11話 美しい世界
世界はアドヴェントの季節。温かな家族の時節。
言うなれば、全く親近感の湧かないシーズンの筆頭で、遠くでただ楽しげに巡るジプシーの往来を静観する感覚でいた。昨年までは。今年はまるで心地が違う。夜空を彩る灯りを見ればエイトを誘い出したくなるし、彼好みの書籍があれば全てプレゼントしたくなる不思議。クリスマスという理由を味方に、彼の喜ぶ姿を何度でも想像できた。
そして遂に、我が家に初めてクリスマスツリーがやって来た。
恭しく首を垂れて、ゆっくりと玄関をくぐるモミの木。早速リビングへと移動させ飾り付けを開始する。次第に清涼感のある緑の香りが広がっていった。
「パトリック。自分、クリスマスのお祝いは初めてなんだけど、すごく柔らかいんだね。もっと賑やかしいと思ってた」
「フフフ。それはもしや騒々しい雰囲気でしょうか」
「ん? あれ?」
笑いが溢れて止まらなくなり飾り付けを一時休止。一年を振り返るにはまだ早いが、今年は本当によく笑ったと思う。空笑いではなく、心の底から、貴方のおかげで。
飾り付けは順調に進み、残り少ないオーナメントの配置を相談していたはずだった。気づけばエイトが背中にくっついたまま離れなくなっていた。
「雪だるまが二つ残っていますよ」
「パトリックにあげる」
「フフ、ありがとうございます。そうでしたエイト、クリスマスプレゼントは何にしましょうか」
「気にしなくて大丈夫だよ」
「なるほど。では、当日のお楽しみということで」
「いいよ。そばにいてくれたら、それでいいから」
腕に力が込もった。そばにいるのに寂しさが伝わる。
「……ねえ。今どんな表情してる?」
「見えなくても、感じているのでしょう? 貴方といる時の私は笑顔が絶えないと」
後ろから手が伸び、雪だるまを一つ引き取っていった。
「この『楽しい』の感情は、来年の今頃も覚えているのかな」
そっと振り返り、額に落とす口づけ。大丈夫だと言葉で説得しても、きっと貴方は納得しない。
晴天の祝福と共に迎えたクリスマスの朝。なかなか起きてこないエイトを迎えに行くと、ブランケットの隙間からいたずらっ子の眼差しに射止められた。
「やっと来た」
名前を呼ばれ安易に近づけば気ままな二度寝に誘われる。
「映画を観に行くのではなかったですか?」
「うん、おうちで観る。ぴったりくっついて観たい。でもその前に、パトリックの腕枕でもう一度寝る」
「こらこら」
耳元で響く軽やかな笑い声。幸せの前触れがあるとしたら、きっとこの音色に違いない。
朝食後、宣言通りくっついて始まる映画鑑賞。普段観ないジャンルのものに挑戦したいと言うので、異国情緒漂うヒューマンドラマをセレクトした。私も観たことはないがベストセラー小説を映画化したもので評判も良く、気に入ってもらえるものと期待している。
鑑賞途中、彼はとある言葉を拾った。主人公が旅立つ友人に向けて言った餞の言葉だった。
「今日の君を忘れても、この友情は忘れないって、あり得るの?」
「エイトはどう思いますか?」
意地の悪い質問だったと思う。そう自覚しながらも、考えて欲しかった。貴方が求める答えは、事実なのか期待なのか。作中、新天地へと出発する友人を見送り彼は言った。
「友情は一人では持てないから、彼を忘れてしまったら友情もなくなっちゃうと思う。でももし主人公の言う友情が、二人の思い出を指しているなら、再会した時にまた復活するかもしれない。友情も絆も。……どうだろう、わかんない」
抱き寄せて伝えた。
「私も同じように思っていますよ」
復活を避けられない想いが存在するから、貴方が此処にいてくれるのだと思っていますよ。
午睡を挟んで夕暮れ時。呼び鈴が鳴り、エイトに応答を頼んだ。彼には秘密にしておいた、とびきりのクリスマスクグロフの受け取りだった。玄関から戻った彼の表情は晴れやかで、真っ直ぐに私の元へとやって来た。聞くと、笑顔の理由はもう一つあるらしい。
「メリークリスマス、だって。配達員のお姉さんがそう言ってくれた。それがお仕事かもしれないけれど、自分は嬉しい。パトリックは嬉しい?」
「お祝いの言葉をもらえて、でしょうか」
「ううん。自分と過ごすクリスマスは嬉しい?」
思わずお届け物を指差した。
「そのクグロフ、一人前に見えます?」
「三人前くらいあるね」
「何処かの誰かさんとシェアしたいと思って取り寄せたものですからね。独り占めしてよかったですか?」
「ふふっ。やだ」
そのまま何処かの誰かさんは私の胸に顔を埋めた。
幸せな時間は足早に過ぎてゆく。体感時間はまるで三時間。待ち侘びた時間の長さに比べたら、割に合わない気がした。それもこれも貴方のおかげだ。去年の私が今の私を見たら、正気なのかと問いただすだろう。人は急に変われるはずがないと疑うだろう。その答えは単純明快。人は出逢いで変わる。選ぶことの出来なかった巡り合わせの中にも、変容の要素は芽吹いている。
「もしかして好みの味じゃなかった?」
