第5話 スタラヤ=ルッサ飛行場(夕刻〜宵)
「…なんて、呑気なことをいっていた、さっきまでの自分を叱りつけてやりたいよ、俺は…」
ガックリ肩を落としたハンスは、そう言って項垂れた。
「それが人生というものだよ、ハンス」
と、ハンスの肩にポンと手を置いたのはジークムンド=ミュンツァー空軍上級軍曹。
蒼い目に眼鏡。髭伸ばし放題の兵士が多い中、毎日しっかり剃っているので若く見えるが、実際はハンスより5つほど上だ。階級もハンスの下だが、シュトルヒの主任整備員という事もあり、口調は同輩に接するそれだ。ハンスもそっちの方が話しやすい。
「俺を働かせすぎじゃないか?上もジークも。なあアドルフ?」
そう言いながら、ハンスは足元でお座りしている白い犬の頭を撫でると、それに応えるように「クゥーン」と応える。なんて可愛いやつ。
「文句ならホルムの連中に言ってくれ。あっちからの至急電が原因だからな」
ジークムンドはすずしい顔だ。なんて憎たらしいやつ。
基地に到着するまでは楽しい気分であった。敵の襲撃から逃げ切り、オットーと飲む約束をし、今日一日生き延びたことを感謝した。
ランディングしてハンガー横にシュトルヒを着け、麻酔でずっと眠りこけていた後方の負傷者を運び、聴覚に優れた白犬アドルフがプロペラ音で判別して駆けつけてきた時まではよかったのだ。
が、ニヤついたジークムンドが近づいて来た時、嫌な予感がした。
「もう一仕事あるから」と急に言われ、「なんで俺が」と抗弁しても、下命されれば断れないのが軍隊だ。ここで冒頭のシーンに繋がる。
オットーもにわかによそよそしくなって、「じゃあ、お疲れ様っス」と離れていく。
「積荷はもう積んであるから。4番機に」
屠殺場に連れていかれる豚の気分で、とぼとぼとジークムンドについていくハンスに一応の説明がされる。
犬のアドルフは「僕のごはんはどこどこ?」と言った顔つきでくっついてくる。
「要求があったのは7.62cmの砲弾。
「ホルムにあったんだ、そんなやつ」
「さあな。無線は暗号だったから詳しくは分からん」
ドイツ軍ではすでに音声無線が一般化してるが、長距離発信は電力食うし、包囲下の街からでは傍受される危険が高い。ゆえに長短の符号の組み合わせで暗号化した電信で要求がなされるが、事前に取り決めていた単語(個数や種類、物資名など)しか伝えられないので、情報量は格段に落ちる。
そういやさっきの便で対戦車部隊の少尉を運んだから、あの陸軍少尉が見つけたか直したかしたか。
東プロイセン出身といった、髭面の人懐っこい少尉の顔が頭に浮かぶ。
「注文受けたのは砲弾だけだったんだが、それだけだとスペースに余裕ありすぎだろ?だから対戦車地雷やら爆薬やらを積んどいた」
「爆発物ばかりだろ。小銃一発で小太陽が出来上がるぜ」
「まあ、撃たれなければどうということはない。これだけ暗くなれば襲ってくる奴もいないよ」
「ついさっきの帰り道で、敵機の襲撃を受けたばかりなんだが?」
そんな事を言い合っているうちに、シュトルヒ4番機が駐機している場所に着く。
従来シュトルヒは空軍から陸軍の師団司令部や軍団司令部に1機づつ、装備や整備員を含めた人員も込みで派遣されて運用されていたが、こうした定期的な包囲下への輸送が必要な状態では、集中して運用する方が効率が良い。そこで急遽4機編成のシュトルヒ小隊が編成されている。
「ハンスしかいないのはわかるだろ。小隊長だし」
「こんな時だけ隊長の肩書きで呼ぶからなー」
小隊4人のシュトルヒ乗りのなかで、少尉のハンスが1番階級が高い。だからハンス機が1番機になるのは順当ではある。が、基本単機で行動するシュトルヒにとって、隊長など形式以上の意味を持たない。
「2番機はオーバーホールで後方に下がってる。3番機は入れ替わりでホルム途上。クルツ伍長が負傷休養中の4番機を今運転できるのは、お前さんだけなんだよ」
「ても、今日でなくてもよくないか?明日朝一でも…」
「至急電だって言ったろ。文句なら、無茶を引き受けた上の連中に言え」
「帰ってくる時には真っ暗だろが。着陸場所さえわかんなくなるぜ」
「焚き火缶を置いといてやるから。着陸経路に沿って点々と。お前さんの技量ならそれでいけるだろ」
「簡単に言ってくれるぜ。夜間の離着陸は神経使うんだからな」
灰色一色の冬のロシアは、ただでさえ地形の変化が乏しく昼でさえ機位を見失いやすい。夜ならば言わずもがなだ。
その意味でも、再軍備後の飛行学校第一期生で、飛行時間が最も長いハンスに夜間飛行任務が当てられるのは仕方ないのだが、納得できるかどうかは別問題だ。
でもまあ、軍隊など理不尽の
「ごめんなぁ、アドルフ」
