第3話 スタラヤ=ルッサ市街 (午後)①
この日はシュトルヒ小隊受難の日となった。
すでに2番機3番機が失われて、可動機は1番機と4番機のみになっていたが、この日ハンス機が後方送り、相前後して4番機も不時着したという連絡が入ったのだ。
4番機もホルム輸送に駆り出されていたが、ホルム近郊でソ連の爆撃機2機とはちあわせしたらしい。
固定銃の戦闘機相手には、闘牛士のようにひらりとかわすシュトルヒだが、低速でもシュトルヒよりは速く、旋回機銃を装備する爆撃機とは相性が悪い。
撃ち込まれて翼に大穴が空き、補充兵も軽度の負傷をしたらしく、なんとか味方の勢力圏まで辿り着き着陸したようだ。
そのソ連爆撃機も、シュトルヒに驚いてホルム攻撃のための爆弾を慌てて投棄したらしいので、多少はホルム守備に貢献したとは言える。
だが、シュトルヒ小隊はこれで可動機ゼロとなり、愛機が後方送りとなったハンスと、今日の仕事がなくなった主任整備員のジークムンドは共に、早々とエリザヴェータの酒場に向かっていた。
♢♢♢
「あー、まださすがに開店前なんだけど」
店先で卓を並べていたエリザヴェータが、滑らかなとはいかないまでも、充分に聞き取れるドイツ語で話す。
「やる事なくてさー。開店準備?手伝うよ」
「いいって。あとこの卓拭くだけだから」
冬が長い高緯度帯の人たちが、夏の短い陽ざしをここぞとばかりに浴びたがるのはよく見られることだ。だから店先に卓やドラム缶と板で作った簡易の立ち飲み台を出して、オープンテラスとしていた。
なにしろ、日没が遅いのだ。外が明るいのに室内に篭るのはもったいないと考えるロシア人は少なくない。
「元気だったか?アドルフ?」
番犬として貸出中の白犬が2人の足元にやってきて、犬好きのジークムンドがよしよしと首元を撫でる。アドルフも気持ちよさそうだ。
「よしっ、こんなもんかな。じゃあ注文うけたまわるよ」
最初はロシア語、後半ドイツ語とちゃんぽんに話したエリザヴェータが2人に笑顔を向けた。
「今日はビールが入ってるわよー」
「そりゃあ、いい」
バイエルン出身のジークムンドが、目を輝かせる。
「ドイツの人って、ほんとビールが好きよねぇ」
「バイエルン人の『命の水』だからな」
ドイツ各地で特徴あるビールが作られているが、中でもバイエルンは有名だ。州都ミュンヘンで毎年開催されるオクトーバーフェストと言えば、世界最大のビール祭りとして知られている。
「割り当てが少ないから、ドイツ兵1人に1本だけにさせてもらってるけど…、ハンスさん達なら2本づつにしとくわね」
「ふむ、愛人特権というわけか」
とジークムンドが、意味ありげにハンスを見てにやりとすると、
「うふふ、そーねぇ。愛してるわ、ダーリン」
エリザヴェータもまた、意味ありげに笑って離れていく。
ハンス1人だけ居心地悪そうに、白犬アドルフをなでて誤魔化している。
エリザヴェータがビールを用意のため店内に入ったのを見計らって、声のトーンを落としてハンスが言う。
「あんまり言うなよ。事情はジークにも言っただろ」
「偽装愛人契約のことか?」
「そう」
「なぜそんな話になったんだ?めんどくさいだけだろうに」
「仕方ないだろ。ドイツ兵から言い寄られたら、リーザの立場じゃ断りづらい。だから、俺の愛人って事にしとけば、手は出しにくいだろ。魔除けみたいなもんさ」
ドイツ兵用の酒場として、エリザヴェータの店を再開させることが決まった時、1番の問題がそれだった。
エリザヴェータは鮮やかな金髪に透き通るような白い肌、深い蒼色の瞳といかにもドイツ人好みの美人だ。酒場で酔ったドイツ兵が立場の低い彼女に、無理矢理不埒な行為に及ぶことは充分にあり得た。
そのため、事前にドイツ将校の愛人だと宣言しておけば、下士官以下では手を出す輩はいなくなる。これでもハンスは空軍少尉なのだ。
アドルフを貸し出しているのもその一環で、空軍基地内でハンスの飼い犬として有名な白犬が店にいれば、「ハンスの女」ということが視覚的にもわかる。
またしつこい言い寄りや「おさわり」なども、エリザヴェータからでは「やめて」と言いづらいが、アドルフが唸り声をあげ吠えたてれば、「分かった分かった、そんなに吠えるなよ」と頭かきかき撤退するのがほとんどだ。
魔除けというか、ドイツ兵除けなのがアドルフであり、「ハンスの女」説なのだ。
「俺がいいたいのはそこじゃないんだがな…」
ジークムンドはジッとハンスを見る。
「なんでわざわざ偽装にしてるのかってとこだ」
「言ったろ、リーザには旦那がいるんだぜ」
「そんなの、普通だろう」
占領が長引くにつれ、ドイツ将兵と現地女性がねんごろになるのは珍しい話ではない。
