第五章

 ここ数日守り人の耳に襲撃とは違う笛の音が届いていた。その音の出所は森の外ではなく中、ガバドから聞こえていた。一度、何をしているのか遠くから観察してみると、どうやら飼い慣らした鳥を呼んでいるようであった。彼は呼んだ鳥を少しだけ撫で繰り回した後、どこかへ飛ばすという事を繰り返していた。


 守り人は特に気にしていなかったがある日、いつものように日が昇ったあと小屋に向かうと屋根の上で鳥と戯れるガバドの姿が見えた。その姿に目を奪われ不覚にも雪に埋まっていた小枝を気付かずに踏んでしまった。パキッと乾いた音が響き、こちらに気付いたガバドが慌てて鳥を手放すと屋根から降りてきた。


「あっお、おはよう」

「あぁ」


 お互い悪い事は何もしていないはずなのに気まずい空気が流れた。二人共、本心を空に投げ飛ばしたかのように何も言えず、その場に立ち尽くすだけだった。手を動かすだけにも勇気がいる空気感の中、ガバドがどうしたものかと考えていると守り人が先に口を開いた。平行していた視線が交わる。


「……帰るのか」

「あー……うん。帰ろうかなって思ってる」


 ガバドは後ろめたさを感じ守り人に背を向けた。彼女に見せなかったその顔は何かを蔑んだような表情だった。


「それに元々ここにいるのもボクの体調が回復するまでだったしね。あっ安心して! この森で見た事は誰にも言わないから。調査は『収穫無し』って報告するから! ね?」


 もう一度守り人の方を向いた時には少しだけ困ったような笑顔になっていた。幾月も一緒にいれば僅かな変化も、その理由も分かるようになる。それでもガバドの空元気に守り人は気付いていようとなかろうと、


「そうか」


とだけ答えた。それが守り人なりの優しさである事は分かっていた。


 いつもであればこのまま空元気を続けるガバドであったがその顔から笑顔が消えたのが珍しく、守り人が歩み寄るとガバドは彼女の手を引き抱き寄せた。それに驚き少しよろけそうになった彼女を彼が支えた。


 ガバドは守り人の肩に両手を回し、顔をうずめた。彼の体は僅かに震えており、まるで怯えている子供のようだった。そんな子供をなだめるように守り人は彼の背中に手を回すと優しく叩いた。少しだけ安心したのか耳元で弱弱しく彼の声が聞こえた。


「……また、会いに来るね」

「好きにしろ」


 守り人が彼にかけられる言葉はこれしかなく、己の〝無力さ〟を嘆いた。


  ◆◆


 「……よし」


 久しぶりに軍のコートに身を包んだガバドは身が引き締まる気持ちと同時に、少しだけ嫌悪感も覚えた。深く深呼吸をし、白い息を吐きながら小屋を出るとすでに守り人が待っていた。


「おはよう……って言うのも今日が最後かぁ。はは」

「また来ればいい」

「そうだね! 君からそんな言葉が聞けるなんて」


 目を丸くするガバドに対して守り人はため息をついた。


「お前が言った事だ」

「あはは、そうだったね。……森の近くまで父さんが迎えに来るんだ」

「なら出口まで連れて行こう。また迷わられたら面倒だからな」

「お願いするよ」


 二人は新雪に自分達が一緒にいた証を刻む事に集中するかのように、歩き出してからお互いが言葉を交わす事はなかった。

 ガバドは森に来てから今日まで様々な事を経験した。しかしの事を考えると、どの経験よりもそれ以上に胸が高鳴った。それを落ち着かせるためともう一つ、森の空気を忘れないように丁寧に呼吸を繰り返した。


 深く息を吸い込むと冷たい空気に乗って、慣れ親しんだ木々の匂いが鼻の奥に広がる。ふと一歩先を歩く守り人を見上げると、いつも通りこの世の光全てに愛されていた。全身に光を浴びて輝く姿は彼がこれまでの人生で見てきた何よりも尊く神々しかった。彼女と別れる事、それだけがとても心残りで悔しかった。


