第6話 リガ市内(午後)②

 占領省に文字通りの門前払いを食らったハンスだが、落ち込んでいるわけではなかった。

 もともと、実家に行っても情報を得られるとは思っていない。移住のために家財は売り払っていただろうし、その後も2度も家主(ソ連とドイツ)が変わっているのなら、手がかりが残っているとは考えにくい。

 今日は久しぶりに実家を見ただけで良し。明日からは今も残留している知り合いをあたってみるとするか。

 そんなことを考えながら、まだ明るい日差しの中、路地をぶらぶら歩く。


「お、まだあるか」

 自分の昔の記憶と、今見える店構えにほぼ違いがない店を見つけた。

 懐かしくて近寄っていく。

 ショーウィンドウには何も飾られていないので、この店も閉店か?とも思ったが、クローズドの札はない。ドアを押してみればカランカランと呼び鈴が鳴り、中に入れた。

「ヤコブの爺様ジサマ、いるかい?」

「はいはい、どちら様でしょうかの?」

 奥から眼鏡をかけた、禿頭の老人が出てくる。

「おーっ、ジサマ久しぶりぃ。8?9年ぶりくらいか?」

「……失礼ですが、どちら様ですかの?私どものことをご存じですか?歳をとると、物覚えが悪くなりましてのぅ…」

 ハンスの記憶よりもしわがれた、おどおどした声が流れる。

「俺だよ。そこのオストワルト家の長男ハンス。よく子供の頃婆様バサマにかわいがってもらってた」

「…」

 老人は目をしばしばと開閉し、眼鏡に手をやる。

「覚えてない?アリョーシャとよく一緒に来たじゃん。まあ、こんなドイツ軍の制服着てるし、背も大きくなったから印象は変わっただろうけど」

「悪たれハンスか。見違えたわ」

 ヤコブ老人の口調が変わる。ハンスの記憶にある皮肉っぽい、ちょっと鋭い口調だ。心なしか目つきは懐かしさを含んだものとなる。

「さっさと奥に入れ。入り口付近でドイツ軍服の奴にうろちょろされてはかなわん」

 しっしっとハンスを店奥に追いやると、ドアを開け「クローズド」の札をかけドアガラスのカーテンを閉めた。

「閉店しちゃうんかい?」

「ドイツ兵と話してるところを誰かに見られると、面倒なことになりかねんでな。なに、どうせ客なんか来ないわ」

「まだ古物商をやってるんだ。にしてはショウウィンドウには何もなかったが」

「きょうび商品を見えるように置いとくと、占領省のゴロツキがやってきてたかられるだけだ。そもそも、お前さんを最初見た時は今日のゴロツキは空軍ハエか、と思ったわ」

 フンと軽く鼻息を飛ばすと、ヤコブはカウンターから居住部にハンスを招き入れる。


「何にせよ、悪たれハンスも無事でなりよりじゃ」

「ジサマもな。ボケてないようで安心した」

「ふん。お主こそ、ドイツ軍なんぞに入りおって。まったく似合っとらんわ」

「仕方なかったんだよ。あのクソ親父のところから逃げ出すにはそれしか方法がなくてさ」

「そのクソ親父の方は、息子をいち早くドイツ軍に入れたことで、先見の明があるとバルト=ドイツ人のなかでは持ち上げられておったがの」

「…それで鼻高々になってるアイツの姿が、容易に想像できるな」

 ハンスは苦笑しながら、ヤコブが入れてくれた出がらしの紅茶テーをすする。

「それはそうと、このリガには何しに来たんじゃ?」

「それそれ。実は家族の行方を探しに来たんだよ」

 ハンスはかいつまんで事情を話した。ヤコブはそれを聞いて「ふぅむ」と腕を組んだ。

「オストワルト一家はソ連軍の進駐前に移住したと聞いていたがなぁ。実際に空き家にもなっておったし」

「それはいつ頃?」

「進駐の年の年明けすぐ、だったかの」

 1940年1月の移住と言っていた母親の手紙とも一致する。すると、ラトビアを出たことは間違いないようだ。

「どこに行くって言ってたかわかるか?」

「そこまでは、の。わしはしょせん吹けば飛ぶような故買商人に過ぎんし、名門商家オストワルト家と繋がりがあるわけではないわ」

 繋がりがあるとしたらお主だけじゃ、とにやりとしながら続けるヤコブ。

「だが普通に考えて、行き先はバルト=ドイツのホームタウンだと思うがの。ドイツ占領後に戻ってきた話は聞かんから、そこで悠々自適してるかと思ったわ」

「そうなんだよなぁ」

 だが、入国した記録はなかった。リガから東プロイセンの玄関口ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)までは長い船旅ではないし、船が沈んだ話も聞かない。


