2章 1942年4月〜5月 第1話 4月スタラヤ=ルッサ郊外
高緯度内陸部のスタラヤ=ルッサ一帯でも、3月半ばには零下を超える日が出るようになる。
4月になれば雪解けの季節が到来し、貧弱なロシアの道は泥土と化す。
その影響はドイツ・ソ連両軍に及ぼすものだが、空輸を多用しているドイツ軍より、大軍で包囲陣を構成しているソ連軍の方がより大きく、各所で物資不足に陥っていた。
これを見越していたドイツ北方軍司令部は、3月下旬からスタラヤ=ルッサに部隊を集め、ここを拠点にデミャンスク解囲のための攻勢を開始した。
包囲から3ヶ月。デミャンスク攻防戦は最終局面を迎えていた。
♢♢♢
1ヶ月違うだけで、ロシアの空は大きく変わる。
重く垂れ込めていた雲は薄くなり、ところどころには青空も見え隠れする様になってきた。
地上も同様に、くすんだ雪色の中に焦茶の筋が何本も通る。人や車が通る道は、溶けた雪と土が混ざり合ってどろどろになり、それが上空からは筋の様に見えるのだ。
とは言え残雪もまだまだ多い。人の通っていない場所や茂みは白いままで、時折姿を見せる鹿たちが、シュトルヒのエンジン音を聞きつけ顔を見上げて、ハンスと目が合ったりしていた。
「見つかりませんねー」
今日、というかここ2週間ほどのハンスの後席はウェゲナー陸軍上等兵だ。やや浅黒い肌に黒髪、小柄で歳はハンスとほぼ同年代の着弾観測兵である。
「そう簡単に見つけられたら世話ないわな。偽装させる時間はイワンだってたっぷりあっただろうし」
ハンスも、空中3地上7の割合で周囲警戒の視線を飛ばしながら答える。敵機と地上目標の索敵のためだ。
「鹿はかわいいんですけどねー」
ウェゲナーはのんびりと言う。
もちろん2人は、鹿見物のためにシュトルヒを飛ばしているわけではない。
デミャンスク解放に向けての突破作戦が始まって10日余り。
作戦は順調で、スタラヤ=ルッサのほぼ真東にあるデミャンスクへ、ドイツ軍は幾重にも築かれたソ連の防御ラインを玉ねぎの皮を一枚一枚剥ぐように、すこしづつだが確実に切り崩していた。
手持ちの戦車部隊が少ない北方方面軍だったが、優勢な空軍と温存された重砲部隊の支援をうけ、ソ連軍の援軍も足止めしながら無理せずに陣を進めていく。
ハンスたちシュトルヒ小隊も連日出撃を命じられ、偵察や着弾観測に駆り出されていた。加えてホルム往復便も行なっているのだ。働かせ過ぎだよ、とは思うが出撃がなくなるわけではない。
だが、今日の出撃は軽いものだ。好調な作戦進展のため、前線との距離が空きすぎた重砲隊の陣地前進が必要になり、主攻部分での戦火は下火になっていた。
そこで、ハンスはすでにドイツ支配地となった突出部の北側の偵察と、敵の防御拠点の索敵を命じられた。
このまま順調にデミャンスクの友軍と邂逅できれば、この突出部はそのまま補給路回廊として維持される。そうなれば再びソ連軍が補給路切断のため攻撃をしてくることは充分に考えられる。
ならば、戦力有利の今のうちにソ連軍の防衛拠点を潰せればそれに越したことはない、として、移動のない砲兵隊の「目」となって敵を探していた。
とはいえ、最前線の厳しさとは雲泥の差だ。
ドイツ軍はソ連の対戦車砲や地雷で被害を出し、ソ連軍は重砲やJu-87《シュトゥーカ》爆撃機で吹き飛ばされる。シュトルヒも天敵と言える対空火砲に付け狙われたり、決死のソ連軍機が突っ込んできたりと一瞬も油断ができない。
それに比べれば、戦力希薄地で雪に埋もれたソ連軍の
「あそこ、あやしくないですかー?右前方の廃屋のとこですー」
後席のウェゲナーが声を上げる。
言われた所をハンスが見下ろすと、3軒の廃墟が見える。そのうち2軒は完全に屋根が焼け落ち、石積みの壁が剥き出しとなった屋内に焼けた建材が落ち込み、それに雪が積もっていた。もう1軒は牛舎だろうか、やや大きくて平べったい家屋に雪が積もり、1/3ほどの屋根が落ちて穴を開けている。
