呼び捨ての難しさ

 「千夏さんゴメン、寝坊しちゃったよ」


登校前、急いで待ち合わせ場所に向かったところ、彼女は既にいた。

普段は千夏さんを待たせないように早めに着くけど、今日はダメだったか…。


「気にしなくて良いわよ。普段はアタシが玲を待たせてるんだし」


怒ってなくて一安心だよ。


「じゃあ行きましょうか」


「うん」

僕達は並んで登校し始める。



 「って程じゃないけど、アタシのお願い聴いてくれる?」

登校中、千夏さんが僕に話しかけてくる。


「…何?」

無茶ぶりされないことを祈る。


「今日1日、アタシを呼び捨てにして」


「え…、そんな事で良いの?」

思ったより簡単なことだった。


「アタシ達付き合って長いのに、玲は未だに『千夏さん』呼びじゃん。だから変えさせたら面白そうだと思ったの」


「なるほどね。わかったよ、千夏さ…」

おっと、いけない。は禁止だった。


「わかったよ。千夏」


「…呼び捨てにされるのは父さんだけだから、新鮮だわ~」

彼女は意外に嬉しそうな顔をしている。


僕は違和感が半端ない。偉そうというか、立場が変わったというか…。

簡単だと思ったけど、意外に難しいな。



 登校し、自席につく僕と千夏さん。


「玲。呼び捨てはだからね。母さんの前でも言うのよ」


「わかってるよ。千夏さ…じゃなくて千夏」


「なら良いわ」


わかってはいるけど、全然慣れる気がしない。


それからも学校内で話したけど、クラスメートが僕を観る目がいつもと違う気がする。千夏さんを呼び捨てにすることで、イメチェンしたとでも思われた?


呼び方も、その人の性格や個性を表すかもね。



 放課後。いつも通り千夏さんの家に寄る僕。

リビングに着いて早々、千春さんが話しかける。


「2人がもうすぐ帰ってくると思って、袋菓子を出したの。食べるわよね?」


あれは…、千夏さんが好きなお菓子だな。


「食べる!」

彼女はそう言って、ダイニングテーブルにつく。


「僕もいただきます」

千夏さんの隣に座る僕。


「飲み物を用意するから、ちょっと待っててね」

千春さんはキッチンに向かおうとする。


「母さん急いで。早く食べたいから」

待ちきれない様子だ…。


「千夏。千春さんを急かしちゃダメだよ」

この数回でようやく、を付けずに呼べるようになった。


違和感は変わらず残ってるけどね。


「…玲君どうしたの? って…」

千春さんは驚いた顔をしている。


事情を知らないと驚くよね。僕は事情を話す。


「そういう事ね。玲君が肉食系とかオラオラ系になったかと思ったわよ」


「でも意外に悪くないでしょ?」

千夏さんは最初から呼び捨てに抵抗なかったね。


「う~ん…、私は玲君らしくないって思うわ…」

千春さんの言葉や表情で、好意的ではないのは明らかだ。



 その後、千春さんがキッチンで飲み物を用意し、テーブルまで持ってきてくれた。ここからがおやつの時間だ。


「千夏ちゃん。『さん』とか『ちゃん』を付けてるからといって、距離がある訳じゃないのよ」


千春さん…。さっきの件をまだ気にしてたのか。


「そう? 仲が良ければ呼び捨てになるのが普通じゃない?」


千夏さんの言った事も、わからなくもない。


「それ、普通かしら? 玲君は今日1日呼び捨てにしてどう思った?」


「違和感が凄いです。明日からは『千夏さん』呼びに戻しますね」

1日呼んでも慣れなかったんだ。僕には向いてないと思う。


「えぇ~」

千夏さんは不満そうだ。


「呼び方よりも大切なのは、でしょ。ねぇ千夏ちゃん?」


「……そうかもね。母さんはアタシを『ちゃん』付けするけど、いつも優しくしてくれるし感謝してるわ」


呼び捨てじゃなくても、愛情は生まれるんだ。この母娘を観れば間違いない。


「わかってくれて嬉しいわ♪ 玲君を調教するなら、別の形でね♪」


途中まで良い話だったのに、最後で全てが台無しだよ。

そう心でツッコみながら、おやつの時間は続いていく…。

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