第二章・夢幻と現実




「ここ、どこよ」


 目覚めた彼女は何度でもそれを問う。

 今自分がいるこの場所がどこなのか、それすらも不明で判別不可能で、理解不能な状況が月夜御の眼前には広がっていた。

 シャンデリアがかけられた天井は暖色の明かりが目映く灯り、床には触り心地のよいいかにも高級そうなペルシャ絨毯じゅうたんが敷かれ、どれも日本の一般家庭では見られないような豪奢な家具の配置と飾られた絵画の数々は、まるで中世のお城を思わせる。

 上体を起こし、周囲を更に見渡してみると、部屋は月夜御宅のリビング程度の広さしかなく、古めかしいが重厚そうな扉と板を打ち付けられたなにかの存在を確認することができた。

 おそらくは屋敷ほどの大きさの建物の一室と見える。

 ――夢。そう思いたいが、そう思えないほどの質感とリアルさが触れる地肌に直接訴えかけてきた。

 眠っている間に知らない場所に移動させられたことが余計に実感に拍車をかける。


「誘拐……いや、違うわね」


 そう呟いて、高そうなソファーに座ってそっぽを向いている男を睨む。

 そこの男がなんの不自由もなくふんぞり返っている以上、攫われた線は考えづらい。


「アンタもいるのね。しかもなんか眼鏡なんてかけて」


 前髪を髪ゴムで留めていることも最初から気になっていたが、今身につけている黒縁の四角い眼鏡は致命的に似合っていない。


「これが普段の俺だから、いいだろ? 眼鏡男子ってやつ?」

「似合ってないわよ」

「うぐ」


 などと言っている彼はいやに冷静だ。

 こんな状況で取り乱していない――のは月夜御も同じだが――不自然さが余計に目立つ。


「まさかアンタが原因なんじゃないでしょうね」

「違う! それは絶対違う! 俺も起きたら隣の部屋だったんだよ」

「隣?」


 つまりすぐそばに見えている扉の鍵は開いていたということか。

 どうやらこの男は数分前に隣の部屋で目覚め、まずスマホを含めた手荷物がないことを確認。

その後、人の気配を探ろうと少し様子を窺ってから今いるこの部屋に来たところ、自身と同様に月夜御が床で倒れていたのを発見したらしい。

 服装が月夜御探偵事務所に来る前の状態に戻っていたので最初は夢だと思ったが、これは夢じゃない、と心のどこかでそう確信を得たと言う。理由は分からない。


「少なくとも廊下に人の気配はない。外の様子も分からない、窓がそんなんだからな」


 そう言って板が何重にも打ち付けられた壁を指さす。

 よく見れば千切れた紅い布が無造作に床に広がり、板の上にはカーテンレールが視認できる。元々はそこに窓があったことを示していた。


「じゃあ私たち、やっぱり誘拐された?」


 少し考えるようなしぐさをしてから曖昧に男が頷いた。

 だが誘拐されたのなら身動きが取れる状態で放置しておくのはおかしい、そんな当たり前の考えがよぎる。

 スマホのような連絡手段を断っている事実、それは当然分かる。

 しかし彼曰く人気ひとけもないと言うし、カメラで見張られているにしても、二人に見える範囲にそういった機械の類は見られない。

 家具の類はソファーとローテーブルのみ。どちらも高級そうだが、年代物といった雰囲気で隠しカメラを仕込めるようなスペースはない。

 壁もコンセント類や天井のシャンデリアのスイッチはなく、絨毯じゅうたんの下も普通に木の床だ。

 怪しすぎるがゆえに逆に怪しい部分は窓を打ち付ける板以外には見当たらない。


「なにがあったのよ、寝てる間に」


 仮に誘拐ではないのだとしたら、一体どうやって寝ている二人の服をわざわざ着替えさせてここまで連れてきたのだろう。

 疑問は増えるばかりで一向に解決の兆しを見せない。

 そればかりか時間だけが無情にも過ぎていく。

 もし二人を攫った犯人がいるとして、今偶然にもこの場を開けているのだとすれば、最初にいた部屋を脱出しているこの男のことを含めて現状はあまりにも危険だ。

 できることなら電話を見つけて警察に通報、もしくは自力でこの建物から逃げ出して安全そうな場所に逃げ込むのが望ましい。


「ツクヨミ。見ろよ、この絵」

「今色々考えてるんだから邪魔しないで」

「そんなこと言うなよ、ちょっと気を紛らわすって意味で見てみろって」

「はぁ。この状況で絵画を見ていられるアンタの感性を疑うわよ」


 男に促されて壁に掛けられた複数の絵画に目線を移す。


「うわっ」


 思わず吐き気を催しそうになるほどの不気味でグロテスクな絵画の数々に月夜御の足が後退する。


「子供……?」


 絵画はどれもこれも作者は違うのであろうが、何者かによって子供――具体的には赤子から幼稚園児ほどの子供が死んでいるあるいは殺されるというシチュエーションを、リアルに、夢や幻のように、なによりもすぐ目の前で起こっているかのような生々しいタッチで描かれたもので統一されていた。

 幼子の死を描いた絵を飾っているという奇怪さもさることながら、色遣いのせいなのかどれもどこか肉の感触を現実的に感じられるせいで気味悪さが勝る。


「アンタ、よく平気で見られるわね……趣味悪いわよ」

「平気じゃねえよ、慣れてるだけ」

「慣れてるって」

「職業柄な。ほら、アレとか有名だろ」


 男が指さした先にあるのは首のない子供を両手に抱えた人間らしきモノが描かれた絵画。


「我が子を喰らうサトゥルヌスね。それなら私にも分かるわよ。ただ気持ち悪いけど」

「全くだ」


 十八世紀、スペインの画家であるフランシス・ゴヤが晩年に自宅の壁に直接描いた「我が子を喰らうサトゥルヌス」はその銘の通り、サトゥルヌスが将来、自分の子に殺されるという予言を恐れて五人の子供を次々と喰らった伝承をモチーフとした一作。

 それ以前、十七世紀にもオランダの画家・ルーベンスが同様の伝承をモチーフとした絵画を描いているが、ゴヤが描いたサトゥルヌスの見開いた目と頭から子を吞み込もうとするその強烈な光景は、一度見れば焼き付いて忘れられなくなる。

