第一章・はじまり
三月二十日。
「――知らない天井だ」
男が目を覚ますと、そこは知らない一室のベッドの中であった。
冬用の羽毛布団はぬくぬくと暖かく、全身を包まれると寝起きにもかかわらず再び瞼を閉じてしまいそうだ。
二度寝をかましてもよかったが、知らない場所で目を覚ましたという危機感が、彼の身体を動かそうと警鐘を鳴らす。
ところが、そう上手くはいかなかった。
「……痛ぇ」
主に腹部を中心として全身に残った鈍痛と寝起きが原因とは思えない猛烈な虚脱感で、起き上がるどころか掛布団を剥がすこともままならない。
頭が冴えていくにつれて今度は顔や手に貼られたガーゼ類の感触を自覚する。
……どうしてこうなったのか、彼には前日の記憶がない。否、正確には前日の夜、昨晩の記憶が抜け落ちている。
昼間は新宿付近で新しい住まいを探して物件を実際に回っていた。夕方ごろまで手頃な物件を求めて新宿近辺を不動産屋の男性と移動していたはずなのだが――、不動産屋と別れてちょっと飲んでからなにも覚えていないのだ。
もちろん、新宿に行く経験があまりなかったからつい居酒屋に入っただけであって、一人飲みだったので決して多くは飲んでいない。
酒で記憶が飛ぶほど飲むとこの男は記憶より先に吐く。
そういうことなので、酒が原因ではないと推測する。
いいや、問題はそこじゃない。
まず全身が生傷だらけで
かろうじて首だけ動かしてみるが、ものは少なく、置かれた小物や
カーテンは完全に閉じているが、カーテンの布越しに陽光がうっすら入ってくるので現在は昼頃と推測される。
普段から思っていることながら前髪のかからない目に直接差し込む日差しがこの日に限ってより眩しく感じる。だからと言って前髪は絶対におろさないが。
閑話休題。
今いるのが女性の部屋で、夜の記憶を飛ばした、となるとその間のことはあまり想像したくない。
「急いで
まず体は動きそうにない。
荷物も眼鏡もどこにも確認できないので通信機器の類も当然見当たらず、まるで牢獄の中のよう。
痺れの残る足では姿を見せていない家主から逃げ出すには絶望的だ。
「……どーすんのこれ」
いくら考えても脱出の方法は見つかりそうにない。
「――、寝るか」
*
《続いてのニュースです。今朝未明、新宿区
リビングでつけっぱなしにされていたテレビはお昼のニュース番組を垂れ流していた。
「うぅ……あぁぁぁ、うぅぅ」
来客用の黒いレザーソファーに全身を預け、寝返りを打ちながら言葉になっていない呻き声をあげる月夜御の現在の睡眠時間はおおよそ六時間。
帰宅は深夜、朝方まで慌ただしく動き回っていたので、多少起床時間が遅くなるのは大目に見てもらいたいところではあるけれど、そろそろ起きて昨晩保護した
まだだるい体を起こし、キッチンに立ち寄って冷蔵庫を開く。
「あの人、お腹の辺りあざになってたけど、ちゃんとごはん食べられるかしら」
腹部は骨格に覆われていない分、強い打撃を受けると臓器不全や内臓破裂を引き起こす。そんな知識は彼女の頭の中にも入っている。
彼が倒れていたすぐ近くにも
この場合は風邪のときに用意する食事と同様に、がっつりと肉を使った脂っこいものや根菜のような硬めの固形物ではなく、おかゆの方が適切だろう。
もしかしたら悪環境で傷口に菌が入っている可能性もある。一度ガーゼ類を取り換えて消毒をした方がいいかもしれない。
たまごとご飯を中華だしで煮込み、生ねぎを散らした即席中華がゆを、普段は来客以外では使わないお盆に乗せて廊下に出る。
彼は月夜御自身の自室のベッドに寝かせた。部屋は他にもあるが、そこにしか
成人男性を車からマンションの三階まで一人で運ぶのは骨が折れたが、そこはかつて地元で不良をなぎ倒して鍛えた自慢の
部屋から物音は聞こえないのでまだ寝ているのだろう。あるいは死んでいる。
「入るわよ」
