#002

 こうして定位置に座らせたのは、薬を飲ませるためだろう。背中を向けたままでは飲んだのか飲まないのか解らないということで、何分間かずっとそうしていたのだ。包装を睨みながら。しかし、だ。飲む気がないと悟ったらしい犬井に引き摺られてはい終わり。口移しではなかったのがせめてもの救いだが、半ば無理矢理飲まされてしまった。いやだって、「飲まないならもう一発だな」なんて脅されれば、毛を逆立てつつしっぽを振りながらでも腹を決めるという選択しかなかろう。

 うう、苦い。残るぬるま湯で苦さを流そうとちひちびやっている間、「よくできました」と頭を撫でられていた。


 なんだ、オレは幼稚園児か。いや違う、オレは男子高校生なのだ。彼女がほしいと望んでやまない、彼女いない歴イコール年齢の。これが犬井の場合であるなら、さすがに彼女持ちイコール年齢とはならないが、生まれたときから女に囲まれている。


 なんの嫌がらせだと気分が悪くなるしかないが、犬井は末っ子長男というやつなのだ。上には四人の姉がおり、それも揃いも揃って美人ときたものだから、『犬井家』はある意味ですごく有名だった。姉たちだけではなく、家族みんなきれいで、そこだけ異空間である。遺伝子の不思議と名づけよう。


 顔でモテるのは道理。ただし、性格は難ありなおっぱい星人だというのに、彼女の座を狙おうとする女の子はあとを絶たなかった。『お前はライトノベルの主人公か!』という心の突っ込みも追いつかないほどに。


「なんでお前だけモテるんだ」


 呟いたその言葉に返るのは、「陰陽師だからじゃねーの」と少し冷たい言葉だった。そうね、確かに犬井家は陰陽道を生業とした『管狐』を操る家系だ。表向きは自営業酒屋であるが。住宅兼店舗ではなく、住宅と店舗は別れているようで、家に仕事は持ち込まない流儀らしい。いくら忙しくとも。犬なのに狐を操るとは不思議なこともある。


 オレがそれを知ったのは早かった。そもそもいくらこちらが避けようとしても、完璧には避けられない。家は近所。つまり――保育園は一緒、小・中学校も一緒、果ては高校まで同じ。そして避けたら避けただけ犬井の機嫌が悪くなると気づいたオレは、いつしか避けることをやめた。よけいな火の粉が飛んでこないようにと――。クラス替えなんてなんのそのでずっと同じクラスだし、共通の友人たちからは連日不機嫌な犬井の理由を聞いてこられたから嫌でも気づくわ。


 オレを除いた家族はみんな犬井に陶酔しており、母さんと妹にいたってはそれそれは眼福だと騒いでいた。確かに眼福と言われればそうかもしれない。観賞用としては申し分ないのだから。


 いまにして思えば、お使いを頼まれたその日の帰り、どこかで小銭を落としたのが運の尽きだろう。それとも、母さんに怒られてしまうと涙を浮かばせていたのがいけなかったのか。どうしようかとしょんぼりしていたオレは、夕陽を背にした犬井少年に声をかけられたのだ。


『ユウ、なに泣いてんの?』

『金、落とした……』

『ふぅん、いくら?』

『百円です』

『百円ぐらいなら俺が貸すけど、それは嫌なんだよな?』


 『うん、嫌だ』と頷いたオレに犬井少年は目を細める。『ユウは真面目だよな』と。


『バレなければいいんだよ』

『でも嫌だ』


 少額でも金の貸し借りは破滅を呼ぶと、ばあちゃんが言っていたのだ。『友人の保証人となり、えらい目に遭った』と笑って話をしてくれたが、会うたびにその話をしてくるのだから、よほどのことなのだろう。


『釣りの残りはある?』

『これだけ』


 しかたがないなと言いたげに視線を寄越されたのち、ズボンのポケットから掌に乗せた小銭を見せれば、犬井少年はどこからか竹筒を取り出した。


『〈管狐〉は解るか?』

『狐の妖怪のことだよな?』

『まあ……、妖怪といえば妖怪だな。俺の家は管狐を操る家系でさ、管狐を使って失せ物探しとかしてるらしいよ。これはじいさんから譲り受けた管狐で、使役の訓練中なんだ』

『へー!』


 それはすごいと目を輝かせていれば、きゅぽんと小さな音を立てて上下のふたが開いた。とたん、細長い管狐が二匹現れ、オレの周りをぐるぐる旋回している。『きゅ』『きゅ』とリズミカルに鳴きながら。