 人それぞれ芸術性やセンスには違うがあるので一概に悪趣味とは言い切れないが、それでも初見のインパクトはかなりのものだ。

 部屋に絵を飾った人間はインパクトを重視したのか、それともよりグロテスクな方を選んだのか、ここに配置されているのはゴヤが描いたものである。


「それで、こんな絵で気を紛らわせるってどうやって?」

「思考が凝り固まっても困るしな、色んなものを見ればなにかヒントになるんじゃないかって思っただけ」

「ふぅん」


 気を使われた気がしないが、彼なりに月夜御の思案の手伝いをしているようだ。

 とはいえ他の絵も子供が主役で死屍累々といった様相や、直接的な描写が描かれたものばかりである。芸術的ではあっても決して見ていて気分がいいものではない。

 その程度の情報量で分かることなど、ここの家主かあるいは誘拐犯の趣味が悪いことだけだった。


「どう思う?」

「どう思うもなにも、誘拐の可能性が強まっただけよ。しかもお金が目的じゃなくて殺しが目的の、ね」


 調度品の趣味から相手と目的を察知するなら、こうした絵に描かれている特殊な殺人方法が趣味の殺人鬼集団というのが、一番分かりやすく納得ができる。


「殺人集団……」


 月夜御はふと、現在進行形で自分が関わっている依頼を思い出す。

 首と胴を切られた夫婦の遺体は、布団に寝かされていた。


「――まさかね」


 嫌な考えが脳裏をよぎり、そして思い過ごしだと信じ込む。

 今はそうすることしかできなかった。


「……人間相手なら数で押し切られない限りはいけるか。でも話が通じない相手だったら面倒だし……」


 一方で男の方はブツブツとなにやら物騒で無謀な独り言を呟いている。


「どういう意味よ」

「そりゃあ全員殴り倒す・・・・・・って意味だけど」


 なにを言っているのかと思えば、三人に寄られて集られてボコボコにされていた男の言って許される言葉ではない。

 その上、口調は冗談ではなく表情も真剣なものだからドン引きを通り越してもはや笑える領域に達している。


「頭の中身がすっからかんだからそのノリの軽さだったのね」

「違うけど⁉」

「いいの、気にしないで。死ぬときは一緒よ。気に食わないけど」

「だから違うってば!」


 茶化すのはさておき、彼が抵抗する気満々だとしても二人を意識がないまま連れてこられるほどの誘拐犯が単独ではないだろうし、自由にさせている以上武器を持っていないはずがない。

 反面こちらは二人そろって手ぶら、素手だ。

 犯人に見つかれば命はないと考えておくべきだろう。


「でも、ドアが開くなら動かないわけにはいかないわね」


 殺される前に逃げる――、この状況を打開するにはその一手を試すしかない。

 これで方針は固まった。

 あとは彼への個人的な質問をここでするだけだ。


「アンタ、いい加減に名前教えなさいよ」

「なんで」

「ここがどこかも分からない。誘拐だとして私たちはこれから殺されるかもしれない。アンタはそんな状況で唯一私と同じ状況に置かれている人間よ。もしお互いが分断されるようななにかが起きたとして、アンタは私の名前を呼べばいい。でも私はアンタをどう呼べばいいのよ」

「別に好きに呼べばいいだろ」

「だまらっしゃい。名前は他人を最も信じられる要素のひとつよ。名乗らないならアンタのことはここに置いていくわ。もちろん気絶させてからね」

「……」


 ここまできて名乗らなければお前は犯人一味の一人だ――、月夜御は暗にそう告げた。

 黙り込んだ男は月夜御と目を合わせようとしない。

どうしても名乗りたくないという意思が見え隠れしているが、だからと言って犯人扱いはされたくないということで、はぁとひとつため息をついて口を開く。


「ユウキ」

「ん?」

「俺の名前。何年か前に色んなところで出回ったから、それ以上は名乗らない」

「色んなって……まぁいいわ」


 ユウキ、彼はそう名乗った。

 苗字とも取れるし名前とも取れる名前はごくごくありきたりで、本名かも疑わしい。

 しかし細かい事情やどういった字を書くかはこの際気にしていられない。呼び名を知ることができただけで十分だ。


「よろしくね、ユウキ」

「よしいくぞー。さっさと出る」


 月夜御が求めた握手に触れる程度で応じたユウキはドアを開いて廊下を見渡す。


「なんか機嫌悪くない?」

「誰のせいだと思っての」


 苛立っているように言葉を発したユウキはすぐに廊下の確認に戻る。


「行くぞ」


 それからすぐに後ろを向いて手招きしてくるので、目に見える範囲に人はいないようだ。

 二人そろって部屋を後にし、廊下に出るとこの建物の構造の一部を把握することができた。

 一番奥に見えている広場まで一直線に伸びる廊下には窓がなく、代わりに等間隔でドアとプレートが設置されている。どうやら複数の部屋の間に挟まるようにして伸びているようだ。

 どこかのホテルとも考えたが、ユウキが出てきた隣、廊下の一番奥の部屋と月夜御が寝ていたすぐそこの部屋にはそれぞれプレートに"ゲストルーム"と刻まれている。

 それに加えて、西洋的な古めかしさと先ほどの絵画類や豪奢な家具が先行して印象深い。

やはり月夜御の予想は大きな屋敷か撮影スタジオ。

 ホテルだとしてもそういった装飾を施した古めかすでに廃業したラブホテルだろうか、だとすれば明かりがついているのもおかしな話ではあるが。


「広いのはあっちね、ユウキ行くわよ……って、なんで戻ろうとしてんのよ」

「戻るっていうか、見せたいものがあって」

「見せたいもの?」


 ユウキが戻ろうとしているのは月夜御がいた部屋ではなく、自分が目を覚ました隣の部屋の方。

 扉が開くことを確認し、いそいそと部屋の中に入って行ったユウキを追うように困り果てつつも月夜御も扉の奥に行く。


「ほら、これ」


 内部の構造にさしたる変化はなかった。

 同じように窓に板が打ち付けられて、椅子とテーブルが置かれた小部屋。違う点があるとすれば絵画がないことと、代わりにテーブルに写真が一枚とナイフが置かれている。

 ユウキはその写真を指さしたあと手に取り、月夜御に投げ渡した。


「家族写真? しかも白黒だし、何十年前のものよ」


 写っているのは三十代くらいの男性、同じく三十代くらいの女性、小学生くらいの男の子、椅子に腰かけた老女、そして女性の腕に抱かれている赤子。白黒ではあるが、赤子を除く全員年代物の正装を着込み、その立ち並び方からして家族写真であろうことが分かる。

