第三章
暗闇が地平線から青灰色に変わり始め、森の輪郭が映し出され影が西へ長く伸びた頃。
まだ日は見えないけど思いの外、部屋の中が明るかったのでベッドから起きてイスに腰かける。何となく頭にこびりついて離れない懐かしい歌を鼻で歌いながら、本を一冊取り出して久しぶりに目を通してみた。
本の表紙には『厄災の森:シルヲ森林』と書いてある。内容は主に今までの森との戦争の歴史や守り人の考察が載っているがその多くは作者の偏見やデタラメが多い。
「森は厄災を運ぶ装置であり、守り人は人間に化けた怪物なのである……実際に知ろうともしないでよく言えたもんだ。こんな事が言えちゃう人間の方がよっぽど醜い怪物だと思うよ?」
当たり前だけど肯定してくれる声は返って来なかった。にしたってもう少し現実味がある方が信じる人も多いと思うんだけど……やっぱり少し誇張された表現の方が読み物としては面白いのかな。確かにボクも森に来る前はこういう本を全楽しんではいた。もちろん内容を全部鵜呑みにしてたわけじゃないけど、あんまりとやかく言えやしないか。
思えば国にいた時は森についての本を読んでいる事が多かった事に気付く。もちろん別の歴史書とか図鑑とかも読んでたけど多分、無意識かもしれないけど幼い頃からそうだった気がする。けどそれはきっと皆とは違う興味だったと思う。
だから父さんからは〝敵〟について熱心に勉強する息子に見えていたけどその実、違う事に気付いたからガッカリしたのかな。
「いやはや」
けどボクは今、森の中にいるんだ。デタラメな本よりずっと本当の事が見れる。ずっとボクが知りたかった事が知れる機会に恵まれた事だけは父さんに感謝しなきゃね。
そういえば外が温かな色に包まれ始めたからもうすぐ彼女が来るかもしれない。そう思うと同時に小屋の扉が開かれて待ちかねた人物が姿を現した。
◆
少しオレンジがかった光が木々の隙間から漏れ出しそれを反射し、輝く雪とチカチカと弾けるような光を飽和した空気が幻想的な風景を作り出している中、動物の足跡一つすらない積もりたての雪の上を静かに歩く守り人をガバドがみればきっと神々しく感じただろう。白銀の世界に服の赤がよく映えるそれはさながらこの地に降り立った唯一の神のようにも見え、輝く世界の中を凛とした足取りで進むその姿はこれから厳粛な儀式を行うよう思わせる。
だがそんな儀式の予定など無く守り人は小屋の前まで来た。ドアを開けようとして一瞬、躊躇ったがすぐに開けた。
開かれている扉は輝く銀世界に反射する光が、後光のように守り人を照らしている様さまを絵画のように切り取っているかのようだった。そんな絵画のように美しい守り人は光を連れて動き出し、ガバドの近くまで歩み寄る
中にいるガバドは既に起きており、イスに腰かけ神妙な面持ちで本を読んでいた。しかし守り人が入って来たことに気付き先程とは打って変わって明るい顔になった。
「おはよう!」
「あぁ。早いのだな」
「うん、早くに目が覚めちゃって君が来るまで本を読んでたんだ」
「……何を読んでいたのだ」
興味を示すとは珍しい。ガバドは少しだけ打ち解けられたかもしれないと思い浮かれた。
「うぅん、シルヲ森林について書かれた本だよ。でもほとんど嘘と憶測しか書かれてない」
「森に立ち入る人間などいないから」
「そう、だからボクは知りたい。せっかく君にも会えたしね!」
守り人が自分の持っている本に興味を示した事は凄く喜ばしいが、デタラメな本を見せたくなくてガバドは本を閉じるとベッドに放り投げた。
彼女には今度ちゃんとした本を持って来て読んでもらおう! 文字が読めなくても自分が一緒に読むから問題はないや、と頭の片隅で想い馳せながらガバドは守り人の手を引いて小屋の外に出た。
「今日は君が食べてるものを教えてくれるんだよね。どこに行くの?」
ガバドに振り回されながらも守り人はしょうがない、と半ば諦めており彼の好きにさせようと決めた。
「一番口にすることが多いのは植物だな」
「具体的にどんな植物を食べてるの? 木の実とか? ……葉っぱとか?」
二人は小屋から少し離れた場所まで歩いてくると守り人は一本の木の上を指差した。見上げるとそこには雪に隠れ手のひらに収まるほどの丸く濃い赤色をした実がいくつかなっていた。ふと他の木にも色とりどりの実がなっている事にも気付いた。
「ほわぁ……いっぱいある。全然気付かなかったな」
「木になっているのは取るのが簡単なうえ、放っておけばまた実がなるから。だがお前木に登れるのだろうか?」
「で、できるよ! ……多分」
「無理なら地面に生えているのでもいいが……」
「だ、大丈夫! 大丈夫だから見ててよ!」
ガバドはよし、と意気込んでから近くの木に近づいた。しかし木に近づいて分かった事がある。木の幹が意外にも太く、どんなに腕の力が強くてもそれだけでは難しそうであると同時に、手や足をかけられそうな枝や段差が手の届く範囲に無いという事にも気付く。
(一応軍で習ったけどまともに木登りなんてやった事ないけど……で、できるかな……。木自体も少しつるつるしてるから滑りそう……。いや、やる前から諦めちゃダメだ!)
