第4話 スタヤラ=ルッサ(午後)②

 エリザヴェータが持ってきた焼いたヴルストの香りが鼻腔をくすぐるが、もうその時にはビールはすでに空になり、この街で作っているというウォトカを追加注文する。

 と、休暇中らしい2人組のドイツ兵がふらりとやって来て、

「もうこの店は開いてるん?」「お、ビールにヴルスト、あるやんか」

 と、ハンスのテーブルを見ながら、ルール方言でまくし立てれば、

「開いてるわよー。お兄さんたちも飲んでく?」

 エリザヴェータも満面の笑みで迎える。

 休暇中で日没も遅いとあっては、夜通し遊び、明け方に寝て午後になって起きて来るドイツ兵は珍しくない。

「今、寝起き?」

「あー、ちゃうちゃう。ウチらそこまでのんびりさんやないで」

「風呂入ってたんや。ここの名物っちゅー泥風呂」

「どうだった?気に入った?」

「んー、せやなぁ。体中に泥塗りたくって最初は気色悪きっしょって思ったんやけど」

むしろに包まって床暖の上でねっころがってると、もう汗だっくだく」

「せっかく抜けた酒なのに、また欲しくなってまうやんって」

「ちゅーことで、ビールちょーだい。ヴルストも」

 ハンスたちにも十分聞こえる音量で早口で話すドイツ兵2人は、そのまま立ち飲み台につく。注文を受けてエリザヴェータが下がれば、音量そのままに「昨日の女さぁ…」「俺の相手は…」と娼婦談義に入る。


「そういや、まだ泥風呂に入ったことないな、俺。冷泉で泳いだ事はあるが」

 2人組の話題を引き取るようにハンスが話す。

 鉱泉といっても北のロシアだ。温度は多少生ぬるいくらいで、硫黄臭ぷんぷんのなか、あまり泳ぐ気にもならない。だから、泥パックと岩盤浴を合わせたような形式の暖まり方が行われている。泥に包まれ、のどがカラカラになるまで蒸されたら、冷泉で泥を洗い流す。

 今のこの街では、子供たちの主な労働先になっている。

「風呂に行ってくればいいのではないか?お前明日から休暇だろう」

 愛機が後方送りとなり、やることなくなったハンスには2週間の長期休暇が与えられている。

「もう明日の列車の切符を取っちゃったんだよねー。ここでの休暇も悪くないけど、金が続かないわな」

 ハンスたちスタヤラ=ルッサを拠点にしている空軍部隊は、この保養地で毎夜のように遊べるので、他の部隊からは羨ましがられているらしい。ただ、当然金もかかる。

 戦争中の軍人にも給料は払われている。ただ衣食住は軍から無償で与えられているので額は低い。普通戦場でカネの使い道はないから気になることはないが、スタラヤ=ルッサでは話が別だ。