 この建物はこの写真の家族が住んでいたのだろうか。


「裏面見て」


 ユウキが写真の裏面を指す。

 言われるがまま裏返してみると、そこには赤く細い達筆な文字でこう書かれていた。


「"ここで最も弱きモノを殺せ"――?」


 平和な家族写真の裏になんて物騒な一文だろう。

 ここ、を具体的に表す場所は明確化されておらず、弱きモノがなにを意味するのかもハッキリしない。


「いたずら書きかしら」


 にしたって趣味が悪い。


「ま、そういうこと」

「そういうことってこれだけ⁉ って出ていこうとするな!」

「さっさと出ようぜ。ますます殺人鬼のお屋敷説が強まっただろ?」

「もう……」


 あきれ顔で彼についていく。

 気分屋なのか、適当なのか、人を不安にさせるだけさせておいて自分はまったく怖がる素振りも見せないとはなんと肝の据わった男だ。

 実に人騒がせな奴だが置いて行かれるわけにもいかず、ずかずかと先頭を行くユウキの後ろを歩く。

 廊下はさほど長くもなく、ほんの数十秒歩いてすぐに広場に出ることができた。


「エントランスってとこか」

「ねえ、あれ玄関じゃない?」

「おう、そうだな……?」


 広場だと思っていたのは玄関のエントランスだった。

 二人から見て左には上階に続く階段とガラスの両開きのドア、右には玄関扉とおぼしきものと――それを封じるように打ち付けられた板の数々。

 剥がそうと試みるが食い込むほど深く打たれた釘は抜けず、バールやのこぎりといった物品も見当たらない。

 試しということでユウキが思い切りぶつかってもみたが、相当分厚いのかこれっぽっちも板材に響くことはなかった。


「これじゃあ出られないじゃない」


 まず鍵以前の問題だ。出口になりえる箇所は先ほどから見てきた窓といいこの扉といい物理的に塞がれている。


「まずいなぁ」

「まずいわよ、どうすれば……」

「いやそうじゃなくてさ」

「え?」

「この板、内側から打たれてるよな。けど、俺たちを閉じ込めた犯人はどうやってここから出るんだ?」


 ユウキが提唱したそれはつまり、誘拐犯がまだこの建物の中にいるのではないかと推測する言葉。

 一瞬の静寂が訪れる。


「ちょっとやめてよ……怖いこと言わないで」

「わりと冗談じゃすまない状況だぜ、これ。なにせ逃げ場がない以上に犯人と鉢合わせる可能性も高まってるんだから」


 この板を外すにも道具がいる。外側からだとしてももちろん同じ、通報したとしても板を外すまでにどれだけかかるか。

 なにより道具を見つけるのも電話を見つけるのもこの場からの移動が必要だ。

 ゲストルームから出た時点で警戒はするべきだったが、更に部屋を巡るなら犯人と鉢合わせる危険性はより高まる。


「尤も、攫ってきたヤツを自由にさせてるくらいだ。玄関を封鎖しておくのは当然だし、犯人連中用の抜け道のひとつやふたつあるとは思う」

「それでも探すなら犯人とバッティングは避けられない……」

「まぁな」


 だとしても探さない手はないだろう。

 このままゲストルームに戻って大人しくしていても、逃げる方法を探して犯人と出遭ってしまうにしても、どのみち死ぬならより生きられる可能性の高い方を選ぶしか二人に選択は残されていない。


「行きましょう。まずは一部屋ずつ見回っていく感じで」

「了解。いざって時は俺がなんとかするけど、足音には気をつけろよ」

「わかった」


 相変わらずユウキが先行し、月夜御が後ろで音を警戒しながらついていくという方針を取ることになった。

 まずは来た道を戻る形で、廊下に残った四つの部屋を置く側から探ることにする。

 ここを一階と仮定し、廊下の方は向かい合うように六つの部屋が左右に三つずつ均一に並んでいる状態。ユウキと月夜御がいた部屋はエントランス側から入って右側の一番奥と真ん中。よって最初に入るのは左側の一番奥だ。


「ゲストルーム、ね」


 プレートを確認すればやはりと言うべきか、奥側はゲストルームが並んでいるらしい。

 扉に耳をつけて音を聞くが、中から物音はしない。


「入るわよ」

「おう」


 ギィィと建付けの悪くなった木製扉の開閉音が建物中に響き渡る。

 二人が出てきた部屋のドアより古びている上に、ドアの上に積もった埃も動かした拍子に落ちてきた。

 体に付いた埃を払いつつ、部屋の中に入っていく。


「内装に大きな変化はないわね。絵も写真もないけど」


 逆に言えばテーブルとソファー以外はなにもなかった。

 絨毯は向かいの部屋と同じ赤が基調のペルシャ絨毯、天井にはシャンデリアが灯り、窓はあるが案の定板で封鎖されている。


「ツクヨミ、こっちも同じ」


 ユウキが無遠慮に隣の扉も開けて見に行ったが、ゲストルームと書かれた部屋の基本的な内装はすべて同じものだ。


「ただ――」


 内装に変化はなくてもユウキはなにか別の異変に気付いた様子だ。


「なに?」

「ここ、絨毯の柄じゃないな。血の跡、か?」


 指先がすっと撫でたのは幾何学模様きかがくもようの端にこびりついた不自然な赤錆の色。

 洗った時に落ちなかった、というよりもその周辺の床に飛び散った赤い液体が気付かない内に偶然付着したような点々とした汚れは付いてから相当時間が経っているようで、指で触れても色が移らず臭いもしない。

 ただし、ユウキにはそれが血の跡に見えているみたいだが。


「なぁ、ツクヨミ。たとえば相手が何人もってるタイプの誘拐殺人犯だとして、こういう汚れは気にせず残しておくと思うか?」

「なんで私に聞くのよ、そういうこと」

「探偵だから」

「う……どうせ警察に見つかったら取り繕いようはないし、殺すだけなら面倒だから汚れはそのままにしておくんじゃないかしら。そりゃあ、くさくなるから床についた分は拭き取ると思うし、几帳面な人間なら絨毯丸ごと洗うでしょうけど」