 ガバドが感傷に耽っている間に、少し開けた場所に出ると守り人は止まった。そこは二人が初めて出会った場所だった。


「ここからは一人でも大丈夫だろう。私は人間に見つかるわけにはいかないからな。……あそこを真っ直ぐ歩いて行けば外に出られる」


 そう言って守り人は日が昇って来た方を指差した。


「分かった。今までありがとう。そうだ――」


 ガバドの言葉に振り向いた守り人を優しく引き寄せると彼女の頬に口づけをした。彼は驚く彼女から顔を離すとにへっと笑いながら、


「親愛の証。へへ、本当は額にするんだけど君……角生えてるからさ」


と自分の額を指差しながら言った。守り人は目を閉じ少しだけ嬉しそうな声色で呟いたその口角も上がっていた。


「……そうか」

「うん…………それじゃあ行くね」


 名残惜しそうにしばらく守り人の頬を撫でてからガバドは寂しそうな笑顔で歩き出した。そんな顔をせずともまたすぐに会えるのに、そう守り人は思った。

 それでも彼女は何も言わずに小さくなっていくガバドの背中を見送った。人間の視力では捉えられなくなるまでガバドが歩いたところで一つの人影に手を振ったのが見えた。きっとそれが彼の父親だと分かった。幸いにも守り人に気付いる素振りは見えない。このまま彼は父親と合流し自分の国に帰るのだろうと、当たり前に思っていた。


 また〝いつも通りの日常〟に戻るだけ。もしかしたらこのまま彼の人生とは交わらないかもしれないが、それが〝当たり前〟だ。長い間、ここにいた自分には関係ない。それでもきっと彼は会いに来てくれるかもしれないと、心のどこかで期待して、高鳴った。そんな自分に神樹が怒ってしまったのか。


 予想もしない音が森中に響き渡った。


――バンッ!バンッ!


 突如鳴り響いた聞き慣れない音に驚いた鳥達が飛び立ち、重く響く静寂の中その羽音だけが鮮明に聞こえた。ガバドがゆっくり倒れていき人影が去って行く光景が全て、守り人にはスローモーションのように見えた。目の前で起きた信じられない出来事に目が揺れ、無いはずの心臓が大きく跳ねる感覚を思い出す。


 声の出し方を忘れた代わりに守り人の指先から漆黒の泥が滴り落ちる。右目を抉る程の衝動にさえ身を焦がすようだった。


 ガバドは左胸を抑えながらほぼ転ぶような形で膝を真っ白な雪に埋めた。何とか腕も支えにして起き上がろうとしたが、実の父親に撃たれたところから絶えず血が流れていき自分の命が少しずつ消えていく感覚を手放せなかった。体から溢れる液体が雪を赤く染めていくのを見ながら、まるで自分の命が養分になっているみたいだと思った。


 凍死しそうになった時と比べ急激に体温が無くなり体を支えている手の力も抜けていく。血の気の引いた指先がぼやけるように、すぐに目の焦点も合わなくなった。あの時と違い今度は本当に死んでしまうのだと悠長に考えていた。


「――……」


 ガバドは最後の力を振り絞って守り人の方を向こうと頑張ったがそれは叶わず、最後に口にした言葉も届かずに鮮血に染まった雪に埋もれるように倒れてしまった。


  ◆◆


 周りに人間がいない事を確認してから守り人はゆっくりとガバドの側まで歩み寄る。目から溢れる泥を拭いながら彼の亡骸を傷付けないようにそっと抱き上げた。最初に抱えた時よりも遥に軽くなっていたため、落とさないようにしっかりと持つ。彼を弔うため彼女は一歩一歩踏みしめながら歩き出した。その足跡の上で二色の液体が混ざったがその色はとても綺麗とは言えなかった。


――彼は殺された、実の父親に。


 ガバドが殺された時、自分の中にまた黒い憎悪が湧きだし呑み込まれてしまうのかと思ったが、そうはならなかった。その事に自分はここまで感情を失ってしまっていたのだと実感した。少しだけ情緒が乱れてしまったがそれもすぐに落ち着いたのだ。


 『悲しい』と感じるが果たしてこれが本当にその感情なのかは分からない。まだ少しだけ感情が残っていると思いつつもそれは全て昔の自分を真似てなぞったがゆえに、そう思っているだけかもしれない。


 ……考えても無駄だ。もうそれを見せる相手もいないのだから。考えるのはやめてまたいつもの当たり前に戻ればいいんだと思った。


 