軍の主計局の出張所が作られ、給料を受け取って豪遊する兵士が跡をたたない。だが、

いくらまわりから羨ましがられても、金が続かなければ遊べない。

「ああ、リガに帰るんだったか。羽を伸ばしてくるがいい」

「…そうするつもり」

 少し間をおいて、ハンスが答えた。


 と、酒場のオープンスペースに、鮮やかな赤い服と、明るいオレンジの服を着た2人の女性が入ってきた。口には紅を差し、占領下の街には違和感ありまくりの格好だ。

「コンニチハ、オニイサーン」

 たどたどしいドイツ語で、それでも笑顔を浮かべて話しかけてくる。

「チョット、アソバナイ?」

「あー、間に合っているんだよね、俺ら」

 ハンスがロシア語で返すと、「ロシア語、話せるんだ…」とびっくりした顔をされた。

「でも、だったら話は早いわ。どう、あたしたちと今晩?」

「だから間に合ってるんだって」

「なに、先約ありってこと?でもそんないないじゃない」

「いるのよ、ここに」

 と、ロシア語で会話に入ってきたのは、つまみを持ったエリザヴェータ。

「あ、姐さん!ここ、姐さんの店だったんだ…」

「だから、姐さんはやめてって。歳はあなたたちの方が上でしょ?」

「いやいや、いろいろお世話になりましたから!…てことは」

「そ、この人あたしのツレだから。手は出さないでね」

「ごめんなさいごめんなさいっ。あたしら全然知らなくて」

「そんなに謝らなくても。わかってくれればいいから。2人組なら、あっちの方はどう?『昨日の女は』なんて話していたから、脈あるかもよ」

 エリザヴェータは後から入ってきた、立ち飲みのドイツ兵たちに目を向ける。

「じゃあ、そうしますー。お兄さんたち、ごゆっくり〜」

 と、笑顔のまま2人は移動し、『オニイサーン、アソバナイ?』と立ち飲みの2人に声をかけていた。


「助かった」

「どういたしまして。自分の男を守るのは当たり前でしょ?」

 ドイツ語に切り替えてハンスとエリザヴェータが話すのは、ロシア語がわからないジークムンドに配慮したためだ。

「姐さんって呼ばれてるんだな」

「あれ、恥ずかしいからほんとやめてほしいわー。他の街から来た娼婦たちの世話を買ってでただけなんだけどねぇ」

「似合ってると思うけど?」

「もうっ、ハンスさんまでっ。他の女から守ってあげないよっ?」

「ごめんごめん」

 あまり悪いと思ってない口調で、ハンスが言う。もっともエリザヴェータも本気で言ってるわけではないのも分かっている。


 従軍娼婦は他の街で募集となった時、たくさん集まらないのではないかという疑念がシュワルツベルク行政委員にはあった。

 だから、高待遇、子連れも可などの条件を出したのだが、予定をはるかに超える女性が集まった。それだけ、他の街でのドイツ支配が厳しいことの裏返しでもあるのだが、ドイツ人向け宿舎も考えると、彼女たちの居住場所が足りない。

 そこでエリザヴェータたちが中心となって話し合いをした結果、スタヤラ=ルッサのロシア住民が数世帯同居するようにして、彼女たちの居住宅を増やした。娼婦たちが感謝する由縁だ。

 行政委員にも話をつけて、郊外に急造の住居も作ることになり、ここでも街の住人の雇用が生まれることにもなった。

 予想を超えた従軍娼婦の数だったが、ドイツ兵からは好評だ。

 娼婦の人数が足りないと、兵士の列が娼婦の前にできることになり、時間を決めてあくせくヤルことしかできないし、連続性交を強いられる娼婦側の疲労も大きい。

 だが、たくさんいれば分散される。兵士も女性を選ぶことができるし、妻や恋人がいて性行為は後ろめたいが、酒場で女性と楽しく飲むだけなら、という兵士も満足できる。

 その評判は瞬く間に兵士に広がり、軍上層部の目論み通り、休暇をスタヤラ=ルッサで過ごす兵士が急増し、街もにわかに賑わいを見せるようになった。


 別のドイツ兵が店先に来た。

 エリザヴェータは「いらっしゃーい」と声をかけて、近寄っていく。

 卓を離れるエリザヴェータの後ろ姿を見ながら「忙しそうだな…」とハンスが呟く。

「あのな、その、答えたくないなら構わんのだが」

 今まで黙ってハンスと娼婦、そしてエリザヴェータとのやりとりを見ていたジークムンドが、ウォトカをちびちびなめながら聞いてきた。

「なんだ?」

「あー、なんだ、ハンスは…、女が苦手なのか?」

「…まあ、そうだな」

 どう答えようか、と躊躇する時間が一瞬の間になった後、ハンスは答えた。ジークになら知られてもいいか、と思ったのだ。

「苦手と言ってもさ、会話とかする分には全然気にならないんだ。というか、話すなら女の子の方がいい。楽しいしな。だけどさ…、性的な行為というか、そういう気持ちが起こらないんだよ。ああやって迫られると、引いてしまう」

「…なるほどな」

 ジークムンドは軽く応じる。そこに拒否感がないことに少し安堵しつつ、ハンスは続けた。

「兵学校時代にな、そんなことをぽろっと言ったら、『ビビってんのかよ』『女を知ったら世界が変わる』って囃し立てられて。その手の店に連れてかれた」

 いったん話を切るように、軽くウォトカをあおる。

「真っ裸の女子を見ても、全然勃たんかったな。いろいろ女の子も手で扱いてくれたけど、ミョーに冷めてしまうというか。酒飲み過ぎだとダメだとも聞いたので、シラフでも行ったが結果は同じ。その事を正直に言ったら『不能か』『それともホモ?』って嘲られ、『バルト野郎に尻向けんなよ。カマ掘られるぞ』だとさ」

