6章 1944年1月 〜2月 1話 ノヴゴロド西方〜スタラヤ=ルッサ司令部(午後)

 1944年1月、満を辞してという感じで、北方軍正面でのソ連軍の攻勢が始まった。


 最初に攻撃を受けたのはレニングラードに相対するクラスノエ=セロであり、猛烈な砲爆撃ののち大量の戦車が前線を蹂躙した。

 南方軍への補充が優先され、定数に満たないドイツ北方軍所属の18軍はいくつかの防衛都市を除き遅滞戦闘で足止めしつつ、全面的な撤退に入った。

 続いてレニングラードより南方のノヴゴロド周辺で攻勢が始まった。

 ソ連軍は豊富な戦力を活かし、戦線突破して西方に深く侵攻する部隊だけでなく、戦線突破した場所から南下して、戦線全体をしらみ潰ししていた。

 ノヴゴロドからイリメニ湖を挟んで南下すれば、スタラヤ=ルッサはすぐである。

 また北方軍の南端(ドイツ中央軍との境目)といえるヴェリキエ=ルーキ付近でも、戦線突破して北上するソ連軍の姿があり、危機感は高まっていた。


 ♢♢♢


 ハンスとシュトルヒは、ノヴゴロド西方の上空にいた。

「あー、もうここもダメか…」

 ハンスの眼下には攻撃を受けて煙を上げている防御陣地が見える。

 陣地の作り方にもその軍特有の形式があり、明らかにドイツ軍がよく作る防衛陣地の形だが、上空から見えるのは冬季迷彩のソ連兵ばかり。赤い星をつけた戦車や車両も見える。

「まだ煙が燻ってるところを見ると、戦闘はそんなに前ではないですな」

 後席のおじさん偵察員、ミヒャエルがつぶやく。

 昨年からこっち、シュトルヒアインの後席はミヒャエル=マイヤー空軍一等兵が座ることが多い。基本真面目で性穏やかなミヒャエルをハンスが気に入っていたからでもある。ちなみに年末に一等兵に昇進している。

 ミヒャエルが言うように、破壊された陣地からはいく筋かの煙が立ち上っており、この周辺だけ雪が溶けて黒ずんだ大地がむき出しになってることからも、それほど時間が経ってないことが伺える。

 それなりに上空からの偵察なので詳しく見えるわけではないが、多分ドイツ軍の残骸や死体もあるのだろう。

 と、陣地を調べていたソ連兵がこちらに気がついたようだ。慌ただしい動きが見え、銃を構える様子も見せる。

「この距離なら、小銃は届かんだろうが…」

 天敵となる対空兵器はみえない。しかも今日は雪は舞ってないかわりに、風はかなり強い。シュトルヒが機首を風上に向ければ、余裕でホバリングできるくらいだ。

 この風で上空向けて打っても、当たるとは思えない。

「ですが、敵さんの戦闘機を呼ばれても困りますな」

 ミヒャエルがいう事ももっともで、ハンスもうなずいていた。


 この半年で、制空権もソ連に奪われつつあった。

 ロシア北部を担当するドイツ第一航空艦隊は、「第一」とある通りドイツ空軍中の最精鋭部隊として名を馳せていたが、消耗激しいロシア南部担当の第四航空艦隊への移動、さらには空襲激しくなった本土防空にも抽出された事で弱体化した。

 ハンスのまわりに限っても、シュトルヒ小隊はすでになく、解散して各戦線に分散配置されており、今スタラヤ=ルッサにいるのはシュトルヒは1号機アインだけである。

 これでもハンスはポーランド戦から戦場にいる古参パイロットだ。かつては当たり前だったこの経歴も、消耗激しい現状では希少的存在になっていた。一度も撃墜されてないという事も勲章となり、一機シュトルヒ残すならと、ハンスが指名されていたのだ。

