第四章・別離


 暗闇にほどけた意識が浮上する。

 眠りという名のかりそめの休息はとうに過ぎ、待ち構えているのは昨日までついぞ見たことのなかった性の悪い夢幻世界。

 理不尽と狂気が待つ死の空間は彼らがいくら拒絶しようとも腕を掴んで引きずり込む。

 何も知らなかった昨日のままならきっと恐怖に怯え、なにもできずに殺されていたことだろう。他の被害者プレイヤーたちのように明日が来ることを信じられず、震えて一日を生きていたことだろう。

 だが今日は違う。

 二人には覚悟も決意も目的も完全に固まった。

 たとえこの方法で失敗して死んだとしても二人に悔いはない。それだけの覚悟を決めて二人は今日眠りについたのだ。

 見ているがいい、この理不尽な死のゲーム盤を作り出した神よ。

 お前が造り出した世界は今、たった二人の人間によって攻略されるのだから。





 ■月■■日。

 目覚めた月夜御鏡花とユウキのスタートラインは昨晩怪物に殺された二階の一室。

 未だ血だまりが拭き取られずそのまま残されていた部屋の中は酷い鉄の匂いが漂い、まるで二人が眠りに就くまでの一日がなかったかのような感覚に陥りそうになるのをこらえてそれぞれの目的のために動き出した。


「ユウキ、本当に大丈夫かしら」


 部屋の内部を見渡しながらそう口にした月夜御は不安そうに扉を一瞥する。

 眠る前、二人は昼から続いた夢に関する議論の最終段階を完結させた。端的に言ってしまえば作戦会議だ。


「いや、私も大丈夫なのかしらこれ」


 ユウキの提案によって決まった作戦は賭けにも近い。

 怪物の性質も分からず、ネックである瞬間移動のトリガーも不明のままだった昼間の時点で彼はこの作戦を実行する気満々であったが、正直不安でしかない。

 というのも、作戦というのは月夜御がユウキと一緒に行動していない――別行動をしていることがすべてなのだ。

 曰く、怪物の瞬間移動に対策はほぼ不可能。ただし何故瞬間移動してくるのかが分からないことこそが攻略の鍵だと言う。

 二人が別々に動いている時、一体の怪物はどう動く? どちらの目の前に出現する? それさえはっきりすればあとはこちらのものだと彼は言いきった。

 ユウキの前に怪物が出てくれば二人の勝ち。月夜御の前に現れれば負け。

 なんとも分かりやすい指標ができた――そう笑っていた彼の顔をブン殴ったことは月夜御の記憶にも新しい。

 どうしてかなんて聞くまでもない。

 彼は昨日あっという間に怪物に殺されている。どうやったら自分の前に現れたら勝ちだなんて言い切れる自信があるのか彼女には全くもって理解ができなかった。

 結局議論は月夜御の一撃げんこつと反対意見で完結したのだが……、夢の中で目覚めた瞬間、彼は有無も言わさず部屋を出て行って、止めることさえ叶わずに見失ってしまったのだ。

