第2話 スタラヤ=ルッサ〜ホルム(午後)②
スタラヤ=ルッサからホルムまでの距離は短い。
低速のシュトルヒで、ソ連支配地域を迂回するルートでも1時間あまりで到着できる。
ハンスはチラッと地上に目を配り、目印としている焼け落ちた廃屋を認めた。
通い慣れた路だ。ここまで来ればあと20分ほどでホルムに着くはずだ。
アントンの長い話の、区切りのいいところを見計らって話しかける。
「そろそろソ連軍の包囲域に入りますんで、ちょいっと注意事項を」
「ほいよ。なんでも言ってくれ」
操縦桿を握っているため、アントンの表情を見ることはできないが、声色からは全く緊張感は感じられない。むしろ楽しげだ。
「ある程度のレクチャーは受けてるでしょうけど、一応ホルムの説明から」
「頼む。現地兵の現状認識の方が大抵正しいからな」
「ソ連の反撃前、ホルムは補給デポとして機能し、治安部隊約3000ほどに守られていたようです」
「3000でよくイワンの攻撃を防げてるよなぁ。治安部隊っていうと重火器もないだろうに」
「最初はパルチザンの攻撃だったみたいで。パルチザンと言っても所詮は民兵みたいなもんですからね。また、周辺の街々からの敗残兵も吸収して兵力も倍程度には増やしてるらしく、今は5~6000ってとこらしいです」
「上も正確な数はわからんのだな。だから、だいたい中隊規模っていうアバウトな下命になったのか。で、シェーラー戦闘団か」
ホルムに立て篭っているドイツ軍は、一括して治安部隊の指揮官シェーラー少将の指揮下にはいり、その名を冠した戦闘団で呼ばれていた。
なお、この指揮系統バラバラな部隊を一時的に束ねて、現地指揮官に丸投げするやり方は、以後のドイツ軍でよく見られるようになる。
「その後、
「それで2ヶ月。落ちてねぇのが不思議だよ」
「まあ、補給デポ地だったことも幸いして、食糧燃料、それに冬季装備も余裕があったようですし。また1月、2月は天候も荒ぶってましたからねー、自然休戦の間に防備固めたようです」
「……俺もその時期には-30°Cの中を撤退行軍して、死にそうになってたわ。雪洞を掘り、一時のまどろみの得て、吹雪で位置を見失いそうになりながら皆で励ましあって逃げたなあ……。なんか遠い昔の話のような気がするが、まだ2ヶ月なんだよな……」
アントンの声は淡々としていたが、多少の悔恨も混じっているようにハンスには思えた。
戦闘や撤退で失ったり、やむなく置き去りにした
「でも、より大きい理由はデミャンスク包囲でしょうねぇ」
声に滲む思いにはあえて気が付かないふりで、ハンスは続けた。
「あそこには10万近くの友軍が包囲されてますから。敵さんも力を入れて落としに掛かるのは当然ですな。その分、ホルムは後回しになってるようで」
「そういや、スタラヤ=ルッサで忙しく離発着していたユンカース輸送機、あれ全部デミャンスク行きだって?」
「だいたいは。ドイツ軍だって、ホルムよりデミャンスクの方が比重は重いですからねー。デミャンスク周辺に2本の滑走路を開いて分単位で離発着させてるらしいっす」
「Ju52《タンテ ユー》も大変だ」
3発エンジンが特徴的なユンカースJu52輸送機は、大戦前に旅客機として開発された機体を改造したもので、旧式化していたがドイツ軍はこれに代わる輸送機を開発することはできず、ユーおばさん《タンテ ユー》という多くの愛情と、少しの自嘲を含む愛称でドイツ兵から呼ばれていた。
「俺、気づいちゃったんだけど」
「何でしょ」
「ホルムにもタンテユーで運べばいいんじゃないの?あれにも乗ったことあるんだけど、狭い飛行場でも離発着出来たよな?」
「あー……、2月半ばぐらいまではタンテユーで重迫撃砲なんかも運び入れていたらしいんですがねー、天候を見計らって。だけど、イワンが野砲を運び入れて滑走路を砲撃するようになっちゃって、もう危険でタンテユーでは行けなくなったんですよねー」
