第5話 9月スタヤラ=ルッサ市街(昼)

 レニングラード包囲陣でソ連軍の攻勢を封じ込め、イワンに再攻撃の余力なしと判断されたため、ハンスに原隊帰還命令が出たのが昨日のことだ。

 それで今日の朝に飛び立ち、スタヤラ=ルッサの司令部に報告したのが2時間ほど前。その後身の回りの荷物の移動や細々とした雑務をこなせば、午後は休養の時間だ。

 エリザヴェータの店に行くにしてはさすがに早いと思ったものの、レニングラード戦線に行っていた1ヶ月ほど間が空いたし、マリーヤを預けてすぐ移動する事になって、ホームシックなど多少の不安もないわけでもない。

 エリザヴェータなら大丈夫だとは思ってはいるが。

 まあ、客のいない開店前の方がつもる話もしやすいだろうと、昼飯持参で行くことにした。ちなみに昼飯は塩茹でじゃがいも《ザルツカルッフェン》を冷ましたもの。このままでもいけるが、エリザヴェータの店でもう一度蒸してもらうのも良い。バターがあれば最高だ。


 エリザヴェータの店が近づいてくる。

 9月ともなれば夜はけっこう肌寒くなるし、日没時間も早まる。でも、去りゆく夏を惜しむように、まだオープンテラスにしているらしく、卓や立ち飲み台が店前の石畳みの1/3を占めている。

 ハンスの来店に最初に気がついたのは、白犬アドルフだ。店先で寝そべっていた頭を上げ、2度吠えるとハンスのところに駆けてきた。

「よーしよし、元気だったかアドルフ」

 アドルフの首を撫でるのも久しぶりだ。アドルフも嬉しそうに尻尾をリズミカルに振る。

「アドルフ〜、誰か来…」

 吠える声に気がついたのだろう、店のドアが開きマリーヤが出て来た。

 そしてハンスの姿を認め、動きが止まる。

「マーシャ、久しぶり」

 片手を上げてハンスがいう。

 マリーヤはまだ固まったままだ。短かった髪は肩口まで伸び、顔付きもふっくらしている。1ヶ月会ってない事を実感させた。

「……ハ、ハ、ハンスさぁ〜ん。うぅ…」

「お、おいおい、泣く事ないだろう」

「だ、だって、心配で心配で…うぅ」

「マーシャ、どうしたの?……あら、ハンスさんお帰りなさい」

 奥から出てきたエリザヴェータはにっこり笑っていう。今までも長期に来れなかった事もあり、落ち着いた対応だ。

「リーザ、ただいま」

「だから言ったでしょう、マーシャ。ああ見えてハンスさんはしぶといんだから。ちゃんと無事に帰ってくるって」

「ああ見えてって、俺ってリーザにどう見られてるのさ?」

「え、お坊ちゃん育ちのスケコマシ」

「待て待て。そこは女性に優しいジェントルマンだろ?」

「そうやって自分で言っちゃうから、残念君なんだよねぇ」

 ここでアドルフが、ワオンと一吠えしたのはエリザヴェータの味方かハンスの援護か。

「マーシャも、心配してくれてありがとうな」

 そう言ってハンスがマリーヤの頭をぽんぽんと軽く手を置くと、涙で赤い目ながらも、はにかんで笑うマリーヤだった。


「ハンスさんも帰って来たし、今日は休店してしまいましょうか」

 エリザヴェータの大胆な提案に、「賛成ですっ」とマリーヤがすぐに反応し、アドルフもワォン。

「いいのかよ?」

「いいのよ。マーシャ効果で休みなく働いたから」

 そんな、わたしの力なんて…ともじもじするマリーヤ。

「そうと決まれば、マーシャ、文章頼むわねー」

「ま、任せてください」

 と、マリーヤはカウンター脇の小さな黒板を取り出すと、チョークで『本日、急病につきお休みとします。ご容赦ください』とドイツ語で書いていく。

「え、これって」

 マリーヤはロシア人だ。その彼女がなぜドイツ語を書けるのか。

「マーシャってば、すごいのよ」

 エリザヴェータが、まるで我がことのように嬉しそうに言う。

「ここに来て3~4日で簡単なドイツ語会話をできるようになって。あたしがドイツ語教えたロシア人の中でも、1番早かったわ」

「リーザの教え方がよかったんです」

「あたしは大したことしてないさ。だけどマーシャは積極的なのよ。自分からドイツ人に質問したりして。そして何より耳がいい。記憶力も。一度聞いただけのドイツ語をすぐ発音できて、そして忘れないんだもの」