 もちろんソ連空軍の大幅な増強もあって戦力差はこれまでになく拡大しており、もうロシアの空はドイツ軍のものではなくなっていた。


 シュトルヒアインの機体を翻し、南方へ。

 司令部からハンスが命じられたのは、今ソ連軍がどこまで進出しているかの把握である。

 スタラヤ=ルッサは絶対防衛都市になっているが、死守するのは陸軍だけだ。空軍は後方のプスコフに撤退することが決まっている。

 飛行機はパイロットがいれば飛ぶ、なんてことはない。整備員と多くの機材のバックアップが必須で、それは空軍構成員のほとんどが地上スタッフであることからも明らかだ。

 すなわち空軍の撤退とは基地機能の移転にほかならず、それさえも認めないとはヒトラーも考えてない。そんな事をすればただでさえ劣勢な制空権が崩壊するし、そもそも整備兵は防衛戦の戦力にならない。

 とはいえ、早々と撤退してしまってはスタラヤ=ルッサの基地機能が失われ、前線崩壊が加速するだけだ。

 ギリギリのタイミングを見計らって撤退するためにも、ソ連軍の動きを知る必要があるのだ。


 一定時間南方へと機体を飛行させるが、この辺りにソ連軍は見えない。

 小部隊に分かれて西方へ、足を引きずったように撤退するドイツ軍はちらほらと見たが。

「まだこの辺りには、ソ連軍は進出してないんですかね?」

「どうだろうな。殿しんがり部隊の足止めが効いてるのかもな」

 あるいはノヴゴロドが敵を引きつけているのかもしれない。もう少し東、すなわち前線方面を探ってみるか。

 そのようなことを後席に告げて、機首を東へ。

 強い追い風に機体が翻弄されるようになりながらシュトルヒを飛ばしていると。

「あれ、ソ連軍ではないですか?9時、いや8時方向」

 ミヒャエルの言葉に即座に反応して左に旋回。ハンスにも捉えられるように正面に持ってくる。

「なるほど、あれか」

 確かにソ連軍の軍服を着た集団が、銃を構えて行軍していた。

「ですが…、なんか変な感じですな。妙にみすぼらしいというか。あの行軍体系も」

 冬季迷彩服を着ている者がほとんどおらず、白い大地でとにかく目立つ。薄汚れた軍服もみえる。厳冬期のロシアで防寒着もなしは、それだけで自殺行為だが。

 また、結構広がっての横隊で行進しており、兵学校時代に学んだフリードリヒ大王時代の軍隊のようだ。こんなの重機関銃1台あれば一掃させられる。

「…あー、こりゃ懲罰部隊だな」

「懲罰部隊?」

「ソ連軍イワンのな、逃亡兵とか脱走兵、あるいは捕虜になってて救い出された兵とかな。それらが集められているらしい」

「懲罰って…、捕虜もアウトなんですか?」

「イワンの理屈はそうなんだろうな。で、忠誠をしめせって最前線で戦わせてるらしい」

 と、眼下のソ連部隊の真ん中で爆発が起こる。対人地雷を踏んだようだ。動揺が走るソ連兵。

 それを合図に四方から銃火が打ち込まれる。カモフラージュされていたドイツ軍陣地からの奇襲攻撃に、みすぼらしいソ連兵はなすすべなく倒される。


「……犬死じゃないですか」

 敵の所業にミヒャエルが義憤をまぶした声を上げる。応召からまだ1年経っておらず、40年以上普通の人で過ごした彼には、まだ人間らしい心が残っているのだろう。

 だいたい、ハンスも血や人死を見るのが苦手で、爆発が起こった後は次に起こることが想像できた事もあり、今のドイツ軍の攻撃もチラチラと見ながらで、半分は目を逸らしていた。

 でも、ハンスはこの部隊の役割も知っていた。

「ところが、犬死じゃないんだな。東の奥の方を見てみな。2時から4時方向」

 そこにはしっかり冬季装備をしたソ連部隊が待機してた。冬迷彩の戦車もいるようだ。

「あれは?」

「イワンの正規部隊だろう。ああして懲罰部隊を囮にしてウチのカモフラージュ陣地の場所を確認している。そのうち戦車の砲撃が…」

 ハンスの言葉の途中で、ソ連の新型砲塔戦車(とハンスは見た。T34の車体に強力な85mm砲を搭載、乗員も増やして連射能力を向上させたやつだ)が火を噴き、榴弾をカモフラージュ陣地に叩き込む。まだ生き残っているソ連兵もお構いなしだ。

