10話 ふたり
想いの記念日以降、目に見えて頻度を増すエイトからの問いかけ。
「その表情は、何を意味するの?」
「そばにいてくれて嬉しい、です」
「ねえ、今の
「まあ、その、あまりに可愛らしくて言葉が出ない、でしょうか」
「なんでそんなに顔が赤いの? 今どんな感情?」
「……これを私に言えというのですね?」
それまでと異なり、こちらの感情を理解しつつも敢えて問うているのがよくわかる。抑えていた分を取り戻すかのように素直に甘え、私も喜んで甘やかした。
ある朝、起き抜けに正面から抱きつくなりこう言った。
「パトリック、おはよう」
「おはようございます、エイト」
「ねえねえ。コーヒー好き?」
「ええ?」
「薔薇は好き?」
「はい」
「ピンク色好き?」
「はい」
「エイトのこと好き?」
「引っかかりませんよ」
「ケチー」
「フフフ」
彼がそばにいるだけで、世界は完全で完璧だった。
木枯らしに髪を揺られながら、色違いのマフラーを巻いて庭に出る。目の前には、満開を迎えたカラフルなビオラ。
「好きなだけ摘んでくださいね。デザートのゼリーに入れましょう」
「これ食べられるの?」
「ええ。エディブルフラワーと言って、食用に適した花なんです。味見してみますか?」
そっとハサミを入れ、白いビオラの
「味がしない……」
「そうですか? おかしいですね」
前触れもなく顔を寄せ花弁を優しく喰み、ゆっくりビオラを引き取る。噛み締めるほどに甘みを増す花の味。
「見事な風味ですよ。おやエイト、顔が赤らんでいますね。それはどのような感情でしょう?」
「……パトリックのそういうとこだけ好きじゃないかも」
「フフ、困りましたね」
***
別の日。急務があるというのに重度の頭痛に襲われ、逃げるように執務室を後にする。息をする度に酷くなる感覚を覚え、もはや寝室で横になる以外に出来る事が無い。
この耐え難い痛みの原因は明白。体が強烈に血液摂取を欲している証拠に他ならない。吸血を絶って半年。ついに限界を超え、異常を来し始めてしまっているのだ。
ここしばらく集中力を切らしがちな自覚があるし、寝不足で足元がふらつくこともしばしば。普通の食事ではエネルギーを補いきれず、底抜けの食欲でエイトを驚かせたこともあった。
それでも吸血する気にはなれず、無論エイトに手を出すことなど論外。ヴァンパイアとしての自負も誇りも全く忘れてはいない。だが、大事な人以外の血を受け入れることを、心も体も拒否していた。
「パトリック、大丈夫?」
ドアから覗く、心配をふんだんに詰め込んだ表情。すぐさま、辛うじて残っている気力を集め、微笑みを見繕う。
「心配ありませんよ。少し疲れが出ただけですから」
「……もう。その痛々しい笑顔を信じろっていうの?」
そして静かに近寄る足音。ベッドサイドに両手を置き、しばらくの観察を経たのち、躊躇なく捲り上げられるセーターの袖。
「あげる」
「いけませんよ」
気づけば、枕元で微笑むエイトの姿。
「好きにしていいよ」
表現を正そうにも、否応無しに頭痛で言葉が遮られる。痛みに耐える沈黙をやせ我慢と受け取ったのか、彼は首を傾げた。
「飲みにくかった? お洋服、全部脱いだ方がいい?」
「……全く。何故そうなるのです? いいですか、駄目なものは駄目です」
「うん。パトリックが優しいのは嬉しいけど、優しすぎる遠慮は、いらないかな」
目の前で向けられた柔らかい笑顔に、心の鎧が溶け始める。
「倦怠感が出ますよ?」
「いいよ。自分が元気になるまで、一緒に寝てて」
「傷が残りますよ?」
「気にしないよ。傷だらけになってもいい。傷の数だけ、好きって言って」
言葉を失い、代わりに貴方を抱きしめた。
少しだけ、貴方をください。私に、貴方をください。
貴方の血は甘い。花蜜よりも甘く、とろけるような舌触り。
柔肌から唇を離し唾液を指で拭うと、この手が綺麗だと再び褒めてくれた。半年もの断食を考慮すれば十分な吸血量とは言い難いが、いつの間にか頭痛は消え去り満たされていた。