 ユウキを制御しようとしたことが間違いだったと後から悔いてももう遅い。

 そのまま彼を放って当初の提案通りの作戦に乗らざるを得なくなった月夜御はこうして部屋を調べているのである。

 最後に彼が言い残した、ヒントも答えも必ずある――という言葉を信じて。


「最も弱きモノを殺せ……か。この建物の中にいる生き物で、現状一番弱い生命体と言えば、私……」


 唯一与えられたヒントである「ここで最も弱きモノを殺せ」の一文はヒントでありながら非常に曖昧だ。

 最重要キーワードである最も弱いモノがなにを意味するのかがまったく明確化されていない。

 被害者の中で最も弱いモノを指すのか、被害者と怪物以外の存在が建物にいるのか、それすらも分からずじまい。

 しかしユウキの言い分を信じるのであれば、確実にこの一文がヒントであり、答えを示している。

 最初に二人が見た打ち付けられた玄関扉や窓は真の脱出方法に非ず。

 それを開く方法はおそらくこの屋敷の中には最初から存在していない。

 扉や窓という外への出入り口と定義されるものを配置することによって視覚的、そして常識的な情報を被害者に植え付けるための罠だ。

 よって月夜御が探すべきなのは主にふたつ。

 最も弱きモノと定義される存在と、それを殺す手段だ。


「殺す、っていう選択を確実に取らせてくるのがこの夢のたちの悪いところだわ」


 殺される恐怖を味合わせ、そして脱出のためには殺しの感触も味合わせる。なんて最悪な世界なのだろうか。


「考えても仕方ない、私がやらなくちゃ」


 両手で頬を叩き、怯えが残る身体を奮い立たせる。

 まずは部屋の探索。

 二階廊下に入って手前側、ここは寝室といった雰囲気の部屋だ。

 家具がだいぶ雑多に置かれているので詳細な間取りは不明だが、まず奥側を占領するダブルベッドが目につき、次に入ってくるのは壁にかかった白黒写真の数々、更にはクローゼット、年代物の化粧台、エトセトラ……時間が許してくれるかはさておき調べ甲斐はある。


「写真、下の階で見た家族と同じね」


 壁に貼られた写真は一階で見た家族写真と同じ家族の幸せそうな日常生活のワンシーンを切り取ったものばかり。

 椅子に腰かけた老女が読書をしているだけの写真ですら今の月夜御には羨ましく感じてしまう。


「あら……、赤ちゃんどこかしら」


 写真を眺めている内に気がついた違和感。

 覚えが確かなら一階の写真は五人家族、夫婦と子供と老女と赤子の五人のはず。


「生まれてない頃の写真なのかな」


 とはいえ写真に赤子が写っていないことが脱出に繋がるとは思えない。

 ちょっと気になること程度に収め、次に進む。


「ベッドがダブルサイズなら、ここは夫婦の寝室ってところか。……その割には男物が少ないような」


 クローゼットを開いて中にかけられた衣服を見ても男性ものが少ないことだけが分かる。しかも西洋のお屋敷風の内装なのにどこか現代的な上着ばかりだ。

 チェストも調べてみるがロクに中身は入っていない。

 化粧台の上のものも使用期限がとっくに切れていそうな古臭い香水だけ。


「手がかりがなにもないじゃない。どういうことよ」


 この部屋に手がかりがないとなると次は隣の部屋だ。


「まだリビングに入る方法も分からないし、上の階はないからここで決めないと」


 ゲストルーム、トイレ、バスルーム、夫婦のベッドルームときてヒントらしいヒントはひとつしかもらえていない。

 つまりすべてに繋がる最後のピースはここにある。


「……入るわよ」


 ロの字型の廊下に出て隣、子供向けの可愛らしいプレートがかけられた扉を見てすぐにそこが子供部屋であることが分かった。

 鍵はかけられていない。すぐさま開いて素早く中に入る。

 案の定と言うべきか、誰もいない室内には埃とカビの匂いが漂っている。内装だけをそのままにしてもう何十年も使われていないかのよう。

 相変わらず中世風の豪華な装飾が目立つものの、子供部屋ということである程度目の痛さは抑制されている。

 置いてある小物はスポーツ関連のアイテムが多く、飾られているトロフィーに部屋の主の才能を感じる。どれも埃を被っているのが惜しいくらいだ。


「なにか、手がかりっぽいもの……なんかないのかしら。なんでもいいのよ、こんなふざけた謎解きをさせるんだからヒントのひとつやふたつくらい寄越しなさいよ……!」


 家具やベッド、机の上、本棚を乱暴に漁り、そのすべてを放り投げる。

 ここになにもなければ本格的に月夜御は今まで出た情報だけで決断せざるを得ない。――この場で最も弱いであろう自身が自死するか、二人で揃って怪物に殺されるかのどちらかを。

 整頓された室内をめちゃくちゃに荒らし回り、英語で書かれた児童書を投げ捨て、ランドセルを蹴飛ばし、コルクボードに貼られた写真を引き剥がす。

 赤ちゃんの写真がやっぱりないことだとか、日記の中にも存在が見当たらないとかどうでもいい情報だけは無駄に蓄積されていくが、同時に募るのは苛立ちと焦燥感であって意味のあるものではない。