しかし何回、挑戦しても木にしがみつくのがやっとで登ろうとすると滑って落ちてしまう。
「う、ぅあぁ!」
まだまだと挑戦を続けていたが、雪の上に派手に落ちたのを守り人に見られてしまったガバドは諦めて、
「地面に生えてるものにします……」
と言った。時には諦めも肝心だ、と自分に言い聞かせた。守り人にいいところを見せようと張り切った分、余計に恥ずかしかった。
「君はいつも木に登ってるんだよね、凄いな」
落ちた時打ったお尻をさすりながら言ったガバドに対して、守り人は「いや」と答えその場で飛び上がると一瞬で木のてっぺんに着地し赤い実をガバドに投げた。
「えぇ……いやさすがだね。敵わないや……これありがとう」
貰った実を宝物のように大事にしているガバドを横目に、守り人は猫のようにしなやかに木から降りると歩き出した。持っている実を落とさないようにガバドも慌てて追いかけた。
次に来たのは森の外に近く、あまり高い木が少ないため雪の間から背の低い木が頭を出しているようなところであった。
「雪を掻き分ければ、多年草や花が見つかるだろう。他にも葉や茎や根も人間が食べられないものはあるがほとんど食べられるな」
「多年草があるなら一年草とか宿根草とかもあるって事?」
「詳しいのだな。よく分からないがあるかもしれない」
「前に植物の本を読んだんだ。この森はボク達が思ってるものと違うけど、ボクが知ってる事があってよかったよ。あっ食べられないのってどういう感じのものなの?」
守り人は慣れた手つきで雪を掻き分け一枚の葉っぱを摘みガバドに見せた。
「このように赤みがかっている葉や茎はやめた方がいい。あとは粘着性のあるものや強烈に甘い香りがするものなどであろうか」
「なるほど! 分かったよ」
そう言うとガバドは無邪気な子供のように雪を掘り始めた。自分が死にかけていた時と違い冷たさはあまり感じず、むしろ柔らかい雪に優しさすら感じた。しばらく色々な植物を掘り出しては守り人に食べられるか聞き、新しい雪を掻き分けようとした時、あるものを見つけた。
「あっ!」
「どうした?」
「見て、四つ葉のクローバー!」
目を輝かせながら見せてきたガバドに対しての守り人の反応はいつも通り驚いたり珍しがったりする事もなく、むしろガバドが嬉しそうに見せてくるのが不思議だったみたいだ。
「……? 何も珍しくはないだろう、それに沢山、生えているな」
そう言われ雪がない地面を見てみると確かに、小さい絨毯のようにクローバーが生えておりその全てが四つ葉だった。ガバドは少しシュンとして、
「……人間にはこれが珍しくてね、地域によっては幸福のシンボルだったりするんだ」
と説明した。それに対し守り人は何も言わなかった。
(この森では何も珍しくないんだ……彼女はボクが喜んだ理由も四つ葉が沢山生えている意味も分からないと思うけど、それは仕方のない事だ。それに分からない方がいいのかもしれないな)
ガバドは気まずさを感じ、持っていたクローバーを土に埋めた。そしてもう一度食べられるものを探そうとした時、遠くで笛の音が聞こえた。
「……騒がしいのだな」
守り人が耳を澄ましたのでガバドも耳を澄ませてみた。笛は鳥の鳴き声のような音で規則的に全方位から響くように聞こえた。
「……この音、オグドォス隊の笛の音だ」
「……ほぅ?」
笛の音が聞こえれば〝戦争〟が始まる合図というのは守り人もガバドも分かっている事だ。攻め入られる側だというのに守り人はいつもの態度を崩さなかった。
「……! あいつら森を包囲してて一斉に焼き払おうとしてる……!」
「お前の仲間ではないのか?」
「仲間……かもしれないけど国が違うんだ。それにボクがここにいる事は知らないと思うよ。知ったところでやめないだろうけど」
オグドォスもガバドと同じガングニール軍であるがエナトスとは交流があまりない国である。ガバドは少し不安そうであったが守り人は気にせずに問いかけた。
「……。それはいつ始まるか」
「すぐ始まると思うよ。オグドォスの笛信号はあまり詳しく知らないから曖昧だけど……」
守り人は「そうか」とだけ言い右足で軽く地面を蹴ると、そこから数本黒い棘のようなものが伸び、それは生き物のようにうねり絡まった。守り人が掴むとそれは一本の槍に変化した。それを見たガバドはいつも戦いの中で見る守り人の姿だと思い出し、気付いた。
これからいつもの日常である〝戦争〟が始まる。しかしガバドはそんな世界の当たり前に抗わなくてはいけない。だが自分一人ではこの争いを止める術など持っていない。
──まぁボクには何もできないけど。
頭は勝手にそんな思考を巡らせる。自分だけ異質なのかもしれないと改めて世界、守り人の行動からも言われているようで、なんだか急に世界から取り残された気分に沈む。
「お前はここにいてもいいが小屋に戻った方が安全ではないのか」
守り人の言葉にガバドは「えっ」と返しただけでそれ以外は何も言えなかった。自分がどうしたいのか分からなくなったのだ。
「?」
この状況でガバドができる事は無いに等しい。それでも彼は何もしない事が嫌だった。なにもできない状況に甘えるなんて自分らしくない。思っていたよりも自分が無力な事に自暴自棄になりそうになるのを頑張って堪える。停止しそうな頭を無理矢理絞って言葉を吐き出す。
「あ……、ボクが一緒にいれば笛の意味伝えられる……よね……」
「必要ないだろうな。まぁ好きにしろ」
ガバドが伸ばしかけた手を守り人は──気付いていなかっただけかもしれないが──それを無視して走り去った。
守り人にかけた言葉も、伸ばした手も、空虚で重たい空気に飲み込まれ届かなかった事がまるで彼女に拒絶されてしまったようで、ガバドは放心してしまった。守り人に自分が必要ない事は嫌というほど分かり切っていたのに、心のどこかではやはり必要としてほしかった。
取り残されたガバドは拳を強く握り、その場から動けずにけたたましく鳴り響く耳障りな笛の音に顔を歪めた。
◆
自分が思っていたよりも彼女に必要とされないのが精神的に来たようでガバドは小屋に戻る事もできず考えなしにそこら辺を歩き回った。戦争のさなかだというのに何とも呑気だ。
