#011

 痛みはさほどないが、ぶつかった衝撃は大きかったようだ。「ぐぎゃ!」と、わけが解らない言葉を叫びながら片膝をついたオレを起き上がらせようとしたんだろうか、狐ちゃんはそれぞれ肩口の布を食み、犬井は犬井で慌てて駆け寄ってくるところだった。息切れひとつしていないのが腹立たしいが、これが『特訓の成果』なのだろう。


「大丈夫か?」

「大丈夫だと思ったんなら、眼科を勧めるわ。いや、大丈夫だけどね、オレは。痛みは軽いから。けどな、どう考えてもスピード違反だろ。マッハだったぞ、あれは」

「管狐」


 オレに手を差し出して立ち上がらせた犬井は、そのまま肩を抱き寄せてから狐ちゃんたちにも手を伸ばす。そうして「まったく」と呆れつつも、「ユウは逃げないだろ」とお説教をし始めた。数秒で終わるのはお説教かどうかは疑問であるが、要は『オレは逃げないからスピードを出すな』ということらしい。まあね、スピードの出しすぎは危険だからなー。


 「きゅ!」「きゅっ!」と犬井に吠える狐ちゃんは「早く会いたくてもだ」と片手で顔を挟まれてムギュムギュされている。嫌がるようにしっぽを振りながら「ぎゅ!」「ぎゅぅぅー!」と不満を足れているようだが、ふたつの顔がくっついて離れる様はお団子のようでかわいく見えた。そんななか、「ったく……、早く会って抱きしめたいのは俺の方だっつの」と呟かれた声に、犬井はやっぱり犬井だと再確認する。


 ベンチに腰を下ろしてオレを膝の上に座らせたらば、当然のように腰に手を回してきた。――向い合わせなんですよ、いま。胸元に顔を埋めながらすんすん匂いを嗅ぐのはやめてくださいね。


 「変態」と吐き捨てたオレに返るのは、「夢にまで見たメイド服なんだ」と鬼気迫る犬井の顔だ。お前、『離れる』なんて言ったくせに、行動が伴ってないぞ。くすりと笑ってしまったのは、犬井の温もりに安心したからだろうか。


「そんなに離れたくないなら、なんであんなことを言ったんだよ?」

「もう少し堪能させろ」


 「嫌なんですけどね」と軽く肩を叩けば、「解った解った」と嘆息を漏らす。渋々だとでも言うように。


「言っただろ、『いい機会』だってな。俺は『女神』から能力を授かったが、ユウはそうじゃない。口には出さなくても、顔を見れば解るんだよ。辛いって顔に出てるからな。特にここ最近は構いっぱなしだから、体力的にも精神的にもきついんだろ。まあ、だからといって、完全に手離すつもりはないけど」

「じゃあなんだ、犬井はオレのために距離を置くってことか……?」

「他になにがあるっていうんだ。俺はユウを一番に考えてるんだよ」


 その考えには至らなかったオレの言葉が気に入らなかったのか、犬井は不満を顔に出しながら「これでもな」と片手で頬を挟んでくる。何度かムギュムギュしたあと手を離し、絶対領域ふとももへと伸ばしていく。


「それはどうも。お前のことを見直そうと思ったけどな、やっぱり見直せなかったわ……」

「そうか。見直すのはいまじゃなくてもいいぞ」

「犬井、オレはなあ、遠回しに足を触るなって言ってるんだよ!」

「いいかユウ、男は絶対領域には抗えない生き物なんだ、諦めろ。それに、離れた分を埋めないといけないだろ?」

「半日も離れてないわ変態め! だいたい、なにが抗えないだよ、なんなんだその言い分は。そんなの初めて聞いたぞ」


 べしべし手を叩きながら唇を尖らせるオレに対し、「誉め言葉だな」と痛がりもせずににまにま口端を上げていた犬井は、「さっきから固いものが当たってるんだけど、なにを隠し持ってるんだ?」とエプロンのポケットを探り始めた。まあ、すぐに例のブツに行き当たるんですがね。


「悠希、これはなんだ?」

「休憩時間に配られるお菓子だってさ」

「ふぅん」


 興味なさげな犬井の手のなかにある包みを嗅ぐ狐ちゃんは、オレと包みを交互に見遣る。それはそれは期待に満ちた目で。甘いものが好きだもんなー、狐ちゃんは。


「狐ちゃんがかわいいんだけど」

「その管狐より可愛いのがお前だからな。さっさと開けてみろ」

「はいはーい」


 当然のように「かわいいはよけいだけどな」と返してから、渡された包みを開けてみる。広がるのは、白、黄色、オレンンジ、ピンクなど、淡く色づけられた見慣れた星形――こんぺいとうであった。これは仕事の休憩時間に糖分を摂れということだろうな。


