逃げろ‼︎シュトルヒ!

墨華智緒

1章 1942年3月  第1話 スタラヤ=ルッサ〜ホルム(午後)①

 1941年6月に始まったバルバロッサ作戦、いわゆる独ソ戦はドイツ側優勢で推移し、同年11月にはモスクワを伺うラインまで前線は進んだ。

 だが、攻勢限界点を迎えていたドイツ軍は、ソ連軍の決死の抵抗に屈し、独ソ戦早期終結の夢は崩れた。それどころか、ドイツ軍撃退に気をよくしたソ連の独裁者スターリンは年末から年明けにかけて反転攻勢を指示し、ここドイツ北方方面軍の支配地でも、デミャンスク、そしてホルムのドイツ軍がソ連軍の重包囲下に陥っていた。


 ♢♢♢


 冬のロシアは、ただ一色で表現できる。

 薄汚れた灰色。

 雪と泥に塗れた大地も。晴れることが滅多にない、どんよりとした雲に覆われる空も。

 破壊された家々も降り積もった雪が覆い隠し、点在する林だけが積もった雪の白さよりも樹々の黒さでその存在を主張している。

 その灰色の景色の中を、ドイツ軍所属をあらわす黒十字マークをつけた一機の飛行機がゆっくりと飛んでいた。

 冬仕様の、白を基調にまだらの黒茶が混ざる塗装。黒十字バルケンクロイツの横と尾翼には、白字で「1」と機体番号が書かれている。

 操縦席と後席を大きな風防一枚で覆う特徴あるコクピット。そのコクピットの上部から左右にピンと伸びている大きな翼。下に大きく伸びた固定脚の先には車輪ではなく橇が取り付けられており、雪上の滑走路でも離発着できるようになっている。

 Fi156「シュトルヒ」。ドイツ空軍の軍用機にして、偵察、連絡、着弾観測などさまざまな用途に使われる汎用機である。愛称であるシュトルヒとはドイツ語でコウノトリのことで、大きくて広い翼やがっしりと張り出した固定脚から、翼を広げ飛び立つコウノトリが連想されたからだ。

 最高速度は170km/h程度。多分、当時の軍用機でシュトルヒより遅い機体を探す方が大変だと思われる。このシュトルヒのコクピットで、およそ戦争中とは思えない陽気な会話が繰り広げられていた。


「ある国の独裁者が、部下の将軍たちを前に言ったそうですよ。『我が軍がモスクワ攻略出来なかったのは、お前達の戦意が足りないせいではないか?』」

 操縦桿をとり、前を向き周囲に目を配りながらも明るく小咄を話し始めたのは、ハンス=オストワルト空軍少尉。開戦以来のシュトルヒ乗りだ。

「モスクワ攻略ってとこで、ある国もクソもないけどな。それで将軍はどう答えた?」

 後席の赤毛の男が、軽くツッコミを入れながら話を促す。

 シュトルヒは前席と後席の間に仕切りがないため、送声管がなくても声がよく通るのだ。

「将軍たちは抗弁した。『閣下、恐れながらそれは違います。我々は最期まで戦いました』『では、なぜモスクワを落とせなかったのだ?兵士の戦意不足か?』『それも違います。我が軍の兵士も必死に戦いました』」

 ハンスは声色を変え、独裁者と将軍を使い分けて話しを続ける。特に独裁者のパートは、かん高くまくし立てるヒトラー独特の演説をうまく似せていた。

「『では、なにが原因なのだ?』『恐れながら閣下、天候悪化により補給が前線に届かなかったのが原因かと。すなわちこれは天災なのです』」

「将軍たちも責任回避に必死だなぁ。で、それで?」

 赤毛の男も、合いの手を入れながら話を盛り上げてくれる。

「だが、独裁者は首を横に振る。『いや、これはやはり君たちの戦意不足が原因だ』『なぜですか?』『補給が無くても相手を倒す、という戦意が足りないからだ』」

「……やべえ、あのちょび髭伍長がホントに言ってそうで怖いわー」

 そう言いうセリフに合わず、声はやけに楽しそうだ。シュトルヒを操縦し、話しながらも周囲に目を配っているハンスに、後ろを振り向いて表情を確認する余裕はないが。

 また軍隊とは面白いところで、たとえ軍総司令官の独裁者であっても軍隊での最終階級が伍長だと、そう呼ばれてしまうのだ。

 ヒトラーは第一次大戦中に陸軍伍長になり、毒ガスで負傷、病院で降伏を迎えたことをよく演説のネタにしていた。

「まあ、似たようなことは起こってそうですがねー」

「うちの軍司令の後方送りも、ちょび髭に逆らったため、というもっぱらの噂だしなあ」

 ドイツ北方方面軍司令官のレープ元帥は、デミャンスク死守の総統命令に職をかけて抗ったが、聞き入れられずに更迭されていた。


 ハンスと赤毛の男、アントン=クドリャフスキ陸軍少尉とは旧知の仲に見えるが、実はさきほどスタラヤ=ルッサの空軍基地で会ったばかりである。

 だが階級が同じ、年齢は3つほど向こうが上ということもあるのか、とにかくフレンドリーにハンスに話しかけてきて、同様におしゃべりなハンスもそれに答えて、飛行場を飛び立ってから小一時間喋りずくしであった。

 こんなふうに。


「ティフヴェンってわかる?レニングラードのさらに東にある小さな町で…。

 そそ、昨年末まではその辺りで対戦車砲陣地を構えてたのさ。けど、かなり東に突出してたからね、ソ連軍イワンの最初の攻撃目標だったらしくてさあ、もう抵抗する間も無く蹂躙されて全装備喪失よ。