貴方を見つめているだけで満たされるのです。そんな本音はひた隠しして、再びフォークをクグロフに寄せた。
「少々考え事をしていただけですよ」
彼は「あの日と同じだ」と楽しそうに笑って言った。
「自分がここに来た日と同じだね。今度は何考えてたの?」
「ええと」
「わかった。プレゼントのことでしょう。サンタさんは真夜中に行くから、もうちょっと待ってて」
慌ててフォークを動かし一切れ口に含む。締まりのない口元がどうかばれていませんように。
「ねえパトリック。自分はあの日が、もう一つの誕生日なんじゃないかなって思うんだ。あの日から、ちゃんとエイトになったと思うから。これって変かな?」
「とても素敵なことですね。毎年お祝いしましょうか」
「ふふっ。うん。あの時の自分は零に成りたいって思ってたけど、やっぱり絶対成りたくない。パトリックと過ごした時間も自分の一部だから、どれも絶対消したくないんだ。前の自分には戻りたくない」
「それは私も同じですよ」
「うん。でももし何かの拍子にエイトの心が零に戻ったら、追い出してくれていいからね。パトリックは優しいから、先に言っておくよ」
「エイト」
「また好きになっちゃう前に追い出してね。エイトを、ここ、から……」
互いに何も言えなくなった。
「来て」
手を引かれるまま廊下を進み、エイトの自室に辿り着く。離れた手がそっとドアを閉めた。静寂が落ちる部屋に、二人の影を投影するサイドランプの薄明かり。
彼は影を見つめ自身の腕を抱いた。
「自分のわがまま、聞いてくれる?」
「ええ」
「ありがとう。ごめんね」
融和して蠱惑的な響きを放つ、相反する感情。微かに胸の奥が熱を帯びた。はっとして微熱を冷ましきる前に、何かに感づきこちらの唇を封じた彼の指先。視線で唇を丁寧に撫で上げ、両手が私の背を伝う。
「パトリックをちょうだい。そしたらきっと、一生記憶できるはずだから。パトリックがくれた愛情全部」
艶めく瞳に誘われ脈動する情熱。必死に蓋をしようとしても胎動は大きくなるばかり。
「ねえお願い。エイトの夢、叶えてよ」
我慢を忘れ、貴方を求めて離さぬ両腕。きつく抱きしめたなら腕の中に甘い吐息が沁み込んだ。耳元に顔を寄せ、囁く懇願。
「私を刻んでください。どうか私を、貴方の心(なか)に」
そして心からの愛だけを秘めて、温もりを分かち合った。
*
「パトリック、やっとわかった」
心のままに愛し合った後。温い息を溢しながら、優しく微笑む貴方。こちらを求めて擦り寄る手をすくい、そっと頬に当てた。
「今日の『大好き』を忘れても、パトリックがいい。たとえこの幸せが溶けて消えても、パトリックじゃなきゃ嫌だ。ずっとこの手を握ってて。綺麗なその手で、自分のことを」
そして花開いた笑顔が自然とこちらに伝染した。その表情は作られたものでは決してない。
「この温かい気持ちは、何度忘れても、必ず戻ってくるの。
貴方に目元を拭われて、泣いていることに気づいた。
「何が悲しいの?」
「エイト、覚えておいてくださいね。最高の幸せに包まれた時にも、人は涙するということを」
「そっか。うん、嬉しいね。すごく、嬉しい」
その潤い始める目元に唇を寄せ、全ての涙を受け取った。
貴方の両腕が、再び私を求めて肩を包む。
「パトリック。お願い、また教えて。これからも教えて。エイトが忘れても怒らないで、見放さないで」
「心配せずとも大丈夫ですよ。そのようなことは、起きませんからね」
「うん……だけど……」
「エイト、約束しましょう。大丈夫です。この先もきっと私はここにいます。そしてこのままずっと、貴方のそばにいさせてください」
そして私は口づけた。この約束を、互いの体に染み込ませるために。
忘れたなら、また口づけましょう。記憶から滑り落ちても、また抱きしめましょう。この命、全てで、永遠に愛を注ぎましょう。永遠に、貴方だけに。
*
共同生活を言い改め、同棲開始からちょうど一年を迎えたその日。偶然にも朝から土砂降りの雨が続いていた。けれど一向に構わない。大切な記念日に新たなお揃いを迎えるべく、漆黒の傘を分かち合い街に出かけることにした。お目当ての店へ真っ直ぐに向かい、じっくり二人で選び抜いた。
店を後にする頃には雨が上がり、陽が射して青空も見え始めていた。何を思ったのか突如駆け出し手招くエイト。彼の背後に、華麗な答えが見えていた。
「パトリック! 虹だよ!」
「なんて見事な。雨のおかげですね」
「うん。記念日に虹がかかるなんて奇蹟だね。ねえパトリック。今感じてる幸せは、冬に見た花火より何百倍も強いよ」
「そう聞いた私は千倍幸せです」
「ふふっ」
「ではエイト。虹と一緒に帰りましょう」
「うんっ!」
互いに手を差し伸べ、繋がる温もり。互いの指で輝くお揃いの指輪が、未来へと背中を押してくれた。
二人一緒なら、この先に広がるのはきっと、美しい世界。
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