守り人が来たのは神樹だった。ここは本当にいつ来ても変わらない、などとぼんやり考える。

 神樹の側まで来ると彼女は腕の中のガバドを撫でるように見つめた。彼の目はゆるく閉じられておりただ眠っているようにしか見えず、しばらくすればまた起き上がり無邪気な笑顔を向けてくれそうであった。しかしそれが叶わない事ぐらい守り人は受け止めていた。そんな眠っているかのようなガバドを起こさないように守り人は優しく神樹の根の間に彼を寝かした。


 ガバドの顔を彩る泥と雪を優しく払うと、彼の額に静かに口づけをした。これが最後、というように自分と同じくらい白い彼の頬を撫でてからその場を立ち去った。

 灰色の静寂に守り人がぽつりと呟いた言葉だけが響いて消えた。


「人間なんて愚かで、大嫌いだ……!!」


◇◇


 彼女にバレないように何回か鳥を飛ばした。もしかしたら察しているかもしれないけど何も言わないのであればこっちから余計な事を言う必要はないと思う。

 これはボクの傲慢な賭けだった。森と人間が仲良く……ならなくても不干渉な存在になってくれればよかった。彼女はきっとこっち側に歩み寄ってくれる。――だけど人間は?


『調査の結果、森はとても友好的だった。死にかけていた自分を助けたのが証拠。人間が侵攻を止めれば、森が危害を加えてくる可能性は限りなくゼロに近くなるだろう。森を破壊することは人間側にも不利である』


 父さんへの報告を書く途中で手が止まる。こんな考えしか浮かばない自分が嫌になってしまう。


『しかし、これが信じられない事であるならば、ガバド・アングールが何者かに憑依されている又は森に犯されたと見えるなら国へ足を踏み入れる前に殺害せよ』


 人間側に少しの希望もないのであれば、この森は絶対に落とさせてはいけない。そのためにボクは自分を利用する。希望があるならボクは殺されずに、これからも森の外から彼女の事を守ってあげられる。もし人間側の準備が整ってなくてボクが殺されたら……。もはや結果は分かり切ってるけど、少しだけ目を背けたってバチは当たらないはずだ。


 自分が殺されるかもしれない恐怖と戦いながらボクは残りの日々を過ごした。初めて感じる気持ちだけど彼女はずっとこの気持ちと戦っていたのかもしれないと思うとやっぱり凄いなって思う。ボクもそのくらい強くなりたかった。

 そして国へ帰る日。父さんにもちゃんと伝えてあるから間違いは起こらないと思う。……間違いってなんだろうね。少しだけ現実逃避したくて自嘲した。


 最後に森の空気を吸いながら彼女に案内され最初に出会った場所に来た。どうやらここは森の外に近い場所だったみたいだ。

 彼女の頬にボクの想いを残すように優しく口づけして、外に向かって歩き出す。


 多分彼女はボクを見送ってくれてると思う。そうじゃなくても森で起きた事なら彼女は全部知ると思うからきっと大丈夫。外の近くまで歩くと父さんらしき人影が見えた。ボクは軽く手を上げて挨拶した。

 うん、分かってた。


 父さんの手には見た事ない物が握られていて、そこから放たれた熱いものが一直線にボクの胸を貫く。


 せっかく君が歩み寄ろうとしてくれたのに人間はまだできなかったみたいだ。なにせ実の息子を殺すくらいだから。やっぱり人間は愚かだった。

 人間側に希望がなかったらボクは君の目の前で死なないといけない。そうすればきっと君は人間を憎むかもしれないしもう二度と人間を森に入れないでしょ? もしボクのために復讐なんて大層な事を考えてくれたらきっと、世界が消えちゃうくらいの力を君は持ってる。


 痛みは感じないけど本能は死にたくないと、溢れ出る命を止めようと左胸を抑える。だけど体温と共に力も抜けていき自分の身体を支えられなくなって膝をついた。自分の血で雪が赤く染まるのがまるで養分が広がっていくように感じて、森の養分になれるなら本望だなんて呑気に考えてた。


 あぁ本当に死んじゃうのかと思ったけど不思議と怖くはなかった。意外と平気なものなのかもしれないし、案外また目が覚めるかもしれない……なんて。

 あぁ、ごめんね……ごめんね……また失敗しちゃうのかな……。ボクはただ君と一緒にいたかっただけなのに……。


 急速に消えていく命の灯火を感じながらそういえば君にちゃんと気持ちを伝えていなかった事に気付く。最後にこれだけは伝えなきゃいけないから、君がいる方へ向こうと最後の力を振り絞った。


