第2話 5月 ホルム市街(午前)
デミャンスクの攻防戦後、北方戦線の独ソ両軍の目は自然とホルムに注がれた。
デミャンスクで大魚を逃したソ連軍将からすれば、このホルムでも失敗したとなれば独裁者スターリンの機嫌がどうなるか、想像するだけで恐ろしい。
檄を飛ばして、デミャンスク方面の部隊を急遽ホルムに回し、容赦ない猛攻撃を加えた結果、市街突入に成功、ホルム東部はソ連軍が確保していた。
ドイツ軍上層部としても、ほぼ諦めていたホルムが5月まで持っているのは嬉しい誤算であったし、ここまでくればこのまま確保したいと思うのは人情であろう。
市街に流れるロヴァチ川を挟んでなんとか西側にしがみついているシェーラー戦闘団を救うべく、ソ連包囲陣を破る部隊が既に攻勢を開始していた。
ソ連軍がホルムを落とすのが先か。ドイツ軍がソ連包囲陣を突破するのが先か。
「
♢♢♢
「うわぁ、こんな時間から始まっちゃってるよ…」
ホルムから立ち上る硝煙と鈍い爆発音を目と耳にしたハンスから、そんな声が漏れる。
「まだ7時ぐらいだぜ…。朝飯も食わずにご苦労なことで」
5月になると、この辺りの日照時間は劇的に伸びる。
4:30ぐらいに日の出を迎え、夜は21:30に沈むのだ。17時間ぐらい太陽が出ていて、薄明薄暮も長い。
2月あたりなら日の出9:00、日の入り17:00だから、この冬から夏に向かう時期の3ヶ月は日々長くなるのが実感出来る。
この長い日照時間を生かし、ソ連は部隊を交代させながら毎日長時間の攻勢をかけ、補充部隊のないホルム守備隊を疲れさせ、追い詰めていた。
もっともそれはドイツ軍も同じで、ホルム援軍は錐で穿つ様に着々と歩を進めていた。
第一ハンスとて朝早くから活動していて、日の出直後に既に一度、ホルムに補充兵を運び入れていた。
市内半ばまで制圧されているホルムに補充兵を運ぶのは、シュトルヒでも容易ではない。低速で着陸体制中のシュトルヒはソ連軍の歩兵から撃たれやすく、あちこちに小銃痕が開く。
基本的に装甲がないため、下から小銃で撃たれて足や尻を負傷するのは、シュトルヒ乗りあるあるなのだ。
もちろん、そんな目に遭いたくないハンスなので、まだソ連軍が眠りこけている時間帯に行ったのだが、それでもぱらぱらと撃たれた。
でもまあ、朝食前ならまだ激しい戦闘はないだろうと、空きっ腹のまま来たが甘かった様だ。それだけソ連軍も追い詰められているということか。
「旦那方ぁ」
振り返りもせず、ハンスは後席の補充兵2人に呼びかける。
「この時間ならまだ大丈夫かと思ったんですが、見ての通りホルムはすでに魔女の釜状態ですな。このまま突っ込みます?」
多少の間があってから、低い声が返ってくる
「…少尉殿の判断にお任せします」
予想通りの返答に、軽くため息をつくハンス。
ぶっちゃけ、こんな戦闘中に着陸なんてしたくない。
だが、ホルムのシェーラー戦闘団からは矢の様な補充要請が来てるし、司令部からも出来うる限りの着陸を命じてきている。
補充兵たちが着陸を嫌がれば、じゃあ仕方ないよねーも可能だが、ここのところの補充兵である降下猟兵たちは、「御命令のままに」と平然とこの地獄に進んでいくのだ。
降下猟兵は本来パラシュートを使って敵後方に降り立ち、後方切断や拠点確保を行う兵種だが、クレタ島降下作戦で大損害を受けた以降は降下任務はなくなっていた。
だが、軽武装で戦うことが基本となる彼らは小銃戦闘のエキスパートであり、ホルムの様な小規模拠点防御には最も適した兵種と言える。
実動兵力が1500くらいまで落ち、本来なら後方送りの負傷兵にまで銃を持たせているらしいシェーラー戦闘団からすれば、ベテランの補充兵は1人でも2人でも欲しい。
そして、こんな極限の戦闘が当たり前の降下猟兵にとって、ホルムに降り立つことも厭わないのだ。
突き詰めれば、彼らは真面目なのだろう。真面目に命令に従い、真面目に何の疑いも持たず、人を殺す。
