第2話 スタラヤ=ルッサ市内(午後)

 偵察の後に深夜の任務をこなし、基地内の宿舎で仮眠をとって起きた時には、基地は騒然としていた。

 明日撤退することが急遽発表されたのだ。敵の動き、天候予測などから決まったようだ。気象班によれば明後日から天候が崩れ、飛行機が飛べなくなるらしい。

 荷物や機材の搬出計画、それぞれが乗る撤退車輌、タイムスケジュールなど確認することは多い。

 その中ではハンスのやることは少ない方だ。

 シュトルヒに積み込む機材は少なく、ハンスの私物もそこに突っ込めばいいらしい。

 ➖これは…、チャンスかもしれない。

 ハンスはめちゃくちゃ忙しそうにしているジークムンドを捕まえ、その計画を伝えた。

 鬼気迫る表情で撤退指示をしていたジークムンドには、最初こそ邪険にされたが、『マリーヤの件』と言えば察してくれた。

 ジークムンドの賛同を得て、最後まであがいてみることにしたハンスだった。


 スタラヤ=ルッサの空軍基地は、市街から少し離れたところにある。

 基地内の兵士の多くはそれぞれが忙しそうにしている。様々な機材や荷物があちこちに積まれ、おもちゃ箱をひっくり返したようだ。

 要所に置かれた対空兵器も運び出す準備に余念がなく、多くの兵士が取り付いている。

 ドイツ軍の場合、防空部隊も空軍の所属となっており、運搬車輌のあてのある兵器はともに撤退させることになっていた。

 その一方で、2機編隊のFw190《ヴュルガー》戦闘機が爆音を立てて滑走路を飛び立っていく。撤退をソ連に悟られないためにも、上空の監視と警護は必要だろう。

 そんな基地の様子を横目に、門番兵さえ立ってない唯一の基地出入り口を抜け、凍結した道に気をつけながら、小走りで市街に向かうハンス。

 市内に入れば、陸軍が大通りにバリゲートを大急ぎで構築していた。前々から準備してした木材が基本だが、破壊したらしい建物の廃材、さらには列車の貨客車もある。

 スタラヤ=ルッサまで列車が来ていたのは昨年の秋ごろまでで、それ以降はパルチザンの線路破壊工作に修復が間に合わず、帰ることが出来なくなった車両を駅舎から持ってきたようだ。

 聞いた話では障害物兼簡易トーチカにするとか。窓から銃を出して、銃座として使うらしい。

 防衛準備に忙しい陸軍に咎められもせず、ハンスはエリザヴェータの酒場へ向かう。


 からんからんと、何度も聞いた扉の呼び出しベルを鳴らしながら扉を開けると、中にはエリザヴェータが1人で椅子を持って動かしていた。

「あら、ハンスさん」

 このような時でありながら、いつもと変わらない表情でにっこり笑うエリザヴェータ。

 室内はかなりすっきりとしている。棚の食器類は何処かに片付けられ、卓や椅子も隅にまとめられていて、がらんとしている。

「マリーヤは?」

 後ろ手で扉を閉めながら、ハンスが尋ねる。

「今、他のところで手伝ってもらっているわ。閉じこもりの準備。アドルフも一緒」

「そうか、住民も避難しなきゃならないもんな」

「本当は退去命令が出ているんだけどねー。こんな厳冬期に街から出ろって、無理じゃない?老人も多いしねぇ」

 もっともな話だ。1日野宿するならなんとかなるかもしれないが、数日もとなれば全滅必至だ。

 本来、ロシアの冬原野は人が歩き回れる環境ではないのだ。

「だから、みんな地下室とかに籠ってやり過ごす予定。ま、ドイツ軍もそれくらいは目溢ししてくれてるみたい」

 そうは言っても、それも苦難の選択だ。

 防衛戦の間は地下室から出れないだろうし、いつまでも籠れる食糧もないだろう。そもそも戦闘用に作られたわけではない地下室では、猛砲撃で生き埋めになるかもしれない。

 もちろんそんな事は充分わかっていて、それでもまだ生き残れる可能性が高い選択なのだろう。


 ドイツ軍とソ連軍の争いに、本来関係がない一般住民が巻き込まれて被害を受ける。

 戦争とはそういうものだ、と割り切れれば容易いが、それが見知った顔となれば自然と気が塞ぐ。

「なぁに?そんな顔しないでよー。あたしハンスさんには感謝してもしきれないんだから」

 エリザヴェータの顔はどこまでも優しい。

「ハンスさんだけじゃないわ。ここにいたドイツ人の多くは気のいいお客さんだったもの。知ってる?行政委員のシュワルツベルクさんなんか、あたしたちの前で謝罪して、泣いてまでくれたんだよ?他の街から来た子なんか、目を丸くしちゃってた。それだけ、めぐまれていたんだよね、この街は」