「…確証ないのに、こんな話をするのもどうかとは思うが…」

 ヤコブが少し言いづらそうに口を開く。

「何でもいい。気がついたことがあるなら言って」

「いつソ連が進駐してくるかわからないあの頃、焦るバルト=ドイツ人を狙った詐欺の話を聞いたことがある。全財産を持って移住するからの。安く移住させると言って移住希望者を集め、殺して財産を奪う…」

「あの親父が、そんな見えすいた詐欺にやられるかなあ?」

 親父は性格はクソだったが、経営は堅実で慎重だった。実際財産は着実に増えていた。命の次に大事なお金のため、万全のシフトを組んだと思うのだが。

 でもわからない。莫大なオストワルト家の財産に目をくらませる者がいてもおかしくない。

「でもジサマ、貴重な情報をありがとう。これで少しは希望が持てた」

「今の話で、希望が持てるのかの?」

「少なくともソ連軍の進駐までいたわけではなかった事がわかったから。財産奪われても命は救われてるかもしれんし。あ、もしかしたら、スウェーデンに行ったかも。スウェーデンには牧場とか土地を持ってるんだ」

「楽観的だな。まあ、こんな戦争時では楽観的じゃないとやってけんがの」

 苦笑しながら、ヤコブが紅茶を口をつける。


「しかし、少し以外だったわ。ハンスがそこまで家族のことを気にかけていたとは。親父さんとは関係最悪だと思ったが、親は親、ということか」

「あー、ぶっちゃけ親父はどーでもいい。死のうが生きようが。弟も」

 弟はミニ親父みたいなもので、親父と一緒になってハンスを軽蔑していた。

「ただまあ、母親と妹のマリーアは、な」

 母は親父には逆らえなかったが、親父の目が届かないとこではハンスの自由にさせてくれた。ハンスが親父に逆らうたびに「お前の教育が悪い!」と、母親も親父から折檻を受けたが、恨み言をハンスに言うことはなく、いつも気にかけてくれていた。さらにドイツに行ってからも、長い手紙をくれて心配りしてくれた。

 そしてマリーア。明るく天真爛漫でワガママな彼女は正真正銘の美少女で、リガ社交界の人気者だった。親父も末娘にはとことん甘く、熱中していたバレエのため「邪魔だから」と、女の命という価値観が根強い髪を耳下のショートに切り揃えても、親父は渋い顔をしたもののやめさせはしなかった。ちょっとした気に入らないことでも、杖で折檻されるハンスとは雲泥の差だ。

 そんなマリーアは、ハンスが飛行機乗りになることを手放しで喜んでくれた唯一の家族だった。

 親父は無関心、弟は軽蔑、母親は心配する中で、「ハンス兄様には、自由に空を飛ぶパイロットが似合っているわ」と根拠もなく断言。

「もし立派なパイロットになりましたら、マリーアを後ろの席に乗せてくださいませね。約束ですわ」と一方的に約束させられ、見送られた。

 別れた時は12〜3歳だったから、今では20歳ぐらいか。

 まだあの約束をはたせていない。


「母親と妹だけは、行方を知りたいんだ」

「あの悪たれハンスにも、そんな人間的な一面があったのじゃな」

「ジサマさあ、俺を何だと思ってるわけ?親しい人の行方が気になって何が悪いんだよ」

「何も悪いとはいうとらん」

「そういや、バサマはどうしたんだ?買い物?」

「…いや、もうおらん。4年ほど経つか。凍った街路で足を滑らせてな。骨折して寝たきりになったら急速にボケての。最後はわしのこともわからんようになった」

 ヤコブがそう言いながら指を差した先には、ヤコブの糟糠の妻アデルの温和な顔の写真立て。

「ジサマ、すまん。もう亡くなっていたとは思わなくて」

「ふん。神の元に行くのは人の宿命じゃ」

「…バサマには世話になったからなあ。一言別れを言いたかったな」

 子供の頃は、家を抜け出してアリョーシャたちと待ち合わせをする場所がこの辺りだったのだが、冬などは「道端では寒いでしょ。ここに入って待ってな」とアデルのバサマが家に入れてくれて、お菓子なんかもくれた。

