間章 1943年7月〜1943月12月 東部戦線

 1943年後半の戦況を追っていく。


 7月クルスク突出部へのドイツ軍中央軍と南方軍の合同包囲作戦、いわゆる「城塞ツィタデレ」作戦は失敗に終わった。

 補充が追いつかず、戦力充実を待っている間にソ連軍は防備を固め、ヒトラー自慢の新型戦車の奮戦もあだ花にすぎなかった。

 第一、ソ連軍の半分以下の戦力での攻勢だ。攻勢3倍の原則、すなわち攻撃側は守備側の3倍の兵力が必要とされる古来から続く戦争の定道からすれば、そもそもの計画に無理があったのだ。

 だが、北アフリカ・チュニジアの枢軸軍が敗れ、シチリア島の目と鼻の先が占領された、同盟国イタリアの脱落の危険性。半年で終わるとされた独ソ戦が2年以上も続き、スターリングラードで自軍も多大な損害を出したルーマニア、ハンガリーといった東欧諸国の動揺を考えると、ここで華々しい大戦果をヒトラーが必要としたのだ。

「戦争は政治の延長である」とはクラウゼヴィッツの言葉だが、政治面を重視して行われた作戦が失敗しやすいのもこれまた道理で、この場合のドイツ軍も賭けに敗れたといえる。


 そして、ソ連軍はこれを待っていた。

 クルスク突出部にドイツ軍を誘い、これを撃退した後に消耗したドイツ軍を追撃するという作戦を、ジューコフ将軍やヴァシレフスキー総参謀長は構想していた。

 そしてそれは独裁者スターリンの裁可を受け、クルスク戦後にヴェリキエ=ルーキから黒海までにわたる全面攻勢の作戦となった。

 ヒトラーが自分の思い通りにならない戦争の責任を、現地の将軍に転嫁して次々と将軍の罷免、死守命令の乱発したのに比べ、当初こそ軍を信用してなかったスターリンは、この「大祖国戦争(ソ連での独ソ戦の呼称)」を戦う中で軍や将軍を全面的に信頼するようになり、作戦面での介入はほとんどなくなっていたのだ。

 6号戦車ティーガーをはじめとした新型戦車に手こずりはしたものの、クルスクでドイツ軍を撃退した7月後半からは、ずっとソ連軍のターンが続くことになる。


 8月ドイツ中央軍のオリョール突出部が攻撃され、半ばこれを予想していた中央軍は粛々と撤退、オリョールを放棄した。

 また南部のハリコフも攻撃され(第4次ハリコフ攻防戦)、またぞろ死守命令を出したヒトラーをマンシュタインがなんとか説得して撤退した。

 これより前の7月、ツィタデレ作戦とほぼ同じくしてシチリア島に連合軍が上陸しはじめると(シチリアは約1ヶ月の撤退戦ののち陥落)、ヒトラーは攻勢失敗を理由に南部方面軍の装甲師団を引き抜き、イタリア方面に移動させており、このコマ無し局盤ではいかなる名手でも防御は不可能であったといえるだろう。

 9月には古都キエフを中心にした、ドニェプル川を盾にした防御線に撤退したドイツ軍であったが、ソ連軍は手を緩めなかった。

 ソ連国内では戦時生産体制がフル活動を始め、大量の物資弾薬が補充可能になっており、兵器の損耗もすぐに供給されるようになっていた。加えて米英主体の武器援助物資もあり、前線に物資が届くタイムラグぐらいしか足を止めることはなくなっていた。

 一方でドイツ軍は第一次大戦を思わせるような二正面作戦になりつつあり、昼夜の爆撃で生産もガタ落ち、老人や少年兵の召集も始まっていた。

 連合軍首脳が、カイロ、としてテヘランと戦後世界を見据えて会談を重ねるのも当然と言えた。


 中央軍から南方軍までのほぼ全面で攻勢をかけるソ連軍から、防衛線を保持できる戦力はドイツになく、9月末には多数のソ連軍橋頭堡がドニェプル西岸に作られた。

 ドニェプル上流のスモレンスクは9月末に奪われ、下流の巨大なダムでしられるザポロージエは10月に陥落した。

 そして11月の初頭にはキエフに赤旗が翻ることになる。激怒したヒトラーは、その責任を歴戦の名将で兵士からの支持も厚いホト将軍(兵士からは『ホト親父パーパ』と呼ばれた)の厭戦的姿勢のせいにして、更迭した。

 ヒトラー以外のだれの目からみても愚かとしか言いようのないこの命令が通ってしまうこと自体、ドイツ軍の末期的症状が現れていた。

 雪が降り始めても、ソ連軍の攻勢は止まらない。

 12月にはウクライナの解放に続いてベラルーシも奪還せよと、ドイツ中央軍への攻勢(これは撃退)や、黒海に突き出たクリミア半島制圧を行い、準備のない冬季撤退に追い込まれたドイツ南方軍は総崩れ状態となる。


 一方、ドイツ北部方面軍と対峙するソ連軍は、不気味な沈黙を保っていた。

 ソ連大本営スタフカが戦力を南部解放に注いでいたためもあるが、2年もの時間をかけてドイツ軍が構築した防衛線、しかもそれが何本も引かれている北方戦線を引き裂くには、充分な兵力が必要と考えていたことが大きい。

 本来、性は短気なスターリンだったが、ここまで戦局が好転すれば焦る必要もなく、軍が望むままの戦力拡充を許していた。

 諜報偵察活動では一日の長があったドイツ北方軍は、これまでも何度かソ連軍の行動を読み切って危機を凌いできたが、そのような小手先では対処不可能な兵力差をひしひしと感じていた。

 しかもヒトラーはいくつかの都市を、『絶対防衛都市』として断固確保(いわゆる死守)を厳命していた。そしてその絶対防衛都市にスタラヤ=ルッサは含まれていた。


 いつ攻めてくるのか。そして誰が、どの部隊が死守を命じられるのか。

 まるでロシアンルーレットの参加者のような気持ちで、1943年のクリスマスを迎えた北方軍のドイツ将兵は多かったに違いない。(ロシア人のクリスマスは暦法の違いで新年明けの1月となるが、グレゴリオ暦のドイツ兵は12月に祝う)


 そして1944年がやってきた。

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