「…むごい」

「酷くない戦場なんて、ないんだよなあ…」

 独り言のように言うハンス。

人死が嫌いなハンスでさえ、何年か戦場にいれば、戦争の不条理にいちいち目くじらを立てなくなるくらいには、達観するようになるのだ。


「しかし、中尉殿はソ連軍のことにもお詳しいですな」

「なぁに、懲罰部隊からドイツ軍に逃げ込んできたっていうロシア兵の訊問の時、通訳をしたことがあってな」

 酷い扱いだったという。部隊には政治将校が監視につき、再度の逃亡は即銃殺。多分この部隊の後方にも、政治将校とその手下の処刑部隊がいるのだろう。

 もっともそれはドイツ軍も同じで、脱走兵や不服従などの兵士を懲罰部隊に編成して、弾よけに使っていた。空軍のハンスたちはそれを知らなかっただけだ。

 劣等民族絶滅というスローガンを平気で掲げるのがナチスだ。

 同じ民族でも国家に従わない者を裏切り者と断じ、懲罰や処刑する事に何のためらいもなかった。その辺りは共産国家ソ連と極似している。


 眼下では生き残ったドイツ兵とソ連正規部隊との銃撃戦が始まっていた。

 T34/85戦車を盾にして進むソ連兵に、車載機銃や榴弾を振り撒く戦車。

 対戦車地雷に引っかかったか、前部キャタピラが吹き飛ばされて煙を上げるT34に、ドイツの携帯型対戦車推進砲パンツァーファウストからの成形炸裂弾が突き刺さり、砲台が吹き飛ぶ。

「と、呑気に見物してる場合じゃねぇな」

 ソ連兵もこっちに気がついたようだ。後方の双眼鏡を持った将校らしき男がこちらを見て、何か指示してるかのような口の動きをしていた。

「後席、この辺りが今のイワンの進出場所だ。地図に記録しといて」

「了解」

「帰投する」

 面倒なことにならないうちに、ハンスは戦場を後にした。


 約1時間後、ハンスはスタラヤ=ルッサの空軍司令室にいた。

「…以上が偵察報告になります」

「ん、ご苦労」

 大仰な机、見栄えと座り心地は素晴らしそうな椅子に座ったスタラヤ=ルッサの空軍基地司令は、ご自慢のカイゼル髭を撫でながらハンスの出した地図を見ていた。

 その横にはひょろっとした若い金髪の空軍少尉が立っている。司令の秘書的な役割を行う連絡将校だ。撤退業務が忙しいのか、かなり疲れた顔をしている。

 部屋はかなり片付けられていた。

 撤退にあたり大量の書類は処分されているらしく、司令官の後ろのガラス張りのキャビネットはがらんどうだ。

 それだけではない。脇の机に飾られていた彫刻品や銀杯、壁にかけられた聖画像イコンもなくなっていた。

 この初老の基地司令は、空軍総司令のヘルマン=ゲーリングのコネで出世したともいわれている権威主義のロートルで、部下からの信頼はないに等しい。

 基地内で長くいたくない場所No1は司令室と言われ久しいが、基地司令の方もそれを知ってか、司令室と宿舎を行き来するだけで他の基地内をうろついたりしないため、あまり害はない。

 とは言え、基地の最高階級者である。ハンスも軍人である以上「早く終わらねぇかな」と思いつつも、彼の前では直立不動を崩すわけにはいかない。

「オストワルト中尉」

「はっ」

 しわがれた声で名前を呼ばれたが、その後が続かない。「この爺さん、ボケてるんじゃ?」と思っても顔には出せない。司令の傍に立つ連絡将校も困った顔をしている。

「…あー、下がってよし」

 結局、その後のことは何も言われず退出許可が降りた。

「この後のことは、命令あるまで基地に待機」

 これは連絡将校の言葉だ。彼個人の階級はハンスより下だが、仕事中の彼の言葉は司令の言葉と見做される。

「はっ、失礼します」

 敬礼して退出するハンス。


「…何を言おうとしてたんだ、あれ?」

 基地内の廊下を歩きながら独りごちたハンスだったが、ほとんど付き合いのない老人の表情から意思を汲み取れるような異能力者ではない。

「まあ、どうでもいいか」

 いつものハンスの、先送りスキルを発揮したのも当然だった。


 この意味をハンスが知るのは、2日後のことになる。





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