戦争にのめり込めないハンスとは、根本の部分で合わないのだ。
もう一度、軽く(後席に聞こえないくらいの)ため息をつくと、あえて明るくハンスは答える。
「ほんじゃまあ、強行着陸しましょうかねぇ。ちょいっと振り回しますがしっかり掴まっててくださいよ」
ハンスは操縦桿を斜めに倒す。機体が45度ぐらいに傾き、旋回する。
通常の低速低高度の着陸では包囲しているイワンから狙われることが必至だ。実際、シュトルヒ3番機は着陸体制中にいつの間にか運び込まれていたソ連軍の対空砲火の餌食となり、補充兵もろとも撃墜された。2日前の事だ。
それを避けるため、ケトル状のドイツ支配地から外れないよう螺旋状に旋回しつつ降下していく。旋回能力の高いシュトルヒだから出来る技だ。
急角度で旋回するので、乗り心地は最悪だが。
やがて着陸場所が近づいてくる。砲撃と埋め立てを繰り返した、滑走路というのもおこがましい平らな大地だが、ダンパーのあるシュトルヒなら充分に着陸できるレベルだ。
「さぁて、着陸しますぜぃ」
機首を起こし、速度を落として着陸姿勢へ。
タッチダウンの後は惰性で右旋回させ、すぐに飛び立てる方向に機首を向ける。
「着きました!旦那方!」
こういう場合の別れ言葉は「ご武運を」が定番だが、ハンスは自主的にこの言葉を使ったことはない。言わされた事はあるが。
「感謝しますっ‼︎」
降下猟兵たちの動きは速い。素早くシートベルトを外し、風防やハッチを開けて小銃片手に機外に飛び出す。
この間、大体30秒ほど。何も言わなくても風防を閉めて去っていくところも手慣れている。
あっという間に、廃墟としか見えないドイツ軍防衛拠点に消えていった。
「後は無事に逃げ出すだけか」
アイドリング中のシュトルヒ内で1人呟く。
だが、ドイツ軍機がホルムに入ったことはソ連軍にもはっきり見られている。
ハンスの呟きが聞こえたわけでもないだろうが、離陸などさせんとばかりに、雷鳴のごとく飛んでくるソ連の猛砲撃が滑走路をほじくりかえす。
「やべえな。イワンの砲台、増えてるわ」
前よりも、斉射規模が格段に大きくなっている。反応も速い。比較的近い砲弾が跳ね上げた土が、ぱらぱらとシュトルヒに降りかかる。
チラッと滑走路脇の飛行機の残骸に目がいく。
3日前、着陸したもののまごまごしているうちに滑走路を潰され離陸出来なくなって、砲撃で地上破壊されたシュトルヒ2番機だ。
パイロットのシュタイン上級兵曹は間一髪逃げ出し、シェーラー戦闘団に加わったようだが、銃を撃つことさえ稀な空軍パイロットがどれだけ戦力になるか微妙だ。
もしかしたら、すでに冷たい
「今降りたところは、もう無理か」
さっきの斉射で大きな砲弾痕がいくつも開き、シュトルヒでもさすがに離陸不可だ。
ハンスはシュトルヒの駐機場所を動かしながら周りを見る。シュトルヒが離陸出来そうな、平らな直線場所はどこかないか。
時間をかければかけるほど、イワンの砲撃によって選択肢は狭まれる。
だが、むやみと焦ったところでいい結果を産むわけではないことも、ハンスは知っている。
「ここだな」
ハンスは一本の筋を見つけた。
かつては2〜3階の石積みの建物があり、今は1階にも満たない廃墟となってるホルムの街並みに沿った道路。建物が防弾の役目を果たしていたためか、凹凸は少ない。
だが、その先には廃墟でありドイツ軍防衛拠点にもなってる建物の残骸が障害物になっている。
この短い離陸距離で、あの廃墟を超えられる高度を得られるか。
「でも、やるしかねぇな」
決断すれば行動は早いハンスだ。どうにかなるわな、という楽観的性格も後押しする。
シュトルヒを郊外の畑にまで動かし、出来るだけ離陸距離を取る。
包囲しているソ連軍の狙撃兵からなのか、1〜2発の小銃がぷすぷすと機体に撃ち込まれる音がする。
「痛ぇな、コラ」
もちろんハンスに当たったわけではないが、愛機が傷つくことを本人の苦痛と感じる飛行機乗りは多い。シュトルヒ大好きのハンスはその典型だ。