コンコン、と二度ノックして声をかけた。
返事はなかったが断りを入れたので問題なし、扉を開けて自室に入る。
「生きてるわよね? 家の中で死なれたらもっと困るんだけど……あ、起きてるな?」
「なんでバレた⁉」
「起きてるじゃない」
コイツ、さては馬鹿ね? と、言いかけて言葉を飲み込んだ。
寝たふりを感じ取っての一言だったが、まさか本当に乗っかってくるとは思っていなかった。
「――ねえ、あなた」
「なに?」
「どこかであったことある? 見覚えあるのよね……」
「さぁ? 少なくとも、俺は初対面だと思うけど」
「そっか」
「もしかして恋しちゃったか?」
「ちょっとなに言ってるのか分からないわね」
四方八方に跳ねたクセの強い茶髪と濁った海のような蒼い目が特徴的な男はいたずらに微笑みながら冗談を口にする。
誰にも見つからないような裏路地でヤクザに暴力沙汰で絡まれていたわりには随分とフレンドリーで一般的な感性をお持ちだ。
「ともかく無事? なんともない?」
「あー。うん。これ、キミが?」
男はおそらく痛みで動かないのであろう身体をゆっくりと動かし、布団から出した上半身のいたる箇所に貼られたガーゼや絆創膏を視線で指し示す。
「そうよ。あんなところで襲われてるし、調べたらあの地域は連中のたまり場だったし、あなた一体なにしたのよ」
「連中? なにしたってなにもして――いや、え? いや、まさかぁ」
困ったように考え込んでいたが、どうやら思い当たる節があるようだ。
「なんだっけかな……たしか、さくら通りの路地で酔っ払いがゲーゲー吐いてて、介抱してたら腕に注射痕があって、コイツもしかして酔っ払いじゃなくて薬物の中毒症状かなって思ったからとりあえず救急車呼ぼうとしたんだけど、……その後ぶん殴られてからあんま覚えてないな」
「人助けしようとしてたの?」
「まぁ、一応」
今の話を聞いたところ、彼はただの善人らしい。
助けた相手と彼の運が悪かっただけであって、彼がやろうとしていたことは善行だ。
「ま、交通事故だと思っておいた方がいいわね。でもあなた、あの場から助けてもらえただけ幸運よ。私だって、こういう仕事してなかったら助けなかったけど」
「そういうモンか?」
「死にたくないもの、誰だって」
「……普通はそっかぁ」
「で、起き上がれるかしら。あとごはんは食べられる?」
仕事用とは別の用途で使う月夜御個人のノートパソコンが置かれたデスクの上に盆を置いて、男に起きるように促す。
「あー、ちょっと無理。それに助けてもらった挙句に年下の女の子に飯食わせてもらおうとも思ってないからいらない、それ」
「なによ、女の子って今関係あるわけ?」
「あるだろ、そりゃあ」
男はそう言って月夜御の全身を頭のてっぺんから足のつま先まで、視線を向ける。
彼が善行で人を助けようとしたように、彼女も一応は善意で彼を助けたのだが、もしかしてお金を取られるとでも思っているのだろうか。
見たところ年齢は二十代も中盤と言った雰囲気だし、あるいはそういった特殊なサービスだと思われているやもしれない。わからなくもないが。
「仕事って言ってたけど、親の仕事?」
「私の仕事よ」
「え?」
「……なによ、そんな驚いた声出して」
口調が飄々としていた彼の口からわりと本気の疑問形が出てきたことに月夜御も驚かされる。
しかもさっきの視線がより強く、確認するような目つきに変わったのがなんだか彼女にとっては不愉快だ。
「しかも、さっきからジロジロ人のこと見てなんなのよ……一応若々しい二十代の女なんですけど」
「は⁉ 二十だい、いてててて……」
素っ頓狂な大声を張り上げたせいでお腹に力を籠めすぎたようで蹲った男を、静かに見つめながら月夜御は脳内でこの男がなにを考えているのかをようやく理解した。
「アンタ、私のことなんだと思ってんのよ」
「い、いやぁ
