3章 1942年7〜9月 第1話 7月ホルム南方(午後)①
6月末から始まった、南部方面軍による敵部隊撃破と資源地帯確保のための「
18軍、16軍の2個軍で構成される北部方面軍では、18軍によるレニングラード攻略作戦「
ただ、ソ連軍も南部に軍団を注ぎ込んでいたため、16軍ではデミャンスク連絡線での小競り合いがあるくらいで、全体的には凪のように静かなものであった。
♢♢♢
ハンスは1人、シュトルヒを操縦していた。
前線の偵察を兼ねた、各防衛拠点に命令書を渡す「伝書鳩」と揶揄される仕事だが、ハンスはのんびり飛行できるこの指令が大好きだった。何より人死を見なくて済む。
修理を終えて戻ってきた絶好調の愛機を飛ばすのも楽しい。風防を開け夏のロシアの風を感じながら、きりもみや宙返りなんてこともしてしまう。
そのうち、今日の伝書鳩最後の拠点である、ポイントデルタ周辺に来た。
ちょっと小高い丘と周辺の林を使って陣地化しており、すぐ近くに小さな村落がある。もちろん飛行場なんてないので、友軍の手旗に従って比較的平らな草原にシュトルヒを降ろす。
短い夏に種子を残さんとしてか、一斉に芽吹いた草花が緑の絨毯、そしてクッションの代わりとなり、多少の凸凹なら問題なく離発着出来る。
橇をつけたシュトルヒの主脚が草の上を滑り、止まった。
「ご苦労様ですー。隊長はあっちにいます」
「ありがとな」
手旗手が指差した方向に、ハンスは鞄一つを肩にかけた軽装で操縦席から出た。
第一次大戦のような、隙間なく塹壕を巡らす兵力も資材もない16軍は、保持すべき防衛都市の周りに小規模の防衛陣地をいくつか作り、ストロングポイントとして兵を駐屯させていた。
各ストロングポイントの間は離れているので、地の利があるソ連の小部隊ならすり抜け可能で、実際すり抜けたらしい偵察部隊やパルチザン部隊の報告もある。
だが兵力のない16軍上層部はそれは目を瞑り、大部隊の侵攻には全方位防御のストロングポイントが抵抗して足止めし、報告を受けた防衛都市から砲兵や空軍、更には貴重な機甲部隊が出て「火消し」をするのだ。
時間をとられるのを嫌ったソ連軍がストロングポイントに抑え部隊を置いて進軍しても、それは兵力分散に繋がり、進撃力は落ちる。抑え部隊を置かずに進軍すれば、補給路に不安を抱えることになる。
そうなると、なるだけ素早くストロングポイントをひとつづつ潰していくのがソ連軍にとり安全策となるが、十分に時間をかけて構築された防御陣地を攻めるには大軍が必要だ。北部ソ連軍にそんな余裕はなかったし、少しづつ兵を削ろうとしても、ドイツ側も保持が難しいポイントは無理せず撤収を認めていた。その後、応援部隊を得て逆襲する。
結果、16軍の思い描いたような膠着状態が出来上がっていた。
なお、無数にあるストロングポイントは、各防衛都市ごとにまとめられ、たとえばギリシア文字のアルファ、ベータ、ガンマ、またある都市管区の場合はアンナ、ベティ、クララといった女性の名前、別の管区では魚の名前が通称が与えられて管理されていた。
言われた方向に少し歩くと、塹壕に半地下のトーチカ、掩体壕に車体の半分を沈めた自走砲などが見えた。そしてその脇に兵士と談笑している将校。
その将校はハンスを認めると、ニカッと笑い顔をした。
「おー?今回の伝書鳩は知った顔だったかぁ!」
離れた場所から大きな声で話しかけてくる。
向こうさんは俺を知っているようだが、はたして誰だったか?と、近づきながら頭を巡らすハンス。
「互いにホルムの激戦を生き残れたようで、よかったなあ!」
と豪快に笑う赤毛の髭面、その声、その内容で思い出した。
「アントンも無事で何より。あー、いやクドリャフスキ中尉とお呼びすべきでしたかね」
階級章を見て、アントンが少尉から中尉に昇進していたことを知る。
「アントンでいいさ、水臭い。ま、昇進はホルム防衛の功ってことらしい」
「シュトルヒ小隊には、なんにも論功なかったのに」
「それはそっちの
そう言ってアントンは肩に手を回してきた。どうやら彼は1、2度顔を会わせれば友人認定してくるようだ。
東プロイセン出身の対戦車砲兵で、ホルム包囲戦の際にハンスが送り込んだ救援兵の1人。
送り込んだ正確な人数は覚えていないが、中でも記憶に残っている方だ。ホルムでの投下荷物回収作戦でも後席に乗せたことも大きい。
「すると、このデルタポイントの隊長は、もしかしてアントンか?」
「もしかしなくても、俺さ。中尉昇進と共に拝命した」
「じゃあ、まずは仕事を終わらせようか。これが命令書」
鞄から鷲と鉄十字のシンボルと、タイプライターで打たれた正式な命令書を出して、アントン渡す。
「読まなくても、どうせ現状維持を指示してるだけだろ」
「まあそうなんだが、これも仕事なんだよ」
