#008

 微睡みに身を任せていても、回想せざるを得ないせいで眠気が飛んでしまった。寝息を立てる魔王様を起こさないように注意を払いながら、もぞりもぞりと掛け布団ごと上半身を起こし、壁に凭れる。瞬間、魔王様は「ん~……」と声を漏らすからビビりましたよ。ばくばくする胸元を握りしめて数秒、動く気配はないからあれは寝言だったようだ。安堵の息を吐くと同時に、胸元を握りしめていた手を離す。


 犬井は反省しているだろうか。アイツのことだから落ち込みはしても、反省なんてしてないだろうなあ。一度だけの『絶交』も意味がなかったし。……まあ、八つ当たりだったんだけどさ。


 そんな『絶交』は、中学に入学してすぐ、「絶交するからな!」と指先を突きつけたことから始まった。助けられた恩もあるが、もとを正せば、犬井がオレに付きまとうことで起きたことだ。マイナスイチからプラスマイナスゼロになっただけのことよ。だからこれは、恩を仇で返すとは言わないのだ。


「はあ?」


 犬井は目を丸めて呆気にとられていたが、すぐに正気に戻り、「馬鹿馬鹿しい」と吐いた。


 バカバカしいなんてことはない。オレは本気なのだから。


 早い話が、オレの好きな人は犬井が好きだと解ってしまったのだ。それを知ったのは昨日たまたまで、コンビニ帰りに彼女と友人の話を聞いてしまった。いや、聞こえてしまったといった方が正しいだろう。


 私服――ジャージ姿のオレに対して制服姿の彼女。後ろから眺めるだけでも、その眩しさに目を細めてしまうほどだ。いまだ制服姿ということは、学校に残っていたのだろうか。


「犬井くんと一緒のクラスになれてよかったねー」

「ねー、アンタずっと好きだったもんね」


 ………………はい?


 なにを言っているのかと思考が停止するが、耳は働いているらしい。「もう、こんなところで言わないでよ!」と、慌て出す彼女の声を拾ったのだから。


「あははは、ごめんごめん。すごく嬉しそうな顔してるから、つい」

「うー……、だって犬井くんかっこいいんだもん」

「うんうん、かっこいいよねー。犬井くんはさあ、ずっと猫塚といるけど、なんでだろうね?」

「ふたりは家が近いからね。こう言うのも可哀想だけど……、猫塚くんといると犬井くんのかっこよさが解るよねー」

「解る解る、猫塚がアホな分だけよけいにね」


 笑い声を上げる女の子ふたりの言葉に、ああと理解した。つまり……、つまりオレは、ただの引き立て役でしかなかったのだと。


 愕然としたのは数分で、思い立ったのは一瞬。――これ以上の付き合いを絶たなければ!


 そんな理由から『絶交』をしたわけだが、犬井は諦めなかった。幾度となく「ユウ」と声をかけてくる。まあ、こっちは無視をするだけですけど。犬井からピリピリとした空気を感じるが、それも無視である。


 この三日間はよく頑張った。給食の間もお互いに無言であるから、クラスメイトの声が響いているとお思いだろう。


 違うのだ。この教室はいま、お通夜のように空気が重い。まさかクラスを巻き込むとは思わなかったんだ。犬井はここまで影響力があるのかよ。そんなバカな。


 ちらちら眺める犬井の眉間には皺が刻まれ、目が吊り上がっている。誰が見ても不機嫌だと解るその顔でも、きれいだと思わせるのは反則ではないだろうか。


「――なにか言いたいなら、さっさと言えよ」


 横顔から真正面になっていた犬井が不機嫌そうに口を開いた瞬間、オレの躯はびくりと跳ねてしまう。その衝撃で、手からスプーンが滑り落ちていった。床とセッションを奏でるのかと思えば、机のなかに隠れていた狐ちゃんが素早く持ち手をくわえてそれを阻止する。こんななかでは響きすぎて注目の的にしかならないから、狐ちゃんには感謝しなければ。


 ぐいぐい差し出されるスプーンを「ありがとう」と受け取れば、もう一匹の狐ちゃんが「きゅ……」と残念そうに鳴いた。オレと犬井しか解らない狐ちゃんの行動は、周りにどう映っているのだろうか。魔法のように見えるのかもしれないが、どう見えてもこの際どうでもいい。スプーンが戻ればこっちのもんである。


 黙々と食事を再開したオレに答える気がないと察した犬井は大きく舌を打ち、席を立つ。空になった食器を戻す音が大きく響いていた。物に当たるのはよくないぞ、少年よ。犬井に八つ当たりをかました自分を棚にあげてそう思うほど、扱いが乱暴だ。このままではプラスチック製の食器が割れてしまうではないか。いや、割れてはプラスチックの面目がないな。最悪でもヒビが入るくらいか……。って、食器の心配をしている場合か!