「森に火を放った後に全方位からの集中攻撃で守り人を殺す、か。……随分と捨て身だけどオグドォス隊のやりそうな事だな」
慣れない笛信号を解読しながら気を紛らわせないと今にも発狂しそうだった。甲高い笛の音を聞きながらガバドはボーっと戦いを眺めていた。大勢の人間の姿は見えるが守り人は見当たらない。
──守り人が槍で地面を叩くと大きな地響きと共に巨大な棘が生え、大勢の人間を刺し貫いた。槍を振り上げると今度は漆黒を凝縮したように太い茨が炎を消し去り侵入者を拒んだ。
巨大な棘が人間を貫くのをガバドは見た。それはまるでこの世界全ての〝無力さ〟を形にしたようだった。
その光景を目の当たりにし自分は今戦争を引き起こした〝森〟にいたのだと改めて痛感させられた。守り人に助けられたのはどんな理由があれ、ただのお目こぼしに過ぎない。今まで一緒にいたのも危害を加えないからであって、自分だけが勝手に仲良くなったと思っていただけだった。さっきまで遠足気分で浮かれていたが急に足元が闇に包まれて現実に引き戻された感じであった。
しかし戦いは見えるがそれが行われているのは森と国の境目だけだと気付く。ガバドが今いる場所や森の中心に行くほど戦いとは無縁かのように静かで平和だった。戦争の音でかき消されているが、小鳥がさえずる姿も見える。
それはまるで巨大なモニターに映された映像を眺めているような気分だった。人々の声や笛の音は実在していると訴えかけるが、ガバドは全部が嘘だと思えてしまった。それほどに人間はどんなに頑張っても森の強大な力には勝てず全て無意味なのだと、初めて森の中から戦争を見て思った。
だけどその映像には一つ足りないものがある。地響きの後に巨大な棘が大地を引き裂き現れるのも、この世のものとは思えない漆黒の茨が縦横無尽に生えてくるのは今も止まってはいないが唯一〝彼女〟の姿だけが見えない。
「あぁ、うん。そうだね」
──もしかしたら彼女は辛いかもしれない。
そう誰かに言われた気がした。感情が無いように見えて本当は辛いかもしれない。守り人が辛くないっていつ、誰が教えてくれた? 本人からは何も聞いていない。全部自分の思い込みだ。その思い込みをなくしたいから彼女やこの森の事を知ろうと思ったんだ、と改めて自分の気持ちを噛みしめる。
そう思えた途端、気持ちが軽くなりその軽さのままガバドは走り出した。自分は今この戦いを見届けなければならないと感じたからだ。双方の視点から見られるのは唯一自分だけだから。
(彼女を心配する必要なんてないのかもしれないけど……それでも人間は大勢いるのに守り人は、彼女は一人なんだ!)
ガバドはまだ病み上がりであることを忘れ、雪に足を取られそうになりながらも、止まってはいけないと全力で走った。その間にも地響きや人間の言葉にならない声が聞こえ、笛信号は進攻の意思を示していた。
気合で誤魔化していたが、とうとうガバドは何かに躓いて転んだ。なんとか手を付いたものの、水分を含みほぼ泥に近い土の上だったため、滑って頬を擦りむいてしまった。起き上がるとそこの雪は解けており、自分が躓いたのは焼き殺された動物の死体だと分かる。ふと、ここは先程まで戦いがあったところだと察する。
「……」
周りを見渡すと誰もおらず雪が解けて消えているのを見ると、ここまで火を放ったがすでに消火されたのだろう。だが火によって動物は死んでしまったが、木々は多少傷ついているだけで一本も折れずに燃えてもいなかった。
ここでガバドは一つの事実に至った。
人間側が放った火で溶けた雪や殺された動物、しかし傷は付いても一本たりとも折れない木。
──そして人間の死体がない。
どうして今まで思い出せなかったのか。戦争をしている限り種族問わず『死』は出る事になる。それでも守り人が、この森が一度だって人間を殺した事はない。
今までに軽傷、重症、様々な怪我人はいれど、死者は今まで一人も出た事は無い。それに今さっき巨大な棘に貫かれた人間が、漆黒の茨に囚われた人間も死んだ気配がないと。もし仮に死んでいたとしたら今頃、ここには死体の山で埋め尽くされ、戦争は終わっていただろう。
守り人に人間を殺す意思はない。これは彼女の口から聞いた言葉だ。それなのに人間は彼女を、この森を殺す気でいる。
どうしてこれに気付けた人間が自分一人だけなのか。いや、もしかしたら他にも気付いた人はいたのかもしれない。だけど戦いを止める理由が無い。
いつの間にか地響きも忌々しい戦争の音もなくなっていた。
「……終わった……?」
突然の静寂に頭がまた思考を巡らせ始めたので、それを力づくで抑え込もうとすると今度は黒い底なし沼に沈みそうだった。
必死に頭を空にしながらガバドは立ち上がるも呆然とし、目の前の現実が見えなかった。そんな彼を呼びかける声が聞こえた。
「ここにいたのだな」
声をかけたのは守り人だった。槍を持っていない事から今回の戦いは終わったのだと推測できる。話しかけても反応を返さない事に首を傾げながら、守り人はガバドの足元にある動物の死体を拾い上げ言った。
「また殺されてしまったのか……。喜べ、肉が食べられるな」
ガバドは信じられないという顔で守り人を見た。どうしてそんな事が言えてしまうのか。
「? ……何だ、私と同じものが食べたかったのではないか?」
「君は、何とも思わないの……?」
「思うも何も、これが当たり前だし慣れているから。音色に違いはあれ笛の音が聞こえれば人間が攻め込んでくる、だから迎え撃つだけの事だな。人間がやめない限り多かれ少なかれ動物も死んでしまうさ」
守り人は当たり前だという感じに言い放った。そう、それが彼女にとっての当たり前であり日常であるのだ。それに対してガバドはどういう顔をすればいいか分からなかった。
守り人は人間を殺さない。動物が死ぬ事に対しても何も感じない。それじゃあ〝彼女〟は一体なんのために、何を守るために〝守り人〟をしているのか。森が大切だから、木々を傷付けたくないから、動物を死なせたくないから森を守っているわけではないのか? それとも彼女が真似する〝誰か〟が守っていたから代わりに、なのか……?