 無論、計画殺人の場合はその殺人犯の性癖や心理的人間性も関わってくる。

 異様なまでの潔癖症。異様なまでの快楽主義。

 そうした要素が絡み合えばいくらでも答えは変わる。月夜御が提示した答えは正答ではない。


「俺はさ、こういう些細なヒントを与えて、被害者が怖がる姿を楽しむためじゃないかって思ってるけど、どう?」


 真実が明らかでなければいくらでも正答は変化する。

 よって、ユウキの答えはこうなるのだ。


「……アンタ」


 不敵な笑みを浮かべる姿に、月夜御の手が震えた。

 もしやと思わせる態度と今までの飄々とした掴みどころのないその態度が、頭のどこかで符合したのかもしれない。


「冗談。怖い顔するなよ、モテないぜ?」

「誰が!」

「あははっ! 怒ってる方がまだマシだな! じゃあ次行くか!」

「やっぱ最低だわ、アンタ」


 一変して小学生男児のような馬鹿笑いをしながら部屋を出ていくユウキの背中を無性に蹴り飛ばしたくなりつつも、彼に続いてその隣の部屋へと足を運ぶ。

 プレートにはトイレと書かれ、開けた先には現代的な洋式便座が鎮座していた。

 古臭い西洋風のお屋敷だと思っていたのに、ここにきてウォシュレットの便器を目撃することになるとは、家主も一応機能性は重要視しているらしい。

 天井付近の壁に換気用の小窓を見つけたが、狭い室内ではどうやっても届きそうになかったので次に進む。

 最後はトイレから向かいのドアに当たるのだが、プレートにはバスルームと書かれている。トイレがあったのでそりゃあ風呂場もあるだろう。

 正直なところ二人とも入っても成果はないと思っている。


「でも入るしかないじゃない」

「俺は止めといた方がいいと思うけど」

「入るわよ」

「ウッス」


 ユウキの静止は聞かずに扉を開けさせて部屋に足を踏み入れる。

 バスルームということで、もちろん入ってすぐに風呂場ではなく洗面所に入ったわけだが――。


「くさい……」


 月夜御の鼻孔を衝いたのは、いつかに嗅いだことのあるにおいによく似たにおい。

 鉄錆によく似た、あの強烈な悪臭。

 天井からファンの音はするので換気扇は動いている。それでも換気しきれていない。


「俺が開けて見る。ヤバそうだったら伝えるから、ツクヨミは後ろにいろよ」

「ええ」


 バスルームに続く樹脂パネルの中折り扉をユウキが開く。


「うぅ……」


 開いた瞬間、後ろで待っていた月夜御にまで伝わるほどの悪臭が充満した。

 洗面所とは比にならないあまりの凄まじさに思わず呻き声が漏れ、胃の奥から内容物が上がってきそうなほどの吐き気を催す。


「これは、ダメだな」


 月夜御ほどではないが、表情を歪めて口元を覆いながら扉を閉めたユウキが振り返り、首を横に振った。

 ここは入らない方がいい、という意味だ。


「死体?」

「いや、死体はなかった。でもここで血を洗ってるのは間違いなし。しかも超杜撰ずさん


 本当に少し開いただけなので全容を見たわけではないという前振りをしてから彼が話し始めたのは風呂場の惨状。

 まずバスタブの中は完全に血の海、タイルや排水溝も真っ赤に染まっていた。鉄錆くささはこれが原因だろう。

 そして血の中に浮かんだ白いものや黒いもの、排水溝に絡まった髪の毛。

 洗面所がそこまで濡れていないことを理由に、死体処理をしていたのではなく、凶器を綺麗にするために風呂場を使っていたのではないかとユウキは予想する。


「血を洗った水をわざわざ流さずに残してるなんて趣味の悪い」

「つか、もう詰まって吸い込まないのかもな。あの浮かんでた白いやつがさ」

「うええ……」


 殺人鬼も最初の頃はちゃんと排水していたが、白いもの――肉片か骨か、それを処理せず流した結果、配水管が詰まってちゃんと水を吸い込まなくなったのだろう。

 そうした杜撰さが悪臭を産み、風呂場と洗面所を地獄絵図に変えたのだ。


「最悪だわ」


 結局なんの成果も得られず、沈黙のまま部屋を出た。

 鼻から喉にかけて残ったにおいを咳き込んで吐き出し、廊下で大きく息を吸うと、こんな狭苦しい建物の中でもなんだか空気がおいしく感じてしまう。

 そして深呼吸を繰り返すうちに、月夜御がハッとした表情でユウキに向き直る。


「もしかしてユウキ、入る前に気付いてたの?」

「うん、匂うなって思ってた」

「教えなさいよ!」

「ツクヨミちゃんってば教えても聞かなそうだし、確かめるから入るって言うと思った」


 聞けばユウキはそれなりに鼻がいいらしい。

 どうせ強制イベントだろうなと諦めた上で月夜御には中から匂いがすることは一切伝えず、ありのままの状況を確認してもらったとのことだ。

 なんなら本当に一言だけながら彼はちゃんと月夜御に警告していた。


「こっちに出入り口はなさそうだし次行くか」

「切り替えが早いわね、悪くないけど。じゃあ階段左の部屋ね」

「玄関から入ってすぐと考えたらリビングかな」


 さっき入った時に確認したエントランスには玄関と階段、そして階段に登らずそのまま左に進んだ先にガラス扉があった。

 今のところこの建物があまり常識を当てはめてはいけない間取りだとしても、傾向から考えればリビングルームだと思いたいところだ。


「あれ、カーテンかかってるのね」


 ガラスの扉は内側から赤いカーテンがかけられ、電気もついていないようで真っ暗だ。

 これは開けて見なければ中の様子が分からない。


「見た感じ鍵は必要なさそうだし、開けるぞ」

「よろしく」


 上にもノブにも下にも鍵穴はない。

 ドアノブをかちゃかちゃと動かしてちゃんと開くかを確認したユウキが今一度ノブに手をかけて扉を引き開ける――が。


「あれ?」

「なにしてんの?」

「開かねえ」

「え? ちょっと貸して」


 月夜御がユウキに変わってノブを捻り、押したり引いたりと様々な方法で開けようとする。

 しかし扉はどちらにも開こうとせず、枠がズレるどころかラッチの部分が擦れる音さえ聞こえない。

 改めて確認しても鍵を差し込むような場所はなく、不動の扉だけが立ち塞がっていた。


「入れない、ってことか……」

「じゃあ、こっちに出口がある?」

「俺もそう思う」


 ドアから離れ、思案タイムに入った二人は同じことを考えていた。

 リビングはベランダに繋がっているはず、そこから出入りしているのならこの扉を開けさせたくないのは自明の理。

 マンションやアパートなら地上から離れている可能性も考えられるが、階段が室内にあるということはよっぽどでない限り地上から離れた位置に降りることはないだろう。