ハンスはこれ見よがしに足元の中型犬の首に抱きつく。
「こんなに暗いのに、このおじちゃん、まだ働けっていうんだ。お腹空いてるだろうに、晩御飯お預けになっちゃったよ〜」
ホワイトシェパードのアドルフは、よくわかってないらしく「クゥン?」と首を傾げている。
「安心しろ。アドルフには俺から飯をあげとく」
ジークムンドの言葉に反応して、「ワォン!」と声を上げるアドルフ。
「アドルフ〜、なんでジークの言葉はわかるんだよー」
「食い意地の張ってる犬だからな。なんとなくわかるんじゃないか。もう半年にはなるし」
「バイリンガルの犬になっちまったか、お前」
そう言ってアドルフの喉元をかくハンス。この犬は喉元を撫でられるのが好きなのだ。
このホワイトシェパード、もともとソ連軍の軍用犬だったのだが、どうもその時代につけられた癖らしい。
♢♢♢
大戦前、軍用犬の研究と育成はどの国でも行われていたが、特にソ連軍は力を入れていた。
今でも救助犬や伝令犬は使われているが、大戦前に秘密兵器として研究されていたのは、対戦車犬だった。
ある程度の躾を施した犬たちに、毎食事の際には訓練用戦車の下に餌を置いてそこで食べる訓練を繰り返す。いわゆるオペラント条件付けを行い、犬たちには戦車の下には餌があると覚え込ませるのだ。
いざ戦闘となれば、1〜2日食事を抜いた犬に爆薬をくくりつけ、兵の合図とともに敵機甲師団に突っ込ませる。飢えた犬たちは戦車の下に餌があると思い素早く潜り込むと、棒状の起爆スイッチが戦車の底板に当たって倒れ、犬もろとも戦車を吹き飛ばす。
ソ連軍は自爆犬として、大量の軍用犬を密かに育成していたのだ。
独ソ戦の初頭には、いきなり飛び込んでくる犬に驚き慌ててるうちに撃破された戦車もあったようだが、ドイツ軍はすぐに対処方法を覚えた。
なんのことはない、ただ銃の引き金を引けばいいのだ。
当てる必要などなく、聴覚に優れた犬は小銃の発射音だけで
それどころか敵戦車に向かわず、訓練で慣れたソ連戦車の下に潜り込んで撃破してしまうことも少なくなく、戦場で使われることはほとんど無くなってしまったという、時折歴史に現れる珍兵器の一つとして記録されている。
ハンスが派遣されていた師団司令部が進駐したプスコフにも、ソ連の対戦車犬の訓練施設があった。
ドイツ軍初戦の快進撃を前に、撤収も破壊も出来なかったらしく、100頭を超える軍用犬と共に施設はドイツ軍に接収された。だが、ソ連の生物兵器をドイツが面倒を見る義理は当然なく、封鎖されたまま飢えるにまかされていた。
そんな施設があることさえ知らなかったハンスだが、ソ連の軍用犬研究に興味を持った陸軍の将官が視察を希望し、捕虜となったソ連人研究者の通訳としてロシア語が話せるハンスも行くことになったのだ。
放置された動物の放つ糞尿の悪臭、そして死臭に辟易したのか、将官は顔をしかめて早々に視察は切り上げられたが、そこでハンスは一頭の白い犬に目を留めた。
最初は単純に茶系黒系の毛並みが多い犬の中で白犬が目立ったためだが、一頭ごと頑丈な檻に閉じ込められ、水も与えられずぐったりとしている犬、久々現れた人影に困窮を訴えるように吠え立てる犬がほとんどの中、その白犬だけはいわゆる「おすわり」の姿勢でこっちに目と耳をむけていたのだ。
いつからその姿勢をしてたかはわからない。だがハンスが目を留めた時には「待機」の姿でいたのだ。そうとう我慢強いのだろう。
俄然興味を覚えたハンスは白犬の檻の前に行き、犬と目を合わせる。
しばらくはそのままにしていたが、懐にウィンナー《ヴルスト》を挟んだパンがあることを思い出した。急な視察命令で昼食時間を飛ばされたハンスが、手軽に食べられるように作ってもらったものだ。
ウィンナーの端をちぎって檻に投げ入れてみた。まわりの犬が久しぶりの肉の匂いで半狂乱になって吠え立てる中、白犬はチラッとウィンナー片に目をやったものの、すぐに視線をハンスに戻す。鳴き声などは一切上がらない。
「食べていいんだぞ、お前」と声をかけても動かない。
どうしたものか、とハンスはしばし考えていたが、「いいぞ《ダー》」とロシア語で言うと、すぐさま動いてウィンナーを一飲み。として元の姿勢へ。
「かわいい奴」
つぶらな白犬の瞳と目を合わせながら、ハンスは呟く。
「俺と一緒に、来るか?」
ロシア語で語りかけた言葉に「ワォン」と答える白犬。人語を解するわけでもないだろうに、ハンスには「はい」と答えたとしか思えない反応だった。
こうなるともう行動は一つだ。
ソ連人捕虜に聞いて、白犬の檻の鍵を持ってきて扉を開けると、多少よろつくも自身の歩みで檻から出てくる。なにも指示しなくとも、ハンスの後をついてくる。