「あやしいか?」
もともと農村地帯らしいこの辺りでは、このような家々が点在している。戦争で放擲されていることも含めてだ。
確かにあの牛舎のような小屋は、対戦車砲を隠すには充分だが、いかにも過ぎる。
「あの平べったい家屋の南側、人の足跡で踏み荒らされているように見えませんー?」
「んー、どうだろう?」
確かに掘り返されて焦茶の土は見えている。だがそれが人によるものかはわからない。野生の鹿のものかもだし、何らかの自然現象で雪溶けが進んだためかも知れない。
「もっと低く飛んでもらえますかー?」
「それじゃ、まあやるだけやってみるか」
ウェゲナーは上等兵だが、少尉であるハンスにも物おじしない。まあ、陸軍と空軍の違いがあるため厳密な上下関係ではないのだが、それでも普通なら階級差が気になるものだ。
もっとも、ハンスも肩肘張らない関係を好んでいるため、あえてウェゲナーを後席に指名している面もあったりする。
ハンスは操縦桿を下げ、シュトルヒを降下。スピードも落とす。
雪解けの大地から30mくらいの高度で時速70kmまで落とし、小屋の上をフライバイ。
落ちた屋根から中を覗くが、降り積もった雪が見えるのみだ。
一度小屋から離れ、ゆるりと旋回してもう一度小屋の上を飛行すると。
「出てきたっ」「ありましたねー」
ハンスとウェゲナーの声がかぶる。
小屋の奥からひょいと顔を見せる、ソ連軍の軍服を着るひげの男。
その先にはさっきは見つからなかった、冬季迷彩で白く塗られた対戦車砲の砲架らしきものも、角度の関係からか視界に捉えられた。
「エンジン音が遠ざかったのを聞いて、思わず顔を出しやがったな」
「暗い屋内に白い迷彩は、逆に目立ちますよねー」
ハンスがシュトルヒを上昇させている間、ウェゲナーは機載無線のスイッチを入れた。
「こちらシュトルヒ1
ちなみにドナーは砲兵隊の符牒である。
『こちらドナーフィーア。シュトルヒアインへ、感度良好』
7~8秒のタイムラグを経て無線が答える。
「こちらシュトルヒアイン、敵の対戦車拠点発見。場所は…」
あらかじめ決めておいた地図上の地点から、目測で距離を測って砲兵隊に伝える。
『こちらドナーフィーア、了解。一発試射する。シュトルヒアイン、退避せよ』
言われなくても、ハンスはすでに距離も高度も取っている。目標の小屋はかなり小さくなる。
そしてたっぷり1分は飛行した頃、風を切って一発の砲弾が飛来。雪と共に土を吹き飛ばす。
「こちらシュトルヒアイン。遠い。ドナーフィーアへ、北に250m、西に170mに修正」
無線では聞き取りやすくするため、言葉を最小限にして伝えるのが基本だ。
『こちらドナーフィーア、了解。シュトルヒアイン、1分待て』
1分後に再び砲弾が一発。それの場所をみてウェゲナーが距離を修正し、砲兵隊に伝える。
こうして目標に近づけていくのが、着弾観測機たるシュトルヒの本業である。器用貧乏で色々駆り出されているが。
こうして数回のやり取りの後。
「こちらシュトルヒアイン。至近弾。その前の弾の東で夾叉」
見ると、小屋の東の数mに砲弾穴が出来ていた。さらに西側10mにも砲弾痕。このように挟み込んで着弾することを夾叉といい、次の斉射では命中弾を得やすい。砲撃におけるリーチと言える。
「ちょっと待った!」
不意にハンスが声を上げた。
「どうかしましたー?」
ウェゲナーは一度無線から手を離す。
「下見ろよ」
見ると、小屋から数人の人影、多分ソ連兵が飛び出し、雪原を逃げていた。
「夾叉されて、もうダメだぁーってなったんですかねー?」
「多分な。だからさ」
「またですかー。ほんとにもう、敵に甘い少尉殿ですよねー」
あきれたようなウェゲナーの声が響く。
『こちらドナーフィーア、シュトルヒアイン、何かあったのか』
