3

 花の香りがした、と思った。


 それがきっかけとなり、意識が戻ったのかもしれない。


 ゆっくりと東潤とうじゅんが目を開けると、簡素な屋敷の天井が見えた。

 ──知らない家だ。

 ぼんやりと散らかったような頭の中が、目からの情報により一気に覚醒する。

 素早く辺りを見回す。誰もいない。

 手足の感覚は、ある。

 縄や鎖で拘束されてもいない。

 周りの状況から、とりあえず最悪の事態──敵に囚われているのではない、と判断する。


 次に上半身を起こし、身体に異常はないか確認する。左肩付近のひりひりとした痛みに、矢傷を受けた事を思い出す。傷口は丁寧に処置されていた。


 ──誰かに助けられたのだ。

 東潤は、軽く息を吐いた。

 山中で不意に弓矢で襲われ、体勢を崩したところに更に足場が崩れて落ちた事を思い出す。


 散々な日だ。


 窓からの日差しで、日が暮れかけているのに気付く。気を失ってから一刻半くらいだろうか。あまり時間は経っていない。

 崖から落ちた場所と同じ山の中である事も理解できた。


 更に状況を確認すべく、寝台から降りようとしたら、

「まだ休んでいた方がいいですよ」

 と女の声に止められた。


 声のした出入口の扉へと目をやる。

 扉の前には、綺麗な顔の男が立っていた。

 男──?いや、女──だろうか。

 着ているものは簡素な男物の服。

 上背はかなりある。が、低めに結んだ帯でわかりづらいが、骨盤の位置が男のそれより高い。


 やはり女だ。


 だがその気配は、ごく普通の女性のものではなく、東潤が良く知る軍の配下──武将のそれに近いものであった。

 女が近づいて来る。

 咄嗟に本能が東潤の身体をこわばらせた。

 

 唐突に理解した。

 この女は強い。

 腋の下を冷たい汗が流れる。


 そんな東潤の表情を見て、ふ、と女の面差しが柔らかいものに変わった。

 張り詰めた空気のようなものがほどけていく。


 ────どうやら自分は命拾いをしたらしい。


 間違いなく、自分を助けてくれたのは彼女だ。だが、彼女は東潤が誰なのかを知らないで助けてくれたのだろう。

 先程の殺意のような気配は、東潤が不埒な行いをしそうなやからであるかどうかを見極めるため、こちらの様子をうかがっていたのだろう。

 少なくとも、彼女は敵ではない。

 ──さっきよりも呼吸が楽になった。


 東潤は、改めて自分に敵意がない事を示すため、両腕を出し、軽く頭を下げて礼を言う。

「私は東潤、と申します。このたび、新しくふもとの町に配属された官吏です。あなたが助けてくれたのでしょうか。ありがとうございます」

「私は玉翠です。家に帰る途中、あなたが降ってきたのですよ。馬に乗せて連れて来ました。ここは私の家ですので、安心してお休み下さい」

 玉翠と名乗った女──は歯を見せて笑うと、東潤の居る寝台のそばまで椅子を持ってきて腰掛けた。


 また、ふ、と花の匂いがした。

 この女から香るのか、香油の類にしては不思議な香り方だ。


 玉翠は、

「失礼します」

 と言って東潤の額に手を当てて熱を測る。


 玉翠、歳の頃は二十を幾つか過ぎたくらいか。高い身長、筋肉質の引き締まった身体と凛々しい顔立ちも相まって、独特の中性的な美しさが目を惹く。

 陽に焼けた滑らかな肌。意思の強そうな眉と、切れ長の瞳。

 夕暮れ近くの陽射しを受けてか、黒目がちと思われた瞳がチラチラと金色に輝いて見えた。

 ──脳裏に微かな違和感が走る。

 軽く結ばれた唇は思いのほか柔らかそうだが、お世辞などの余計な言葉は話さないような気がした。


 額に触れた指先が、ひんやりと心地良い。

 その手は女性にしては大きく、掌の皮は厚い。消えかかっているが無数の傷がうっすらと見える。

 やはりこの人は武人だ。

 少し気持ちが楽になった。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る