「ねえ」
「はい」
「これからも自分のをあげる。でも全部一気にあげたら、エイトさよならしちゃうから、少しずつにしてね」
「フフ」
「ん? 何か間違えた?」
「いえいえ。今日は随分と言葉が足りないようですね」
「そう? ごめん。ええと……」
副作用により忍び寄る眠気と戦いつつ、全量を吸血されてしまうと天国に行ってしまうから、適量でお願いしたいと説明を加えてくれた。
そしていよいよ閉じゆく瞼。夢に入る瞬前、小さく動く唇。
「いつでも言ってね」
起こしたくはないけれど、抱き寄せずにはいられなかった。
ここに居るのは二人、貴方と私。
これ以上、独りきりで耐えるのは止めよう。
私の
***
出会った頃に比べて、エイトは本当に感情豊かになった。
意識的に作ったものでなく、それこそ自然に浮かんでいるように見える。コミュニケーションも見違えるほど上達したし、ありのままの想いを届ける言葉も多数覚えて惜しみなく降り注いでくれている。
こちらの期待の一方で、彼自身は塞ぎ込むことが増えていた。どれほど抱きしめても、色濃く落ちた影を拭い去ることが出来ず、唯々もどかしい日々を見つめるばかり。
新しい年の足音が聞こえ始め、クリスマスマーケットが輝き始めた頃。夕食の時間になっても一向に降りてこない彼が気になり部屋を覗けば、電気も点けずに、ベッドの上で膝を抱えて項垂れていた。
「具合でも悪いのですか?」
「体は大丈夫。心がだめ」
隣に腰掛けサイドランプを点灯する。柔いオレンジ色の光が、潤いの残る目元を照らしだした。その視線の先には伏せられた日記。
「自分の淹れたコーヒーが美味しいって、喜んでくれたでしょ。嬉しかったから、忘れないように日記に書いたんだ。少し読み返したら、先週も同じようなことがあって、でも、その時の嬉しいの感情を覚えてなくて。絶対そこにあったはずの思いが消えて、文字だけになってた」
こちらを見上げる目元に、再び迫り上がる雫。
「書いた文字からは、その時感じた喜びが見えるのに、自分の心には何も残ってくれない。今日の嬉しいも、明日にはきっとまたすぐ無くなっちゃう。ずっと一緒にいたいのに、どうしてかな、毎日ゼロになるんだ」
「いいえ、エイトはゼロになったりしません。だってほら。もし毎日振り出しに戻っていたら、私は今でも他人のままでは?」
「……どうだろう、わかんない……パトリック、こんな自分でごめんね。せっかくくれた幸せも、大事な愛情も忘れて、本当にごめんね」
その涙を、今すぐ堰き止められたなら。
自身を責めることのない、明日を約束出来たなら。
せめて私に出来ることは、この想いを分かち合うこと。
何があっても、貴方のことを守り抜かせて。
「私にとって愛情は、感情のみに宿るものではありません。重ねてきた思い出、交わした言葉、受け取った温もり、その全てが愛です。それらは全て、経験として貴方の中にも残っているでしょう。色褪せない事実として、この胸の中に確かに記憶されているでしょう。これからもきっとそうでしょう。それにもし忘れることがあったとして、それはそれで構いません。さらに時間を重ねて、愛を深めていきましょう。きっと叶いますよ、貴方と私なら。
エイト。二人一緒にいるのですから、一人で背負い込まなくていいのですよ。ほら。ふたりで、ひとつ。そうでしょう?」
鳴り止まない、私を呼ぶ声。
どうかこれが、最後の涙色の夜でありますように。
*
自分には分かる。この胸を占領するのは、他の全ての感情を蹴散らす強力な悔しさ。
この世で一番大切なものを、何故留めておけないのだろう。他の人が普通にやってのけることを、何故自分はし損ねるのだろう。
神様、いるのならお願い。
永遠の喜び、消えない感動、染み込んで褪せない愛情を自分にください。
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