彼女にとって戦争は当たり前と割り切るのも〝機械〟みたいだった。〝森を守るため〟の機関の一部。森を守る事も人間を殺さない事も全部守り人の意思とは関係ないように感じてしまう。
──そんなの違う! そんな事ボクが望んだ事じゃない! けどそれが彼女の望む事だったら?
黒い泥が頭まで這い上がって来る感覚がした。
──……でも、もしそれが彼女の〝意思〟だったら?
今なら少しの衝撃で全て壊れそうなくらいガバドの頭はかき回されていた。自分の気持ちなのにまるで他人の気持ちのような不快感、喉までせり上がってくるのに得体のしれない泥を吐き出せない気持ち悪さ。
──どうやったら彼女を守れるんだ?
「大丈夫だろうか?」
普段のガバドなら守り人が心配してくれた事に狂喜乱舞するだろうが今は、彼女と言葉を交わす事ができないくらいに気力が失われていた。
「あ……ぁ、ごめんね……今凄く感情がぐちゃぐちゃで……一緒に小屋まで戻ってほしい……」
ふらふらと歩き出すガバドの横を守り人は何も言わずに一緒に歩いた。
◆
「落ち着いたのだろうか?」
ベッドに横になっていたガバドがムクリと起き上がったので守り人は尋ねた。
自分のタフさに驚きつつもガバドは感謝していた。小屋に戻ってからあまり時間は経っていなかったが、ベッドに寝転がり天井の丸太の数を数えただけで元通りになったのだから。もしかしたらずっと守り人が側にいてくれたおかげかもしれない。それでもさっきの問いが自分の胸をかき乱しているのは変わらなかった。
ガバドは深呼吸してから、
「ふぅ……うん、もう大丈夫だよ。ありがとう」
と言った。それから守り人をジッと見つめてから更に続けた。
「それより君は、大丈夫だった? 怪我とかしてない?」
「私の心配をするのか? 言っただろう当たり前の事だと、私が人間に劣るなどありえないからな。それよりお前の方こそ怪我をしているが大丈夫なのだろうか?」
そう言って守り人はガバドの頬に触れた。守り人が初めて自分に触れた事が嬉しいはずなのにガバドは自分の言いたい事の意味が上手く伝わらない事に気を取れてしまい素直に喜べなかった。
「それはそうだけど……そういうんじゃなくて、だって君は……」
上手く言葉にできないもどかしさを感じぎゅっと拳を握った。
正確に意味を伝えられる語彙など持ち合わせていないし、どれだけ言葉を積んでも人間と話さない彼女にはそれを理解できる語彙力はないのかもしれない。これは決して守り人を貶しているわけではなく、森で暮らす彼女にとって人間の語彙は必要ないという事である。
……あれ? と、またガバドの癖が出た。
(彼女は多分、森の外に出る事はないのにボクとこうして人間の言葉で会話してるよね。前に考えた彼女が元々人間だったという事を考えれば納得はいくけど……)
言葉は誰かが使い続ける限り変わっていくものである。それは国や地域、所属しているグループによっても僅かな違いが生まれるものだ。とは言えガバドも全ての言葉を把握しているわけではないので正確な事は分からないが、一応軍人である彼は今ある国全ての言葉や発音をそれなりに聞いた事がある。
だからこそ守り人の言葉は少し独特で今まで聞いた事のない発音の仕方をしている気がした。それは言葉を話す機会がなく、発音の仕方を忘れているわけでもないだろう。強いて言えば元々の発音に違う音が混じっている感じだ。
(まぁ元々の発音自体も珍しいんだけどね)
「?」
自分とは裏腹に何も感じていなさそうな守り人を見ると難しく考える自分が馬鹿馬鹿しくも思えて力が抜けてしまいガバドはふっと息を吐くように笑った。気分を変えると同時に少しだけ彼女に探りを入れてみようと思った。守り人がどれだけ森の外の事を知っていて、興味があるかどうかによって今後の接し方が変わるかもしれない。
「んねぇそういえばさ、君はこの森の外の事どれくらい知ってるの? ……知りたいとは思わない?」
守り人はしばらく考えた後、淡々と答えた。
「……トゥリトスと、あとエウゾモスとゼステロス。それからいくつかの国がある事くらいであるか。どれも同じようなものだな──」
「それ全部、今はもうない国ばっかり……! それにトゥリトスって言った!? トゥリトスについて何か知ってるの?」
守り人の口から今は無き国名ばかり出てくるので思わずガバドは彼女の言葉を遮ってしまった。そして一番驚くべきはトゥリトスの名前が出てきた事だった。ガバド以外にもこの三つの名前を知っている人はいるかもしれないが、わざわざ口に出す人はあまりいない。
それに守り人は森の外の事を聞かれてこの三つの名前を出した。という事は今もなおこの国があると思っている。であれば三国の内のどれかに関係しているもしくは、少なくとも二百年以上前から存在している事になる。
ガバドが何に驚いているのか守り人はいまいちピンと来ていない様子で首を傾げた。
「あぁ言ったがトゥリトスがどうかしたのか?」
「トゥリトスは国土戦争で消えた国の中でも一番謎が多いんだよ!」
「消えたか? そうか無くなってしまったのだろうか。遠い昔だがそこに少しだけいた気がするな」
(少しだけいた……トゥリトスは彼女の故郷かもしれないけど今はもう滅んでしまったし残ってるものも少ない……)