「狐ちゃん、はい、あーん」


 「こんぺいとうか」と呟きつつ眉間に皺を寄せる犬井を無視しながら、小さな口を大きく開けて待っている狐ちゃんにこんぺいとうを落とせば、「きゅ~」と実に幸せそうに鳴いた。でへへ、かわいいなあ、もう。


 こぼさないようにと横に置き、オレもぽりぽりこんぺいとうを食べ始める。狐ちゃんは遠慮をしているのか、オレがあげた一粒を食べただけであとは匂いを堪能していた。そんなことしなくていいのになあ。愛くるしい謙虚さに胸がつまり、涙が浮かんできてしまったじゃないか。


 目尻に溜まった涙を拭いながら「好きに食べな」と背中を撫でてやれば、狐ちゃんたちはオレをじっと眺めてくる。まるで『本当にいいのか?』と聞いているようだ。答えは『イエス』しかなかろうよ。「遠慮すんなって」とこんぺいとうを口元に添わせれば、ぱくりと食らいついた。しっぽをはち切れんばかりに振りながら。


 狐ちゃん用に分けてあげたあと、掌に二・三個乗せて犬井の顔の前へと持っていく。


「ほら、犬井も口を開けろー」

「口移し以外は認めないからな」

「偉そうなセクハラはやめてくださいね」


 なんてことを言いやがるんだ、コイツは!


 思わず口を押さえるようにこんぺいとうを放り込んでやったさ。犬井の口内がイガイガで傷つこうとも、オレはかまわないんだぜ。舐められたら危険だから、すぐに手を離したけども。せっかく人がオレと狐ちゃんだけ食うのは悪いかなと思ったというのに、なんでセクハラにもっていくんだよ。


「甘い」

「砂糖菓子だからな」


 口元を覆いながら眉を顰めた犬井は、反対の掌にガラスコップを『呼び出した』ようだった。しかも水が注がれたあとの。犬井曰く、甘味類はあるなら食う程度で、積極的に食べようとしないからな。こうなったのも、セクハラに走る犬井の自業自得だけど。


 並々と注がれた透明な液体を飲み干すのに時間はかからない。いやー、喉仏が実にセクシーですね。皮肉ですけどー。


 用が終わったコップは、その瞬間から光が散るように消えていく。見せつけられた能力が羨ましく、「けっ」と唇を尖らせてひがんでいれば、なぜか、本当になぜか、唇が重なる。


「その顔は反則だぞ」

「セクハラ禁止!」

「はいはい」


 にやけやがってからに! 「はいはい」じゃねーんだよ!


 怒りを込めながら「解ってないだろ!」とばしばし強く肩を叩くが、犬井は頬を緩めたまま「もうなにもしないから、そんなに怒るなって」とオレの手を掴んだ。緩く重なる手指てしに怒りが少ししぼむ。解っているのならいいやと。


 そりゃあ、怒りたくもなりますよね。いくら城内だろうと、外でなんて誰が見ているかも解らないんだから。もしも、誰かに見られていた――なんてことになったら、羞恥でどうにかなりそうだ。『なりそう』というか、『なる』と断言しよう。赤いものの代表であるトマトやリンゴも真っ青になるくらいに真っ赤になる。いまもたぶん、そうなっているはずだ。


「次に外でセクハラしてきたら、口を利いてやらないからな」

「解った解った。それよりも、お疲れ様」

「おいっ、それよりもって、どういうことだよ!?」

「ユウの性格からして、長続きはしないだろ?」

「続くわボケ!」

「はいはい」


 だから、「はいはい」じゃねーよ!


 ぽんぽん頭を撫でる犬井は完璧にオレをなめてやがるぞ。「アホ!」と勢いよく払い落とした手はふたたび腰へと回され、ぴたりと躯が密着した。


 ふわりと香る犬井の匂い――たぶん香水だと思われる――に惑わされまいと、すっぽりと収まってしまうこの身長差をなんとかしなければと考える。だが、不意にネコミミの先端に唇が添わされ、考えが散らされてしまった。そしてとても嘆かわしいが、条件反射で「ふ……っ」と吐息が漏れてしまう。ふと笑った気配がしたのちに、「悠希」と甘い声が鼓膜を刺激していく。


「――愛してる」

「オレは愛してないからなっ」


 震えるネコミミを押さえて言うが、果たして伝わったかどうか。もちろん、睨むのも忘れてないぞ。睨まなければ意味がないからな。まったく効いてないんだろうけども!