「わしらには子供がなかったのでな。あいつも子供の世話ができて嬉しそうじゃったわ」

 ヤコブは懐かしげな顔で写真立てを見ていた。


「埋葬先はどこ?」

「市外の公共墓地だが。何だ、花でも捧げてくれるのか?」

「それもあるけど…、ここの墓地でよかったのかな、と」

「?どういう意味じゃ?」

「だってジサマたちって、隠れユダヤでしょ?キリスト教徒の墓地に葬るってのはありなのかって…」

 眼鏡の奥のヤコブの目が、大きく見開かれていた。口は陸に上がった魚のようにパクパク開閉するが、声にはなっていない。

「あー、ジサマを驚かす気はなかったんだ。でも、子供の頃から知ってたからさ。俺もアリョーシャも」

「……な、んで、分かった……?」

 かすれたようなヤコブの声だ。

「最初に気がついたのはアリョーシャだよ。外から見た店の敷地と、中で見た部屋を比べると広さに差がある、どこかに隠し部屋がありそうだって」

「…」

「で、場所的には寝室の方だから調べてみようって…」

「お前ら、勝手に寝室に入ったのか‼︎」

 ヤコブが大きな声を上げるのも無理はない。寝室は夫婦のもっともプライベートな空間だ。たとえ子供でも勝手に入っていい場所ではない。

「俺は入ってないよ。アリョーシャだけが入って、俺は1人で店番していたバサマを見張っていただけで…」

「共犯ではないかっ‼︎」

「…まあそうなんだけどさ。今さらだけど、ごめん」

 ハンスは素直に頭を下げた。

 ヤコブはしばらく鼻息を荒くしていたが、やがて、ふぅ〜と長いため息をつく。

「…それで、アレを見たってことか…」

「…アリョーシャは言っていた。隠された扉の向こうに祭壇があり、香炉やら吊るし灯火、7本燭台なんかはユダヤ教のものだって。ユダヤの教会シナゴーグに忍びこんだときに見たって」

「……ほんとにあのガキは…」

 ハンスの子供時代の相棒、アリョーシャことアレクセイは悪知恵が働き機転も効いた。さらに身が軽く、「冒険」と称していろんなところに忍び込んでいた。

 ハンスもよく一緒に忍び込んだりしたが、見つかって怒られるのはハンスだけで、アリョーシャは毎回うまく逃げていたのを覚えてる。

 それでいて盗みは「人の道に外れる」として、一切手をつけなかった。ただ忍び込むだけなのだ。

 ロシア系ラトビア人であったアリョーシャは、今どうしているだろうか。


「その、隠れユダヤって事は…、誰にも言ってないのか…?」

「言ってない。言うわけないよ。お世話になってるバサマの家だぜ。わざわざ隠していることを言いふらす必要なんてどこにもない」

「それは、今も…?」

「今もって、どういう意味?」

「どういうって…、お前さんドイツ兵だろう?」

 ああなるほど、やっとヤコブの言いたいことに思い当たる。

 ナチスは組織的なユダヤ虐殺ホロコーストを行なっている。すなわちヤコブを当局に告発しないのかと聞いているのだ。

「告発なんてするわけないだろ。そんなことをして何の意味があるのさ?」

「……でも、お前さんは…、ドイツ兵じゃし…」

「確かに俺はドイツ兵だし、ヤコブのジサマはユダヤ人だ。でもそんな所属の違いが何?人の付き合いは個人じゃん?」

「……じゃが、集団に入れば、しがらみがあるもんじゃろう…」

「しがらみねぇ。俺にとっちゃあまりかせにはならんのだよなぁ。人によるんだろうけど。知り合いに言わせれば、国家や民族なんてのは、民衆を統制するために作り上げたものらしいぜ。盲目的に従う必要なんて感じないねー」