急に無線が切れた事に、不審に思ったらしい砲兵隊の着信が入る。
「こちらシュトルヒアイン、問題ない。ただ咳き込んだだけだ」
ウェゲナーはさらっとごまかす。
「前弾と前々弾が東西で夾叉。ドナーフィーア、全力で斉射」
『こちらドナーフィーア、了解。一回でしとめる。シュトルヒアイン、充分に距離を取れ』
「ごまかしてもらって悪りぃな」
シュトルヒを操作しながらハンスが言う。
「ほんとですよー」
ウェゲナーののんびりとした口調からは、怒ってる感じはしない。
「どうせ、逃げる敵兵を砲撃で巻き込みたくなかったんでしょー?」
「さすが、よく分かってる」
「逃げる敵は叩く、が戦争の基本なんですけどねー。逃した敵がまた武器持って殺しにくるかも知れないしー」
戦う気がない逃げる敵を倒す事ほど簡単なことはない。戦争で追撃が重視されるのはそのためで、敵兵力を大きく削ることができる。逆に言えば、会戦で勝利しても相手に整然と後退されてしまっては、勝利の意味は薄れる。味方の被害も大きい。
さらに言えば、軍が包囲を狙ってくるのは、敵の後退を許さず確実に殲滅できるためだ。
それはハンスだって分かっている。だが。
「戦争なんて、真面目にやるもんじゃねぇだろ」
すねた子供のような声を上げるハンス。
人死を見るのが、とにかく嫌なのだ。
戦争だからとか、国のためとか。やらなければこっちがやられるとか。
様々な理由を挙げて人殺しを要求されるが、面従腹背、聞いたふりしてやり過ごしているのがハンスだ。
飛行学校の同期の多くが戦闘機乗りを希望する中、充分な飛行技量のあるハンスが偵察機乗りを志願したのはそのことも大きい。
「そんな言葉、野戦憲兵に聞かれたら、営倉入りですよー」
「後席が告げ口しなきゃ大丈夫だろ?」
「もー、まったく。そうやって巻き込まんでくださいよー。こっちは平穏に生きていたいだけなんですからー」
そんな事は言うものの、ウェゲナーもまた積極的に敵を殺したいと思っているわけではない事は、この2週間の付き合いから感じていた。
事実、今だってイワンが逃げ去ることを黙認した訳だし。
渋々戦争に加わっている兵士は少なくないのだ。
と、符牒通り雷鳴のような響きと共に砲弾が飛来する。
次の瞬間、思ったより大きな火柱が上がる。瞬間遅れて大きな爆発音と風圧がシュトルヒをガタピシと揺らす。
堆積されていた敵砲弾に誘爆したのだろう。
平小屋は完全に吹き飛び、横の廃屋も原型をとどめていないくらいに破壊された。敵の対戦車砲は爆風で飛ばされたようで、ひっくり返って残骸を晒していた。
「こちらシュトルヒアイン。命中、命中。敵砲は破壊された」
『こちらドナーフィーア。了解。こちらからも火柱が確認できた』
あの爆発なら、砲兵隊からも目視できても不思議はない。
と、ハンスの視界の端に動くものを捉えた。
「後席。左手前方やや斜め奥に、ソ連兵が見えるか?」
ハンスが見たのは、白迷彩のソ連兵数名が雪の上を埋まり転びながら、森の方へ逃げていく絵だ。
平小屋のソ連兵ではあり得ない。時間も経っているし、場所も離れている。ならば。
「あれあれー。確かに別口のイワンですねー。どこから出現したのでしょー?」
「あいつらの足跡を辿ってみな」
「なるほどー。雪丘に不自然な四角穴がありますねー」
「雪と倒木にうまく隠されてるが、あの辺りにあいつらのトーチカがあるんだろうな」
「仲間の砲台が破壊されて、次は自分たちだーってビビっちゃったですかねー?」
「そんなとこだろう。臆病風は吹いたらなかなか止められん」
戦争は人間がするものだ。どんな大軍であっても、地の利を得てても、兵士たちの士気が下がって逃げ出すようでは何の意味もない。
しかも、臆病は伝染する。
「死にたくない」というのは、生命の本能とも呼べる根源的な欲求であるため、一部でも逃げるものが出ると、動揺が広がって多数が逃げ出すようになるのだ。