 列車が届かなくなった秋口には住民が稼いだマルクと交換できる物資がなくなり、歓楽都市としての機能は停止された。ため込んだマルク紙幣は紙くずとなり、行政委員が泣きの謝罪をした事はハンスも聞いていた。

 でも、強制徴収が当たり前、ちょっとでも不満を漏らせば「だったら、なんの不満のない世界へ行くか?」と銃をちらつかせる他のドイツ軍下の街と比べれば、ロシア人娼婦が目を丸くするくらいの対応なのだろう。

 ちなみにシュワルツベルク行政委員以下、東部占領省のスタッフは昨年中に退去している。今の街は軍政下に戻っているが、住民とはいい関係を築いていたこともあり、目立った抵抗は起こっていない。


「マーシャに用?となると、もしかして?」

「ああ」

 目を輝かせるエリザヴェータに、頷いて答えるハンス。

「ようやくチャンスが来た。明日、撤退のどさくさに紛れてマーシャをシュトルヒに乗せ、リガまで運んでみる」

「大丈夫?」

「絶対はない、当たり前だけど。だけど1番可能性があると思う。だから、最後の決断はあのにしてもらいたかったんだが」

 ハンスと一緒にいたいとマリーヤが言った去年の夏から、なんとかリガに連れていく方法を考えていたハンスとエリザヴェータは、ジークムンドも巻き込んで色々と思案していた。

 ロシア人というのを隠して、あるいは密乗車させて列車に乗せることも考えたが、軍用の列車に女性が乗るのだ。見つかる危険性が高いと考えて躊躇していたら、そのうち列車の運行自体がなくなった。

 歩いて行ける距離ではなく、ハンスたちには車輌を動かす権限もない。

 となると、ここへ連れてきた時のように、比較的自由にできるシュトルヒに密かにのせて連れていくしかないが、なんの理由もなく後方のリガにシュトルヒを飛ばすことも出来ない。

 もうこれは、いつか来る撤退時に紛れて運ぶしかない。そのチャンスがなかった場合には、マリーヤには諦めてもらい、エリザヴェータと一緒にここに残ってもらう。

 そんな話をしていた。


「マーシャだったら、ハンスさんがついて来るなって言わない限り、どこでもいくわよ。もしかすると、来るなって言っても行っちゃうかも」

「そうなのか?」

「知らないの?あの子、自分をアウーダになぞらえているから」

「アウーダ?」

 最初にマリーヤに出会った時にも、その言葉を聞いた気がする。

「あの子の愛読書『八十日間世界一周』の登場人物よ」

 といっても、あたしも読んだことないからマーシャの受け売りなんだけど、とエリザヴェータはヘラっと笑う。

「旅の途中、たしか主人公がインドに来た時、殉死、サティというんだっけ?旦那が死ぬと残された未亡人も死ななきゃいけないっていう風習があるんだってさ。で、そのサティで死ぬ事になった少女に会ってしまうんだって。その少女がアウーダ」

 内容を思い出すように、目を瞑り、指を額に当てながら話すエリザヴェータ。

「親に決められた結婚で、しかも婚約状態時に旦那が急死して。会ったこともない男のために、それでも殉死させられる少女に主人公が義憤を発揮して、大立ち回りして助け出すんだってさー」

 誰かさんに似てない?と言うようにハンスをみてにやにやするエリザヴェータだが、ハンスはスルー。

「でも主人公は世界一周中だから、そのまま彼女を連れて旅を続けて。ゴールのイギリスに着いたあと、主人公がアウーダに求婚してめでたしめでたし」

「……なるほどな」

 確かに、主人公をハンスに、マリーヤ自身をアウーダになぞらえても違和感ない状況だったかもしれない。彼女からすれば。


 さらに最初に会った時を考えてみると、たとえ苦境に陥っていたとはいえ、会ったばかりのドイツ兵に全てを預けるのは、マーリヤからすれば相当抵抗があったはずだ。だが、この物語の愛読者ならば、心理的ハードルは下がっただろうし、ついてきやすかったと納得出来る。

 その後押しがあって今の生活がある。となれば、その成功体験が次の行動を決める指針となるのも無理からぬところだ。

 彼女の性格からすれば我儘とも思えた、ハンスに連れてって欲しいという要求も、アウーダに自分をなぞらえているなら理解しやすい。


「ハンスさんも、わかっているわよね?」

 エリザヴェータが正面からハンスを見た。

「…なにが?」

「ごまかさない!かれこれ2年以上の付き合いなんだからねー。わかってるんでしょ、その顔は」

「…かなわねぇな」

 ハンスは肩をすくめるジェスチャーで、降参を表した。

「わかってるよ。マーシャに想いを寄せられているってのは」

「ならば、よし」

「でもなぁ…、小説と現実は違うし、年齢もかなり離れてる。ただの憧れだろう?」

「マーシャは、本気だよ」

「うーん…。でも、それでもだよ?俺のことはリーザに話しただろ。その、体のこととか」

「なに、不能だってこと気にしてんの?」

 エリザヴェータはハンスが言いにくいことをズバッと言う。

「ヤレるかどうかなんて、小さいことでしょ。大事なのは気持ちだよ。もしうちの旦那が戦争で怪我して、そーゆーことが出来なくなって帰ってきたとしても、あたしは死ぬまであの人を愛すわよ」