「見つからない!!」


 ダンッ! と衝撃音。

 焦る彼女を嘲笑うように机の引き出しにはなにも収納されていないことに気付いた瞬間、思わず拳を叩きつける。


「あ」


 その時、拳をぶつけた引き出しの底板がぐらりと斜めにずれた。


「二重底……?」


 もう一度底板を強めに押し込み、斜めになったそれを片手で外して二重底の奥をあらためる。

 中に入っていたのは本棚に収まっていた多くの書籍と同じ児童書。

 これだけならなんの手がかりにもならないつまらない代物だろう。

 ただし、他と異なりタイトルが日本語で書かれたそれの表紙を目にした月夜御はその目を剥くこととなった。


「五人家族、しかもこの構成……あの写真と同じ⁉」


 同じだ。写真とまったく同じ。

 下の階で見た五人家族の写真と寸分たがわぬ顔、衣服、構成をまるで貼り付けたみたいだ。


「家族写真を絵本にしたってこと? いや、でもこのタイトル……」


 ――"悪魔のささやき"、これが児童書のタイトルだ。

 著者名はない。裏表紙も、真っ黒に塗り潰されている。

 部屋の主が記念として作ったとかそういうものでないことはこれでよく分かった。

 ……ここで読んでみるべきか、それすらも月夜御に悩ませるのはこの本が放つわけのわからない狂気性なのだろうか。

 しかしここで写真の家族がまた関わってきたことにはなにか大きな意味があるはずなのだ。

 最初はいたずら書きと思っていた一文すらヒントなのだから、なにかが、どこかが、大きな意味と扉を開く鍵となりえるはず――。


「――――」


 表紙を開く。

 白紙の紙を一枚挟み、全文がひらがなで印字された絵本のような物語が始まる。


「――むかしむかし、あるところにしあわせにくらすよにんのかぞくがいました――」



 ――かぞくはとてもゆうふく。けれどとてもやさしく、いろんなひとからもあいされるひとたちでした。

 あるひ、よにんのかぞくはごにんかぞくになりました。

 おんなのこがうまれたのです。

 かわいいかわいいおんなのこのたんじょうは、かぞくだけではなくいろんなひとたちもしゅくふくしました。

 ところがひとり、そのことをよくおもわないおとこがいたのです。

 おとこはかぞくがゆうふくであることをうとんでいるおとこでした。

 あるひ、おとこはあくまをよび、こうねがいました。


『おねがいします。どうかあのかぞくをふこうにしてください』


 あくまはあさましいおとこにほほえみ、いいました。


『いいでしょう。そのかぞくのしあわせをうばってきてあげます』


 そのひをさかいに、かぞくにはつぎつぎとふこうがまいこみました。

 おばあさんはびょうきにたおれ、ははおやはかげぐちをいわれつづけるげんかくをみて、こどもはかいだんからあしをふみはずしてけがをし、ちちおやはしごとをうしないました。

 そうしてふこうがつぎつぎまいこんで、かぞくはひにひにやさしさとゆうふくさをうしなっていきました。


『どうしてふこうがつづくのだろう』


 まいにちちちおやはなやみ、くるしみました。

 すると、あかごをだいたちちおやのまえにやさしいやさしいてんしがおりてきて、こういったのです。


『かわいそうなかぞくよ、あなたたちはあくまにみいられたのです。あなたたちをふこうにするあくまはしぬまであなたたちをくるしめるでしょう』


 それをしったちちおやはなみだをながし、いのりをささげ、てんしにいいました。


『おぉ、てんしさま。どうかおたすけください。われらをくるしめるあくまをたいじしてください』


 するとてんしはほほえみながらうなずいて、つえをてんにかかげながらいいました。


『いいでしょう。あくまをころすほうほうをおしえます』

『ありがとうございます。どうすればいいのですか?』

『あくまはまだうまれたて、かんたんにころすことができるでしょう。そう、それです。あなたがだいているそのあかごこそが、あなたたちをこのましくおもわないものがけいやくしたあくまなのです。あかごをころしなさい。そうすればあなたたちのくるしみはおわるでしょう』