しかし守り人は特に気にしていない様子だった。
(あまり記憶がないみたいだし、思い出もそんなに覚えてなかったらそうだよね)
そんな事より今は、もしかしたらトゥリトスや国土戦争について貴重な話が聞けるかもしれないと思うだけで手が震える程興奮してしまう。
「あ、じゃ……じゃあ! トゥリトス──昔の事少しは覚えてる、のかな? もし覚えてたらどんな些細な事でもいいから教えてくれたら嬉しいな! その代わりに君が外の事、今までの歴史とか知りたかったら教える事もできるよ。それ以外にも聞きたい事があればボクが話せる範囲で教えられるし、何でもするからさ!」
教える、というのは建前で本当はガバドが話したいだけだった。いつもみたいに自分が話す事で彼女から思いもよらない話を聞きたかった。本来なら勝手に話し出すガバドだが今回我慢したのは、守り人の意思を汲み取りたかったからだ。
そんなガバドを見た守り人は、それに応えることは難しいが理解の色は示してあげようと思った。数日前の自分とは大違いだ、と頭のどこかで言葉を浮かばせながら。
「……私は森の外の事を知る必要もなければ興味もないが、お前が話したいなら話してみるといいだろう」
(多分ボクがあまりにも話したそうにしてたから気遣ってくれたのかな? だとしたら嬉しいね。ここからは難しい話になるから彼女の知識量も踏まえて簡単に説明できるように頑張ろう……!)
守り人の肯定的な言葉にガバドは嬉しそうにキラキラと目を輝かせ、前のめりになりながら話し始めた。守り人にはそれが無邪気に楽しく話をする子供にも見えた。前まではそれを少し鬱陶しくも思えていたが今は、自分の冷たく暗い闇を動き回りながら照らしている温かい光のようにも見えて、少しだけ嬉しくもあった。久しくそんな感情を失っていたためか、久しぶりに思い出したそれは少し心地が良かった。
「うん話すね! えぇとまずは歴史の一番大きな起点となる国土戦争だけど……これについてはどのくらい知ってる?」
「名前だけだな。レンゴードウメイと同じものだろうか?」
「レンゴードウメイ? ……もしかして連合同盟の事かな! それも知ってるなんて凄いね! ……あっごめんね、一人ではしゃいじゃった。それじゃあ少し難しいから簡単に順を追って説明するよ」
興奮する自分を落ち着かせながら、ガバドはベッドの横に置いてあるナップザックから綺麗に折り畳まれた二枚の紙を取り出した。そのうちの一枚を広げると、そこには古い地図が描かれていた。その地図を指差しながらガバドは説明した。
「まず始まりに、このルリュイ大陸には国土の小さい順に、『プロトス』『ゼステロス』『トゥリトス』『テタルトス』『ペンプトス』『エクトス』『エウゾモス』『オグドォス』『エナトス』『デカトス』という十ヶ国があったんだ。その十ヶ国のちょうど真ん中にこの森『シルヲ森林』があった。森と隣り合ってた国は『トゥリトス』『エクトス』『エウゾモス』の三ヶ国だね」
「ふむ……」
意外にも守り人は地図を見ながらガバドの話に興味を示しているように見えた。それが可愛らしく思えたガバドは気付かぬうちにだらしない顔になっていたが、守り人と目が合い慌てて続きを話した。
「へへ……あっ。……それで約六百年前に国土戦争が始まるんだけど、この始まりの理由はあまり解明されてなくてね、色々な説が出てるんだけど、どれも決定打に欠けてるんだ。唯一分かってる事は各国が一斉にこの戦争を宣言して始まった事かな。とりあえずこの国土戦争は自国の領地を拡大していって最後に残った一番大きい国がこの世界の主導権を握るという事が目的だったらしい。判断基準はよくある国が全部統治されるか、相手が負けを認めるまでかもね。……ここまでで何か知ってる事はあった?」
「特にないな。その頃にはもう森にいたのかもしれないから」
「やっぱり……」
まだトゥリトスが残っていると思っていた守り人が国土戦争について知らないのは予想できた。これで彼女は戦争が始まる前に森に来たと考えるのが自然だろう。
(となると彼女は純粋なトゥリトス人の血を引いているかもしれないし、もしそうなら生きた歴史になる。……彼女がどれくらい覚えているかによるけど──)
「私が知っている事は少ないだろう。続けろ」
ガバドが溢れ出る興味に埋もれそうになる前に守り人は続きを急かした。決して続きが気になったからではない。
「あっ、うん。それから各国が宣言を出した後まず、『オグドォス』が隣国の『ペンプトス」と『エクトス』を侵略するために動き出す、と同時に『プロトス』『ゼステロス』『トゥリトス』は協力関係を結んで合併の動きを見せる。この時にさっき言っていた連合同盟が出てくるんだけど、君の話から察するに宣言を出す前から密かに計画されていたのかもしれないね」
ガバドは息継ぎをした。
「小さい国は不利だから大きい国に対抗するにはこうした方がいいと考えたのかも。他の『テタルトス』『エナトス』『デカトス』はこの時はまだ様子見してた。まぁ『デカトス』だけは貧しい国だったから自分たちが動ける機を待ってたんだと思う。残った『エウゾモス』だけどこの国だけは他国に目も向けずに森を侵略する事だけに心血を注いだんだけどこれは戦争が終わるまで続いてた。……ここまでのを簡単に言うと、十ヶ国のうち小さい三ヶ国は合併、一国は隣国二つを侵略、一国は森を侵略、残りの三ヶ国は様子見だね。」