 教室が殺伐としてしまったことは悪いと思うが、ここで許してしまえばまた引き立て役に戻ってしまう。しかし――クラスメイトも「……きゅ……」と力なく鳴きながら机の端に丸まる狐ちゃんもなにも悪くない。これ以上巻き込むのは可哀想だ。


 ――もうやめよう。巻き込むのだけは、やめなければ。


 そっと狐ちゃんたちの頭を交互に撫でてやれば、「きゅー!!」と喜びの声を出しながら胸元に飛びついてきた。瞬間、横から大きな舌打ちが聞こえてきたが、いまは無視を決め込んで、残る給食を掻き込んだのだった。


 家に帰ってから忘れ物に気がついたとか、なんてバカなんだよと思いながら、ふたたび学校に舞い戻る。走った分ゆっくりと息を整えてから教室に向かえば、なにやら話し声が聞こえ、思わずドアに張りついてしまった。いやだってな、雰囲気が悪いんだよ。そろそろなかを窺うのは覗き行為ではない。誰がいるのか確認をするためだ。


「――管狐、いい加減に帰るぞ」


 嘆息を吐いた犬井の横顔は茜に照らされており、それがまた憎らしいほどに絵になっている。オレの机の上で丸くなる狐ちゃんは、引き剥がそうと伸ばされた手に「ぎゅー!」と低い声を上げて抵抗しているようだ。


「しかたがないだろ、絶交されたんだから」

「ぎゅっ」


 指先をがじがじ噛む狐ちゃんに「噛むな」と吐けば、狐ちゃんは噛むのを止めて犬井の腕に巻きつく。「ぎゅー! ぎゅっ!」と怒りながら。


「理由なんて知るわけないだろ」


 そう吐き捨てた犬井はそのまま歩き出す。そして、ばっちりと合ってしまった。目が。


「ユウ、どうした?」


 辛気くさいその顔が少しだけ緩んだかと思えば、狐ちゃんたちは素早く腕から離れて「きゅぅうぅ!」と泣き出した。『鳴き出した』のではない。まん丸い瞳からはボロボロ涙があふれているのだ。こんなになるまで狐ちゃんを傷つけていたのか、オレは。


「狐ちゃんおいで」

「ぎゅぅうぅ~」


 両手を広げて迎えてやれば、ぐりぐり胸元に頭を押しつける狐ちゃんたちの背中を撫でてやる。その小さな体は震えており、罪悪感が増していった。「泣かせてごめんな」と謝罪すれば、狐ちゃんたちはさらに泣き出してしまい、制服を濡らしていく。涙が落ち着くころには、黙って様子を見ていた犬井が「謝るのは、管狐だけなのか?」と口を開いた。それはそれは元気のない声で。


「……悪かった、よ」


 完全な八つ当たりだし、全面的に悪いのはオレだと解っているが、八つ当たりの手前素直にはなれない。拗ねたように唇を尖らせながら謝るのが精一杯だ。


「い、いいいいっ、犬井っ!?」


 「ユウ」と伸ばされた手に抱きしめられ、何事かと目を丸める。肩口に顔を埋めた犬井は「これ以上は無理だ」とぽつりと吐いた。


「無視をされるのはどうでもいいけどな、触れられないのはきつい」

「どうでもいいって……、お前、頭大丈夫か?」

「ユウが傍にいるなら、無視でも馬鹿にされるでもなんでもいい。俺はな、ユウに触れないと苦しいんだ。精神が安定しない。――眠れないんだよ」


 きっぱり言われた言葉とともに、背中に回された腕に力が籠る。胸元で潰された狐ちゃんたちは息苦しいのか、左右に身じろぎ始めた。


「犬井、狐ちゃんが苦しそうだ」

「嫌だ」

「嫌じゃないからな! 早く離れる!」


 オレの言葉に渋々といった感じに少しだけ隙間を作った犬井は、狐ちゃんが抜けるとまたぴったりとくっついてくる。これは確実に誤解する奴がいそうだな。誰もいないのが幸いだけど。