「大好き……だよ……」


 言い終わるか否か、倒れたと同時にボクの意識は世界から切り離された。

 君にこの言葉伝わってるといいな。




 懐かしい歌が聞こえた。ボクもそれに合わせて一緒に口ずさむ。

 そっか、ボクはまた会えるんだね。





【昔日の末日】



――歌が聞こえた

だけど歌は次第に聞こえなくなった


――同じ歌が聞こえた

歌は近くにいる幼子から聞こえた

また歌は聞こえなくなった


――次に歌が聞こえたら幼子に話しかけてみよう

すぐに歌は聞こえた

幼子に話しかける。幼子は驚きつつ会話してくれた

だが幼子はいなくなってしまった


――また歌が聞こえた

今度は幼子のことを理解したいと思った

幼子は知る限りの事を話し、そしていなくなった


――あの歌を思い出し真似てみる

会いに来てくれた幼子から世界の事を聞く。同時に幼子の境遇も知る

それから幼子を守ると決めた

この子が幸せになれればいい


――今度は幼子と一緒に歌う

しかしどうやったって失敗してしまう


――歌を聞かせて

人間は驚くほど脆いのか


――歌が遠い

世界とは思い通りにはいかない

少しづつ変えていくしかないのか


――懐かしい歌が聞こえる

幼子は随分と成長した

今度は上手くいくと思ってた、だけど少し失敗してしまったみたいだ

君を置いていく事を許してほしい

でも安心して、必ず会いに行くから


――歌を歌いながら会いに行くよ

ほらまた会えたね

今度は失敗しない



――歌が聞こえた――


  ◇◇


私はヴェルデ! あなたは?

名前は……忘れてしまった

なら――という名前をあげる

ありがとう とてもいい名前だよ


  ◇


 まだだ、あともう少しで思い出せるかもしれないんだ。

 そうだ。彼女を救いたいのにボクが死んだら意味ないじゃないか。




【第五・五章】



 ガバドがいてもいなくてもこの森の冷たさは変わらない。けれど胸の奥に細く鋭く冷たい棘が刺さって抜けない感覚がありその棘は日に日に増えていくようだ。

 私はガバドにあの人の面影を重ねていたのかもしれない。遠い昔に私も森の中で迷ってしまい倒れそうになるところをあの人が助けてくれた。ふと自分の手を見つめる。差し伸ばされたあの手はとても温かったが私が彼に差し出した手はどうだったのだろうか……確かめるすべはないし確かめたところで何になるのだろう。


 もしかしたらあの人がしてくれた事を真似したかっただけかもしれない。……最初は真似だったが、ガバドと一緒に過ごすうちに真似ではなく自分の意思が生まれてくる事に気付いた。あの人が口ずさんでいた歌を真似てみる。

 あの人を殺した人間もあの人の大切な森を荒らす人間も嫌いだ。人間も私の事が嫌いなようだったから丁度良かった。


――でもガバドは違った。彼だけは私を『人間』扱いした。それがいいとも悪いとも思わないが、少し戸惑ったしどうすればいいか分からなかった。簡単な話、ずっと人間は私を殺そうと向かって来るから力でねじ伏せればよかったし、それが〝当たり前〟だった。けどガバドは私や森の事を理解しようとしていた。そんな事は初めてだったから混乱した。


 私の事を守りたいと言った事も信じられなかった。私には力があるのにどうして彼はそんな事を言ったのか……けど少しだけ『嬉しかった』

 ガバドと過ごした間に感じた感情が例え昔の自分を、なぞっているだけだとしても久々に感じたこの感覚は心地がよかった。あの時は少しだけあの人の面影をガバドに重ねたからかもしれないがそれでもよかった。


 だけど今なら〝ガバド〟が〝あの人〟かもしれないと自分の中で答えが出た。理由は、いつも小屋には動物が集まっていた事と、ガバドと一緒にいる時に初めて人間と争った時に彼が無事だった事、そして森の水を直接、飲めた事。彼はきっと気付いていないだろうが森の動物はあの人以外には懐かない、無論私も遠くから姿を見る事しかできない。人間と戦う時、私が無傷でいられるのは森に守られているからだ……という事はガバドも森に守られた事になる。そしてあの人が教えてくれた、純粋な森側でないとここの水を直接飲む事はできないと……だから私も飲めないのだと。