「森を侵略……だから森に踏み入る人間が増えたのか……忌々しいな」
少しだけ見えた守り人の憎悪を噛み締めつつガバドは、
「君がすでに森にいたならそうだろうね……」
と呟いた。守り人の憎悪に引っ張られないように気にしていないような明るい声を出した。
「それで最初にまず『プロトス』『ゼステロス』『トゥリトス』の三ヶ国が合併して『トゥプゼトス』に改名した後、様子見をしていた『テタルトス』に交渉を持ちかけるも決裂。原因は……痴情のもつれだと言われてる」
「馬鹿馬鹿しい」
素直な守り人の言葉にガバドは苦笑した。
「本当にね。交渉が決裂した後『テタルトス』は『トゥプゼトス』の首都があった旧トゥリトス国土を焼き払った。国としての機能を失った『トゥプゼトス』は事実上崩壊、それを丸ごと『テタルトス』が自国の領地にした。『テタルトス』が『トゥプゼトス』を焼き払っている間に『オグドォス』は『ペンプトス』と『エクトス』の侵略に成功。『オグドォス』は他の国にも劣らない武力を有していたから同時に二か国も落とせたんだろうね。ここまで残ったのは、『テタルトス』『オグドォス』『エナトス』『デカトス』そして森に侵攻を続ける『エウゾモス』だね」
そこまで説明するとガバドは先程、取り出したもう一枚の紙を広げた。それは一枚目の地図より新しく簡素に描かれていた。
(ここまで大丈夫かな……、まぁ過去の話だからあまり理解できなくても問題はないさ。彼女がつまらなくないといいんだけど)
とガバドは思いながら、今度はその地図を指差しながら話し始めた。
「次に『エナトス』が『デカトス』を吸収する。『デカトス』は土地も大きく資源も豊富だったけどそれを活用できるほど産業が発達していなかったし、戦争ができる程の人手も無くてね。一方で隣国の『エナトス』は土地には恵まれなかったけど、それなりに規模もあるから産業については一番栄えていたんだ。だから『エナトス』が長年の戦争でほとんど力が残ってなかった『デカトス』を自国の領地にするのは簡単だったんだ」
「……」
「世界で一番目と二番目に大きい国が合体した事によって軍事力で優っているとはいえ『オグドォス』も迂闊には手を出せなかった。最終的に『テタルトス』『オグドォス』『エナトス』の三国は均衡状態に入る。……三国が『エウゾモス』に手を出さなかったのは、どこも関わりたくなかったからと言われてる。戦争が始まる前から孤立してる国ではあったみたいだしね。まぁこれでようやく戦争も収束に向かうんだけど……ここで一つの重大な事象が起きるんだ」
ガバドは一呼吸おいてから言った。
「……『エウゾモス』が突如、森に呑み込まれたんだ」
それを聞き守り人はハッとしたように思い出した。
(呑み込まれた……いや違う。吞み込んだんだ)
今まで思い出せずにいたが、ガバドの言葉が引き金になり赤が漆黒に変わる記憶を鮮明に思い出した。あの日大事な人のぬくもりが自分の手からゆっくりと零れ落ち森に染み込んでいく感覚、それと同時に体の奥底から湧き上がる黒い憎悪に染まる感覚。漆黒の涙と周囲を震わすだけの声にならない慟哭、気付いた時には黒い巨大な棘と茨が人間達を貫き、黒い液体が森の外まで溢れ出しその人間達がいた土地を奪い去った。現実を見たくなくて、大事な人が消えた事が信じられなくて抉り取った自分の目は吞み込んだ国と一緒に消えた。憎しみと怒り以外の感情も黒い沼の底に沈んだ。
全て自分がやった事だった。
(そうか……私がやった事だったのか。唯一残った感情も今は失われてしまったのか。……彼に言う必要は、ないだろうか)
久しぶりに思い出したが今更、感傷に浸るわけもなく守り人は彼から目を逸らした。……もし、この事を伝えたらガバドはどんな反応をするのか、彼は思い出してくれるのだろうか。そんな期待ともいえない霧の中を見るような目でガバドに視線を送ってみるが彼は気付いていない様子で話し続けていた。それに少しだけ安堵の気持ちを感じた。
そんな事など露知らずガバドは、当時の状況を守り人の観点から話を聞けたらいいな、と悠長に考えながら話続けていた。
「元々『エウゾモス』は森を邪悪なものとして忌み嫌っていたから、ずっと森に執着してたと言われてる。他の国は無関心だったけどこの事象のおかげで見て見ぬ振りができなくなった。そこで三ヶ国は一旦、国土戦争を放棄、同盟を結んで森討伐に乗り出す。これが約二百年前、君も分かると思うけど現在に至るまで有効な手立ては見つからず何も成功した事はない」
ガバドはふぅと一息つくとまだまだ話足りないようで「ちなみに」と続けた。守り人も黙って続きを待った。
「これは君にも有力……かは分からないけど知っててもいい情報だと思うよ。三ヶ国が結んだのはガング同盟って言って、その直属の軍隊がガングニール軍なんだけど部隊は、それぞれの国で固まって編成されてるうえに指揮系統も国ごとにあるんだ。つまり名前は一緒だけど軍隊は国ごとに分かれてる。だからそれぞれの国の特性を知れば君も、もう少し戦うのが楽になったりしないかな?」
「……?」