『《失せ物探し、ユウの小銭》』


 犬井少年の少年らしからぬ凛とした声を聞いた管狐たちは掌に乗る小銭の匂いを嗅いでから、どこかに飛んでいく。


『すぐに見つかるから、心配しなくていい』


 頭を撫でてくる犬井少年は、優しい笑みを浮かべていた。そしてこのとき、女の子たちが犬井と騒ぐ理由が解った気がする。


 ――この笑顔を独占したいわけね。


 ということは、オレも笑顔を振り撒けばモテる可能性があるわけか!


 当時十歳のオレは、足りない頭でそう考えたわけだ。


 どこの誰とも知らない家の塀に凭れながら管狐を待つことにしたが、犬井少年は突如『ユウは好きな子いるの?』と口を開く。『へ?』と固まるとたん、きれいな手がオレの指を握りしめてくる。


『好きな子いる?』

『い、いない、けど……』


 強く握られた手から視線を上げた先、鋭く光る獰猛な目はすっともとに戻り、『ふぅん』と紡いだ。いまのはなんだと目を瞬かせて犬井少年を見るが、雰囲気はいつもと変わらない。


『好きな子できたら教えろよ』

『あ、うん、解った』


 やっぱり幻覚だったのかと首を傾げたのち、二匹の管狐が犬井少年の横腹辺りに突進してきた。痛がりもせずに差し出した掌に、一匹が口にくわえていた百円玉が転がる。


 本当に見つけてきたんだ! すげえ!


『匂いで探したから、落とした百円はこれだな』

『ありがとう。狐ちゃんもありがとうな!』


 受け取った百円玉をポケットへとしまい、感極まって抱きつけば、管狐――狐ちゃんは『きゅ!』『きゅ!』と嬉しそうな鳴き声をあげ、犬井少年は固まった。


 それから年を取るごとに犬井は純粋を捨て、鬼畜な変態へと変貌を遂げたのだ。



    □



「お前たちはなにをしておるんだ……?」


 部下を従えた魔王様の呆れた声に、犬井はようやく唇を離す。砕けた腰を支える手さえも憎い。だが、「離せ」という声は出なかった。息を整えるだけでいっぱいいっぱいなのだ。


 コイツはなにを言ってやがるとゆるゆると犬井を見上げ、「陰陽師だからってモテるなら、オレだってモテるわ!」「なんでモテないんだよー!」と喚いた瞬間、噛みつくように唇を奪われてしまった。そしてどうなったかといえば、このざまだよ!


 憎き犬井は平然と「なにって、キスだけど」と答えやがったが、魔王様は「そうか」と髪を払って向かいに腰を下ろした。その隣に部下を座らせる。ふたりとも寝間着というかネグリジェ姿だが、なんとか上下ちゃんと下着をつけてくれている。少し前までは素っ裸で着てくれたもんだから、見ないようにするのに大変だったんだよ、本当に。


 ああ嫌だ嫌だと唇を拭う手を取り、「あまり擦るなよ」と手首に口づけてくる。魔王様と部下の視線が痛い。睨まれとるがな。


 オレがなにをしたというんだ。扱いが酷すぎるぞ。「やめろや」と睨めば、ふたたび猛獣のスイッチが入ったようだった。どこにそんな要素が含まれていたのかオレには解らないが、誰かオフにしてください。お願いします。腰砕けはもういやなんです。


 重なる唇を引き剥がそうと胸を押し、腕を突っ張る。これは拒否の意思表示だ。最後には負けようとも、意思を示さなければ勘違いをする。男とは勘違いをしやすい生き物だからな。


 滲む視界の向こうにいる犬井はきっと、食い殺さんばかりの瞳でオレを見ていることだろう。


 なにせ後頭部に添えた手は、髪を鷲掴みにしているのだから。


 神様仏様魔王様、どうか目の前の変態を滅してください。




 

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