口では罵りながらも、スロットル全開するハンス。
高馬力のエンジンが咆哮し、身体を座席に押し付けるGを感じつつ、スピードが上がる。
どんどん廃墟が目の前に迫り、機首を返したくなる。が、我慢。
廃墟にいるドイツ兵が、味方軍機が背後から迫ってくることに気が付き、振り向いて大きな目を開けている。
「いけぇっ!」
目一杯操縦桿を引くと、ふわっと機体が浮く感覚がある。次の瞬間、ガッと上に突き上げる衝撃。
大きく突き出たシュトルヒの固定脚が廃墟の石材に当たり、それをちょうど足場のようにして跳ね上ったのだ。
バランスは崩したものの、これで高度は稼げた。
驚くドイツ兵を眼下に、廃墟を飛び越えていくシュトルヒ。
次にハンスの目に入ってきたのは、戦車を前面に、川を押し渡ろうとする視界いっぱいのソ連軍。
「げげっ!」
一難去ってまた一難。螺旋降下の時から分かっていたが、イワンはかなりの規模で攻勢をかけていた。その上空を覆いかぶさるかのように低空で飛んでくるドイツ機。
突然の出現に、一瞬行動が止まったソ連だが、次には小銃や車載機銃で無防備なシュトルヒの背面に向けて猛烈な射撃。
「痛て痛て痛て痛てっ!!」
無数の銃弾が装甲のないシュトルヒを貫通していく。ハンスの右脇を通った銃弾が上の風防に当たり、防弾ガラスにひびが入る。
長く思えたが、所詮は小さい街だ。シュトルヒはソ連部隊の上、そしてホルムをあっという間に通り過ぎ、近くの森林上空へ。
ハンス自身は奇跡的に無傷だ。シュトルヒは…機体はズタボロだが、燃料タンクや主要機関も無事っぽい。装甲のないシュトルヒも、タンクなどには防弾を施しているためだ。
「…昇降舵の効きが悪いな」
あれだけ撃ち込まれば、やはり異常なしとはいかないようだ。他にも何か…。
と、急に眼下の森林が開けた。
森林を切り開いて作った、ソ連軍の砲撃陣地だ。網らしきものでカモフラージュされており、低空じゃないとなかなか見つけにくい。上半身裸の汗だくで砲弾を抱え、驚いた顔のソ連兵と目が合う。
その近くには複数天幕が張られており、入り口にいた上級将校らしい軍服の男が、こちらを指差して何か怒鳴っている。奥に土嚢に囲まれた対空砲も見つけたが、ラッキーなことに銃座に人がいない。
一瞬のうちにそれらを目に留めたハンスは、そのまま増速してフライバイする。
「なんか、やべえもん見つけちゃった感じ…」
隠されていたソ連軍の砲撃陣地、しかも司令部付きらしい。
もし後席がいたら、すぐ空軍司令部に無線飛ばして、Ju87
前席に無線がないため、場所を知らせるにはハンスが無事帰投して場所を報告する必要がある。
「……めんどくせぇな、ぶっちゃけ」
報告するとなると、場所を確定するため根掘り葉掘り訊かれることになる。
イワンもバカではない。
見つかったことがわかればすぐに移動を始めるだろうし、このままハンスが敵陣地を迂回して基地にたどり着き、場所を確定して、攻撃隊がたどり着くまでにいそいでも2〜3時間はかかりそうだ。もぬけのからという可能性も高い。
「まあ、なんにせよ俺が無事に帰り着くのが先だわな」
報告するかどうかは帰投してから考えりゃいいか、と先送りした。
結構、ソ連支配地内に踏み込んでいる。ズタボロな今のシュトルヒでは、敵機の追撃から逃げられる保証はない。無理な機動をすれば機体が持たないかもしれない。
ハンスはゆっくりとシュトルヒを旋回、ソ連軍の希薄そうな地域を低空低速で目立たぬように進路をとった。
結局、大きく迂回してスタヤラ=ルッサに着いた時には、たっぷり1時間はすぎていた。
ソ連の砲撃陣地のことは言わず、大小20以上の弾痕が刻まれた愛機を改めて見て、ハンスは涙した。
これではもう今日の出撃は不可能であるため、その後はシャワーを浴びて、遅い朝食を取り、そして寝た。
今日を生き延びられたことを実感しながら。
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