 まあ、準備して待ってたとしてもT34相手に37mmのドアノッカーじゃ、結果は同じだろうけどな。

 あ、空軍さんにドアノッカーってわかる?37mm対戦車砲のことなんだけど、まー非力でさぁ。T34戦車だと目の前まで引きつけて当てても、豆鉄砲のようにポカーンと弾かれちまうんだな、これが。で、こっちの待ち伏せ場所を相手に知らせるだけだからドアノッカーってわけ。

 ……だよなぁ、空軍さんにも知れ渡っているよな。フランス戦の頃からドアノッカーだったもんなぁ、あいつ。ま、お手軽で小回りが効いて、37mmにもいいとこはあるんだけど。

 で、装備は失ったけど人員の被害は少なくて。ほらあの頃だともう午後5時には真っ暗だろ?イワンも慣れてないのか、街を取ったあとはしてたから闇にまぎれて逃げ出せたのさ。

 それで休養と装備転換を兼ねて後方に下がってさ、新型の50mm対戦車砲を拝領できる予定だったんだよこれが。

 それがどーよ?休暇から帰ってきたら、まだ装備が届かない?遊ばせとくのもなんだから、重包囲下の町に単身降り立って?対戦車部隊を指揮しろ?

 なによその天国から地獄っ。指揮する部隊だって、『だいたい中隊ぐらい』って、なにそのアバウト感。第一、中隊指揮なら中尉か大尉クラスが行くのがフツーだろっ?欠席裁判のように、休暇中の俺に当てるんだからなー。

 ……まあ、口で言うほどは怒ってないさ、確かに。

 みんな誰だって死にたかないもんなぁ。逃げれるなら逃げたいと思うのは当然だよ。

 もう下命されちまったらどうあがいても無駄だしなー。まあ、愚痴だよ愚痴。


 …ん?死なないよ俺は。

 うちの娘の写真見る?かわいいんだこれが。

 …だよねー、操縦中だもんね。見れないのが残念。

 マリーヤって名付けた。まだ10ヶ月なんだけど、前あった時は独ソ開戦前で産まれたばっかだったからさ。こんなに可愛くなっててビックリした。

 はじめはマチルダにしようって話してたんだが、イギリス軍の戦車が同じ愛称って知ってさあ。ちょっとね…。

 でも、今ではこう、全身で『マリーヤ〜‼︎』って感じじゃない?もー、マリーヤ以外の名前は考えられんわ。

 …こんな娘と奥さんが家で待っててくれてるんだぜ?死ねねーよ。

 中にはさ、出征前に結婚するなんて新妻を悲しませるだけだとか、家族がいると戦場で遅れをとるとか言う奴もいるが、俺は違うね。

 帰れる場所があるから頑張ろうとするし、生き残ろうとする。

 俺はそう思うんだよなあ。

 …おたく、結婚してる?まだ?

 良いもんだぜぇ、結婚もなかなか。その顔で空軍少尉さんなら、望めば嫁さんなんていくらでもいるんじゃね?まー、ゴーグルで目隠れてっからよくわからんけど。


 ……俺の出身?東プロイセンさ。

 ほれ、クドリャフスキなんていう、ポーランド系というかスラヴっぽい名前からもわかるじゃん?実際、御先祖はポーランド人だったし。

 ……しかしちょび髭伍長は、アーリア人の純血だとかスラヴ人は二級人種とか叫ぶくせに、東プロイセンに住むポーランド系については「ドイツ人」として一括りだからなー。調子いいよな。

 ま、あそこで混血じゃないドイツ人だけ残して、他は追い出すなんてしたら、人口半減、…いや三割も残らんだろうけどさ。

 あー、でも偏執狂のところがあるからなあ、あのちょび髭。

 俺の実家の近くにラズネーデンって街があるんだが、…いや、あった、と言うべきか?街の名前がドイツ語的ではないとされて、バーゼルベルクってドイツ語風に強制改名されたんだよ。

 地元じゃ誰一人呼んでない町名だけどなっ。

 そーなると、次は個人の名前にきそうじゃん?クドリャフスキなんて真っ先に強制改名の対象になりそうだろ?

 ……そこで、黙るなよぉ〜。冗談で言ってるのに、ホントに変えられそうじゃんか。

 次に会った時に、ミュラーとかシュナイダーとかになってても、笑ってくれるなよ?


 ええっ、ハンスんとこでも名称改名されたんだ!

 どこよ、場所。

 …リガ?ってバルト海の?

 知ってるさ。大きな街だしこの前の休暇の時も立ち寄ったし。

 あー、そういやあそこも、ドイツ軍に占領されて、ラトビアからリーフラントに変えられたんだったな。また古い名前持ち出してきたもんだと思ったわ。

 すると、ハンスはバルト=ドイツ?

 ハンス的にはイワンから故郷を解放できてよかったんじゃない?

 …でも、今ドイツ軍少尉ってことは、イワン占領前にドイツ国籍を取っていたってことか?

 ……ああ、ごめん。言いたくないならいいよ。それぞれに様々な事情があるだろうから。

 俺、バルト=ドイツ出身の軍人と話すのは初めてだったからさ、なんか、レアキャラに出会えたみたいで、ちょっと得した感じ。

 こんな感覚っておかしい??

 まあ、東プロイセンとバルト諸国って、バルト海つながりで比較的近いお隣さんだよなー。

 ご近所さん同士、これからも頼むぜ、ハンス」




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