「抱きつくなっつの。オレは忘れ物を取りに来たんだからなっ」

「プリントだろ、忘れ物は」

「なんで解るんだ……?」


 『忘れ物』とだけしか言ってないのに、ものの見事に的中させるなんて、どういうことだ。不思議な顔をしているであろうオレに対し、犬井は口端を上げていた。


「俺が抜いておいた」

「ああ!? てめえ、なにしてんだ!」

「話せないなら、話すようにするまでだろ。三日耐えてやったんだ、俺を誉めろ」

「誰が誉めるか!」


 「バカじゃねーの!」というオレの声を丸無視しながら、犬井は「やっぱりユウの体温を感じないとダメだな」となにやら悦に入る。頼むから、誰かを勘違いさせるようなことを言わないでくれ。


「狐ちゃんタスケテ」


 これはもうダメだと目を潤ませながら助けを求めたが、狐ちゃんたちは狐ちゃんたちで「きゅ!」「きゅー!」と頬に顔を擦りつけてきた。ある意味ではハーレム状態だったが、オレが求めるハーレムはこれじゃないんだ!


 ことが済めば躯を離され、「さっさと帰るぞ」と引きずられるように家に帰され、門の前でプリントを返された。「ひとりで頑張れるな?」と。うるせーよ、現代国語なら余裕だっつの。


 「ふざけんな!」という怒声に返るのが微笑みだというのが、男の格の違いを見せつけられた気がする。だが、いまは気にしてられない。プリントを片づけなければならないのだから。


 ――次の日、「仲直りしました。お騒がせしました」とクラスに謝り、元通りとなった。クラスメイトも担任もほっとしていたように思う。そりゃあ、そうだ。あんな空気のなかにはいたくないもんなー。


 そしてオレは、また狐ちゃんを泣かせているんだよな……。犬井だって、不満そうな顔をしているに違いない。反省を促すために部屋を飛び出したというのに、犬井本人が反省しないんだからどうしようもないだろう。ほっといたら機嫌が悪くなるだけだしな。


 「ああ、もう」と壁から背中を離し、今度はベッドから抜け出す。


「……猫……、どうした?」

「あ……、魔王様すみません。起こしてしまいましたか?」

「……いや、起きただけだ、気にするな。戻るのか?」


 上半身を起こした魔王様は、髪を掻き上げながらサイドテーブルの明かりを点し、オレに向き直る。寝起きであろうが、魔王様は色っぽいなー。特に大きな胸元に視線が釘づけになってしまう。が、しかし、ガン見される嫌な気持ちが解るので、すぐにそこから視線を外した。男としては名残惜しいけれど。


「戻らなければ、物に当たり始めるので」

「そうか。勇者も喜ぶだろうな。またなにかあったら、ここに来い。相談ぐらいならのってやるぞ」


 オレの頬をゆっくり撫でた魔王様は最後に唇を落とした。度々「猫の肌は触り心地がいいな」と額やら頬にキスをされているが、慣れることはない。美女からのキスなんて、動揺するしかないだろ。


「ありがとうございます。お騒がせしました、おやすみなさい」


 深々と頭を下げて、ヒラヒラ手を振る魔王様の部屋をあとにする。


 犬井といると損な役回りばっかりだよな、本当に。


 鈍い明かりに照らされた足音しかしない廊下をずんずん進み、「どうだ犬井、反省したか!」と勢いよくドアを開けた。瞬間、狐ちゃんたちも勢いよく飛びついてくる。軌跡を描くきらりと光る涙に気づく前に「おわっ!?」と驚きつつもきちんと受け止め、しっぽを振り乱しながら見上げる狐ちゃんを眺めてようやく理解する。ああ、やっぱり泣かしていたのかと。


「ごめん、ごめん。また泣かしちゃったな」


 背中を撫でれば「きゅーっ! きゅーっ!」とはち切れんばかりに頭が揺れる。要するに否定をしたいのだろう。つまり、数時間離れることは許してくれる――と。


「でも、悲しいから泣いてたんだろ?」


 「きゅ……」と恥ずかしそうに頭を押しつける狐ちゃんたちのなんとかわいいことか! どこかの誰かさんとは大違いやで!