 てんしはそういいのこし、てんへとさっていきました。

 そのよる、ちちおやはあかごのむねにぎんのナイフをさしてころしました。

 あかごはなきさけんでいましたが、むねをさされるとこういったのです。


『なんておろかなひとなのでしょう。あくまのささやきにだまされるなんて』


 あかごはなみだをながし、いきをひきとりました。

 するとふたたびてんからてんしがまいおりて、にやにやとわらいながらいいました。


『あぁ、にんげんはなんておろかでおもしろいのだろう。おまえたちのふこうはこれからもつづくぞ』


 ちちおやをあざわらうてんしは、ほんとうはあくまだったのです。

 あくまのささやきにみみをかしたかぞくは、これからもいっしょうのろわれたままくらしていくのでした。

 ……おとこはどうなったのか?

 あくまとけいやくしたおとこは、おおきなねがいをかなえただいしょうに、あくまのちからでたましいをとらわれ、みずからもよりぜつぼうてきなふこうのなかにおちていきました。

 おしまい――。



 ――黒い悪魔の絵が家族の家を覆い、にやにやと笑って右手で赤子を、左手で男を掲げる絵で締めくくられた絵本はそれ以上のページはなく、閉じられた裏表紙に感情が物語られるようだ。

 なんて、後味の悪い。


「……しゅみ、わる」


 とある男の嫉妬によって呼び出された悪魔の手で次々と呪われた家族の話。悩み苦しんでいたところ、天使を騙った悪魔が父親をそそのかし、赤子を殺し呪いは解かれぬまま物語は幕を閉じる。

 これが、家族の――この建物に暮らしていた家族の末路だというのか。


「赤子がいないのは、殺したから……。赤子を、赤ちゃんを、殺した」


 写真の中の家族は幸せそうだった。しかし赤子の写真は一枚もなかった。それは家族が呪われる前、赤子が産まれる前だったから。

 赤子が産まれた時に撮ったであろうたった一枚の写真が、ゲストルームに銀のナイフと一緒に置かれていたあの一枚。

 最初は写真だけに注目してまったく目にも留めなかったナイフがなぜ置かれていたのか、間違いなく父親が赤子を殺したから。

 言い換えれば、父親は家族にとって最も弱きモノを殺したからか。


「父親は赤子を殺した。第一の被害者も、娘を殺した……だから娘の死体が綺麗だった? でも、脱出はできていない……」


 連続殺人第一の被害者は若い母親と三歳の娘。足を切り落とされていた母親に対し、娘は胸をナイフで刺されて殺されている。同一犯の犯行とは思えない。


「少なくとも、最初の親子は答えには辿り着いている」


 脱出こそ叶わなかったが自分と同じ場所までは辿り着いていると月夜御は仮定する。

 しかし肝心の答えを間違えた。

 不正解がゆえに夢から抜け出すことができず、取り残された母親は怪物に殺されて無念のまま現実へと帰還した。

 それはもう、悪魔のささやきのラストのように。


「最も弱きモノ、ここで最も弱きモノと定義される存在……」


 正しいかはさておき、答えは出ている。

 ここで最も弱きモノ――赤子を殺すことこそが、この夢から真に解放される方法。

 分かった。これでいいのだろう。こんな悪趣味な夢を作った何者かは、そういうことを強要してくるようなヤツなのだ。ここまでくれば納得もできる。

 だから、月夜御にできることはそれしかない。


「でも、それって正しいのかしら」


 絵本を抱き、部屋を出た月夜御は扉に背を預けて天井を見上げる。

 本当に答えはひとつか・・・・・・・・・・

 見上げた先になにが書いてあるわけでもない。照明が眩しく光る先には夢とは思えぬリアルさが視覚を衝くだけなのに、未だ答えを求めようとしている。


『なぁ、ツクヨミ。たとえば相手が何人もってるタイプの誘拐殺人犯だとして、こういう汚れは気にせず残しておくと思うか?』


 思い出す。


『俺はさ、こういう些細なヒントを与えて、被害者が怖がる姿を楽しむためじゃないかって思ってるけど、どう?』


 明らかになっていない事象の答えがひとつしか用意されていないとは誰も言っていないことを、教えてくれた彼の言葉を思い出す。


「――バカね、私」


 おそらく夢を作った者が用意した答えはたったひとつ。

 けれど、そのことを知らない限り月夜御にはあらゆる答えを正答とする権利がある。たとえすべてが間違いだとしても、間違っていることが証明される瞬間までは正しい答えにもなるのだ。