 よってここを開ける、もしくは叩き壊して侵入できればきっと逃げ出せる。


「ユウキ! アンタの突進力が試されるわ!」

「お前、俺にガラスに突っ込めって言うのか?」

「頑張って! 手当はちゃんとしてあげるわ」


 体格的には小柄で線の細い月夜御がガラスにぶつかってもただ怪我するだけでも悠木のしっかりとした体格であれば何度か試行すればなんとか割れそうな雰囲気がある。

 事実、月夜御が連れて帰って手当をした時にちょっと脱がしたら一般的な男性のそれ以上には鍛えているような筋肉の付き方をしていた。期待値は高い。

 もちろん彼は怪我をしたくないからすごく嫌がっているけども。


「手当って、それくらい俺が自分でするよ」

「じゃあ頼んだわ!」


 はぁ、と最近聞いた中では誰よりも深いため息をついたユウキが肩をぐりぐりと回し、柔軟運動を始める。


「はいはい。しょうがねえ、な――」


 バツン!

 鼓膜を衝くほどの大きな音を立てて建物中の明かりが一斉に消えた。

 日光を通す窓がなく、唯一明かりが入り込める余地のある玄関も塞がれたエントランスは暗闇の中に沈み、月夜御とユウキは完全にお互いの存在が視認できない。


「ユウキ!」

「ツクヨミ、いるよな?」

「いるわよ」


 名を呼び合った声は近い。

 しかしさっき扉から離れたせいか手が触れ合えるほど近くはない。

光が消える前から距離を離されていなければ何者かに気絶させられてもいないが、これが続けばいつそうなるかも不明瞭だ。


「ツクヨミ、ドアに触れるか?」

「……ここ、かしら」


 ユウキの指示通り、壁伝いにひんやりとしたガラス部分に右手で触れる。

 するとユウキがガラス面を叩き始めた。

 バンバン、バンバンと暗闇と静寂の中で響く薄く硬い音は時に木に当たってか別の音を立てる。


「いない……?」


 ぼそりと呟いたユウキは困ったようにドアのガラス部分を叩き続ける。

 そう、ガラス部分だ。

 扉は二メートル弱の片開き。一般的な家庭にあるそれと大差はない。

であれば二人は近づきすぎれば体が当たってもおかしくない距離にいる。それこそ物理的に二人がぶつかって合流できるほど。


「なにしてるの? ここよ、ここ」


 ユウキと同様にコンコンと叩いて場所を伝える。

 音は同じような材質の音。しかしガラス扉と少し違って重たいような気がする。


「ここってどこ? ツクヨミが小さすぎてわかんねえ」

「はぁ⁉ アンタこの状況でなにを――」


 バツン!

 再び耳が痛くなる音が響き、一気に光が戻ってくる。

 建物内は真っ暗になる直前と同様にシャンデリアが灯り、暖かな光が月夜御とユウキのお互いの位置を知らせ、そして……。


「ツクヨミ……?」


 ユウキから怪訝そうな声が上がる。


「あれ?」


 実際の月夜御はドアから少し離れ、手の届かない距離にいた。

 であれば月夜御が触れているこのひんやりとしたものはなんだ? 冷たく、ガラスと間違えるほどの硬度があるこれは一体なんなのだ?

 ユウキの表情もどこか信じられないものを見ているかのような見開いた目をしている。

 どこか天井よりの空間を見つめるその目つきは明らかに月夜御を見てはいなかった。


「私、なに触って……」


 右を向く。

 そこには黒い壁。鏡のように自分の姿が写り込むほど磨かれた綺麗な壁。

 しかし後ろに壁がある。左にはユウキがいて、正面には階段もある。そっちにあるのは玄関と廊下に続くエントランスだけなのに、いきなり壁が産まれた。

 まさかこの建物は音もなく壁が動いて変形するのか?

 突然の不自然のせいで非科学的な想像が膨らみ、わけがわからなくなって見上げた先に、答えはあった。


「――――は?」


 見上げた先、ぎょろりと見下ろす魚のような大きく無機質なガラス細工の眼。

 ただれた赤紫色の皮膚に赤い液体を浴び、左右のバランスがまったく取れていない四肢を動かしながら鉈のような巨大で鋭利な黒い刃物を床に突き刺していたそれは、少女の身長の倍以上はあろうかという巨躯きょくを以て、彼女の眼前の壁と化していた。

 愕然とした。

 信じられないという思考で顔が固まって、ぱくぱくと動く口は思わず呼吸を忘れそうになる。

 見たことがない。

 こんな生き物は、地球上のどこにも存在しない。

 ありえないものを目にしたという現実だけが脳に染みつき、月夜御の動きを止める。

 そしてなにもできないその体をじっくりと見つめていたピンク色の怪物は、床に刺した鉈を不自然に細く短い腕で取り上げると、月夜御に向かって振り下ろし――。


「ツクヨミ‼」


 エントランス中を響く声をかき消すほどの轟音を立てて床を粉砕した。

 月夜御がさっきまで立っていた場所は振り下ろされた鉈によって完全に陥没し・・・・・・、その場に彼女が立っていた時のことなど容易に想像ができる。

 恐ろしい。

 目の前で広がった間際の光景に震えが走る。

 震えた手つきで指をさし、巨大なそれを見つめ続けて声を発した。


「ゆ、ゆうき、あれ」


 ユウキに引っ張られたことで身体を引き寄せられた月夜御は怪物の一撃から難を逃れている。

 ところが腰が抜けたようで足は完全に脱力している。

 動けなくなった体は自分の力ではどうしようもない。


「逃げるぞ馬鹿! なにやってんだ!」


 緊迫した声色が怒鳴りつけるように月夜御の鼓膜に突き刺さった。

 大声を張り上げた彼によって多少気つけが効いたのか、なんとか足が動いてくれるらしい。

 混乱の中から抜け出せないまま月夜御はユウキによって手を引かれる。

怪物の横をすり抜けるようにエントランスから抜け出し、階段を駆け上がって二階を目指せば、怪物は剣呑な動きで上体を動かし二人を見つめて追ってくることはなかった。


「ユウキ、なんなのよ! あれはなんなの⁉」

「俺だって知らねえよ!」


 今までの態度が嘘のように月夜御の言葉を切り捨てていくユウキは一階を振り向くことなく二階に上がり、二人で一番最初に目に入った部屋に逃げ込んだ

 まずずっと手を掴んでいた月夜御をなるべく奥の方に放り、ゲストルームより広いこの部屋の鍵を彼がそのまま施錠する。

 場所の形状としては一階廊下のちょうど上だと思うが、入る前にそんなことを考えている余裕は当然なかった。

 ただ自分たちが知らない謎の生物が鉈を持ち、振り下ろし、なんの感情もなく殺そうとしてきたという事実だけが残された状況で、鍵を閉めた部屋の中にいる二人が今できるのは呼吸を整えることだけだった。