「それからずっと考えてたんだけど……ガングニール軍の作戦指揮は全部、笛信号で行われるよう統一されてるんだ。国ごとに信号は少し違うけどね。あっでもボクはエナトス隊所属だからエナトスの笛信号なら確実に教えてあげられるし、他の国の信号もある程度なら分かるから力になれるかも! まぁ君の強さなら必要ないかもだけど……」
自分の様子を伺うガバドに守り人は純粋な疑問をぶつけた。
「お前は私に協力したいのだろうか?」
その問いに彼はさも当たり前かのように答えた。
「だって一人で戦うのは寂しいでしょ? これはボクの勝手な自己満足だけど……君を守りたいって思ったんだ」
「守りたい……?」
守り人はよく分からずガバドを見ると彼は、へらっと笑って見せた後にずいっと身を乗り出してきた。
「確かに強さじゃあ君に負けるけど、戦い以外の事からも君を守りたいんだ。そのためにボクができる事なら何だってするよ! 命だって惜しくないや」
「分からないな」
今はそれでいい。ただの自己満足だから、彼女が本気で彼を嫌いになったり森から追い出そうとしない限り、ガバドは気にしない。
「そうだ話が逸れちゃったね。それでトゥリトスなんだけど──」
これからが本番だというのにガバドの話は自身の大きく鳴った腹の虫に遮られた。恥ずかしがるガバドをよそ目に守り人はやれやれと言った感じでドアに向かった。
「……何か食べる物を作ろうか」
「あっ待ってボクも手伝うよ!」
ガバドも慌ててベッドから飛び降り一緒に小屋の外へ出た。
◆
「肉は入れるのか?」
鍋に火をつけガバドが持って帰った木の実や植物たちを鍋に放り込んだ後に守り人は尋ねた。
「え?」
「あまり食べたくないのではないかと思ったから」
守り人はきっと善意で聞いたのかもしれないが、そう言われてガバドは小屋に戻る前の時の事を思い出した。
(この森を守る事、人間を殺さない事は彼女の意思ではないかもしれないし、そこに意味を見つけてはいないのかもしれない。だけど誰かが守っていたかもしれない、その大事なものを守る事が彼女の意思かもしれないのか? それは本当に彼女の意思と言えるのかな……あぁ頭がクラっとする)
しかしその事を訊く勇気もないガバドはいつも通りを装った。
「あぁあれ……。いやあれは肉が食べたくないわけじゃなくて……! ううん何でもない。入れて大丈夫だよ、ボク肉好きだから」
守り人は「そうか」とだけ呟き捌いたばかりの肉を鍋に入れた。それをガバドは複雑な気持ちで眺めた。
すでに日は沈んでおり空には色とりどりの星が己の存在を主張するように煌めきあっている。昼間に襲撃があったとは思えないくらいに森はいつも通り静かで闇が深く、パチパチと燃える火の音だけが心地よく響き、その明るさは安心感を覚える。ガバドがふーっと息を吐くと白い雲のようであるが守り人の口から白い息は出ておらず静かに佇むその姿は彫刻のようにも思えた。
心地よい静寂であったが少しだけ感傷的になってしまいそうになり、ガバドはおもむろに口を開き穏やかな沈黙を破った。
「さっきの話の続き、してもいいかな?」
「ふむ、構わないな」
「ありがとう。……君はトゥリトスにいたことがあるって言ったよね。もしかしてこれ読めたりする?」
ガバドはしゃがむと指で雪に本で見た文字を書きながら訊いた。
「〝字が下手〟じゃないといいんだけど……少なくとも読めるとは思うよ」
自信なさげなガバトを無視し、守り人はその文字をジッと見つめてからポツポツと呟いた。
「……『連合同盟について』これがどうかしたのか?」
またもやガバドは目を輝かせながら守り人に近づいたため、それに気圧された彼女は思わず身構えてしまった。
「読めるんだね! 凄いや!!」
「?」
「これはトゥリトスの文字なんだよ! ここでトゥリトス文字が読める君に出会うなんて凄い偶然だ! トゥリトス文字は読める人もいなければちゃんと書ける人もいないんだ。ボクのこれだってただの見様見真似だしね」
うきうきしながらガバドはまた違う文字を雪に書きながら続けた。
「さっきも話したけどトゥリトスは合併してテタルトスに焼き払われた後に何も残らなくてね……トゥリトスの文化的遺物はおろかその国の事を知っている人も消えちゃったんだ。それにトゥリトスはあまり他の国とも交流とか無かったみたいで他の国に残ってる僅かな情報も表面上のものだけ……例えばこういう文字だけとか、でもそれを他国で読める人もいなかったみたいで結局どういう国だったかは分かってないんだ。トゥリトスに関して書かれた書物も無いに等しいし、ボクが知ってる文字だって膨大な情報の一部にすぎないだろうし……あっこれは読める?」
「『儀へ供えよ』……トゥリトスがどういう国だったか、気になるのだろうか」
ガバドは勢いよく立ち上がりグッと手を握りながら興奮気味に言った。
「そりゃもちろん! だってここまで何も解明されてないと逆にわくわくするよ! 実際はどういう国だったんだろうって考えたり、何か手掛かりがないかなって探したり調べたりしたんだよ。でもまさか君がトゥリトスを知ってるなんて思いもしなかったよ! 君はトゥリトス出身になるのかな? ねぇ、もしよかったら君が知ってる事教えてほしいな」
「構わないな……だが私も長くいたわけではないし覚えている事も少ないから」
(彼の期待に……応えたいのでしょうか?)
