第3話 1943年6月スタラヤ=ルッサ市内(夜)

 三度みたび、ロシアの日長な夏がやってきた。

 エリザヴェータの店でも、卓や樽を店前に並べてオープンテラスにして、多くの客を迎える準備をしていた。

 だが。

「ありがとうございました〜」

 マリーヤが2人組のドイツ兵をお見送りすると、店前の卓についている客は1人もいなくなった。ハンスを客と見なければ。

「客、来ないねぇ…」

 ハンスの対面に座っているエリザヴェータは、右のひじを卓立てて頰杖ついて、ぽけっとした顔でつぶやく。

 足元にうずくまる白犬アドルフも、それに応えたかのようにあくびをする。

「去年の今頃は満員御礼だったのに…」

「仕方ないわな」

 そう言いながらハンスはお品書きに眼をやる。

「酒は薄めたウォトカのみ。つまみだって、キャベツの漬物ザワークラウトぐらいしかないんじゃあな」

「野うさぎの煮込みもあるわよ。…まあ、肉が少なくて野菜煮込みになっちゃってるけど」

「配給が減ってるんですよね、極端に」

 戻ってきたマリーヤが会話に加わる。

「ハンスさん、配給増加をなんとか行政委員に頼めませんか?」

「いやあ、行政委員でなんとかできるレベルじゃないからなあ」


 ドイツ軍の劣勢は補給や物資の遅れからでも感じ取れる。

 パルチザンや航空機の妨害で列車の運行もままならず、当然武器弾薬が優先されるため、嗜好品に類する物品は後回しにされる。

 そもそも、ドイツ本国の昼間爆撃も激化していて、生産自体が低下しているとも聞く。

「来てくれるドイツ兵の皆さんも少ないですし…」

「駐屯している陸軍は増えたがなぁ」

「『夜店』の方はそれなりに客は来ているようだけど」

 夜店は、売春宿の隠語だ。

「あー、まぁなぁ。いつ死ぬかわからない時はソッチの方が強くなるっていうからな」

 北方方面軍の保養都市として位置づけられているスタラヤ=ルッサだが、ソ連軍の圧力が増大している昨今では、まとまって休暇をとってこの街に来ることが難しくなっていた。

 第一、スタラヤ=ルッサに行く列車も少なくなっている現状では、一兵卒ではたどり着くことさえ大変だ。

 一方で、デミャンスク撤退後はこのスタラヤ=ルッサが最前線となり、駐屯兵数は増えた。だが、毎日「飲み打つ買う」をしていては金が持たない。たまに休暇でくるからパーッと使ってくれるわけで、軽く酒を飲むドイツ兵は少しはいるが、夜通し飲み明かすような賑わいはなくなっていた。