などと申しながら苦笑する男の声色は決して冗談を言っている時のそれではなく、本当に月夜御を中学生だと勘違いしての発言らしい。
実際、彼が勘違いするのも無理はないだろう。
もちろん、彼女自身もそのことをコンプレックスにして生きているわけで、探偵としては依頼人にナメられないよう強気を崩さないスタンスなのもそこに起因している。
「とりあえず、体が動くようになったら黙って帰るからさ。いつ親御さんが帰ってくるかわかんねえし、普段通り勉強でもしてればいいぃ――――⁉」
ガッと、食い気味に布団から引っぺがされ胸倉を掴まれた男は彼女の幼げな容姿からは想像もつかないような強い力に身体を引っ張られた事実に驚愕し、同時に傷が一斉に開いたような激痛に襲われる。
「ちょっ、ちょっと落ち着けって穏便に、穏便にいこう! 具体的には痛いから離してもらえるとありがたいんだけど!」
「だ、れ、が中学生よ! どこからどう見たって立派な成人女性でしょ⁉」
「マジかよ⁉」
「平成十一年九月生まれの立派な
「いや目がここについてるから中学生に見えて痛い痛い痛い暴力反対!」
胸倉を掴まれたままぶんぶんと前後に揺さぶられる男がちょっと挟む余計な一言で余計に月夜御が増長させられていることにまったく気付いてはいないのか。
コンプレックス、もとい地雷を無事に踏み抜かれた彼女はご覧の通り怒り心頭のご様子だ。これはしばらく収まらない。
そして怒りが爆発していながらも彼女はこのやり取りの中で気付くのだ。
この男、絶対アイツらに
「というか、助けられたんだったら名乗りなさいよ。こちとらアンタの命の恩人なんだから」
ゆっさゆっさと揺さぶりをかけつつも、若干の冷静さを取り戻して彼の名を聞こうとする。
「なんだそれ、理不尽じゃ……」
「死ぬよりマシだったでしょ」
「別に死んでも――……ああ、うーん。でもさぁ、人に名前を聞くならまずは自分からってよく言うだろ? キミの名前は?」
「む……」
言われてみれば、たしかに彼女は彼に名乗っていない。
相手に名乗らせたければ自分が先に名乗るのも事実として礼儀である。
掴んでいた服の襟を一旦離し、一度落ち着くために深呼吸をしてから彼の前に居直った。
「
「
ちゃんと皮肉は伝わる手合いのようだ。安心した。
「それで、アンタは?」
「んー。そうだな、名乗るほどの者でもないっていうやつかな」
「はぁ⁉」
やっと四肢が動くようになったらしく、頬をかきながら困ったような表情で男は言った。
ここまで彼は人に散々自己紹介をさせておいて自分の情報は一切明かしていない。
今一度胸倉を掴み上げ、顔を近づけて凄むように彼に問う。
「アンタ、新手のナンパじゃないでしょうね……それともあれか? アイツらと共謀して強盗でもしようってことかしら?」
「だってそうだろ。大体、ツクヨミは俺のこと知ってどうするつもりなんだよ」
「どうするつもりって……ムカつくから助けたお礼とかで金むしり取ってやろうかって感じだけど」
「そっちの方が強盗くさいんだが!」
「でもアンタ、金持ってなさそうな顔してるのよねえ」
「失礼な! 俺の口座の残高は二百万ちょいだぞ!」
「その口座のカードなら昨日アイツらに財布ごと持ってかれたわよ」
「ああああああああああ! マジかよ!」
そりゃ手荷物がどこにも見当たらないわけだ! と大声を張り上げる。
そういえば彼の荷物はデスクの上に置いておいたスマホ以外リビングに置きっぱなしだが、反応が面白いので彼の方から話題を出すまでしばらく放置しておくことにした。
「とにかく名乗りなさいよ。名前が分からないんじゃ話しづらいでしょうが」
「ええ……、ツクヨミちゃんってば俺と話してそんな楽しい?」
「楽しくないわよ!」
ここまで茶化されていると会話がちゃんと成り立っている実感すら彼女には湧いてこない。
おかしい、一応まともな人間と話をしているはずなのに、これでは組織のすっとこどっこい三人組の方がまだ会話が成り立つ。