『俺も俺も‼︎』とでも言ってるのか、他の犬が吠え立てる中、ハンスは白犬を連れて施設を出ていく。
ソ連人捕虜の言うことには、
犬を連れて帰った事は、当然友軍には呆れられた。
「物好きな」なんてのはいい方で、「敵軍犬なんて危険だろ」とか「餌だってただじゃねぇんだよ」とか。
ちなみに1番文句を言ってきたのは、もうすでにハンスのシュトルヒの主任整備員となっていたジークムンドだった。まあ、ハンスが出撃中、あるいは長期の出張の場合はこの犬の世話はジークムンドに頼むしかなかったから、いい迷惑ではある。
「我慢強い犬だから」「餌は俺のを分けてもいいから」「俺の一生のお願い」
などとハンスが山のような言葉と共に頼み込むと、ジークムンドは諦めたかのようにため息をつき、その後ポツリと言ったものだ。
「臭い」
「ん?」
「臭いんだよ、この犬。身体に糞尿の臭いがついて鼻が曲がる」
そう言った後は、怒涛の行動だった。
「犬洗えよ…洗った事ない?仕方ねえ、最初は俺が洗ってやるから、よく見とけよ。ハンスは石鹸もらってこい。
あと体毛だな。伸びすぎて身体が重いはずだ。不器用なお前にトリミングは無理だろうから、俺がやってやる。ハサミは準備しろよ。
あーあ、こんなにあばら骨が浮き出ちゃってまあ…。お前、自分の食事を減らしてもって言ったよな?料理長に頼んで消化のいいものを作ってもらえ」
口は悪いが面倒見はいいのがジークムンドなのだ。実家で大型犬を2頭飼っているらしく、その行動と指示は手慣れたものだった。
こうしてなし崩しに、白犬はハンスの飼い犬となった。
司令部の中にも犬好きがいて、命令には忠実でエサをくれる者にはすぐに従うアドルフをかわいがり、ここスタラヤ=ルッサに転進した時も後部格納室に乗せて運ぶことも目こぼししてくれていた。
アドルフ、という名前をつけたのもハンスだ。
たいした意味もなく、ポッと頭に浮かんだ名前だったのだが、そのネーミングに変な顔した者もいた。
曰く、
それに対しハンスは、
「総統閣下も犬好きって言うし、大丈夫だろ。
と、アドルフに向かい、「ハイル!」とナチス式敬礼をして煙にまいた。
それを見て、その司令部員も苦笑してそれ以上は言ってこなかった。
それも当然で、大多数のドイツ人は世界恐慌の中、職を与えてくれるからという理由でナチスに投票したに過ぎず、その思想など詳しいことはほとんど知らなかった。ナチスも意図的に隠していた。
それがいつのまにか全権委任法なんか作られて逆らえなくなり、あれよあれよという間に再軍備と徴兵制の施行、気がつけば極寒のロシアで銃を持たされて戦わされていた、というのが多くのドイツ将兵の気持ちといえる。
ナチス配下の部隊がロシアで「民族浄化」を行っていたことも、生理的な嫌悪感を与えており、ドイツは好きでもナチスはちょっと…、というのが大多数の将兵の思考だった。
アドルフの名前に疑義を挟んだ司令部員も、いわば狂信的信奉者の言いがかりを心配した忠告と言えた。
こうして白犬アドルフは、その名前と共に受け入れられていった。
♢♢♢
夕闇が迫る。
いくら抗弁したところで覆らない以上、さっさとホルムに行ってくるに限る。
用を足し(飛行中の尿意は最悪だ)、アドルフを宿舎に預けると、さっさと操縦席に乗り込む。
「明日は体調不良で休んでやるからな…」
「気象班によれば、明日は天候崩れるらしいな」
アイドリングのプロペラ音で誰にも聞かれていないと思ったが、昇降台に昇ってコクピットに寄せていたジークムンドが聞いていたらしい。
「吹雪くか?」
「そこまでは知らん。まあ天候悪化する様に神にでも祈るんだな」
雪が降れば、基本は飛行中止となりしばしの休息が得られる。
「『神は死んだ』んじゃなかったのかよ?」
「お、覚えていたか」
ジークムンドは読書趣味の哲学好きだ。酔うとニーチェやキルケゴールの話をよくする。
無学のハンスにはさっぱりだが、このニーチェの警句は頭に残っていた。
「俺は神を信じてないが、かと言ってハンスが信じることを否定する気はないよ」
「別に俺も、神を信じてるわけじゃないけどな」
神がいるなら、こんな最悪の戦争はすぐ終わらせるはずだ。
「ま、俺は自分の仕事を終わらせてくるわ」
「死ぬなよ」
そう言って昇降台をジークムンドは降りていく。
『御武運を』と言われるより、『死ぬなよ』と言われる方がハンスは好きだ。
「死なねーよ」
風防を閉めた1人きりのコクピットで、ひとりごちたハンスだった。
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