 友情は愛情のひとつであるが、オレとしては友情以上はありえない。それを思い知らせなければ。届くまで諦めずに。だから! だからね! 静まりやがれオレのしっぽおおおお! ここで喜びを表す必要はないですからねー! ぐうう……!


 大きく反抗しようにも、『いい声』には逆らえませんよね。聞いた瞬間から躯の力が抜けていくんだから、もうだいぶ毒されている。ベッドの住人になった回数は伊達ではないのだよ。この先も増え続けるんだろうなと考えるだけで身震いものである。


 「寒いのか?」とさらに抱きしめる力を強くした犬井に対し、ふたたびふつふつと怒りが湧き上がった。勘違いしてるんじゃねーよ! オレはお前の強引さに恐怖してるんだよ!


 「違うわ!」と睨んだ先、本日三度めの「はいはい」をいただいてしまいましたとさ。だから甘さを滲ませるんじゃないっつの!



    □



 犬井はいつまでこうしている気だろうか。「時間だから離せ」と肩を叩いても、「もう少し」というやり取りが数回続いている。なにが『もう少し』だ。だいぶ時間が経っているんですが、そこのところは解っているんですかね。


 こうなったら最終手段だと「犬井~」と困った顔をすれば、「怪我だけはするなよ」と渋々離され、リリネルさんの言うとおりに午後はひとりで洗濯に取り組んだ。休憩時間をすぎたことを謝罪しにリリネルさんのところに行けば、彼女から「時間は大丈夫ですよ。頑張ってくださいね」と応援されてやる気が上がったのは言うまでもないだろう。


 洗濯をする間に三種の素知らぬふり――ポーカーフェイス・ポーカーネコミミ・ポーカーしっぽ――の鍛練をしようとも思ったが、もういいやという結論に達したわけだ。オレの意気込みなんてそんなものだ。どう足掻いたって、結局オレは犬井に丸め込まれるんだからな。面倒になってしまうのもしかたがないのだよ。まあ、やり方が解らないというのが一番の理由だけどね。


 手洗いと水洗いを経て干し終えた洗濯物を眺めて息を吐く。主に自分たちで着ていたものだが、風に靡く姿は圧巻だ。やり遂げたぜ、オレは。ぽかぽか陽気だからか眠たくなり、途中から鼻歌を口ずさんでしまったが、寝落ちしなくてよかったよ本当に。


 空になった籠を片づけたら暇になってしまい、しかたがないので犬井の様子でも見に行ってやるかと広場に足を運ぶ。もちろん、リリネルさんに報告をしてからだけど。そうして来たはいいが、誰もいなかったのは予想外だ。いやまあ、魔王様が腰に片手を宛てて佇んでいるけども。黒いワンピースの下には、動きやすさを重視したビキニタイプ――水着のように上下別れた衣服を着ているらしい。詳しくは知らないが、覗く背中が健康的で眩しいのです。


「魔王様」

「猫か、どうした?」


 長身の魔王様に駆け寄れば、顔をこちらに向けて笑んだ。ああ、やっぱり美人さんだなあ。心拍数が上がっていってしまうよ。


「洗濯を終えたので来てしまいました。誰もいないんですが、どうしたんですか?」

「城の周りを走らせているからな。もちろん監視役としてルルナをつけてある」

「そうですか」


 などと表向きは平然を装うオレであるが、胸裡では血の涙を流していた。朝の走り込みだけでなく、午後も走っていればそりゃあ体力がつきますよねー。って、なんで犬井ばっかり体力がつくようになってるんだよ! 差が埋まらねーじゃないですか!


「オレも走ってきていいですか?」


 これ以上先を越させるものかと、魔王様の許可を得る前にこの場から走り去ろうとするが、「待て待て」と腕を取られてしまう。


「いまから走っても遅いぞ」

「ですが、オレは強くなりたいんです!」

「強くならなくとも、猫はその容姿で相手を打ちのめしているだろうが」

「そうなんですか!?」


 オレの容姿は打ちのめされるほどに醜かったのか! 一応、犬井にはかわいいと言われているけれど、美醜感覚には個人差があるからなんとも言えない。鏡で見る分には人並みだと思うけども。