 だがこれはいい機会かも、と考えたハンスが言う。

「まだ日は明るいけど、今日は店じまいしないか?」

 時計は午後8時近くになっているが、まだ西には大きな太陽が白い光を照らしていた。

「大丈夫ですか?」

 と、マリーヤが顔を向けた先にはエリザヴェータがいる。

 そうねえ、と思案顔を見せたエリザヴェータだったが、チラッとハンスに視線を送った後、にかっと笑ってうなずく。

「お客も来そうにないし、早仕舞いしちゃおっか。マーシャ、片づけお願い」

「わかりました」

 そうと決まれば行動は早い。卓の上に椅子を乗せる、樽卓を脇に寄せる、お品書きが書かれた黒板をクリアにして、『本日は閉店しました』とかわいいドイツ語で書く。

 そんなかいがいしく働くマリーヤを見て、成長したなあと感じるハンス。

 マリーヤを拾ってきてほぼ一年だが、ちょうど成長期だったのかずいぶんと身体も大きく、ふっくらとしてきた。

 そもそも、最初に会った時が痩せすぎだったのだろう。事実上の虐待を受けていたことを考えれば、充分な食事も与えられてなかったに違いない。

 髪も伸び、エリザヴェータの少女時代の服も与えられて、少女から女性に脱皮しかけている若さ溢れた美しさがある。彼女の笑顔がそれに花を添えていた。

「……なんですか?」

 ハンスの視線に気がついたのか、マリーヤがハンスに笑いかけながら言う。

「いやあ、綺麗になったなあって」

「…!や、やめて下さいっ!き、急に、恥ずかしい…」

 ハンスは思ったことを口にしただけだが、マリーヤは白い頰を赤く染める。

「一時期大変だったんだから」

 と、エリザヴェータもにやけた顔で会話に入ってくる。

「ドイツ語ペラペラになったこともあって、マーシャに『愛してる《イッヒ・リーベ・リッヒ》』してくるドイツ兵が増えちゃって」

「も、もうその話は、いいです、から」

「まーた、マーシャがウブくて、その度毎に顔真っ赤にして止まっちゃうから、みんな面白がっちゃってさー」

「リ、リーザッ」

「マーシャには笑顔でスルーするスキルを身につけて欲しいんだけどねえ。毎回、あたしやアドルフの手助けじゃ」

「お願いですからっ」

 止まらないエリザヴェータの口を手で塞ごうとするマリーヤと、それを軽くあしらうエリザヴェータ。


「で?何か話したいことがあるんじゃないの?」

 店内に場所を移した3人と1匹。すぐにエリザヴェータがハンスに切り込んできた。

「わかっちゃう?」

「そりゃわかるわよ。こんな商売してるとさ、お客の顔色を見れば『なんか言いたそう』とか『泣きたいんだな、この人』とか『うわー、機嫌悪そー。触れないでおこう』とかさ」

「さすがです。わたし、そういうのに疎くて…」

「マーシャはそれでいいの。これはある意味、スレた女のテクだから」

「でも」

「あー、話をしていいかな?」

 この女子2人は、放っておくといつまでもしゃべっていそうなので、ハンスが割って入る。

「へいへい」「あっ、すいません」

 女子2人はそれぞれに答え、2人はカウンター内の定位置に着く。ハンスは、これまた定席のカウンター席につき、まずはオープンテラスから持ってきたウォトカで軽く口を湿らす。


「マーシャ。今から話すこの話、実は数ヶ月前には聞いていたんだが…」

 とハンスは話を切り出す。

 マリーヤの故郷の村が、ソ連軍の攻撃の巻き添えで破壊されたこと。住民の安全は確認できてないこと。叔父や叔母、従兄弟などの血縁者は、もしかするとこの世の人ではなくなっているかもしれないこと。