 であれば彼女が殺すモノは決まった。

 あとはそのために必要なものを取りに行くだけ。

 廊下を駆けて一階に続く階段まで一直線に向かう。行先はユウキが目覚めたあのゲストルーム、最初にして最大のヒントが置き去りにされていた部屋への到達を目的としてただ走る。


「これで決めてやる、だから、ユウキも死ぬんじゃないわ――――よ」


 階段を下りる。足が止まる。

 背後に現れた巨大な影、月夜御の全身を覆うほどの昏き死の予感がついに姿を見せた。

 思い出すのは爛れたピンク色の怪異。この世には存在しないであろう異質で醜い怪物。多くの人間を殺して殺して殺し続けた殺戮だけに特化した理性のない狂気。

 前回、二人を抵抗の間もなく葬ったあの無機質な残虐性が脳をかすめる。

 気付いた時には腕がなかった彼の最期の瞬間がリピートして何度でも吐きそうになる。

 月夜御には死の自覚はない。

 だとしても今回は絶対に死ぬわけにはいかなかった。だからこそ、死ぬわけにはいかなかった。

 なのに、なのに。


「嘘」


 こんなところで、ユウキが言っていた敗北の条件が揃ってしまう。

 月夜御の前に現れれば負け、ユウキの前に現れれば勝ち。

 怪物は、最後の希望を得た彼女の前になんの予兆もなく、絶望と共に出現した。

 否が応でも感じる気配と殺気。

 振り向けば死ぬ、振り向かなくても死ぬ。

 月夜御にできることはただ逃げるだけ。

 けれど、その逃げることすらこの狭い階段で、上を取られた状態ではままならない。


「ふざけないで」


 風を切る音に誘われて、恐怖心が振り返ることを強要する。

 ガラス玉のような大きな目、言葉を話すために開くことのない口、バランスの取れていない四肢、そのどれもが恐怖を駆り立てるには十分すぎる要素だ。

 そして今、その恐怖は牙を剥く。

 振り下ろされる鉈を目撃した脳は逃げようとする本能的な意思を働かせ、彼女の華奢な身体を投げ出すように階段から足を踏み外させた。

 空中にある身体は、一瞬が何十秒にも感じるほど時間の感覚を狂わせ、彼女に叫ぶ時間を与えた。


「こんなところで!」

「終わらせるわけにはいかないだろうが――‼」


 何者かの声。

 聴こえたと同時に転がった月夜御は数段下の踊り場の壁にしたたか背中を強打し、激痛に耐えかね目を閉じた。

 ところが死は一向に訪れることなく、痛みだけが背に残り続ける。


「――なに、が」


 涙を溜め、霞む視界を右手で拭って目視する。

 怪物は確かにそこにいた。持っていた鉈が階段を割り、月夜御が立っていた場所は無残に崩壊している。

 けれど怪物はその鉈を手に取らない。

 むしろ膝をつき、今にも踊り場に転がってきそうなほど前のめりで揺らめいている。

 急いで退かないと、圧し潰される!