 犬井を窺えば、ベッドの上で壁に凭れたながら足を投げ出した状態で、腕を目元に当てていた。だいぶ落ち込んでいるようだが、コイツの頭のなかには反省の文字がないから残念だ。ベッドに上がりつつ仁王立ちになるのは、怒っていることを解らせるためである。


「少しは反省したか?」

「俺は反省するほどのことはしてない」

「はい、黙れ。『人が嫌がることをしたらいけません』って、小さいころに教えられたはずなんですが。反省できないなんて幼児ですかね~?」


 腕を外してオレを見上げる犬井はしけた面をしているが――外した腕をゆっくりと伸ばしてきた。「だったらどうする?」と口端を上げながら。


「わあっ!? こらっ、犬井っ」


 腰に抱きつかれてバランスを崩し、強制的に横になる。というより、タックルされたあとに近い。上半身だけ起こした体勢で犬井を睨めば、目を細めて宣った。「俺は幼児だから、添い寝がないと寝られないんだ」と。全力で幼児発言に乗っかってきてやがるが、相手にしてられるか。


「うるせーよ、早く退け」


 犬井を押し退けて掛け布団を被る。犬井も布団を被って寝る体勢になると、「ユウ」とふたたび抱きしめられてしまうが、振り払うのももうめんどうだ。向かい合わせの添い寝状態の先、狐ちゃんは狐ちゃんでベッドの端に直列に並んで寝る準備に入っていた。「今日はこっちにおいで」と喜び勇む二匹を抱きしめると、犬井の指が横髪を梳く。ちなみにオレが壁側で寝かせられるのは、落下防止ということらしい。一度も落ちたことはないんだけどね、寝相悪くないし。


「なあ、ずっと気になってたんだけどさあ」

「なんだよ?」

「狐ちゃんたちはなんでこんなになついてくるんだ?」

「管狐は匂いに惹かれるからな」

「それって、オレが揚げ出し豆腐の匂いがするってことか!?」


 ぶほっと噴き出して肩を震わせる犬井を横に、勢いよく起き上がったオレは巫女服の袖を捲って匂いを嗅ぐ。……あれの残り香がするだけで、揚げ出し豆腐の匂いではない。タオルで軽く拭かれただけだし、匂いが消えてないのはしょうがないか、うん。


「揚げ出し豆腐の匂いなんてしないぞ。つか、笑いすぎだからな!」

「揚げ出し豆腐の匂いがする人間なんて、聞いたことがないな」

「なら、どんな匂いなんだよ?」


 勢いがよすぎたために狐ちゃんは「きゅぅっ!?」と初めこそびっくりしていたが、いまはオレの肩辺りで浮いている。その背中を撫でながらの問いに、犬井は顎に手を添えながら数秒間口を閉ざした。


「春の匂いと言えばいいのか、甘い匂いと言えばいいのか……、正直どう言い表したらいいのか解らないけどな、ユウはいい匂いがするんだよ」

「いい匂いって、それはコンディショナーやボディーソープの匂いだろ」

「そういうのとはまた違う匂いだから」

「どんな匂いかはよく解んねーけど、謎は解けたからいいや」


 「疲れたからもう寝る」と横になったとたん、犬井がのしかかってくる。体重はかかってないから重くはないけど、手首を縫いつけるな!


「……犬井……」

「悠希、『おやすみのキス』がないぞ」


 怒気を滲ませた声に返るのは、わけの解らない言葉である。『おやすみのキス』なんてされてばかりだっつの!


「狐ちゃんにしてもらえるだろ」

「俺はそろそろ悠希にしてほしいんだ」


 「ははっ!」と小馬鹿にするように笑ったオレに構うことなく、「きゅっ!」と元気よく鳴いた狐ちゃんは頬に鼻を押しつけてくる。これは狐ちゃんなりの、『おやすみのキス』なのだ。狐ちゃんはちゃんと空気を読んでくださいね。


 「くそっ、管狐に先を越された!」と舌を打った犬井は慌てて額に唇を落としてきた。慌てなくても逃げられないし、額どころか唇も塞がれたんですが。がががが。


「――おやすみ」

「お前本当に強引だな! おやすみ!」


 抵抗を示すために明かりを消している犬井に背を向けたわけだが、「ユウ」とやはり抱き枕のごとく抱きしめられてしまう。伝わる体温が眠りを誘い、狐ちゃんを抱きしめながら目を閉じた。


 「添い寝がないと眠れない」なんてのは犬井の『嘘』である。コイツは雑魚寝もできる男なのだから。そんな嘘を吐いてまでオレを逃がさないように必死なのはいいが、それが逃げたくなる要因だと解らないものかね。そもそも、回数を減らせば一発で解決するというのに、回りくどいことをするもんだ。


 犬井がもう少しまともな行動をしてくれたら、オレだってちょっとは素直になるのにな。


 空気と同じような、当たり前のこの温もりに報いるように。




 

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