 ……言葉はない。

 いきなり走らされたことによる酸素不足より、殺されそうになったという恐怖で頭の中がいつまでも落ち着かない月夜御と、強張こわばった表情でドアをずっと見つめているユウキ。

 二人が話せるほどの余裕はどこにも介在していなかった。

 それでも、彼が先に口を開く。


「怪我は?」


 言葉による返事はない。

 ユウキも月夜御の方を見ることはなく、首を横に振っても気付かれることはなかった。


「そこから動くなよ。でもいざって時は俺のことは放っておいて逃げろ。というか俺が死んだと思ったら動け」


 思わず顔を上げた。

 目線だけを向けたユウキの言葉は残酷だ。

 怪物に襲われた時は殺されている自分を横に置いて一人で安全圏まで逃げろと言っているのだから、月夜御に納得はできるはずもない。

 呼吸を整え、ひとつずつ吐き出すように声を絞り出す。


「なんで、そんなことできない。置いていけないわ」

「そんなビビリながら言われても撤回なんてできないね」


 膝は今も震えている。声もそうだ。


「俺の命で月夜御が助かるなら十分安い。むしろ釣りが返ってくる。まぁ、脱出の手段を一人で探さないといけなくなるけど」


 一人になってからはどこに逃げるべきか、二階になら安全な脱出手段があるのか、玄関は物理的に破壊ができるのか、などとぶつぶつと呟き出したユウキは扉を睨み続けている。

 これ以上会話をする気はないということらしい。

 しかし月夜御からすれば抗議せざるを得ない。

 やっと喋れるようになったのだ、これだけは言わなければ収まらないだろう。


「安いって、命に価値はつけられないでしょ」

「命に価値とか、実際に命がかかった現場じゃそんなこと言えないだろ」


 当然のごとく正論が降ってくる。

 当たり前だ。こんな状況でコイツはなにを言っているんだと思うのも当然の感性と言える。

 むしろいつ死ぬかも分からないような環境に置かれても助けたい気持ちでいるのに、いきなり命の価値だなんだと説教をされる側はさぞ気分が悪いはずだ。


「アイツ、多分知性とか理性とかそういうのは持ってない。一人囮になればある程度時間は稼げるんじゃないか」

「だからアンタが囮になるって言うの?」

「そういうこと」


 先ほどのガラス扉ではないが、体格は悪くない自分の方がまだあの怪物に襲われても対抗できる――と本人が言う。

 だが三メートルはあろう巨躯を持ち、床板を平然と破壊する暴力性とあの凶悪な鉈の存在を相手に一般人がどこまで相手になるかと問われるとたかが知れている。

 そもそも外見だけで判断するなら撃退、あるいは無力化は不可能だ。

 彼が言う時間稼ぎとは、あくまで絶命するまで釘付けにできるという意味合いの言葉にしかならない。


「そも、アイツはどこから来たんだ? 電気が消えて、ついて、次の瞬間には居たってことは瞬間移動でもしてきたのか? んなアホな」


 一番考えられるのは二階から降りてきた可能性だが、あの巨体で移動すれば確実に足音がするだろう。

 ならば一階はどうかと聞かれると今まで回ってきた小部屋に隠れられるほどのスペースはなかった。もちろん玄関は閉じている。

 瞬間移動――というメルヘンな事象が現実に起きている可能性を本気で考えなければならないことを認めようとする自分を必死にこらえる。

 ユウキからしてみれば、この建物で目覚めてから怪我が治っているのもおかしな話なのだ。

 不可思議な現象がいくつも起きていることを思い返すとキリがない。

 二人揃って首を横に振り、現実に帰還する。


「とにかくお前が優先的に逃げる。俺は足止めする。それだけは譲らない」


 ユウキの主張はとにかく月夜御を優先的に安全圏まで脱出させることにある。むすっとして目を逸らす彼に自分の考えを曲げる気はない。

 その様子にだんだんと苛立ちが隠せなくなるのが月夜御だ。


「ちょっと……普通は一緒に逃げるとか考えないわけ……⁉ さっきからナチュラルに自己犠牲精神発揮してくれてるけど私からすればいい迷惑なんですけど!」

「はぁ? いきなりキレんなよ」

「うるさい!」

「うぇめんどくせえ」


 人が死ぬことそのものに抵抗はない。それそのものは自然の摂理、いつか人は死ぬものだ。

 けれど彼女の中で「死」はまた別の、特別な意味を持つ。


「私の目の前で死のうとしないで。誰かが目の前で死ぬなんて、二度とごめんよ」


 いつも記憶の奥でリフレインする夕闇の光景。

 忌々しい思い出にいつだって彼女は下唇を噛んで悔しさも噛み締める。


「なにがあった?」


 彼は問う。

 大きく息を吸い、その日を思い出すように月夜御は語った。


「高校生の時にお姉ちゃんが死んだの。首吊り自殺、世間的には・・・・・そう発表されたわ」

「世間的? 有名人だったってことか」

「ええ。お姉ちゃんは女優でね、私と違って誰からも愛されて好かれて充実した生活を送ってた。……そんな人がある日突然よ。学校から帰ってきたらお姉ちゃんが家にいて、部屋に行ったら扉が閉まってて、開けたらもう死んでた」