 どうもマーシャは褒められるのが苦手らしい。こ、黒板置いてきますと、小走りで出ていく。


「でも、会話と書きはまた別だろう?」

 ハンスもロシア語の会話はネイティブ並みとよく言われるが、読み書きは苦手だ。

「あたしなんか、母国ロシア語の読み書きだってよく間違えるわよ」

 勉強苦手だから、とけらけら笑うエリザヴェータ。

「お品書きをドイツ語で書ければ、いちいち今日出せる料理を説明しなくてもいいじゃない?そしたら、この子が『わたし、ドイツ語書けるように頑張ります』って」

 戻ってきたマリーヤの方にエリザヴェータは顔を向けて、優しい顔をする。

「わ、わたしも覚えたかったんです。学校ではキリル文字だけでなく簡単なラテン文字も学びましたが、実用的ではなくて」

 ロシア語はキリル文字で表される。ドイツ語や英国のラテン文字=アルファベットとは違うのだ(姉妹語ではある)。

 そのためキリル文字圏の人がラテン文字の読み書きをする、またその逆のハードルは、同じ言語圏の言葉より高くなるのだが。

「この子、好奇心とか向上心?が高いのよねぇ。そうそう、最近はフランス語も」

「リ、リーザ、も、もうその辺で…」

 マリーヤがあたふたしてエリザヴェータの口をふさごうとするが、エリザヴェータは面白がって続ける。

「フランス出身のドイツ兵がいるじゃない?彼らが店に来ている事を告げたら、この子舞いあがっちゃてさあ。フランス語を教えてほしいって突撃して」

「そういや、最初に会った時もフランスに行きたいって言ってたな」

 そこまでの執着の理由はなんだろう、とハンスが考えていたら、何が恥ずかしいのかよくわからないが、顔をほんのり赤らめてマリーヤが理由を言う。

「だ、だってジュール=ベルヌ先生の母国じゃないですかっ。『八十日間世界一周』を書いたっ。わ、わたしは読んだ事ないですけど、他にも『海底二万里』とか『二年間の休暇』とかもあって、どうしても読んでみたくって。そ、それにわたしの持ってるロシア語版『八十日間世界一周』は子供向けで、省略されてる部分もあるって解説にあって…」

 よほど好きなのだろう、この物語の話をする時のマリーヤはいつまでもしゃべりそうだ。


 フランスがドイツ軍に蹂躙され、北フランスはドイツ直轄地に、南フランスに親独ヴィシー政府が成立したのが1940年だ。

 フランス人の中には、ド=ゴール将軍の自由フランス軍に参加してレジスタンス活動をする者もいたが、多くの者は支配者ドイツに従い、我が身や家族、日々の生活を守ろうとした。

 その空気の中で結成されたフランス=ファシスト連盟は、ドイツに積極的に協力する事で自分たちの地位を向上をさせようとし、更に独ソ戦が始まると反共フランス義勇団という軍事組織が作られ、軍事訓練ののち極寒の地へ送られた。

 その参加者の中にはドイツ国境付近の、ドイツ語を母国語とし自らをゲルマン系と位置づけ、ナチスに共感するフランス人もいた。だが、それはごく少数でそのほとんどはドイツに迎合し、少しでもいい待遇を得ようとする者ばかりだった。

 士気も決して高いとは言えず、武器もフランス軍から接収した旧式兵器で装備されていたため、ドイツ軍からは、いないよりはマシぐらいにしかみられていなかった存在ではあったが。

