エンジンとか使える部品を取って、ダミー機行きだな、ありゃ」「後方に送れないもんな」

 整備兵の言葉を聞きながら、他人事ではないなとハンスは思う。

 最近の機体は急造のためか、故障が頻発していると聞く。整備兵の質も落ちているし、かと言って後方送りするにも交通手段に余裕がない。

 故障や損傷でシュトルヒを失うかもしれない。

 それはハンスにとり身がよじれるくらいに苦しい。地上兵になれなんて言われたら、脱走するかもしれない。


 思いの外給油に時間ががかった。

 時間とともに撤退してきた機体や整備兵も増え、乱雑化したプスコフ空軍基地を飛び立ちマリーヤと別れた湖畔に向かう。

 天気は下り坂と予報にあったが、確かに風は強くなってきていた。逆風を受け流すようにシュトルヒは進む。

「あそこだな」

 湖畔に迫った森林との間に、ちょこんとあるかまくら。周囲の雪と混ざって上空からは見えにくいが、マリーヤとともに作ったやつで間違いない。

 白犬がかまくらから飛び出し、そのあとを見慣れた防寒着にまとった少女が現れ、こちらに手を振った。

 慎重に操作して、氷結した湖上に着陸。マリーヤ近くの湖畔までシュトルヒをハンドリングして寄せる。

「お待たせして申し訳ありませぬ、姫」

 シュトルヒから飛び降り、あえて古めかしいロシア語で大仰にいうハンス。

「や、やめてください。姫なんて柄じゃないですから…」

 こういう照れたマリーヤの反応も初々しくていい。

 時間ないんだから早く行こうぜ、とばかりにいち早く飛び乗ったアドルフに促されるように、マリーヤを抱えて後席に乗せる。


「お腹減ったろ」

 風防を閉め、シートベルトを締める前に懐をまさぐるハンス。

「ほら」

 と出したものは、ソーセージ《ヴルスト》を挟んだパン。プスコフで昼食を取った時、マリーヤ用に余分に貰ってきたものだ。

「余分ないんですけど」と主計兵には顔を顰められたが、特別指令の命令書を盾に頼み込んだ。命令書様々だ。

「ありがとうございます!…朝から食べないので、お腹減ってたんです」

 満面の笑顔でパンを受け取るマリーヤ。その笑顔だけで全てが癒される。

「アドルフにもあげてくれよ。ヴルストだけでもさ」

「もちろんじゃないですか。アドルフはわたしの騎士ルイーツァリなんですから」

 鼻の効くアドルフだから、ヴルストの香りだけでそわそわしているだろう。

「アドルフ〜、まだよ、まだだからねー」

 賑やかな後席を耳で聞き、口元に笑みを浮かべながらハンスはスロットルを開けて、シュトルヒを動かす。

 長い1日最後の飛行、リガまで。








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