#003
結論から言おう。――腰が抜けたままだと。いや、さらにひどくなったね、これは。悔しいことに、経験値の差は埋まらないわけだ。ハーレムを築けないオレなど、ただの飾りなのですよ。はははは。
そんなオレは宛がわれた寝室のベッドに運ばれ、背後から犬井に抱きしめられていたりする。立てた膝を肘掛けにして凭れるのは仕返しであり、それ以上の深い意味はまったくないんだよ。だから押し当ててくんなし!
「変態」
「男はだいたい変態だろ」
呆気なく論破された。ぐっと言葉につまるオレに対し、犬井は愉快そうに笑う。なんでや。
「笑っていられるのもいまのうちだぞ」
「そうだな」
「うぅー!」
こら、ネコミミを撫でるな!
手を払っても払ってもネコミミに触れられ、ふにゃふにゃしそうな思考でもなんとか踏ん張る。ここで落ちてはいけないのだ。落ちたら大変なことになるからな。
「そ、そもそもっ、オレたちはケンカの真っ最中だったんだぞっ」
「あー……、そうだっけか?」
忘れてましたなニュアンスだ。オレも言ってから思い出したけども。
「まあ、いまとなっちゃどうでもいいことだな」
「よくない!」
思い起こせば、ケンカの原因は犬井にある。ついでに言えば、全ての元凶もお前だからな!
そう吠えるオレの睨みに、犬井は肩を竦めた。「はいはい」と。しかも涼しい顔をしながら。怒りにガソリンを注がれてぐるぐる唸るオレの躯を引き上げた瞬間、ベッドへと倒れてネコミミに下顎を乗せてきた。
「煽りすぎるとまた眠れなくなるぞ?」
その言葉に固まりながらも我に返り、ぎぎぎと錆びついたものが動くように緩慢と見上げれば、犬井は口の端を舐める。。捕食寸前だとでも言うように。
色っぽいなんて思ってない、思ってないからと胸裡で慌てるオレの尻に、犬井の手が伸びた。
「――ご」
「ごめんなさい」と呟けば、尻に伸びたはずの手が背中を撫でていく。
「これ以上酷使されたくないなら、素直におとなしくしてろよ」
犬井は片手で額を押さえながら顔を逸らして、ぶつぶつなにかを唱えている。聞き取れたのは、「まったく」と次の「煽られる身にもなれ」だけだ。耳まで赤いのは見なかったことにするでござるよ。
だいぶ話が逸れてしまったが、オレたちがこの世界に来てから半年は経過しているらしい。それも犬井による情報だから正確さに欠けるかもしれないが、半年前を遡ろうか。
――五月半ばのその日、高二最初の中間テストを終えた。親睦を深めようと、クラスメイト十数人でカラオケに繰り出したわけだ。犬井も来るとなればともやもやした嫌な予感は的中し、彼氏のいる一部の子以外はものの見事に犬井に群がっている。他校に彼氏がいる子も混じっていたが、他校なのでなにも言うまい。両サイドは女の子たちが代わる代わる座り、ここはどこの婚活会場かと悲しくなってきた。
残る男たちはドン引きだよ。向かい合わせに座るオレを含めてな。『そこを変われ』という圧力がすごいから、すぐに友人のところに避難をしたんだけど。
始まってしまった四者面談を横目にマイクを離さない男たちは飲めや歌えやと騒いでいた。悲しみを癒すように。
「いいのか?」
「なにが?」
広げられた菓子に手を伸ばし、ぽりぽり食うオレの耳元で、控え目な友人の声が届く。
「殺気がすごいぞ、冗談なく」
「知らねーよ。だったらしげちゃんがいけばいいだろ」
「おれにあれと戦えと言うのか。殺気まみれのあれと。それこそ冗談じゃねー」
「勝ち目はねーもんな」
「確かに」と笑い声が広がる。だから誰もが諦めているのだ。こうして。犬井の指が髪を撫で、女の子が耳まで赤くなるのを見ていることしかできない。草食系上等だ、ちきしょうめ。たとえ羨ましくとも、触らぬ犬井になんとやらである。――が。オレの我慢が限界を越えた。
「帰る!」
避難するときに持ってきたリンゴジュースを一気に飲み干し、「委員長!」と目を丸めた委員長に駆け寄る。
「猫塚、どしたの?」
「オレ帰るから」
なにを隠そう犬井に頭を撫でられている女の子はオレの想い人である。仄かな恋心を抱くその子は、オレではない男に甘えていたのだ。気分が悪くなるのは当然だろう。
「は?」と固まる委員長に「これ五百円」と硬貨を押し付ければ、正気を取り戻したのか「待った、待った、猫塚ストップ!」と慌て始めた。
なんだ、なんだ。いくらになるか解らないけど、割り勘分を先に払うのがいけないのか。いや、たぶん委員長が言いたいのはそういうことではない。『犬井を置いていくな』ということだろうが、オレは犬井といたくないのでそれは無理だ。無理無理。にらめっこ状態のオレたちを眺めていたらしい犬井は「ユウが帰るなら俺も帰るわ」と床に置いたカバンを手にする。
「ふぁっ!?」
なにを言ってるんだと視線を遣れば、「ええー!」と女子郡が声を上げた。「犬井くんがいないとつまらないよー」「なら私たちも帰るー」「じゃあね」ともはや数の暴力だ。右隣に座っていた彼女さえも、「私も帰る」とぽつりと漏らす。いやいやいやいや、帰らなくていいよ!? 帰る必要はないよ!?
