#007

 折られた杖を手にしつつ完全に気落ちしている魔導師さんの姿を犬井の肩口から眺めるオレができることといえば、「犬井」と呼びかけることだろうか。完全に無視をされているけどな! 「おいっ、こら、無視してんじゃねーぞ」と言っても、無言。無言のオンパレードですわ。代わりだというように、腹に丸まる狐ちゃんが「きゅ」と鳴くのだが、返事がほしいのは狐ちゃんじゃないんだよな。


「犬井」


 いい加減にしろやと口にこそ出さないが、怒りを含ませた声を紡げば犬井はとある部屋の前で立ち止まり、すぐさま振り返る。あとを着いてきた皆さんが一様にびくりと躯を竦める姿が面白いのだが、いま笑うわけにはいかないだろう。笑いを堪えるオレに対し、犬井は興味がなさそうに淡々と「この部屋は空いてるよな?」と紡ぐ。


「あ、ああ……」

「聞きたいことがある」


 小さく頷いた魔導師さんにそうひとことだけ言うと、顎でドアを開けるように促した。慌てて駆け寄ったひとりの男の手により、ドアが開いていく。どうやらこの部屋は応接室のようで、ソファーセットが鎮座していた。高級感あふれる黒革のソファーセットが。犬井がこの部屋の前で止まったのは、そういう理由からなのか。


 「ほへー」と感心したオレを下ろすことなく腰を下ろした犬井は、あろうことかそのまま話を進めるらしい。いやだって、腹に片手が回されたしね。なんですかこれは。どうしてこんな恋人みたいな態勢になっているんですか。どうして犬井はふんぞり返っているんですか。いやあ、様になっていますねー! もちろん、嫌味ですけどね!


「悠希を帰そうとした理由を話してもらおうか」

「おいいいい! この態勢で話を進めるんじゃない!」


 「離せ」と睨めば、犬井は手に力を込めてきた。てめえ、この野郎。


「犬井っ」

「なにもされたくないなら少し黙ってろ」

「ふざけんな!」

「覚悟しろと言ったよな?」

「ゆっくりって言ったのはどこの誰ですかね」

「――それは撤回する。無理だったわ」


 なんですと!?


 開いた口が塞がらないオレに向けられた瞳は、肉食獣の色を宿している。恐怖に固まる一瞬に、犬井はその目を細めた。


「は、離せー!」

「《おとなしくしてろ》」

「くっ!」


 くそっ、また手足が動かせなくなったぞ。力を入れているのに、ぜんぜん動いてくれない。


「時間が惜しいんだ。さっさと話せ」


 オレは惜しくないんで、ゆっくりでも構いませんよ、ええ。なんていうのは犬井に見透かされており、抱き寄せられた耳元で咎めるように「ユウ」と囁く。ネコミミの方に。「ぴゃう!」と変な声を出しながら躯を跳ねさせたオレの向かい側に視線を遣れば、「あいっ!」と魔導師さんが素早く座る。その後ろで待機している男たちが眉を寄せているのは、どう考えてもこの態勢が悪いんだろうな。湧き上がる羞恥に顔が俯き加減なのは、犬井のせいです。


 涙声で語られる話を要約するに、オレを送還しようとしたのは魔導師さん――クレリア・クリズムという名前らしい――の独断で行われたという。天体名・アントグラムには大小様々な国があり、そして、この世界では等しく誰しもが魔力を有して生まれてくるようだ。だがしかし、等しいといっても、魔力が少ない者も一定数いるらしい。そういう者は『ぽんこつ』という扱いで待遇が悪いという。どういう風に悪いのかというと、男女関係なくそういうお店に連れられ、一生を過ごすようだ。もちろん合法ではあるが、なかには非合法な酷い店もあるという。どんな店かは聞かなくとも解った。そういうお店ですね。話を聞いてもらいにいくとかスッキリさせにいくとか、そっち関係のお店ですよね。


「犬井なら毎晩行くな」

「行くわけないだろ」


 いや、絶対に嘘だ! 「興味もない」とか言っているけど、嘘だ! おっぱい星人の犬井が我慢などできるはずもない。


「ユウ」

「ひ……っ、すみません、ごめんなさいぃ」


 心を読まれたのか、さわりと撫でられたネコミミのお蔭で、オレの躯に甘い電流が走る。いつの間にか自由となっていたその躯で身じろげば、犬井はにっこりと笑いながらネコミミから手を離し、「理由は解った」と魔導師さんに向き直った。「そうか」とちょっと明るくなる魔導師さんの顔は、なんだかかわいらしい。だが、すぐに元のきりっとした表情に戻ってしまったのだけれど。


 そうして続けられる内容を聞きかじる間に、興奮せざるを得なくなってしまった。いや、だってね、文明的には地球と遜色ないらしいとか、米や醤油や味噌、それから塩や砂糖の調味料もあるなんて聞いたらテンションが上がるしかないだろうよ。料理のレパートリーには困らないし、明日のご飯に困らなくていいなんて、なんて素晴らしいんだ。


 一番テンションが上がったのは風呂もあると言われたときだろう。一日の疲れを癒すのはシャワーでは物足りない派のオレとしては、ゆっくりと極楽に浸りたいのだ。鼻歌までがセットだろう。


 自然とピンと立ってしまうしっぽを見据える犬井の顔はなんといえばいいのか、こう、ね。微笑んでいる。オレだけ嬉しがっているみたいだろうが、先に知ってたからって余裕ぶるんじゃねーよ!