しかし困ったことにこの男、本当に名乗る気がないらしい。
月夜御がどれほど名乗れと言ってもまるで聞きやせず、うまく話題をかわされてしまう。
薬物中毒者を通報しようとする常識はあるのに、自分は緊急搬送を拒んだことに関しても「するのとされるのは別。警察や救急車は苦手だから関わりたくない」と、なんとも奇妙な答えだけが返ってきた。
警察が苦手なのは元ヤンキーの月夜御も同じくだが、自分の命がかかっていれば話は別だ。
あの時、意識を失う直前にもかかわらず制止してまで拒否したということはよっぽどなのだろうか。
「じゃあいいわよ。でもアンタ、どうやって帰るつもり? お金はないしその怪我だし、誰かに迎えに来てもらえるような身分なわけ?」
「迎えは――来てくれるヤツならいる。ただ連絡を取るにしても、俺のスマホがどこにあるかわからない」
「そこにあるけど、充電なら切れてるわよ。私のスマホの充電コードは対応してなかったし」
「え、マジで言ってる?」
「マジよ。しかも画面バキバキに割れてたし」
「あぁ……買って半年の命だった……」
中華がゆが乗った盆を置いたままのデスクから蜘蛛の巣が張ったように液晶ガラスが割れたスマートフォンを手に取って投げ渡す。
男が電源ボタンを押し込んでも、充電がないことを意味する赤い電池が明滅する黒い画面だけが無常にも映し出された。
この調子ではその迎えに来てくれるヤツとやらのアドレスを記憶しているわけではないようだ。
「ちなみに、ここ東京?」
「豊島区よ。池袋駅まで徒歩で大体二十分くらいだったかしら」
「都内かぁ」
打つ手がなくなって完全に頭を抱えている。
さすがに同情を隠せなくなって手伝おうかと月夜御も聞いたが、これ以上借りを作るわけにはと断られてしまった。
だからと言って無一文で怪我人を追い出すわけにもいかないし、事務所でもある自宅に置いてやるわけにも
いかない。
どうにか融通を利かせられないかと考える。
そんな折、電源が入っている彼女のスマートフォンに一本の着信が入った。
「ちょっと失礼」
「友達?」
「仕事よ」
軽口をいなして鳴り続ける着信に出る。
「はい、月夜御探偵事務所です」
先ほどとは打って変わって業務的な態度を取る探偵のそれっぽさに、男から「おぉ」と感嘆の声が上がる。
一方でそんな彼のことは一切無視して話を始めたその電話の相手は――。
『ええと、月夜御探偵事務所の月夜御鏡花さんでお間違いないでしょうか』
電話してきたのは老齢の女性。
ゆったりとした穏やかな口調だが、どこか疲弊している声色のように感じるのは気のせいではないだろう。
つまり、新たな依頼だ。
「はい、本人です」
『あぁ、よかった。あの、お忙しいと思うのですが、探偵さんにお願いをしたいのですが本日お時間よろしいでしょうか』
「大丈夫ですよ。今すごぉーく暇ですから」
半分本当で半分嘘である。
「こちらにいらっしゃいますか? それとも、こちらから出向きましょうか?」
『家まで来ていただけるんですか? それならぜひそうしていただきたいのですが。腰が悪くて電車に乗れなくて……』
「もちろん構いませんよ。ではお名前と電話番号、ご住所を――」
淡々と依頼人の個人情報だけを聞き、それをもう一台持っている個人用のスマホのメモに打ち込んでいく。
電話の相手、依頼人の名前は
新宿区内に住んでいる六十代の女性で、数年前から腰を悪くして電車移動が難しくなったのと、元々地図に弱いため事務所には来られないとのこと。
今回はどうしてもすぐに聞いてほしい話があるらしく、以前友人がなくしものを見つけてもらったという月夜御探偵事務所を選んだようだ。
「はい。では十五時ごろに伺います。はい、失礼します」
今聞かなければならない情報をすべて聞き、時間の約束だけ取り付けて電話を切った。