「なにか勘違いをしている顔だな」

「勘違いですか……?」


 むにゅりとオレの頬をつねる魔王様は、ふっと笑って「可愛いは罪だということだよ」と手を離した。腕を掴んでいた手も一緒に離れていったので、両手で頬を挟む。


 魔王様の言葉から察するに。


「う、打ちのめされるって……、そういうこと……?」


 オレが魔王様たちの可憐さにあわあわするような感じで、打ちのめされるというわけか。


「それ以外にはなかろうて」

「あ、ありがとうございます。けれど、魔王様の方が何倍もかわいいですよ」


 照れながらそう言えば、魔王様が勢いよく抱きしめてきた。「ああああ~!」と叫びながら。


「ま、魔王様っ!?」

「猫はどうしてそう無防備なのか! いつ勇者が狂わないとも知れんというのに……っ! わしは心配だぞ!」

「魔王様、落ち着いてくださいっ! ミミっ、ネコミミがぁ! うひぃ!」


 頬擦りをするようにぐりぐり頭を動かす魔王様を引き剥がそうとすれば、「アリテア様」との怒声とともにこっちが引き剥がされていた。抱きしめる腕の先には、犬井の横顔がお目見えする。助かったと解ったが、空気が重い。狐ちゃんも空気を読んでいるのか、微動だにしなかった。


「いくらアリテア様でも、ユウを奪うというのなら容赦はしませんよ」

「なにを言うか、誰も奪おうとは思っとらんよ。まあ、目の保養にはするがな」

「保養以外はやめてくださいね。抱きつきたいのなら、俺が相手をしますから」

「なっ……!」


 なにさらりとモテアピールをしてるんだ、お前は! オレはまた血の涙を流すぞ、こらあ!


「勇者様、猫さんの顔がすごいことになっておりますよ」


 魔王様の横からひょいと顔を出した美人さん――ルルナさんは垂れた横髪を耳にかけながら目を細める。彼女は魔王様の部下であり、ルルナ・リュミナというのが本名であった。切れ長の目が少々きつい印象を与えるが、話してみると話しやすい人である。そして魔王様と同じように、この人も犬井の手中にあった。


 「すごい顔?」とオレの顔を覗き込んだ犬井に「犬井だけモテやがって……」と苦々しげに吐き捨ててやる。悔しさに唇を噛んでいたんですよ、オレは。


「ユウには俺がいればいいから」

「なんでその選択しかないんだよ!」

「それ以外にないからだろ?」

「わ! ちょっと!」


 犬井はふたたびさらりとわけの解らないことを言ってオレを抱え上げた。反論する隙も与えてくれなかったのはさすがとしか言いようがない。「あとは好きにさせてもらいますね」とふたりに笑みを浮かべつつ、オレにも視線を投げかけてくる。オレにというか、しっぽにだけど。「ああ」と短く返す魔王様と「ふふふ」と含み笑いをするルルナさんもしっぽを見ているようだが、気のせいだよ。全然嬉しくないんで、立つわけがないんですよー。いやもう立ってないんで、あまり見ないでほしいんです、お願いします。


 魔王様たちが見えなくなるまで「見るなー! 好きにするなー!」とじたばた暴れていたが、狐ちゃんが「きゅー!」と嬉しげに首にまとわりついてきたから力が抜けてしまう。いやだって、狐ちゃんを傷つけたくないし。それに、正真正銘の狐ちゃんのマフラーに感心してしまったのだ。ふわふわでいい感じだと。


 ――じゃなくて!


 やっぱりこれは恥ずかしいからな!


「離せこらー!」

「悪いようにはしないから落ち着け」

「嘘じゃないな!? 本当に本当だな!?」


 離せと言いつつも、落ちないようにしがみつかないといけないのが抱っこの難点だ。お姫様抱っこじゃない分マシだけども、にやける犬井を蹴飛ばしたくなってくる。人が羞恥に堪えているというのに、頬を緩ませるとはどういうことですかね。


「疑り深いな。俺がユウを悪いようにしたことがあったか?」

「いつも悪いようにしてる奴がなに言ってんだ!」

「俺は気持ちよくさせてるだけで、悪いようにはしてないだろ」

「あー! あー! 聞ーこーえーなーいー!」


 下ネタなんか聞こえない。聞いてない。なにも聞いてない。


 耳を塞いでいるから「煽るなと何度言えばいいんだよ」と苦笑混じりの犬井の声ももちろんスルーで! 悲しいかな耳を塞いでいても完璧に聞こえなくなるわけではないし、なにより空いているネコミミがいい仕事をしましたけどね!


 ネコミミさんとしっぽさんは働きすぎだから、少し休んでもいいんですよ……。




 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る