 とはいえ彼があの人だという確証はないうえに神樹も教えてはくれなかった。だけどそれでもいい、あの人の面影を少しでも思い出せたから。

 だから私はガバドを殺した人間を許さない。――ガバドが殺された時、黒い憎悪に呑み込まれなくてよかったと思う。また呑まれていたらきっとを森に変えてしまっていただろう。そうしなかったのはあの人が望んでいないから、私はただの後継者に過ぎないのだ。


 人間を憎む森の守り人が一人の人間にここまで心を動かされるなんて皮肉なものだ、と乾いた笑いが口から零れる。それほどまでに私の中で彼の存在が大きくなったという事か……まったくお前はこれで満足か?


「――……」


 愛しく思えたその名を呼ぼうとした時、ふと誰かの気配を感じた。もう過ぎた事で感傷に浸るのをやめなければ。守り人としてその責務を果たすため地面を蹴り、出てきた槍を持って気配のする場所へと向かう。


 何の因果か、場所は違えどあの時と同じように雪の上に誰かが寝転がっている。

 それにガバドの幻覚を見る程、私は人間らしくはない。ゆっくり警戒しながら近付くと寝転がっていたのは、まだ幼い人間の男であると分かる。少年はガバドと同じコートを着ている事から何かしらの目的があるのは確かだろう。


 今度は助ける気持ちなど微塵も無い。問題を起こす前に動けなくしておいた方がいい、と思い槍を突き刺そうとした時、少年が口を開いた。


「死にかけの人間の前に現れるって言うのは本当だったんだね。……まぁ僕は死なないけど、よっ!」


 軽やかに起き上がった少年はこちらに笑顔を向けているが体の奥から湧き上がる黒い塊までは隠せていない、いや隠す気はないのだろう。


「お前……〝この世界ここ〟の奴ではないな――」

「ふーん、紛い物なのに分かるんだ……怖い顔しないでよ」


 少年の糸目は開かれる事はなく胡散臭い笑みを絶やさなかった。だが、いずれにせよまだ危害を加えるつもりがなくとも警戒はしておくべきだ。そんな事はお構いなしというように少年は馴れ馴れしかった。


「ねぇ、君はさこの森には戦うだけじゃなくもっと別の力があるのは知ってるの?」


 知っていたとして、そんな事を教える義理などない。


「だんまりか……安心してよ、僕は何もする気がないんだからさ! ……うーんそうだな、じゃあさ僕をまで連れて行ってよ! そうしたら僕の知ってる事を全部教えてあげるよ」

「……貴様……!」


こいつ今、神樹と言ったか? なぜ人間が、がその事を知っている…!? それはお前が知っていい事ではない! 思ったよりも危険な奴だ、早急に始末しなければ。


「おー怖い怖い」


 少年は薄く笑っているが細く開けられた目からは狂気が滲み出ている。こちらがどう反応するかをニヤニヤしながら伺っているのは気分のいいものではなかった。だがどんな目的があれこいつを神樹、ましてや森にいさせてはいけない。きっと話は通じないだろう。ならば武力行使するしかない。

 しかし私が槍を構えたところで少年はつまらなそうにそっぽを向いた。


「まぁ教えてはくれないよね、分かってたけど。……いいや、僕は君に殺されないうちにここから出て行くよ」


 そう言うと少年はこちらを振り返らずに歩いて行った。一体何の目的があったかは分からないし、知りたくもない。しばらく警戒はしていた方がいいだろう。少年が完全に去り、気配も感じなくなったのを確認してから森の周囲を黒い茨で囲んだ。


 しかし人間、ましてや部外者が神樹の事を知っているというのは由々しき事態だ。何かしらの異常が起こっているかもしれない。それを確かめるために灰色の霧を容易く抜け、静かにそこに存在している神樹の元まで来る。ここにはあの人とあいつが眠っている、など思いつつ周辺をざっと見て回ったが……ふむ、特に異常はないようだ。