「ちょっ、本気⁉」


 大慌てで全身を転がし、階下に続く階段に逃げ込んだ月夜御の判断は正しい。

 さっきまで前のめりだった怪物の巨体はそのままなにかに押されて踊り場まで転がり落ち、凄まじい音を立てて壁にめり込んだ。


「うっそでしょ……」


 驚愕、というよりもこれは驚嘆の領域だろう。

 三メートル以上はある怪物の巨躯はただ背が高いだけではなく、体重も百キロは軽く超えているはず。

 そんな化け物の足を崩し、あまつさえ一蹴りで転げ落としたその男は、階段の上から何事もなかったかのような顔で笑っているではないか。


「ユウキ、アンタなにやってんの⁉」

「おうツクヨミ! 間に合ったな!」

「間に合ったな……じゃないわよ! こいつ、こいつを……⁉」

「ん? あぁ、だから言っただろ? 殴り倒す・・・・って」


 殴り倒す――、たしかに彼は言った。しかしそれはここに攫われた理由が誘拐殺人犯による犯行だと仮定した時の話であって怪物を殴り倒せるとは一言も言っていない。

 バカだ、無茶すぎる。

 だが、彼にはその無茶を押し通すだけの力があることを今目の前で示された。


「行け! 時間は稼ぐ! 答えは見つかったんだろ?」

「……ええ、目に物見せてやりましょう‼」


 彼の海色の目から感じる絶対的な信頼感。 

 返す彼女の翡翠色の視線もまた力強く炎を灯す。

 月夜御が辿り着いた答えにすべてを託して任せているあの眼を、彼女も信じてすべてを終わらせに走るのだ。

 背中の痛みは唇を噛み締めて耐え、足を叩いて己を鼓舞する。

 この程度でくじけるほど心は折れちゃいない。

 いいや、むしろ彼のおかげで更に火が付いたと言ったところか。

 このラストスパート、堂々としたユウキに対して下手で無様な生きざまは晒せない。

 壁材を破壊して重たい音を立てながら隣で怪物が起き上がろうとしているのを耳だけはしっかりと認識する。


「んじゃ、死なない程度に頑張りますか」


 彼の声も今度はちゃんと聞こえた。

 まったく、どう考えても怪物を相手にした時点で死なない程度ではないだろうに。

 起き上がる怪物が崩す瓦礫の音を背に、今一度児童書を抱きしめて階段を二段飛ばしで一気に降り、最後の方はもう跳んでショートカットを決める。

 前回月夜御が怪物に殺されかけた時にできたはずのクレーターがなぜか存在しなかったことを気にするほどの余裕は当然ながらなかった。

 開かずのリビングのことは気にしない。 

 板で封鎖された扉や窓なんて知ったことか。

 トイレもバスルームももう二度と用はない。

 今この建物の中で向かうべき場所ははじまりにしておわりの場所。

 短くも永遠のように長く感じる廊下を抜け、右側の一番奥、扉のノブに手をかけて開こうとした時、轟音がエントランス側から鼓膜を強襲した。


「なに……⁉」


 直後、思わず視線を向けた月夜御は瓦礫と一緒に怪談から転がってきたユウキが擦り傷を作りながら玄関口に激突するのを目撃する。


「ユウキ!」


 彼の名を叫んだ。

 苦しげに咳き込む姿を見て、そしてゆっくりと、ゆっくりと足音を立てて迫る怪物が視界に入って。


「やばい、戻らないと」


 足がエントランスを向く。

 無理はない。怪物は前回ユウキにとどめを刺した時と同じく、横幅だけで一メートルはありそうな剛腕で拳を作り、力強く握り込んでただ一点に向かって狙いを澄ましている。

 まともに食らったらきっと上半身が吹き飛んでしまう。

 起き上がってきたがフラフラと足元がおぼつかないユウキに次の攻撃を回避する余裕がないことくらい誰でも分かる。

 青ざめる月夜御の片足が前に動いた。

 しかし間に合うはずもない。拳は月夜御が廊下を抜けるより早く繰り出され、ユウキの身体を砕かんと迫る。


「あぁクソ!! めんどくせえな!!」


 乱暴に乱暴な言葉を叫んだ彼は左手で叩いた右手を拳に固め――あぁなんてことか、怪物の凶打に対して真っ向から反撃を繰り出した。

 無茶が過ぎる。