「すごいな、ちゃんと仕事してるじゃん」
「逆になんだと思ってたの」
「いやぁ、これでツクヨミが中学生じゃないって証明できたって思っただけだ――」
よ、までは言わせなかった月夜御の鮮やかな右ストレートが頬骨に着弾する。
「いってえ……ヒスはモテねえぞツクヨ――」
またもやミまでは言わせず、隙を生じぬ追撃の左ストレート一閃により、悪気は一切なさそうな男はベッドの海へと沈んでいった。
軽率な発言は後々死を招く、その言葉が次にこの部屋で目覚める彼には身に染みることだろう。
「ほんっとうに最低!」
心配しただけ損したわ! と怒鳴り声で捨て台詞を吐き、部屋を出ていった彼女の声はもちろん彼には聞こえていなかった。
……それでも家から叩き出さないだけ月夜御は優しい、かもしれない。
*
三月二十日、午後二十一時。
「はーぁぁ……」
岡本幸の住まいからようやく帰宅した月夜御が大きなおおきなため息を一息ついて、リビングの仕事用デスクに突っ伏した。
電話越しに聞いた岡本氏の声色ですでに嫌な予感はしていたが、この二年間の経験から予想していたこと以上、いいや予想を上回る依頼内容が待っていた。
なんなら車に戻った時には前日の依頼内容とはまた別の意味で強烈な依頼が舞い込んできた衝撃でしばらく動けそうになかったほど。
探偵とはいえ小娘一人にどうにかできるようなことではないとも思ったが、岡本氏の話を聞いてしまったら彼女はどうしても受けざるを得なかったところもある。
その依頼内容は――。
「殺人事件の犯人を捜せ、なんて無理に決まってるじゃない」
殺人事件だった。
話は遡り、月夜御が岡本幸から聞かされたのは彼女の息子夫婦が今朝がた自宅で殺されていたのを彼女の夫が見つけて通報したというところから始まる。
岡本幸の夫・
ところがチャイムを鳴らしても夫婦は応じることがなく、事前に預かっていた合鍵を使って家に入った瞬間、近づくことすら
駆け付けた警察が部屋を調べたところ、寝室にはそれぞれ切り傷を負い、首と胴を真っ二つにされ、壮絶な表情のままこと切れた亮と美智子の惨殺死体が布団で寝かされていたらしい。
凶器の類はその場にはなく、切断部分から血が流れていたが、争ったり周囲に血が飛び散った痕跡はなかったと電話越しに旦那から聞いたと幸は言った。
ここまで聞いて思い出したのが、昼間にニュースで流れてきた新宿区内の夫婦が遺体で見つかったという事件。
殺害されたその夫婦の姓も岡本であったことに気付き、幸に問いかけると、昼前の時点ですでにマスコミが大勢押し寄せていたという話が聞けた。
しかし、通報して警察が来ていたのなら探偵にわざわざ高い金を払って頼む必要性はない。
それでも犯人捜しを依頼した幸はこう月夜御に言った。
――警察はすでに
奇妙だった。
調べてみれば、都内で今回と似たような殺人事件がすでに二度も起こっていることがネットニュースでは大きく話題に上がっており、誰でも簡単に警察の言い分が不可解であると分かる。
けれどなんの力もない老夫婦が自力で犯人を見つけ出し、警察に突き出すなんて芸当は不可能に近い。特にこんな猟奇殺人の犯人となれば最悪の場合、殺される可能性すらある。
だからこその探偵だ。
当然のことながら若い女性探偵なのは承知の上であり、同じように巻き込まれれば命の危険もありえると分かっていてもなお、本当に些細な手がかりひとつでもいいから、犯人に繋がる証拠か犯人そのものを見つけてほしいというのが岡本幸の依頼の全容であった。
依頼料は今後次第で話し合いにはなるが、それでも老後の生活に使う貯金を出し切るつもりがあると彼女は語っている。
「別に、お金がほしいわけじゃないのよね」
命とお金、どちらが大事か問われれば当然のように命と答えるだろう。
多少の倫理観は疑われるかもしれないが天秤にかかっているのが他人の命であればまだお金と答えていたけれど、自分の命はなによりも大事だ。