小さい街ですからねえ、とハンスは続ける。
「……それって事は……、このシュトルヒが着陸する時も、もしかして……」
「そうっす。砲撃を受けます」
あちゃー、という嘆きのような、それでいてどこか楽しんでる感じの声が後席から聞こえる。
「ですので、出来るだけホルム滞在時間を短くしたいんで到着後は速やかに降りてほしいんですわ」
「それはもちろん。俺も砲撃受けたいわけじゃないし」
「あとは……、そうですねー、制空権は一応ウチが持ってますが、イワンが入りこんでくることもままあります。あやしげな機影をみたら、知らせてください」
「合点承知」
低速低空を活動域とするシュトルヒにとり、より脅威なのは対空兵器だが、それはハンスが目を皿にしてチェックしている。
今日は午前にも同じルートで往復しているので大丈夫だとは思うが、油断は死に直結する。
しばらくは話も途絶えて、周囲の監視に力入れるのも
「見えてきましたね。前方やや左の街がホルムです」
川を挟んで街が見える。線路や街道も見え、平時は交通の要所としてそれなりに繁栄をしていたのだろうが、今は砲爆撃で崩れかけた建物ばかりで、第一印象は廃墟。
でも、この街の周辺の雪が踏み荒らされて黒々とした泥を見せていることから、人がいることがわかる。土塁やバリゲートなどの防御施設の存在も、それを裏付ける。
「一気に行きます」
声をかけると、ハンスは操縦桿を倒し機体を降下させる。
飛行機が降りるのは包囲しているソ連軍にも丸見えだ。時間が惜しい。
シュトルヒが目指す滑走路は街の北西にある。土を踏み固めただけの典型的な田舎の飛行場だが、この細長いサッカーコートのような飛行場には2ヶ月の間に多くのドイツ軍機が離発着し、それを狙うソ連軍の砲撃でほじくり返され、またそれを守備隊のドイツ兵が必死に埋め直すいたちごっこが続いていた。
その飛行場の端に、白い冬季迷彩服で着膨れした
エンジンを絞り、コースに入る。
「……こんなところから?」
後席が疑問の声を上げる理由はわかる。
街の外周に沿って南西から北東に伸びる飛行場は、目算で2~300mの長さはある。安全のために端からランディングして充分に滑走させるのが普通だ。
だが、シュトルヒは半分をすぎても着地をせず滑空を続けている。このままフライバイしそうな形だが、一方で失速しそうなくらいに速度は落ちている。
「歯を食いしばってっ。着地しますっ」
ハンスは行動で答えを出すことにする。
機体は100mを切った所からランディング。
でこぼこな土の滑走路を、主脚の橇が滑る。油圧式のダンパーが振動を吸収するが、吸収しきれずに搭乗者を上下に揺らす。
だが、その時間はあっという間だった。
「…‥すっげ」
5〜60mほどの滑走で止まった機体の中で、アントンの驚いた声が漏れる。
この短距離離発着能力がシュトルヒの真骨頂だ。自分が褒められたかのように得意満面な顔で、ハンスは後席に顔を向ける。
「コイツには、このくらいの場所があれば大丈夫なんすよー」
「だな。シュトルヒには初めて乗ったが、これにはびっくりだわ」
やっとこちらを向いたな、と言わんばかりに赤毛に無精髭の相好が崩れる。
「いいフライトだったよ。話に付き合ってくれて退屈しなかったわ」
「こちらも」
アントンから出された分厚い手袋に覆われた手を、ハンスも握り返す。
「また時間あるときに、嫁さんと娘の写真を見せてやるから」
「楽しみにしてます」
能天気な会話。だが、握る手にはぎゅっと力が入る。
次に会える確証など誰も出来ない、戦場での別れ。
「じゃ、な」
ニカッと破顔したアントンは、元気よく後席の風防を押し上げ、手荷物をまとめて飛び出していく。
ホルムの零下の空気が、エンジンの余熱で温められたコクピット内になだれ込み、ハンスの頬を冷たくなでた。
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