ドイツ兵は女性に飢えているし、ロシア女性も占領軍に媚を売って食料や必要物資を融通してもらうためだ。
スタヤラ=ルッサは軍と住民の関係が良い分、結構大っぴらに行われている。
そして、その大半が人妻だ。寡婦の場合もあるが、夫をソ連軍に半ば強制的に徴収されて街にいないため、家族を食べさせるためにも必要なのだ。ジークムンドの言い分はもっともと言えた。
「ハンスだってその気がないわけじゃあるまいに。足繁く通ってドイツ語教えてたし、この店の出店にも力を貸していただろ」
「まあ、なあ」
「女の方の気持ちもあるが、普通に愛人にしてなんの問題がある?」
「それは、そうなんだが…」
ハンスにしては、歯切れが悪い。
「言いたくないなら無理にはきかんが」
エリザヴェータがビールを持って来るのを横目で見たためか、ジークムンドは追求を切り上げる。
「おまちどうさま」
にこやかな顔でビール瓶と陶器のジョッキを2人分、テキパキ並べていくエリザヴェータ。
「お、きたきた」
「つまみは何にする?すぐできるのはチーズ《ケーゼ》か、キャベツの
「ザワークラウトがあるのか!」
「自家製だから、本場のものとは違うと思うけど」
「いい、いい。そいつらを頼む」
ザワークラウトはドイツ料理の定番だ。地域や家ごとにそれぞれの漬け方があり、ロシアを含めた東欧地域にも広がっている。
「後はどう?そんなに何でもはないけど」
「肉系のつまみは何がある?」
と、これはハンス。
「んーと、鹿肉の燻製がまだあったかな。あとはウィンナー《ヴルスト》も、少しだけど」
「おいおいおい、ほんとにここはロシアか?ビールにケーゼにザワークラウト、それにヴルストだと?バイエルンに帰郷しても、今時口にできるか分からん」
ドイツ国内では戦時体制の下、すでに何年も前から食料の配給制が行われている。金があっても配給券がないと手に入らない。ジークムンドが驚いた声を上げるのも無理はないのだ。
「じゃあ、ヴルストを出せる分だけ頼む。代金は後でまとめて払うから」
「大丈夫。信用してるから。ハンスさんならね。じゃあ、準備してくるわねぇ」
そういって、手をひらひらさせながらエリザヴェータは卓を離れていく。
「なるほどなあ…」と、ジークムンドが感慨深そうに言う。
「ここのところ、パイロット連中が毎日のように街に繰り出しているのも無理ないな。ビールや故郷の料理が、これだけ揃うんだからなぁ。ヴァイツェンビールだぜ、これ」
ビール瓶のラベルを見ながら、嬉しそうに顔を綻ばせるジークムンド。
「ジークは、こうなってからは来たことないか…。整備士は忙しいもんなぁ」
操縦士は生還すれば仕事終わりだが、整備士はそうではない。出撃前の入念な準備や、帰還後にもチェックや時には修理が必要になる。手が空いている時には、他機の整備にも駆り出される。
加えて、つい最近までは火当番があった。
この地の真冬に、飛行機を格納庫に入れずに一晩置くと、潤滑油も凍結、膨張してゴム製のチューブをズタズタにする。そうなれば半日は飛べなくなる。
そして、地方都市にすぎないスタヤラ=ルッサの飛行場には格納庫がほとんどない。なので、駐機した軍用機全てにシートを被せ、エンジン下で焚き火缶を置き、それを整備士全体で時間を決めて夜通し火当番をするのだ。
それも、寒冷地用の凍結しにくい潤滑油の供給や、何より零下の夜が減ったことでなくなりつつあった。
「整備の大変さを分かってくれるなら、それでいいさ」
そう言いながらビールをジョッキに注ぐジークムンド。ハンスもそれに続く。
「…っくぁ〜」「あぁ〜」
一気にジョッキを空け、思わず声が洩れる。空にはまだ高い太陽。
最高の瞬間だろう。
「行政委員様々だよなぁ」
「あの人も、見た目は冴えない小役人だが、なかなかどうして」
「この前会った時も、忙しそうにしてたなあ。保養地化ありがとうってお礼言ったら、いえいえ私だけの力ではありませんのでって、恐縮してたわ」
「腰も低い。ナチスの息がかかった尊大な役人ばかり見てきたから、新鮮だよ。いい街になった」
「
行政委員の名前をもじって、ハンスが軽口を叩いた。
♢♢♢
シュワルツベルク行政委員は、最初からスタヤラ=ルッサをドイツ軍のための保養地にしようとしていたわけではなかった。
だがデミャンスクへの空輸が終われば、住民への積荷作業の対価としての食料支給もできなくなる。攻防戦の行方がどうなるか分からない2月の頃から、行政委員は密かに動いていたようだ。
スタヤラ=ルッサは鉱泉が湧くこともあり、ロシア時代から湯治場で知られていた。そのため湯治客用の宿泊施設が多くあり、エリザヴェータが経営するような飲食店も街の規模にしては多い。小さいながら賭博場もあるのだ。