「帰るぞ、ユウ」
手を差し出しながら微笑む犬井が憎い――。
「やっぱやめる」との言葉は一瞬のちに紡がれる。犬井は「そうか」とだけ言って座り直し、ほっとしたような顔をした委員長を「リンゴジュース頼み直して」と顎で使った。委員長は「ああ」と頷いて注文を取りにいくが、それでいいんかい。だから君は優男だと言われて彼女ができないんだぞ。メガネ男子だというのに。
こうして残ったのは、犬井と彼女を秤にかけた結果である。好きな人の幸せを選んだのだ。言っておくが、泣いてない。誰も泣いてないからな!
「ユウ、ほら、ハンカチ」
「うるせーよ! オレは泣いてないんだからな!」
しげちゃんの手からハンカチをひったくり、両手で顔を覆う。憐れみの目を向けるんじゃねーやい!
「そろそろ隣にいってやれよ」
「断る。アイツはオレをバカにしてるからな」
そもそも先にオレを困らせたのは犬井であり、たとえ犬井が困ろうとも、それは自業自得である。つんとした態度をとり続けるのは帰る道すがらのいまもだ。犬井は「ユウ」とか「悠希」と背後から声をかけてくるが、無視を続けている。許すものか。断じて。
突如湧いた右肩辺りの衣擦れの音に目を遣れば、二匹の狐ちゃんが顔を出す。「おおう!?」と驚くオレに対し、狐ちゃんたちは「きゅ」と鳴いた。小首を傾げつつ。やっぱり狐ちゃんはかわいいな。
「狐ちゃんで釣ろうったってそうはいかないぞ!」
狐ちゃんを全力ハグしながら柔らかな毛に頬を埋めて言っても説得力などないに等しいが、言わずにはいられない。
「釣れるならもう釣ってるわ。管狐たちがユウと遊びたいとうるさいから解放しただけだしな」
「狐ちゃんはこんなにかわいいのに、なんでお前はかわいくないんだ」
「そう望むなら、これから可愛くしてやるよ」
「いや……、やっぱり気持ち悪いな。犬井は犬井でいいや」
素直な犬井など、想像するだけで身震いものだ。そして現に身震いしたわけで。
狐ちゃんを離してふたたび歩き始めて気づいたが、怒りはだいぶ収まっていたらしい。狐ちゃん様々だ。狐ちゃんかわいいよ、狐ちゃん。
ここで脳裏に蘇ったのは先程の光景である。女子に囲まれた犬井の姿。つまり、犬井に聞けばなにか解るかもしれないわけだ。モテるためにはなにをしたらいいのかを、この男は知っている。
生けるモテ男である犬井を見上げ、「どうしたらモテるんだと思う?」と呟けば、「人は見た目が九割だからな」と即答された。おい、それは平々凡々なオレでは一生モテないとでも言いたいのか!
「お前本当にムカつくな……!」
「悠希の良さなら、俺が解れば十分だろ」
「犬井に知れたって意味がないんだよ! オレは! 彼女が! ほしいの! デートしたりしたいの――……なんだっ!?」
突然足元から湧いた光に口が閉じる。柔らかな光のなかに見えたのは文字だ。一見アルファベットに似ているが、非なるもののようでまったく読めない。
「い、いいい、犬井! なんだよこれ!?」
「俺が知るわけないだろ」
一匹の狐ちゃんの顎の下を撫でながら言うが、なんでそんな冷静なんだ!
「冷静すぎるだろ!」
「お前といるからな」
「女の子に言われたい台詞その八十二ー、『猫塚くんといると楽しい』をお前が言うな!」
「なんなんだそれ……」
「百までありそうだな」と呆れながら、犬井はもう一匹の狐ちゃんの頭を撫でた。「きゅ」と鳴く声に導かれるように「百以上ありますけど、なにか!?」と
「まあ、気持ちは解る。俺も好きな子に言わせたい台詞があるし」
「え……、お前ちゃんと好きな子いたのか……? 趣味が『女遊び』なのに……?」
「お前のなかでの俺の認識はどうなってるんだ」
「どうって、『モテることをいいことに、女の子と遊びまくってる最低野郎』だよ。浮気しないことは誉めてやるけど、しない奴はしないからな」
「ふぅん」
機嫌を損ねたように目を細めた犬井はオレの腕を取り、「その認識を改めさせてやる」と微笑んだ。だが――目が、目が笑ってないんですが! 怖いよう!
「あ、いや……、オ、オレだけじゃないぞっ? みんな言ってることだからな……?」
「他人にどう思われようがどうでもいいわ。遊んでるのは事実だしな」
なにを言っているのやら。他人の評価は大事だろと、訝しむオレの腕を引いて、無理矢理腕のなかに閉じ込める。瞬間、強くなる光に飲まれながら、犬井はなにを言ったか――。
「俺にとってはな、一番近くにいる『お前に』どう思われるかが重要なんだよ」
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