各国の軍隊が敵前逃亡を銃殺としているのも、死の恐怖は死の恐怖でしか抑えられないからだろう。
「こちらシュトルヒアイン。ドナーフィーア、新たな敵拠点を発見。場所は先ほどの目標から見て…」
ウェゲナーの無線を聞き流しながら、ハンスもシュトルヒをゆっくり旋回させつつあたりを見回す。
俯瞰すると、先刻潰した平小屋の拠点と、今さっき敵兵が逃げ出してきたあたりにあるであろう拠点とは、互いに補完し合う関係だということは想像がつく。
敵兵が逃げ出したあたりは平小屋よりほぼ45度の角度で北西4~500mのところにある。
西から東へ攻め登るドイツ軍からすれば比較的目立つ平小屋を警戒し、さらにそこから攻撃があれば戦闘車両の砲身はそちらに向く。だがそれはもうひとつの拠点に側面を晒す事になり、知らずに踏み込めば痛撃されること請け合いだ。
この手の十字砲火陣地を構築して敵を殲滅(軍事用語ではキルゾーンという)するのは防衛の基本であり、だからこそ、平小屋をやられたイワンがビビって逃げ出すのもわかるのだ。
場所はバレている。次はここだと。
味方の砲弾が着弾する。
雷鳴如き音と共に雪や土、倒木などが吹き飛ばされる。
踏み散らかしたイワンの足跡から推測しての攻撃であるので、早々に斉射が行われたようだ。絨毯砲撃、というには野砲の数が少ないが、はっきりした位置がわからない場合は拠点を探り当てるためにも行われる。
「お、あれかな?」
2斉射目、吹き飛ばされた雪土の下から、人工的に組まれた木の遺構が見える。イワンがよく作る木製のトーチカのようだ。
「こちらシュトルヒアイン。ドナーフィーア、敵トーチカが剥き出しになった。今の場所で打ち込め」
『こちらドナーフィーア、了解。ここ潰したら一休みして飯にしよう』
「こちらシュトルヒアイン、了解。とっとと終わらせ、塩茹でじゃがいも《ザルツカルッフェン》いただきましょー」
ドイツ軍の場合、昼飯に温かいものが出されることが多く、量も多目で美味しい。ザルツカルッフェンが定番で、肉入りシチュー《ビーフグラーシュ》がつくこともある。
「ここの料理番、塩が薄いんだよなぁ」
ハンスがぽつりとつぶやくと、すかさずウェゲナーが言葉を拾ってきた。
「塩分取りすぎは体に良くないそーですよー」
「でも、俺ら肉体労働者にはもう少し塩を与えてもいいんじゃないかい?」
「塩もただじゃないですからねー。この内陸部じゃあ」
「ケチくせぇよなぁ、軍隊ってとこは」
「まあまあ、ネズミることでそれを補ってますけどねー」
取り止めのない話をウェゲナーとしているうちに、雷鳴と共に着弾した。
閃光と爆音。そして見事トーチカを破壊し、ねじ曲がった砲身が曝け出される。
「こちらシュトルヒアイン。ドナーフィーア、一撃で撃破した。これより帰投する」
『こちらドナーフィーア。了解。よい昼食を』
弾んだウェゲナーの声に、無線の声も心なしか楽しげに聞こえる。
昼食後、午後も出撃したが、釣果なしだった。
♢♢♢
4月14日、スタラヤ=ルッサとデミャンスクの直線上にある廃村ラムシェヴォで、ドイツ軍は会合した。
デミャンスクの包囲が崩れた瞬間であり、のちにラムシェヴォ回廊とドイツ軍が呼ぶ補給路から大量の補給物資と交代要員が送り込まれ、死守命令で疲弊したドイツ将兵と無事に代わることができた。
勝機が去ったことを理解したソ連軍の攻勢も下火となり、事実上デミャンスク攻囲戦は終結した。
デミャンスクを確保したことで、大きな犠牲を払いながらもドイツ軍の勝利と判定できる戦いではある。
だがヒトラーは自身が出した死守命令がデミャンスクを守ったのだと過信し、以後も死守命令を連発し、ドイツ軍の柔軟性を奪っていくのだが、それは別の話。
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