 そういえばガバドが死んでから来ていなかったなと気付き近くの木の根に腰かけた。ここはとても温かく心地がよい。先ほどまで感じていた不快な気持ちも今はなく穏やかだ。


 目を閉じ、静寂に耳を傾けながら神樹に〝同調〟してみるが、神樹は沈黙を貫く。特にこれといって知りたい事もなかったが、ここまで何も教えてくれないのはかえって不安になってしまう。もしかしたら本当に異常があるかもしれない……それとものか……? それは、いささか困る。もう一度、神樹に同調してみようとその幹に触れた時、真っ黒な水面に一つの波紋が広がるようにガバドの話を思い出した。


――森には死者を蘇らせる力があるかもしれない


 いくら守り人とはいえただの後継者に過ぎない私は、神樹の全てを知っているわけではない。ゆえにあの時は軽い気持ちで肯定したが……もし本当にその力があるなら……?


――もしかしたらガバドが生きているかもしれない


 ハッと神樹を見上げる。よもや自分が人間の戯言に縋る日が来るなんて思いもしなかった。それでも例え砂丘に埋もれた小指の先にも満たない宝石を探し当てる程、荒唐無稽な話だったとしても僅かな可能性に賭けてみたかった。


 乱れる呼吸を必死に抑えながら神樹の力を借りつつ森の中に目を凝らした。当たり前だがすぐに何かが見つかるわけはなかった。その事に平静を装う自分と落胆する自分が喧嘩するが、まだ諦めたわけじゃない。数回深呼吸を繰り返してからもう一度、今度は抽象的に探してみる。


 自分の身体は森と同化しないものとしてイメージしてみる。そうするとやけに頭が冴える気がした。全身の神経が研ぎ澄まされた時微かに、気のせいと間違うくらい本当に微かに気配を感じた。我に返って台無しにしないようにその気配だけに意識を注ぐ。先程の少年とは違う気配……。


「――!!」


 思わず息を呑む。それから一瞬の隙もなく私は走り出していた。本当はもっと気配について探れたがいてもたってもいられなかったのだ。人間と戦う時でさえこんなにも本気で走った事はない。雪を蹴り上げ息を切らしながら無我夢中で辿りついたのは、何の因果か最初にガバドと出会い、そしてガバドが死んでしまった場所。


 そこに一つの人影が見えた。とても見覚えのある背中。もしかしたら神樹が私に見せた幻覚かもしれないと疑心暗鬼になる。その存在を確かめるために慎重に一歩近付く。


 すると人影は私に気付くき、ゆっくり振り返りへらっと笑った。


「ボク、まだ生きてたみたい」

「ガバ――……」


 彼の名前を呼ぼうとしたけど上手く言葉が出ない。まさかまた会えるとは思わなかった。だってあの人は戻って来なかったのにガバドは戻って来てくれた。まだ自分にここまで昂れるほどの感情が残っている事に驚いた。

 昂り過ぎて全身が震える。そのせいで歩みは止まってしまったが大丈夫だ。きっと彼はもうどこにも行かないという確信があった。もう我慢しなくていいのだ。これからは私が守ろう、もう大事な人がいなくなるのは嫌だ。


森に人間を近付かせる必要はないし、彼と一緒にいられればそれでいい。……きっとお前も同じ気持ちだろう? 私の想いに答えるようにガバドは微笑んでくれた。


「不思議なんだよね、撃たれた後に目の前が真っ暗になって死んだと思ったけど……気付いたらここで目が覚めたんだ」


 ガバドは「まぁでも……」と一呼吸置いてから少し照れくさそうに続けた。


「また君と一緒にいられるなら嬉しいよ」


 私も嬉しい、そう答える前に私は彼に向って駆け出していた。この溢れる気持ちを受け止めてほしかった。ガバドも私を受け入れるように両手を広げてくれた。当たり前の事だ、だってこの気持ちはガバドがくれたものだから。空を流れる星を捕まえたかのように嬉しい。

 ただ嬉しかっただけ。


――だけど私は後悔した


 もう大事な人を失う事はないと傲慢になってしまったその罰だ。早く彼の元へ行きたくて走る途中で見えた二つの人影を無視したこと。一時の情に流されるとは守り人失格かもしれない。失望させてしまっただろうか……。

 もう少しでガバドと触れ合えるところだったのに、私の目の前で赤い欠片が砕け散るのが見えた。



――さぁ思い出せ! ――全部思い出すんだ、!!

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