 相手は人間ではない。自分よりも一回り以上も大きい怪物なのだ。

 規格外の人外を相手に力比べを挑むなど、死に際に一花咲かせようにも咲く花すら根元から土に落ちてしまうだろうに、どこまで蛮勇を見せてくれるのか。

 触れる拳は次の瞬間砕かれて、左腕だけでなく右腕すらも失ってしまうと、彼女はそう思った。

 ……だが。


「へ?」


 その光景を目にした少女が素っ頓狂な声を発する。

 なにかが、いや、全部おかしい。主にパワーバランスが。

 心配で揺れていた瞳も、絶望感にかいた冷や汗も、すっと引いていくのを感じる。


「ええ……、なにが起きてんのよ……」


 ドシン、と音を立てて床を揺らした怪物がなんの抵抗もできずに押し倒される・・・・・・


「なんで当たり前のように勝ってるのよ⁉」


 触れあった拳が拮抗したのはほんの一瞬だけだった。

 当たり前のようにユウキが負ける、そう思われた拳の激突は何故か怪物が一方的に押し戻される形で勝敗を決し、ふらついたその隙を狙って跳ねた彼の回転蹴りが頭蓋に炸裂し、結局無抵抗で怪物がノックアウト状態に持っていかれたのである。

 なにが起きたのか本当に分からなかった月夜御がフリーズし、ポカンと口を開けていると、彼がそちらを見てにっこり笑う。


「早く行ってくれー、なんとかなりそうだから」


 なにがなんとかなりそうだ。彼の職業は異種格闘技専門の格闘家か幽霊退治屋ゴーストバスターズならぬ怪物退治屋モンスターハンターだとでもいうのか。

 そんなツッコミを必死にこらえて頷き、扉を開けて室内に入った。

 内装は前回のまま。テーブルの上にはナイフと五人家族の白黒写真。

 ただし一点だけ、意識してはじめて気が付いたことかもしれないが、悪魔がいとう銀色に輝くナイフには血が付着している。

 これで最も弱きモノを殺すのだ。

 被害者の二人の内華奢な女である自分自身か、それとも絵本の父親の結末を辿るように無抵抗の赤子か、それともまったく異なる新たなる選択か。

 彼女が選ぶ解答は――。


「用意された答えとしては間違ってるのかもしれない。でも、私の答えが間違っているなんて私自身が思いたくない。だから!」


 テーブル上にページを乱暴に開いた絵本を乱暴に叩きつけ、シャンデリアに照らされて銀に煌めくナイフを握り、彼女は一点に向けて刃先を突き立てる。

 狙いを澄まし、絶対に外すものかと視線が鋭く射貫く。


「最も弱きモノ、それはアンタ・・・よ!」


 己を鼓舞する声を上げて突き刺したページは悪魔が家族を嗤い赤子と男を手にするラストページ、物語の結末を描いた一枚。

 鋭いナイフが突き刺さったページは無残に破れ、そこに描かれてモノの心臓が貫かれる。

 そう、そこに描かれていた――の心臓を一突きで刺し殺した。


『あ、あ、あああああああああアアアアあああアあ‼』


 刹那、悲鳴にも似た絶叫がどこからともなく響き渡る。

 その声は赤子のものではない。野太い男の声だった。


「最も弱い……この文がなんの強弱を示しているのか、書いていなかったわね。だから私の答えはこうよ、文句ある?」


 握り締めたナイフを深く押し込み、最後の仕上げに入る。


「心の弱さ。家族を疎んで身勝手に呪ったそのクソみたいな自業自得男の心の弱さこそ、最も弱きモノと定義されるんじゃないかしら‼」


 呪われたからすり減った家族たちの心、生まれたてで折れることを知らない赤子の心、そして人間を理解しない悪魔の心、加えて脱出しようと邁進する二人の心と心をそもそも持たない怪物がいるこの空間の中で誰よりも弱かったのは間違いなく悪魔に願ったこの男。

 ヒントが肉体的な弱さを示しているとも、精神的な弱さを示しているとも言わなかったがゆえに得られた最良ハッピーエンドに行き着くための答えだ。


『あああああああああああああああ! よくも! よくも‼ いやだ! 終わりたくない! いや終わりたい! いや、いや、いあ、いぎぎぃぃいいいいい‼ 終わりたくないいいいいいいいいい‼』