 夕方、夕日が差す家に帰宅した月夜御が見たのは、自身の部屋で首を吊り、すでに事切れた姉の姿。

 女優として順風満帆に忙殺されていた彼女と最後に言葉を交わしたのは一体いつだったか。

 思い出すことすらままならないほどあっけなく終わりを迎えたその人生の最期、末路を月夜御鏡花は不運にも目撃した。

 それからというもの目の前で人が死ぬことに対して嫌悪感とトラウマを持つようになった。

 同時期に入院していた祖母が病院で最期の時を迎えようとしていた時も、月夜御はその場に居合わせることができなかった。


「本当に、最悪だった」


 月夜御は死が恐ろしいのではない。

 彼女が恐怖するのは、自分が目の当たりにする他人の死なのだ。


「……悪かった」

「いいわよ、別に。でも納得しなさい。勝手に特攻かましたら、許さないから」

「分かった。分かったよ。なるべく努力する」


 身を近づけて指をさしながら上目で指示してくる月夜御に両手で制しながら苦笑して応える。

 本当に悪いと思っているのか、どこまで理解しているのか掴めない辺りに未だ溜飲が下がる気がしないが、こうして事情を話した今なら彼自身も彼女に助けられた理由をなんとなく察することができたのではないだろうか。

 わがままで自分勝手な事情かもしれないけれど、彼女はそれを自分自身の正義としている。


「じゃあ、まずあのデカブツと遭遇したらどうするか決めるか」

「逃げる一択。さっき逃げた時も動いてこなかったでしょ。体が重たくて動けないのよ、多分」

「ありえる。ただ、それだとアイツが瞬間移動してくる化け物ってことになるけど」

「う、ううん……それは……」


 非常に非科学的で、非常識で、非現実的で、とてもファンタジーやメルヘンの世界の話だが、それでも現状考えられる移動手段はその一点に限られる。


「あとは猫型ロボットみたいにミリ単位で浮いているとか」


 これもまただいぶ現実離れした方法だ。確かに足音は立たないが。


「いや、さすがにないでしょ」

「そうだな」


 しかし瞬間移動なんて行動を取られれば逃げるもなにも神出鬼没。いつどこに追い込まれるか分かったものじゃない。

 その上、対抗手段はあの怪物が次にどこに現れるのかを予測する一点に限られる。

 何度か経験すればパターンのようなものも生まれるだろうが、そこまで追われたいと思うほど二人は奇特な人間ではない。


「なんか、あの怪物のこと考えてたら目的を見失いそう……」

「目的は脱出だからな。アイツに関しては、アドリブでどうにかするしかないか」


 ヤツばかりを考えて脱出を疎かにはしていられない。


「ま、まぁ? こういう状況ではお約束みたいなのもあるしなんとかなるわよ」


 建物の中で遭遇した怪物は、外に逃げ出せば追ってこない――ゲームや漫画ではある程度のお約束。

ここは現実なのでどこまで通じるかは曖昧でも今はその気持ちを持って脱出を目指すのが正常な心にとっての最善だ。


「じゃあまずはこの部屋の中からだな」

「そうね。なにかあるといいけど」


 そう言って部屋の全容を見渡そうと二人が扉側から一気に振り返る。


「あ?」


 瞬間、ユウキから発された疑問符につられて月夜御も同じ言葉を発しそうになるほどの理不尽をその目に映す。

 今までそこにはなにもなかった。

 いや、内装はそれなりにあった。しかし部屋の奥に押し込まれた月夜御が歩いてユウキのいる場所まで来られたのだから、障害物なんてどこにもない。

 ――では、なぜそこに今まで存在しなかった・・・・・・・・・・巨大なケロイドの怪物が立ち塞がっているのだ――?


「うそ」


 夢を見せられているような、奇妙な感覚に陥りそうだった。

 瞬時に扉を見れば先ほどユウキがかけたばかりの内鍵が閉じている。

 密室。逃げ場がない・・・・・・

 鍵を開けて扉から出るにもワンアクション必要だ。それを行うまでに、怪物は動くことができよう。


「まず――っ」


 グォンッと空間を丸ごと切り裂くような風が吹き、同時に声が出た。

 一階にいたはずの怪物がどこから来たのか、最速で逃げ出すにはどうするべきなのか、今この瞬間の二人にそれらを考える余地はない。

 怪物はすでに、片手に握り込んだ黒い凶器を振りかぶっている――!


「くっそ!」


 次の瞬間、月夜御の身体に強い衝撃が走る。

 手で押されるような衝撃によって床に伏した彼女が突き飛ばされたのだと認識するのに時間はかからなかった。


「いっ、た、い……」


 ひりひりとした痛みを腕に感じ、さすりながら起き上がったところで顔に飛び飛びで液体が付着していることに気付く。


「なにこれ」


 手で触れたそれは赤、いや、正確には赤黒かった。

 そしてわずかに漂うのは鉄錆にも似た匂い。


「血?」


 嫌な予感がした。

 恐る恐る、自分がいたその場所を見上げる。


「――――ユウ、キ?」


 変わらず立っていた彼の足元には、止まることなくぼたぼたと流れ出す鮮血。

 それがどこから流れ出ているのかを辿れば彼の上半身、ちょうど左の肩口。まさに口から垂れるように血は滴り落ちている。

 骨と肉が露出したそこを右手で押さえつけるユウキは自分の血を浴びてだろう。真っ赤に染まり、かけていた眼鏡が外れてしまっている。

 そして、月夜御の足元に転がっている布切れを纏ったこれ・・はなにか。


「ひっ……!」


 腕だ。手がついている。大きく骨ばった手。しかも左手。

 すべて理解した。

 拡がっていく血だまりも、彼女が浴びた血も、溢れてくるそれはすべて、月夜御を突き飛ばしてそこに立ち、苦痛をこらえている彼のものであることを。


「いや‼ なにこれ、なにこれ‼」


 信じられない。彼は腕を切り落とされた。

 感情のない目で見つめ続ける怪物や自分たちに付着した赤がそういうことであることを理解してしまった月夜御の悲鳴が部屋中に響く。

 信じがたい出来事への恐怖で埋め尽くされる頭の中は、本当は理解しているのにそれを拒んだ言葉だけを口から吐き出させる。


「やだ、やだやだ助けて‼ 死にたくない‼ こんなのおかしい‼ おかしいの‼」


 恐怖に支配された言葉だけをひねり出す口は目の前で自分を庇って腕を失ったユウキへの心配も感謝も出てこない。

 ただ目前に迫る理不尽な死を拒む絶叫が耳をつんざく。


「今一番死にそうなヤツの目の前でそんな騒ぐなよ……。腕だけじゃなくて耳も痛い」


 そう発した彼は汗を滲ませ、月夜御を制するように苦笑する。


「けど、……そうだなぁ。……しくじったなぁ」


 これじゃあどっちも、とそう言いかけたユウキを怪物が鉈を持っていない方の、野太い腕で殴打した。

 不自然に筋肉が隆起した剛腕に打ち抜かれた彼の身体はなんの抵抗もできずに吹き飛ばされ、壁に激突して崩れ落ちる。

 それから時が止まったように彼が動くことも、声を発することもなかった。

 未だ恐怖に囚われている月夜御にとってどこまで認識できているか怪しいところだが、壁にぶつかった頭部から滴る血と項垂れる肉体は、ユウキが絶命していることを生々しく伝えていた。