 そう嘯くハンスを見ていたヤコブだが、やがて気を落ち着かせるように息を吐いた。

「……分かった。ハンスを信じよう。いままで隠し通してくれて、ありがとう」

「……ヤコブのジサマに、頭下げられたのは初めてじゃない?」

「ふん。わしとて感謝ぐらいするわ。ここリガはユダヤ差別が少なかったとは言え、差別がないわけではなかったからの。今は、差別なんて甘っちょろいものではないがな」


 ぽつりぽつりとヤコブが話してくれたのはこんな内容だ。

 従来リガはユダヤの経済力をあてにして、寛容に受け入れていた。公的にユダヤコミュニティ=リガ・ゲットーも認められていた。

 だが20世紀初頭の民族意識の高まりの影の部分として、ユダヤ迫害ポグロムがさかんになると、ヤコブのように表面はキリスト教徒のふりをした「隠れユダヤ」も増えたのだと言う。

 だが、どんな迫害も「神の試練」と考えるユダヤ正統派からすれば、「隠れ」など転び(棄教)にほかならず、ユダヤコミュニティとの関係は廃れた。

 第一次大戦後のラトビア共和国時代には、リガのユダヤ人はさらに増えた。その多くは共産化したソ連領からの移住、または内戦からの難民だ。

 リガの1割を占め経済力もあるユダヤ人は、バルト=ドイツ人と並んでリガ経済の担い手だったが、1930年代のファシズムの勃興はラトビア人のナショナリズムも刺激し、再びユダヤ差別が激化したのだ。

 ハンス少年がヤコブと知り合ったのがこの頃で、そのぎすぎすした雰囲気は覚えている。だが、ナチスかぶれのクソ親父がユダヤ人の悪口を言えばいうほど、親父嫌いでひねくれ者のハンスが、隠れユダヤのヤコブに入り浸るようにもなったのだ。

 しかし人間万事塞翁が馬、ドイツの占領後まもなくあらわれた特別行動部隊アインザッツグルッペンによりユダヤコミュニティは壊滅したが、関係を絶っていたヤコブは気づかれず、大丈夫だったらしい。

 アインザッツグルッペンとは保安警察や保安局、さらには武装親衛隊などで構成される部隊で、ユダヤ人や共産党、敵性分子を前線後方で捜索し、見つけ次第「処分」する事が認められている。

 もちろん、そんな部隊に積極的に希望する者はほとんどいないため、元の組織でミスしたり左遷された者の吹き溜まりとなり、一刻も早く元の組織に戻るために実績を上げたいと考え、確かな証拠がなくとも次々と「処分」して、実績とする事が行われているとの事だった。

 処分してしまえば死人が文句言う事はできないし、それが女子供なら抵抗も少なくて更に楽だ。また処分したユダヤ人の財産は没収できるため、金を持っていると思われるだけで危険なのだと言う。

 目立たず、息を潜めてとにかく生き延びる。それができることの全てだとヤコブは言った。


「しかし、お主には借りが出来たな。かなり大きな借りが」

 話がひと段落ついて、冷めた紅茶で口を潤すヤコブ。

「いいってさ。子供の頃はこっちが大きく借りがあったから、これでおあいこ」

「今回お主に救われたのはわしの命だ。そんな事では返したことにはならん」

「大袈裟だなぁ」

 実際、ハンスは大したことをしたとは思っていない。ヤコブに限らずユダヤ人を見つけたとしても、そのまま見逃すだろう。めんどくさいし自分に益がない。

 第一、ユダヤ虐殺に何の意味があるのか分からない。ユダヤ人を探し処分する人材や資源を、前線に回した方がはるかに有益だろう。

「恩義は受けたままにしておくと居心地悪いのだ。わしの性分と思ってくれて良い」

そうだ、とヤコブは続ける。

「ハンスは家族を探しておったな。わしの持てる限りのツテを使って聞いてみよう」

「それは助かる」

「でもそれでは足りぬ。あと一つ、ハンスの頼みは必ずかなえよう。できる範囲でだが。それでどうか」

「だからいいって言ってるのに」

「いーや、これはわしのけじめじゃ。必ずかなえてやるから覚えておくがよい」

「どっちが頼み事をしてるんだか…」

 ハンスは苦笑した。


 が、のちにこの頼みが大きな意味を持つことになる。













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