 鼓膜に刺さるような怨嗟の咆哮が姿の見えない男の喉を焼く。


「うるさいヤツね。ヒスはモテないわよ」


 悪魔のささやきに耳を貸すことのなかった月夜御が出したアンサーによって朽ち落ちていく悲鳴は徐々に小さく、遠くへと消えていった。

 口惜しい、忌まわしいと叫ぶ男の声が遠ざかるのと同じくして、月夜御の視界も白んで薄く溶け、豪奢な屋敷であった世界は形を失っていく。

 足元が崩れ、天は落ち、立っていられる世界を失った体は白い宙に投げ出され、夢幻は終わろうとしている。


「あぁ」


 感慨に満ちる。

 意識を失う直前、彼女の眼に映ったのは――。


「これで、終わったのね」

 柔らかい腕に赤子を抱いた男性を中心に、微笑みながら手を振る五人の優しい家族の姿だった。

 彼らかぞくが悪魔に呪われた一生は終わり、同時に彼らふたりを捕らえていた夢も終わりを迎えたのだ。





 三月二十二日。

 ――アラームが鳴る。設定時刻は午前九時、甲高い機械音が健康的な朝の目覚めを促した。


「…………生きてる」


 第一声はその一言だった。

 見上げた先にある天井はいつもと変わらないリビングルームのシーリングライト。

 カーテンの隙間から入ってくる日差しだけが照らす部屋の中は薄暗く、起き上がると共につねった自分の頬は紛れもなく現実であることを教えてくれた。

 テーブルに置かれたスマホを手に取る。


「はぁ……」


 メールが一件。

 読まずに消した。

 どうせ内容は分かりきっている。

 スマホを置いて廊下に出る。すぐそこの自分の部屋、彼がいるその部屋の扉をノックして開く。


「……なによ」


 そこには誰もいない。

 畳まれた掛布団、その上にコードを巻いて置かれた充電器、朝日を歓迎するように開かれたカーテン、そして残れた小さなメモ紙。

 布団の上でしわくちゃになっていたそれを拾い上げ、ピンと伸ばして読んだ。


「ふーん」


 そこにはたった五文字の感謝の言葉が丁寧な文字。

 頭の中で読み上げた月夜御はくしゃくしゃになっていたそのメモ紙をもう一度丸めてゴミ箱に投げ捨てた。

 部屋を出て玄関まで行けば、鍵の閉じた扉と郵便受けの中に放られた月夜御のキーケースが、彼がとっくに家から出ていったことを証明している。


「ほんと、迷惑なヤツ」


 彼は帰ってしまった。

 月夜御が感謝の言葉を伝える間もなく、帰ってしまった。


「――さ、仕事しましょうか」


 ひとつため息を吐き出して、口角を上げた月夜御は両手を一度叩き、玄関を去る。

 リビングに戻れば、彼に出会う前と同じ元の日常。月夜御探偵事務所の少し出鱈目な日常がまた始まるのだ。


 後日、岡本幸の家に向かった月夜御は夫婦殺人事件の犯人を捜すという依頼の今後についての話し合いを行った。

 犯人に関する手がかりを順に辿っているが、まだ犯人に直接繋がるものが見つからないこと。時間が想像以上にかかってしまうかもしれないということ。結果、なにも得られずに終わってしまう可能性があること。

 それらを説明した上で、一年という期限を設けた上で引き続き依頼を無償で続行する――そう提案した。

 あなたの息子さんたちは夢の中で怪物に殺されました、犯人は夢の中にいるので警察には捕まえられません、などと言えるはずもない。言われて納得できないのは月夜御も同じだからだ。

 だから現実で犯人捜しを続ける。

 けれど、彼らを殺した殺人犯は現実には存在していない。見つかる日が来ることもない、それゆえに無償で依頼を受ける。

 それでもあの夢を作り出した張本人を見つけることができたのなら、その時は必ず彼らを殺した罪を償わせて見せよう。

 月夜御の説明を受けた岡本幸は涙ながらに納得し、定期的な連絡を取り合うこととなった。

 これでひとつの事件に区切りがついた。

 ……だが、日常に帰ってきた彼女にはどうしても納得できないことがある。

 毎日を過ごし、あらゆる依頼をこなす月夜御がずっと心の中で抱え続けているそれを振り払うために、一人、日々を過ごす。

 夢からの脱出を終え、毎日を生きていく中、気が付けば一ヵ月以上が経過していた。




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