「あ、あ……あぁ……ああああああ」


 ダメだ。

 また人が死んだ、目の前で、今度は自分のために。

 こんな理不尽、誰が認めるのだ。

 ぼろぼろと勝手に流れる涙も言葉にならない声も止まらない全身の痙攣も、すでに彼女の脳が理性という名のコントロールを外れていることを表している。

 無機質に壁際の死を見つめていた怪物は無口なまま、お飾りの口を開くことなく、今度は、小さな小さな半狂乱の彼女を見る。


「やだ……やだぁ……」


 一歩踏みしめた怪物が鉈を振り上げる。

 震え、助けを乞う彼女の声は聞こえていない。慈悲はないがそれを理解する知能もないのだ。

 当然のように救いはない。希望もない。

 これは非現実的な現実であり、信じがたいリアルな体験。

 彼は先に終わった。

 あとは月夜御が終わるだけ。


「やだ……しにたくない。しにたくない。しにたくない」


 求めた生への渇望は無為に消えていく。

 不意に見上げて目があった怪物の瞳の奥にある感情のない狂気が一気に自覚を膨れ上がらせる。


「いや。いやぁ、――――あ」


 頭に向かって落ちてくる鉈はさながら処刑台のギロチンのごとく、世界を暗転させ、現実に在った月夜御鏡花を深い眠りの中に逆転させる。

 不思議と痛みはなく、一撃で失った意識はすでにそこにはなかった。






「ッ、ああああああああああああああ⁉」


 絶叫。

 頭が痛くなるほどに叫び散らす。

 他人の迷惑など知ったことではない。すべて、すべてを吐き出して、横たわっていた場所から転げ落ちるのもまったく気にせず、嗚咽おえつも涎も胃液も全部が体の外へと吐き出していく。

 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。

 吐瀉物の悪臭が拭えぬ血の感触と残虐な光景を思い起こさせ、脳と視覚にこびりついて離れない。

 止まらない涙を止められず、血しぶきが降りかかった頬をガリガリと掻き、ひりひりと痛む腕を庇うように自身を抱き、かち割られた頭に――、頭に――――。


「……あ」


 触れて、そして理解した。


「……生き、てる?」


 差し込んでくるのは朝日。

 見渡す先には自分のよく見知ったリビングの間取り。デスクとテーブルとソファーと、そしてカーペットには自分が吐いた胃液。

 見上げた壁掛け時計には三月二十一日午前九時二十分のデジタル表示。

 薄暗い室内はカーペットを除けばどこを切り取っても平和そのもので、彼女自身がソファーから移動した形跡もなく、昨晩眠りに入る直前までの光景とさしたる変化はなかった。

 生きている。何事もなく、月夜御鏡花は生きている。


「夢、だった……?」


 どことも知れぬ建物に閉じ込められ、ユウキと名乗った彼と脱出の方法を探し、三メートルの怪物に追われ、そして最後は殺された。

 そのすべてが夢だったのか、自問自答を繰り返す。

 それは、夢幻ゆめまぼろしと思いたくても思えないほど生々しさが、血に触れた彼女の掌に残り続けていたからだった。

 額を擦り、最後の瞬間を思い出す。

 爛れた皮膚の怪物が振りかぶった鉈らしき凶器は身動きの取れない月夜御の脳天に対してまっすぐに振り下ろされた。

 ユウキの腕を一撃で切り落とした切れ味の鉈だ。華奢な月夜御の頭くらいなら間違いなく真っ二つに割れたことだろう。

 だが、その瞬間のことはまるで覚えていない。

 即死だったからか? 意識がすぐに暗転したせいで直後の光景すら記憶にない。


「私、殺されたから戻ってこられたの……?」


 問いかけには誰も答えない。

 当然だ。

 怪物はいない、彼もいない。ここにいるのは月夜御鏡花ただ一人なのだから。


「そうだ。アイツ、ユウキは……!」


 正気に戻って思い出してみれば、彼は怪物の一撃を喰らって確実に死んでいた。

 ほとんど痛みを感じなかった月夜御が今こうして胃の中身まで吐いて半狂乱で暴れ回ったのを考慮すれば、腕を切り落とされた激痛を被ったユウキは生きていたとしてもタダではすまないはずだ。

 もちろんこれが月夜御の見た夢なら彼は全くもって関係のない存在だ。夢を共有するなんてアニメや漫画でしか聞いたことのない話。

 実際怪物もこの現実には存在しない生き物だったのだから。

そんなことを気にしていられるほど彼女は今正常ではない。

あれが現実であったのか、夢であったのかの判断すらもまともに下すことのできない限界の精神状態におかれた人間が最初に想起するものとしては皮肉にも至極真っ当な思考に落ち着いてしまった。

 大急ぎで飛び起き、リビングの先にある廊下を抜けて彼が気絶している――というか彼女がさせた――月夜御の自室に向かう。

 無言で待ち構える扉に鍵はかかっていない。


「…………考えてる場合じゃないわ」


 もし死んでいるとしたら、その可能性を振り切り扉に手をかけて押し込んだ。


「ユウキ!」

「ツクヨミ!」


 月夜御が押し込んだ扉は同時に引かれ、内側からノブを捻ったユウキが額に汗を滲ませ、真剣な表情で見下ろしていた。

 そもそも立ち上がれるほど回復したらしい、そのこともすっかり頭の中からは抜け落ちている。


「無事、だった、か……?」

「アンタこそ、生きてるじゃない」


 間違いなく同じ夢を見ている。

 それならば切られ殴り殺されたその瞬間を記憶しているであろうユウキはやけに冷静で月夜御を心配するような口調だ。


「……えっと、ええと」

「……うーん」


 タイミングと息があったせいか、謎の気まずさでお互いに次の言葉が出てこない。

 なにを言おうとしていたのか。

 どういう理由でここに来たのか。

 思考は朝の風に吹き飛ばされ、二人はこう結論付ける。


「朝ごはん、食べましょうか」

「……頼む」




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