 このフランス義勇団のなかには、今ではその重要度が下がったデミャンスク守備を命じられた部隊もいて、当然スタヤラ=ルッサにもよく息抜きに来ていた。

 どうやら、そのフランス人にマリーヤはフランス語を教わったようだ。


 このように、国家としては参戦しなくても義勇兵として協力する例はスペインにも当てはまる。

 第二次世界大戦の前哨戦と言われたスペイン内乱で、ドイツやイタリアの支援を受けて内戦を制したフランコ政権は、当然枢軸側で参戦すると思われた。だが慎重なフランコはのらりくらりと返事を引き延ばし、代わりに義勇兵として先鋭「青の師団」を対ソ連戦線に送ってきた。レニングラード戦線で活躍しており、ハンスも見た事がある。

 スペイン内戦の時にドイツ、イタリアが送ってきたのも義勇兵という名の正規軍だったので、同じ事をしたとも言える。

 他にもドイツの力を借りて失地回復を皮算用する、ハンガリーやルーマニアなどの東欧諸国も軍隊を派遣しているし、イタリア軍、フィンランド軍も参戦するなど、独ソ戦といってもドイツ人だけがソ連と戦っているわけではなく、なかなかに多国籍軍なのだ。


 ハンスの持ってきたザルツカルッフェンを温め、またエリザヴェータたちの昼飯であるライ麦パンと、野菜スープ《シチー》も温める。固くなったライパンをシチーにつけて食べるのだ。

 さらに、せっかく休みにしちゃったし、今日はこのまま飲んじゃわない?という、エリザヴェータの悪魔的なお誘いで、ウォトカのふたが開けられた。

「マーシャはまだ子供だろう」

「あ、薄めれば大丈夫です。よく父と一緒に飲んでいたので」

「お店でも、よくお客のお流れをもらってたわよ」

 ロシア人の酒好きはつとにしられている。

 長く寒い冬、時には吹雪で何日も外に出られない日も少なくない。そんなときは貯蔵していた酒で気晴らしして、吹雪をやり過ごすのだ。ソ連政府は何度か過度の飲酒制限や禁止令を出したが、ほとんど守られてない。

「でもドイツ兵のお客のいうには、ドイツ人も子供からビール飲むらしいじゃない?」

 そうなのだ。ナチスもまた飲酒制限令を出しているが、守っている人を見た事がない。

 ビールを子供の頃から飲むことで身体が丈夫になると、本気で信じてる人もいるのだ。

 たとえナチスを支持していたとしても、酒だけは別、という人もよく見る。

 そんなこんなで、急遽酒盛りが始まった。


「マーシャ、良い子よねぇ」

 飲み始めて、すぐにエリザヴェータは褒め始めた。

「ハンスさんはこの子を置いてすぐ移動しちゃったから知らないだろうけど、真面目で物覚えよくて」

「あ、あまり褒めないで下さい…。その、慣れてなくて…」

「こーゆー反応も、またかわいくて。ついつい言いたくなっちゃうのよね〜」

 なんか本当の姉妹のようだ。

「一生懸命ドイツ語を話そうとする姿勢はわかるから、ドイツ兵にも好評でさ、固定客も増えたんだよね」

「マーシャ効果で忙しいって言ってたもんな」

「皆さん、優しいですから。発音も丁寧に指導してくれたりして」

「ま、こんなかわいい子に頼まれたら、気合い入っちゃうよねー」

「り、リーザ、それはもう…。で、でも、共産党からは『ドイツ兵は皆悪魔だ!』と言われてましたから、最初はちょっと戸惑いました」

「いろんな人がいるんだよ、ドイツ兵にも。多分ソ連兵にも」

 悪魔的行為をするドイツ兵だって確かにいるのだ。ただ、全員がそうではないのもまた当然のこと。

 さらに言えば、残虐な非人道行為を平気でする者であっても、場面が変われば慈愛に満ちた行動で他者を救う事もある。一貫性のある行動ができる者の方が、たぶん少数派だ。

「そう考えると国家や民族なんてのは、偉い人があたしらを都合よく動かすために、あえてつくってるだけに過ぎないのかもねぇ」

「…うん?いいこと言ってるけど、なんかどっかで聞いた事があるような」

「あ、気がついた?ジークムンドさんが酔って言ってたことなのよね、実は」

 アハハとエリザヴェータが笑う。


 ハンスがレニングラード戦線に行っている間、事情を知ってるジークムンドに時々マリーヤの様子を見に行ってくれるように頼んでいたのだが、ちゃんとやってくれていたようだ。