 なんのてらいもなく、きっぱり言い切るエリザヴェータ。

「…強いな」

「そーよ。ロシアの女は強いのよ」

 長く暗い冬に毎年耐えているためか、我慢強い。そして諦めない。戦争という逃げ場のない状態に放り込まれても、生き延びるためにあがく。

 そして故郷を、大切な人を一途に愛す。

 ロシアという風土が、ロシアの人々の性格を形作っている一面はあるのだろう。

 そしてそれを堂々と言えるエリザヴェータは、男のハンスから見てもカッコよかった。


「それと、ハンスさん」

 と、不意にエリザヴェータが抱きついてきた。

「今までありがとう。本当に助かった」

「お、おう…」

 いわゆるハグだ。欧米人に広く見られる風習だが、民族や地域によっても違いがある。

 親しい間なら身内や男女を問わず抱きつき、キスさえする人々もいれば、身内以外の異性のハグには躊躇しまう人々もいる。

 ロシア人は前者、ドイツ人は後者が多く、エリザヴェータからすれば当たり前のことでもハンスは慣れていない。ちょっとどぎまぎしてしまう。

「ハンスさんが守ってくれていたこと、忘れない。忘れるわけない。もう、会う事はないかもしれないけど、絶対忘れないからね」

「…別に忘れてくれてもいいんだが。リーザには旦那さんもいるわけだし」

「なに言ってんのっ。旦那と恩人は別だよ。ハンスさんは1番の恩人」

 そう言って、エリザヴェータはぎゅっと力を込めてハンスを抱きしめる。

 だが、しばらくそうしていたあと、抱いていた腕をだらんと落とすエリザヴェータ。

「でも、ごめんなさい…」

「え?なに?」

 急な謝罪にハンスも気持ちが追いついていかない。

「生き残ったら、ハンスさんの悪口を言わなきゃいけない…。ハンスさんだけじゃない、ジークさんも、他のドイツ兵の皆さんも」


 なるほど、とハンスも思う。

 スタラヤ=ルッサのドイツ軍は捨て駒だ。万が一にも勝ち残る事はなく、ソ連軍に支配されるのは確定的だ。あちらから見れば奪還になる。

 そして、共産党が取り返した町の住民にかける「査問」は、厳しいものだと言われている。祖国への忠誠とドイツへの協力の有無を調べ、協力した、という事になれば収容所送り、場合によっては見せしめに嬲って処刑するのだという。

「町の皆とも口裏を合わせる事になってる…。ドイツ軍に銃で脅されて仕方なく協力した、と。あることないことでっちあげて、ハンスさんたちを極悪人にしないといけなくて…」

「そんなの、当然だよ」

 ハンスは破顔して答える。嘘のつけない、一本気のエリザヴェータだからこその苦悩なのだろう。それがわかるからこそ、ここは大した事ないということを伝えなくてはならない。

「生き残るために嘘をつくなら、神さまも許してくれるさ」

「でも、そうなるとハンスさんたちの評判が…」

「本人がいないとこで何を言われても、俺はまったく気にならん」

 さらに、にやりと笑って続ける。

「むしろ、リーザがどんな風に俺を極悪人に仕立てるか知りたいわ。戦争が終わって落ち着いたら、手紙書くからさー、その悪口を返信で送ってくれ」

 思いもよらない要求だったのだろう、リーザの眼が大きく開かれたが、やがて「ぷっ」と吹き出した。

「あはははっ。さすがハンスさん!想像を超えたこと言うわねー」

「そうかなあ?」

「そうだって。ロシア犬拾って、あたしのようなロシア人に親身になって、マーシャまで連れてきてさー、フツーのドイツ兵なら絶対やらないから。ま、だからこそハンスさんらしいんだけど」

 ひとしきり笑ったあと、エリザヴェータが「わかったわ」とうなずく。

「あたしはここにいる。たとえ店が壊されてもこの場所で店を開く。帰ってきた旦那と共に。だから、ハンスさんも」

「わかってるさ。マーシャと共に生き残ってやるよ。そして手紙を書く。そしたら返信してくれよ?約束だぜ?」

「うん、約束」

 もちろんハンスにもエリザヴェータにも、生き残れる保証はない。空約束になるかもしれない。

 でも、これは未来への約束だ。

 共に生き残ることを信じて、あがくために。


 しばらくして、どちらともなく自然と別れのハグをした。





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