普通なら断っていい、というより断るべき依頼だった。
けれど、けれど。
「……断れないわよね」
警察が動かない事件と言われ、動かないということが彼女にはできなかった。
そうして事件に足を踏み入れた彼女の最初の仕事は手始めに聞き込みから。
幸の散歩という体で一緒に周辺を回り、近隣住民に話を聞いた。
まず岡本夫妻は子供こそいなかったためいわゆるママ友関係などはなかったが、人当たりが良く近隣住民とも友好関係を築いており、自治体で定められたルールを破ることもなかったのでご近所トラブルとは縁遠い生活を送っていたとのこと。
よくある恨みを持たれるような人ではない、というパターンだ。
だが、話をより深く聞くにつれていくつか気になることが見つかった。
ひとつ。最近の夫妻は比較的温暖な日中でも手袋をしていたり、朝のゴミ捨てには冬場でも半袖姿がよく目撃されていた夫の方も下はスウェットなのにキッチリとしたハイネックの服を着こんでいたり、とにかく体を隠すような服装をしていたこと。
ふたつ。これは殺害される前日だが、妻の美智子に挨拶をしたら無視されたらしい。そしてうわごとのように「殺される」「また死ぬかもしれない」なとど呟いていたようだ。
みっつ。これらを総合した上で、二日前から岡本夫妻の自宅から朝、大きな叫び声が複数回あがっていたことを同じアパートに住んでいる子供から聞くことができた。
あまりの喧しさで心配になった両親が二人の部屋を訪れたようだが、夫妻は「なんでもない」「うるさくして申し訳ない」としか返してこなかった。
その日の夜、夫妻がお詫びと言って持ってきたケーキを家族で食べたとそのランドセルを背負った子供は大いに喜んでいた。
おそらく亡くなったことはまだ知らなかったのだろう。申し訳ないことをした気持ちになった。
犯人に繋がる証拠こそ全く見つからなかったが、事件を紐解くに必要な鍵は確実に夫妻の様子が一変した二日間にある。
「……夫妻は確実にナニカに襲われている。でも、そのナニカは何日かかけて夫妻を殺した。……なんのために?」
直接的な死因が首と胴を切り裂かされた点にあるのなら日にちをまたぐ必要性はどこにある?
なにより首と胴を切断されている間、叫び声ひとつあげなかったのは何故だ?
しかも岡本吉雄が家に入る際に合鍵を使ったことから、鍵がかけられていたのは確実。警察が調べた段階では夫妻がそれぞれ持ち歩いている鍵は玄関の戸棚に揃っていたようだ。
「あーもう! わかんない! なによこの事件!」
探偵として殺人事件に関わるのはこれが初めての出来事だが、どこぞの高校生のようにまるっと謎を解いて犯人を見つけるなんてことが簡単にはできないことを思い知らされるだけで成果は微塵もない。
自分の無力さをただ痛感するだけの、プライドが傷つくだけの一日だった。
「岡本さん、ひどい顔してた」
当然だ。息子と、娘同然に可愛がってきた女性をこの世で最も忌むべき理由で同時に亡くしたのだから。彼女は本来こんなにもすぐ次の行動を取るべきではない。
それでも彼女は動いた。自分のことより先に、真実を究明しようと第一歩を動き出した。
「……ダメね、やることはちゃんとやりきるわよ」
デスクの上、立てかけられた写真を小突いて月夜御は真剣な表情を浮かべる。
仏頂面の彼女自身の隣でもう一人、太陽のような笑みを浮かべる月夜御鏡花そっくりな少女に誓うように。
「疲れたぁ。まずは寝るかぁ」
こめかみを指で押さえ、生あくびをかみ殺した。
「……あ?」
が、そういえば今日もあの男に自室を占領されている――その事実を、今この瞬間に思い出す。
「アイツ、明日には追い出してやる」
何なら今すぐ追い出すところだが今日は遅いので勘弁してやるとして、明日は仕事が始まる前に家から叩き出してやろう。