「まあ、撤退したドイツ兵の観測だから、不確かな情報ではあるけどな」

「………ありがとうございます。大丈夫です」

 じっと聞いていたマリーヤが、絞り出したように言った言葉がそれだった。

 マリーヤの表情にさほど変化はない。淡々と受け入れ、敬虔な正教徒らしく十字クロスを顔の前切って、しばし目をつぶって手を組み神に祈りを捧げる。

 だが、その手がかすかに震えているのがわかった。

 色々あったとはいえ、生まれ故郷なら様々な思い出があったはずだ。それを感じられる場所、人がいなくなる。

 ひと言では言い尽くせない感情が渦巻いていてもおかしくない。


「あらためて、ハンスさんには感謝しなければいけませんね」

 だが、マリーヤはそんなことを言ってにこっと笑った。

「感謝?」

「だって、あのままあの村にいたなら、今頃は天に召されていたかもしれませんから。ハンスさんは命の恩人です」

「……そんなことまで、考えていたわけじゃないんだ」

 それで感謝されることが、むずかゆい。

「でも、そうなんです。ハンスさんには一生をかけて恩返しします」

「大袈裟だって」

「でも…」

「マーシャ。恩の押し売りはやめといた方がいいかなー」

 絶妙なタイミングでエリザヴェータが声を入れる。

「マーシャの気持ちはわかるけどさ、一生は重いって。できる範囲で恩返しすればよくない?」

「しかしそれでは」

「リーザの言う通り。それに、いつまでも一緒にはいられないからなあ」

「え⁉︎」「まーねー」

 驚くマーリヤとは対照的にエリザヴェータは納得顔だ。

「ど、どういうことですか?」

「ドイツはもうダメだって事。今年のクリスマスだって、ここにいられるかはあやしいわな」


「…それ、話して大丈夫?」

 エリザヴェータが右眉を器用に動かして聞いてくる。彼女が言いたいのは、厳禁されている軍事機密の暴露に当たるのでは?ということだろう。

「ま、ここだけの話ってことで」

 ハンスはニヤっとしながら、口に人差し指をあてて『沈黙』のジェスチャーをする。

 そのために、あえて早仕舞いさせて店内に引きこもったのだ。

「マーシャだって、配給少なくなったって言ってたろ?それなんかわかりやすい変化だよ。デミャンスクから撤退し、この街が最前線になってるのもそう」

「そろそろ戦争も終わり、かねぇ。そのことは嬉しいけど」

総統チョビヒゲも手を広げすぎだよ。君たちの勝ちだな」

「実感はないけどねー」

「すると、ハンスさんたちは…」

「撤退、だろうね。そうなれば、もう多分会うこともなくなるだろうから…」

「嫌です‼︎」

 マリーヤは声を張り上げる。

「嫌です‼︎ダメです!だってわたし、ハンスさんに全然恩を返せてません!なのにお別れだなんてっ!」

「……そうは言っても、なあ…」

 普段あまり声を荒げないマリーヤの大声に、たじろぎながら答えるハンス。

「わたしを置いてくんですか⁉︎ここまで連れてきて、捨てるんですか⁉︎」

「ちょ、人聞き悪い…」

「アドルフは⁉︎アドルフも、ポイですか⁉︎こんなに慕っているのにっ!」

 と、足元のアドルフを抱きかかえ、ハンスをキッと見るマリーヤ。アドルフはなんのことやらわからない感じだが、それでもワォンと声を上げた。


 マリーヤがなんで怒っているのかいまいち理解できず、そもそもマリーヤが怒ること自体珍しい。突然のことでハンスがどうしたもんかと思っていると。

「寂しいんだよ、マーシャは。急にお別れみたいなこと言われてさー」

 面白そうにエリザヴェータが口を挟む。

「マーシャがこんなにわがまま言うくらいなんだし、連れて行ったらどう?アドルフも一緒に」

「簡単に言うなよ」

「でも、マーシャは結構簡単に連れてきたじゃないのさ。あんな感じで、パパッとさ」

 あの時はジークムンド1人を説得できればなんとかなったが、撤退となればそうはいかない。第一あの時も、今考えてみればかなり綱渡りだったと思う。

 白犬アドルフに抱きついたままのマリーヤを見る。

 口をへの字に曲げ、大きな眼には潤み始めている。それでいて目線はハンスの方を捉えて離さない。

 縋るような眼。こんな表情をされると一肌脱ぎたくなってしまうのはハンスのさがだ。これで女好きだったら美人局つつもたせに騙されまくりだよなあ、などとどうでもいい考えが頭に浮かぶ。


 はあっ〜とこれ見よがしのため息をついたハンスは、しゃあねえなあと続けた。

「今すぐに撤退ってわけでもないから、いい方法がないか考えてみるよ」

「あ、ありがとうございます!」「そうこなくっちゃ」

 マリーヤとエリザヴェータの嬉しそうな声が答える。

「考えるだけだからな?必ず連れていけるわけじゃねぇからな」

「わかってます。わたし、ハンスさんを信じてますので!」

 一転して喜びを満面に表したマリーヤ。

「面倒かけるけど、頼むね」

 エリザヴェータも楽しそうに笑う。

「かわりって言っちゃなんだけど、今日はお代は奢るからさ」

「わたしも!誠心誠意おもてなしします!」

「よーし、今日は浴びるほど飲むか!」

 どうせソ連軍が攻撃してくるのは冬になってからだろう。まだ時間はある。

 ジークも巻き込んで考えればいいやと、いつものようにそれ以上深く考えるのはやめた。


 まあ、なるようになるさ。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る