「自分の価値観でしか、他人を判断できない奴は多いからな」

「だよなぁ。女が苦手は男が好きとイコールじゃないと、いくら言っても聞く耳持たずで、途中から諦めた」

 ハンスは苦い笑いを浮かべる。

 飛行学校時代にあまりいい思い出はない。バルト=ドイツ出身というだけでもちょっと浮いていたし、そしてこの男色疑惑だ。からかいやすい対象とされたのも無理はない。


「そもそも、愛ってのがよくわからん。好きとどう違う?ジークは結婚してるよな。愛と好きの差って何?」

 酔いもあるのだろう、ハンスはジークムンドに絡み始めた。

「俺か?」と、苦笑しつつジークムンドは話す。

「うちも田舎だから、嫁さんは親が見つけてきた見合い結婚だからなぁ。最初は『彼女が俺の相手か』と思うだけで、好きも嫌いもなかったわ」

「でも4年も一緒に生活してるわけで」

「そうだな。おとなしく従順で、まあ嫌う要素はないし好きだとは思う。だが、これが愛かと言えば……、俺にもわからんな」

 ジークムンドは真面目に答える。

「もともと、愛や恋は明確に分けられるものじゃないだろう。愛という概念自体、宗教由来で作られた人工的なものだろうからな」

宗教キリストか」

「『産めよ増せよ』というくせに、『姦淫するなかれ』とか『性を貪るな』とか、どう見ても矛盾だ。じゃあ、どうするかと言えば、神の前で結婚した2人が生殖のために性交渉するのが愛で、それ以外のセックスは全て姦淫としたんだよ」

「やる事は変わらないのになぁ」

「いろんな行為に意味付けをして、特定の価値を植え付ける。古来よりそうやって人々の行動を制限して、支配してきたんだよ。宗教なんてのはな」

 無神論者で、ニーチェ好きなジークムンドらしい、皮肉な言い方だ。

「だからな、ハンス」

 クイッとウォトカをあおり、かなり顔を赤くしてジークムンドが続ける。

「女を喜ばせるのが男の甲斐性、なんていう価値観自体が誰かが誰かの行動を制限するために作られたものなんだよ。多分な。だからそんな価値観に負けんな。『女苦手ですが、何か?』と涼しい顔しろよ。それがハンスだろうが」

「…励まされてるんだよな?俺」

「最近ますますニーチェの言葉が刺さるんだよ。永劫回帰とか、戦争なんてまさにそうだよなぁ。毎日毎日、押し寄せる難題をただこなしているだけで。何とかなったと思ったら次の難題が押し寄せてきて」

「…おーい」

「ただ生き残るだけが目的だからな。毎日が。他人の死にもだんだん麻痺してくるし。そんな中でも自分の意思でポジティブに生きよって言うんだからな。まさに人を超えた存在だよ」

「あー…、耳に入ってないなこりゃ」

 ジークムンドは、酔いが回ってくると哲学絡みモードになることが多い。愛の意味とか、哲学的話題を振ったことでスイッチが入ったらしい。

 これが原因で他の整備員たちは辟易して、ジークムンドと一緒に飲むことを敬遠しているようだが、ハンスはそれなりに面白がって聞いている。意味はハンスにもわからないが、「ほうほう、それで?」と合いの手を打ってバックミュージックのようにして酒を飲む。

「超人ってのはなあ」「国家も民族も、所詮は人を縛るものにすぎず」などという言葉を聞き流しながら、明日からの帰郷のことを酔った頭でぼんやりと考えていたハンスだった。


♢♢♢


 翌日、ホルムにはドイツの援軍が入り包囲は破られた。

 それを知ったソ連軍は、直ちに撤退したわけではないが明らかに攻勢の勢いは落ちた。

 ドイツ軍も、疲れ果てたシェーラー戦闘団を大量の怪我人と共に後退させる必要があるため、すぐにソ連軍を追い出せず、結局ソ連がホルムから完全撤退したのは6月になってからであったが、ホルムの包囲が破られた時点で、ホルムはよくある戦闘中の街に格下げされ、ドイツ北方軍もソ連北部軍管区も興味を失った。

 スターリンも、この頃には南部での大損害(第二次ハリコフ包囲戦)で頭いっぱいで、北部のささいな失敗など眼中になくなっていた。


 北方軍の次なる焦点は、ソ連第二の都市レニングラードであった。


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