なんとかこれらの施設を利用できないか、とダメ元で軍や上層部にドイツ兵向けの保養地としたいと申し出た。
これに北部方面軍が乗ってきたのだ。
41〜42年にかけてのソ連軍の冬季攻勢を「撃退しつつあり」と評価していた
となれば、北部方面軍にはろくな増援もなく、現状の過少な戦力で長大な戦線を維持することが求められる事になる。
長期にわたる防衛戦となれば、懸念があるのは兵の士気だ。
一般に、攻勢中や戦闘中はアドレナリンが出て士気を保ちやすい一方、いつ攻めて来るか分からず防衛陣地に張り付くことが多い時は、疲労と共に士気は徐々に落ちていく。少ない兵力で守らなければならないからこそ、兵には定期的に休暇を与えリフレッシュさせた状態にしておく必要があった。
だが、ロシアとドイツ本国は遠い。
1週間休暇を与えたとしても、行き帰りの移動で半分消化されてしまうし、休暇中に大規模攻勢が起こり、非常召集をかけても戻るまでに時間がかかる。なんとか戦線にたどり着いたら自分たちの防衛拠点は陥落してた、なんて事にもなりかねない。
しかしそれらは、前線近くに保養地があれば解決できる。
かくして軍と占領省の合同事業として、スタヤラ=ルッサの保養地化は進められる事になった。
ドイツ兵向けの宿泊場、飲食店、湯治場などで働きたいロシア人は、形式的には占領省の庸人となり、ドイツ側が決めた価格でサービスを提供する。飲食店などで使われる食料や物資も占領省が提供する。
働くロシア人にはいくばくかの賃金が支払わられ、サービスを受けたドイツ兵数に応じて歩合でも金を得る。街ではドイツの
エリザヴェータはもちろん、多くの住民が庸人募集に申込み、働く事になった。
簡単な会話ぐらいはできた方がいいとして、甥のシュワルツベルク補佐官によるドイツ語講習には多くの住民が参加したことからみても、住民も前向きに参加していることがわかる。
エリザヴェータにはハンスがマンツーマンで教えた。「勉強、嫌いなんだよ〜」と泣き言を言いつつも、やはり店を開くという目標があるのは大きいようだ。めきめき上達し、最近は他のロシア人に教えるぐらいまで話せるようになった。
こうして順調に進んでいた保養地化計画だが、北部方面軍から横やりが入った。
従軍娼婦と娼館の設置を強く要求してきたのだ。
シュワルツベルク行政委員は困惑した。
第一に、スタヤラ=ルッサの住民の多くはすでにそれぞれの場所で働く事になっており、娼婦の当てがつかない。
第二に、それを党が認めてくれるのか?ということだった。
ナチスといえば、今では極右、過激な民族政党という印象が強いが、政権をとりにいくころのナチスは民族政党色を抑え、清廉なイメージを前面に出していた。
党首ヒトラー自体、酒もタバコもやらず、女性や金にも淡白な性格で(ヒトラーは著書『我が闘争』の印税で、かなりの金持ちだった)、実際ナチスの政策よりヒトラーのパーソナリティの部分を評価して、票を集めていた面もあったのだ。
そんなナチスの性格からして売買春厳禁となるのは自然で、党所属の女性を動かして娼婦撲滅運動を企画したこともあった。シュワルツベルク行政委員の心配は当然と言えた。
だが軍は強硬だった。
古来より、生死を分ける戦場にいる者は本能的に自分の血を残そうとするのか、性的欲求が強まるのは知られていた。戦士に娼婦は付き物なのだ。
だが、ナチスの方針でドイツで娼館は作りにくくなっていたし、元来大っぴらにできることでもない。妻や恋人がいる者ばかりではない兵士の不満はくすぶっていた。
だがナチスが独裁政権を得てから10年近く。異を唱える者を容赦なく収容所送りしたナチスは「女は男の付属物」といった男尊女卑のホンネを見せ始めていたし、占領下のフランスでは娼館まがいの施設もできているという。
今ならいけると、軍上層部は考えたのだろう。
娼館を作るためなら、できる努力は惜しまないと全面協力を申し出されては、一役人にすぎないシュワルツベルクが断れる話ではない。せいぜいいくつか条件をつけるぐらいだ。
娼婦の当てがつかないので、他の占領下の町で募集をすること。
占領省の人員も足りないので、医師を含めた専門スタッフを補充すること。
娼婦も占領省の庸人になるので、手荒に扱わないこと、意に沿わない変態的行為をしないこと、行為の際には必ず避妊袋をつけること。
それらの条件を、軍は全て飲んだ。
軍需省や経済省にも根回しして、『スタヤラ=ルッサにおける将兵の慰問のための物資の、特別なる配慮について』なる通達書を出させることまでしてくれた。
こうしてスタヤラ=ルッサ保養地化計画は、当初より大きな規模となって実現したのである。
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