「わたしもその通りだと思います」

 マリーヤも会話に入ってきた。

「わたしだって党がいつも正しいとは考えてませんでしたけど、国がドイツと戦うことになれば、やはりドイツ人許せないと思ってしまいますし…」

「それは、自然な感情だよな」

「でも、ハンスさんに出会い、こうやってドイツ語覚えてドイツの皆さんと話すと、いい人ばかりだなぁって。同じロシア人で親戚でもあるのに、叔母親子の方が悪魔的でしたから。わたしにとっては」

 村での出来事を思い出しているのか、マリーヤは視線を落とし、複雑な表情をしながら話す。

「結局、その人との相性なんだろーね。人種も血縁も関係なく」

「だなあ。スラヴ人だから、ゲルマン人だから仲良くできる、できないわけじゃないし、親や兄弟だから、仲良くしなきゃダメってこともないだろう」

「そーいや、ハンスさん父親嫌いなんだっけ」

「ええっ」

 父親にかわいがられていたらしいマリーヤには、信じられない事のようだ。

「まあな。クソ親父や弟なんかよりは、リーザやマーシャの方が、俺にとっては家族だと思えるよ」

「あんがと」と陶器の杯を軽く上げて、応えてみせたエリザヴェータに対し、「か、家族、だなんて…」と顔を赤らめるマリーヤ。


 それを見て、またからかいのネタを思いついたらしいエリザヴェータが、にへらと口の端を上げて言い出す。

「そういや、マーシャのことをドイツ人がなんと呼んでるか知ってる?」

「!リ、リーザ!」

 慌てて立ち上がって手を伸ばし、エリザヴェータの口を塞ごうとするマリーヤだったが、リーチの長いエリザヴェータは軽くいなして、じゃれつきながら話を続ける。

「『幼な妻』だってさ。ハンスさんの愛人2号と思われているらしくて」

「やめてっー‼︎」と大声(悲鳴?)を上げて、エリザヴェータの言葉を打ち消そうとしたマリーヤだったが、ハンスにはしっかり「幼な妻」という強ワードは耳に入った。

「どーせ、ハンスさんの耳に入るって。あれだけみんな面白がってるんだから」

 エリザヴェータがハンスの愛人(なんちゃって、だが)なのは広く知られており、そこにマリーヤが来たことは、格好のネタを提供したようだ。

「少尉殿もすみに置けないな」「本妻の家に2号を預けるとは」「修羅場?それともハーレム?」「反則だろ。あんな美少女を」「あれは犯罪」「俺もロシア語覚えようかな」

 戦場は娯楽が少ないので、兵士たちの酒の肴にはもってこいなのだろう。

「ほっとけばいいんだよ。あいつらもマーシャの初々しい反応が面白くていじってきてるんだろうから」

「で、ですが…、わたしがハンスさんの、つ、妻だなんて…、迷惑じゃないですか?」

「なんで迷惑?俺が?」

「なんでって…、言われても…」

「愛人2号って言われて嫌なのはマーシャじゃないの?」

「わっ、わたしはっ、迷惑だなんて」

「なら問題なくない?俺の愛人にしとけば、多少は虫除けになるし」

「……そうです、けど」

 ちょっと不満そうなさそうな表情を見せるマリーヤ。

「はーい、ハンスさん減点1」

 それを見て、エリザヴェータが茶々を入れる。

「もっと人の気持ちというか、女心を学んだ方がいいよ。ハンスさんは」

「そうです!」

 急にマリーヤも声を大きく同調した。

「この1カ月、わたしたちがどんなに心配してたか分かってますかっ⁉︎」

「おいおい、急にどうした?もう酔いが回ったか?」

「はーい、減点2。人の心配は素直に受けること」

「ハンスさんは、もっと自分をいたわって下さいっ」


 その後は女子2人が連合してハンスを目の前に茶化し、ハンスがそれを受け流しながら酒盛りは進んでいった。














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