守り人が少し悲しそうに見えたのでガバドは彼女の手をそっと握り優しく笑いかけた。彼女は文字が読めるだけでなくトゥリトスがどういう国だったか知っているだけで僥倖だった。
「大丈夫! 覚えてる事だけでいいしゆっくり話して。何なら思い出したりするまでこの文字の意味教えて欲しいな!」
ガバドもまさか森に来て一番知りたい事、どの書物にも書かれていない歴史の事が分かるとは思ってもみなかっただろう。こんな事が起こるならやっぱり少しだけ、調査を命じた父親に感謝してもいいかもしれないと彼は思った。
そうしてしばらくガバドが書いた文字を解読し小屋の周りが文字だらけになった。ガバドが書いた文字は概ね『幼子』『赤い布』『儀により安定を』『森』に関するものが多かった。どうやら何かの行動を示すものだったようだ。それならこれの次に呼んだ本に書かれていた事はもっと詳しい事なのかもしれない! そう思ってガバドが真っ新な雪を探していると、スープができ上がったのか守り人は解読をやめてお椀を二つ持って来た。
新たな知識を手に入れて気分が上がっているガバドは守り人の手からお椀を取り上げた。
「熱いからボクがよそうよ。君は中で待ってて?」
「む」
ガバドにお椀を取られてしまった守り人は仕方なく、小屋の中に入りイスに座ろうとしたが、続いて入って来たガバドに止められてしまった。
「ボクがイスに座るから君はベッドに座って!」
「関係ないのでないか?」
「関係あるの。はい、熱いから気を付けてね」
(ボクはもう元気だし彼女をいつまでも固いイスに座らせるわけにもいかない。何より彼女は否定してるけど実質ここは彼女の家だ。まぁ、彼女に言っても分かってくれないしこれもボクの自己満足なんだけど……)
ガバドは棚からスプーンを取りお椀と共に守り人に渡すとイスに座った。守り人は少し不服そうだったが言われた通りベッドに腰かけた。熱々のスープを美味しそうに食べるガバドの真似をするように守り人も口に運んだ。代わり映えのしない質素な食事だが口に運ぶほどに心が満たされる感じがした。
「それで君が知ってるのはどんな事かな?」
「……トゥリトスがお前の言う、栄えていたかは分からないが小さい国ではあったと思われるか。確かに閉鎖的ではあったしトゥリトスも森に執着していたのかもしれないから」
「トゥリトスも?」
「忌み嫌うのではなく崇拝している感じだったような」
「崇拝……」
ガバドは口元に手を当て食い入るように聞いていた。
「その頃から森に力があると思われていたようだったね。トゥリトスは森が強大な力で災厄を起こさないように定期的に供え物をしていたのだと。それが何かは具体的には知らないだろうから。……私が覚えている中でお前が喜ぶ情報はこれぐらいだろうか」
森に執着して侵略したエウゾモスと違いトゥリトスは森を崇拝していた。定期的に〝供え物〟を
していたという事は宗教的な意味合いが大きいのだろう。現にエウゾモスやトゥリトスのように森に執着している国はない。
「そっか……トゥリトスとエウゾモスは宗教観が強い国だったのかもしれないね……。ありがとう君のおかげで沢山の文字も解読できたし貴重な事も知れたよ」
「何か有益なことができたならそれでいいな」
その後も二人はまた国や歴史だけでなく他愛のない会話をしながら食事を楽しんだ。
◇◇
嫌というほど耳の奥にこびり付いて離れない戦争の音。悲鳴のような笛の音はいつから聞こえるようになったんだっけ? ……まぁそんな事どうでもいいか。
森が大切だから守り人をしているわけではない彼女。この時のボクは何も思い出せていないから混乱するのは当たり前だ。だって考えなくても彼女が守り人になる理由は分かり切ってる。全部自分のせいだしそれが当たり前の事だから。
だけどこれがきっかけでボクは今、段々と思い出す事ができてるから少しはオグドォスに感謝、しないとかな。
あぁ思い出さないと……ボクは全ての元凶、国土戦争を始まった時から見てたんだから。
それから供え物……そんなもの欲しがったっけ……? あぁとそれから……
──あの日、どうして失敗してしまったのか
失敗? ……そうか失敗したのか。
◇
オグドォスからの襲撃の翌日ボクはまだ日が昇らないうちに目が覚めた。
世界が色づくにはまだ時間があると思いながらベッドから起き上がらずにいたけど、やけに目が冴えて仕方ないから渋々活動を始めた。と、言っても特にやることはなかったんだ。
小屋の周りでも散歩してみようかと思った。いつも彼女がいるおかげで迷わないけど一人で歩いても大丈夫かなとか、あんまり遠くまで行かなければ問題ないかなとか、もしかしたら途中で彼女に会えるかもしれない。彼女は夜をどんな風に過ごしてるのか今度訊いたら教えてくれるかな、とか楽観的な淡い期待を抱きながら小屋を出た。
昨日書いた文字は新しい雪が積もって消えていた。新雪に足跡を残すのがなんだが子供の頃を思い出して楽しくなってボクは次々に足跡を残して行った。童心に返って遊んでいると気付かないうちに森の外側に近いところまで来てしまったんだ。もしかしてこの辺は昨日ボクが転んだところかもしれない。そう思ったら森の外周をなぞるように走り出していた。
だって、だって昨日襲撃があったはずなのに森には焼け跡一つ残っていない。それどころか燃やされたであろう草木は変わりなく青々と生い茂り、傷が付いた木が一本もない。彼女が出したであろう黒い棘や巨大な茨の欠片すら見つからない。それにひどく焦慮に駆られた事を覚えてる。……あぁそう、何かを思い出そうとしているのに頭は空っぽなままな、あの感じによく似てた。
まだ日が昇っていなくて、よく見えないせいかとも思ったけど違う。ここから見える外の世界は少なくとも争いで荒れた形跡がある……! そう、この時のボクは思った。
考えられる事は一つしかなかった。
「森が一晩で元通りになってる……」
あり得ない事だけど散々この森が特殊である事を見てきた今なら納得できる。
「……そろそろ夜が明ける」
小屋に戻らないと。彼女に見られていると気付かずにボクは黒い泥を喉元で弄りながら、自分の足跡を辿ったんだ。
ああ、まだ全部──思い出せないのか。……苦しい。
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