「わかってるよ。ちょい待ってな、報告書持ってくるから」
命令書を受領した証として、各ポイントの隊長から1週間分の報告書を受け取る。これが「伝書鳩」の仕事になる。
以前は車や騎馬でやっていたのだが、命令書ごと行方不明になった(ソ連パルチザンの襲撃で連れて行かれたらしい)事があり、以後はシュトルヒの業務に加わった。
半地下トーチカから持ってきた報告書を受け取り、業務完了。
「すぐ行くのか?」
「いやー、今日の伝書鳩はここデルタで全て終了なんだよね。いそいそ帰って別口の仕事をふられるのも
「おう、していけしていけ。慣れればいい村だぜ、ここも」
あまり早く帰ると、エリザヴェータの店に長居することになって金が続かない。
「それはそうと、こいつは戦車?こんなのも扱えんの?」
ハンスは横の砲台付き車輌を指差す。
「こいつは自走砲だよ。自走砲とは自走できる砲台であって戦車とは違うんだぜ」
そんなもんか、ハンスは思う。空軍であるハンスは陸軍の兵器にはあまり詳しくない。
ちょっと見は、オープントップで防楯程度しかない砲台が、戦車の車体に取り付けられている感じだ。
「今見て、不恰好と思ったろ?」
「いやあ、陸軍さんの兵器には詳しくなくてなあ」
はっきり言うと陸軍の兵器に興味がない。偵察対象であり、自身の安全にも関わるソ連の兵器の方が関心があるくらいだ。
でも、確かに急遽砲台を取り付けた感じで、車体と比べて砲台が不恰好に大きく、高い。
「兵器は見栄えじゃねぇからな。こいつはなかなかだぜ」
「かなり砲の口径は大きいようだけど」
「よく気がついた!これ、ソ連のラッチェバムなんだ。38t
アントンは珍しいおもちゃをひけらかす子供のように、目を輝かせて説明してくれた。
相変わらずのマシンガントークで。
「ホルム戦でラッチェバムを見つけたって話はしたよな?確かハンスに砲弾持ってきてもらったじゃん。
そそ。で、そいつを使ってにっくきT-34を擱坐させたんだぜ。もー、スカッとしたわ。
まあ、その後ラッチェバムは別口の戦車に蹂躙されちゃったけど。
でも、司令部はその事を覚えててくれたらしくてさ。なかなか新型50mm砲の受領が進まないこともあって、こいつを2両?2台?もらった。俺ならラッチェバムを扱えるだろって事らしい。
まあ、残りの3門は37mm砲なんだけどな。
でも俯角つけてもらって、榴弾も打てるようにしてもらったから。伴随歩兵を一掃するとか、あるいは牽制とかな。人力でも牽引できるからドアノッカーも使い道はあるんだよ。
この特別編成の対戦車部隊と、歩兵2個小隊がここデルタポイントの全兵力。俺の部下たちさ。
え?うん、確かに俺には戦車の操縦はできん。対戦車兵だからな。
でもそれは、解決済みなんだ。
またホルムの話に戻るんだが、あの時のホルム防衛隊、公的にはシェーラー戦闘団だったか、あそこは各部隊から逃げてきた兵を強引に統合し、役割を振っていたから、俺の配下も対戦車砲兵ばかりじゃなくて、乗ってた戦車を失って逃げてきた戦車兵もいたんだよ。
その中にはチェコダの操縦士もいて…、チェコダってわかる?38t軽戦車のことなんだけど、作ってるのは元はチェコスロバキアにあった軍事会社でさ、その会社の略称がチェコダだったんで、そう呼ばれてるんさ。
ちなみに、2
……なんの話してたんだっけ?そうそう、こいつの操縦士の話な。
チェコダの操縦士だったんだが、シェーラー戦闘団に戦車なんて1両もないから、畑違いだけど対戦車砲の装填手をやってもらってたんだよ。装填なら戦車でもあるからさ、実際よく働いてくれたし。
だから、ラッチェ=チェコダを受領が決まった時、シュテファン…、そのチェコダの操縦士の名前な、あいつのことを思い出してな。シュテファンもまだ次の配属先が決まってなかったから、ちょうどよかった。
そんな形で戦車部隊から転科してもらったんだよ。2号車の操縦士もそんな感じ。
今、ウチの戦車でまともにT-34を撃ち抜ける車両はないから、乗車や戦友を無くした戦車兵なんかは、自走砲に乗ってT-34にリベンジって思うやつも多いからな。
詰まるところ、こんな強力な装備もらって嬉しいって事だよ。
ホルムに派遣された時は貧乏くじ引いたーって思ったけど、こうしてちゃんと見返りがあるなら悪くないわな」
アントンの長いトークが終わった。あんなにしゃべって、のど渇かないんだろうかと思うハンスだ。
まあ、暇つぶしと思うなら話を聞くぐらいはなんともない。
まだ時間があるので、陣地の見学と、近くの村まで足を伸ばしてもいいかもしれない。
何も気をひくものがなかったら、シュトルヒの翼下の草原で昼寝だ。
機体が日陰を作り、気持ちがいいのだ。
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