ついでに元はと言えば殴り飛ばして気絶させた自分も悪いんだし、と言い訳をかます。
ということで心の底から明日の朝の方針を決定させて、本日も月夜御鏡花は事務所の寝心地が悪いソファーに横になり、就寝を決めることとなったのであった。
明日もきっと腰と首と頭が痛い一日になるだろう。
*
■月■■日。
彼女はまどろみの中にいる。
深く深く、眠りの更に奥。深層の先に落ちた先。
見えるだけの夢が待つ深い心理の海が眠りの向こうで彼女を待つ。
――そのはずだった。
ごぽり。
まるで水面から突き落とされたかのような一瞬の抵抗感と、呼吸もままならないほどの圧迫感に襲われる。
ぶくぶくと口元から空気が漏れて、肺の中に残された僅かな酸素を残さず全部吐き出してしまいそうなのに、体は自発的に動けない。
誰に押さえつけられているわけでもない。足を引っ張られているわけでも、身動きが取れないように拘束されているわけでもなく、ただひたすらに体は見えない水底へと沈んでいく。
ごぽり。ごぽり。
意識が混濁して、直接的な感覚が曖昧だ。
落ちる間にますます空気は口から出て行って、本来であればきっと苦しいのだと思う。
水面は遠く、どこまでも、見えることのない無限の中に落ちていくことを、次第に脳が当たり前のことであると判断し受け入れようとしている。
ごぽり。ごぽり。ごぽり。
いけない。
このままだと浮上できなくなる。
そんな考えが、失いかけた意識の中で閃いて消えていく。
「ダメだよ」
――声がする。
「キミたちはソコで沈んでしまうような人間じゃないだろう?」
声。若い、十代の少女の柔らかな口調が耳のすぐそばで直接語り掛け、沈み込んだ意識の覚醒を促す。
「さぁ、今一度はじめてくれ」
声に応じるように水面から伸びてくる光と手。
「頑張って」
少女とは別に、ノイズを含んだ声がした。
大きな、大きな手に見えたのに、近づくにつれて落ちる自分の手と同じくらいの大きさになった
「諦めないで」
今一度声が呼びかけてくる。落ちていく意識を覚まさせるような優しい呼びかけ。
「終わらないで」
なんてことだ。
触れた掌から伝わる温度は――自分のような。
「目を覚まして」
そして、急速に世界は明滅する。
「ようこそ、プレイヤー諸君」
浮上した体。開けた視界。目覚めた意識――そのすべてが白い空間の中にある。
真っ白に塗り潰された世界の中で、見開いた彼女の翡翠の瞳は、煌々と光を含んだ紅い瞳に微笑みを湛えた白銀、それでいて黒い――美しい少女の姿を見た。
「私は、キミたちの挑戦を歓迎しよう」
それを最後に、声は聞こえなくなった。
*
■月■■日。
「―――――」
声がする。
「――み」
声が、する。
「おい、ツクヨミ」
その呼びかけは彼女を眠りの中から浮上させた。
「おい、聞こえるか?」
目が覚める。
目の前で見下ろしてくるのは、あの短い茶髪をかき上げた蒼い目の男。
「――え」
違和感。目に映る世界に違和感を覚える。
黒縁の眼鏡、ガーゼとばんそうこうに覆われた傷がなくなった顔、あの夜に着ていたカーキ色の上着、そして月夜御を起こすために動き回れるほどに回復した男の姿。
そして、眠りに就く前に見たリビングの色のない天井とは異なる色のある豪奢な天井。
「なに、これ」
世界を見つめる。周囲を探る。
ない、部屋がない。LEDのライトがない。ベッド代わりのソファーがない。スマホを置いたテーブルがない。着替えたはずの部屋着がない。
自分自身すらも眠る直前とは違う姿。
そして自分が違うのなら、世界は大きく異なっていることにもすぐ気付くことができた。
「ここは、どこ……⁉」
月夜御鏡花は間もなく知る。
ここが自分のよく知る家の中とまったく違う、知らない家の一室であったことに。
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