「――お解りいただけたか?」

「解りました!」


 異世界といえども、実はちょっといい世界なんではなかろうか。駄洒落ではなくて。まあ、地球と変わらないといっても、魔法だ剣だ、勇者だ魔王だと言っていたからやっぱり地球とは全然違うんだよな。国同士の事情も引っくるめて。


 そんな長い話を聞いたあとに大きなあくびをすれば、犬井はオレを抱え直した。


「眠いのか?」

「眠くない」


 このあくびはちょっと疲れたからで、眠気からくるものではない。「大丈夫」と浮かんだ涙を拭えば、「もう少し我慢しろ」と頬を撫でられる。オレの腹の上――というか、膝の上で丸まっていた狐ちゃんにもだ。ふさふさの毛が頬を行き交う間はもじもじしていた魔導師さんだが、意を決したのか杖を黒地の机に置いて身を乗り出した。


「勇者殿、私からお願いがある。身勝手なことをしたのは大変申し訳なかった。……杖を……、私の杖を、直していただけないだろうか?」


 どうするのかと犬井を眺めていれば、「断る」とはっきりと紡ぐ。美女が頼んでいるというのに、即答とはどういうことだ!


「なんで断るんだよー!?」

「媒介がなくても、魔法は発動できるからな。つまり、杖はただの飾りでしかないんだよ」

「確かに、言うとおりだが……」


 言葉を切った魔導師さんはすんと鼻を啜り、顔を逸らした。涙を堪えているその顔を見られたくないのだろう。雰囲気から察するに、あの杖は苦楽をともにする相棒だ。それを失った魔導師さんの悲しみは計り知れない。


 壊した犬井はといえば、平然とセクハラをかましてきていた。躯を支える名目の片手で、むにむにおっぱいを揉んでいる。言っとくけどな、オレのおっぱいを揉んでいいのはオレだけなんだぞ!


 「なにしやがる!」と頬を打とうとしたその手を取り、向かい合わせになるように抱き寄せながら犬井は言う。「直すには対価が必要だぞ、悠希」と。ぞくりとするほどのいい声で。


 ふたたび固まるオレの唇は、犬井に奪われていた。気づいたときにはもう遅い。慌てて引き剥がそうとした腕は犬井のうなじ側で狐ちゃんに固定され、後頭部へと添わされた手が唇の存在を確実なものにしていく。


 そうされても理解したことは、確実に背が縮んだということだ。縮みましたよね、これ。犬井と並ぶとその背の低さが歴然で、男のときだってコンプレックスだったというのに、なんてひどい仕打ちだよ。笑うに笑えません。泣きたい。じわりと浮かんだ涙はしかし、次の衝撃で引っ込んだ。割り入れられたそれによって。


 お、おおおおっ、大人の階段はまだ先だろ!?


 パニクるオレのことなどお構いなしに、犬井は口内を掻き回していく。もっと段階を踏むべきじゃないのかという言葉は容易く溶けていき、満足するまで貪られた。


 大人の階段をひとつ上がってのぼせた頭では、最後の最後にねっとりと唇を舐められても、「ふぇぇ」という情けない声しか上げられない。足の間に詰め込まれるときも涙を拭いながらだし、息を整えるこのときも、「大人の階段はぁ、段階を踏んで上がるもんだろぉ」との言葉は嗚咽を漏らしながらだった。「なにが大人の階段だ。童貞こじらせすぎだろ」と、背凭れに片腕を伸ばす犬井は呆れたように言うだけである。正確にはオレの頭を撫でながら呆れているのだが、それとこれとでは話が違うわけですよ。


「大人の階段をバカにするな!」

「怒るとこはそこかよ」


 オレの鼻を摘まんだ犬井は喉で笑いながら、背凭れに伸ばしていた腕を外した。視線で追う間に躯も捩れば、杖を手にするところである。「いにゅい……!」と感極まれば、「対価はもらったからな」と鼻から指を離された。摘ままれた鼻の痛みなど、もはやどうってことはない。強い力ではなかったからか痛みはあまりないけども、ヒリヒリとした感じは残っていたのだ。


「ユウに感謝しろよ」


 渋々という雰囲気ながらそう言う合間にも、杖からは鮮やかな光が放たれて消えていく。犬井の手には細長い――修繕が終わった杖が握られていた。拭ったそばから涙がこぼれてくるのは誰のせいなのか考えてほしかったが、尊い犠牲オレは報われたのだ!


「文句はないな、悠希」

「うひゃあっ!?」


 杖を魔導師さんに投げ捨てた犬井は力強くオレを抱きしめ、「ユウ」と囁く。杖の扱いがひどいことには文句があるが、いまそれを言ってしまえば台無しになるだろう。だからオレも、犬井の背中に手を伸ばした。感謝を込めながら。「ありがとう」と囁いたのは、なんだかんだ言ってもちゃんと直してくれたからだ。


 「……勇者殿……」と背後で魔導師さんが息を飲んだ気がして犬井を見ると、赤い首もとが視界に飛び込んでくる。なんだコイツ、照れやがってよー。オレだって恥ずかしいわ! 平然と大人のキスができる神経を持ち合わせているんだから、こんなことで照れるんじゃねーよっ。


「俺以外をたらし込むなよ、頼むから」


 片手で顔――というか目元を覆いながら、なにを言っているというのかね。犬井以外とこんなことができるはずもないだろうが! 恥を捨ててやっているのは、友人だからだというのに。


「するわけないだろ」


 そう言ったオレに対し、犬井は「……その言葉、忘れるなよ」と一度は目にしたことのある台詞を吐き出した。うおおー、囁かないでくれー! 犬井に囁かれると、どうしていいか解らなくなるからやめてー!


 そんなオレの気持ちを表すかのように、しっぽは小刻みに早く揺れていた。それを眺める犬井は短い嘆息を吐く。「くそ……、破壊力がすごいな」と、ぎこちない声とともに。


 ――なにも! なにも聞いてないからな! オレはなにも聞いてないぞ!




 

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