第3話   「夜六時を過ぎたら外に出たらいかん」

                  ○

「夜六時を過ぎたら外に出たらいかん」

物心ついた頃から、親に言われていた言葉。

夜六時を過ぎると商店街の路地に数メータおきに『たちんぼ』と呼ばれる肌の露出の多い、生地の薄い服を下品に纏った女性が俯いて立ち始める。

一度だけ、昼間に克之の母が勤務する店へ遊びに行ったことがあった。その店には階段が二つあった。

のちにそれは、二階へ上がる客と帰っていく客が顔を合わせないための配慮だったと知ることになるのだが、幼かった誠はそんな大人の都合はもちろん理解できず、克之と一緒に鬼ごっこをして遊んだ。

この話を両親に話した際、いつもは無口な父親が、

「平田克之君の家には遊びに行くな。」

とぴしゃりと切るように言い、

「かっちゃんとは、うちで遊びなさい。うちの方が若干広いさかい、かっちゃんをうちに誘ったらいいわいね。」

と母が言葉を添えた。両親はこの時既に、克之の母親がどんな仕事で克之を食べさせていたのか、はっきりと把握していたのだろう。


金浦商店街は長屋のような作りになっており、隣家の声がダイレクトに伝わってきた。夫婦喧嘩の声だけでなく、床に入る時間になると、隣の飲食店の二階から、男と女の嬌声が否応なしに耳を暴力的に殴りつけてきた。

幼い頃は、それが男女の営みの声とは理解できず、二人で妖怪の声と名付けていた。

二十時を過ぎて、床に入る頃、妖怪の声が薄い壁をひょいと筒抜けて二人に襲いかかってきた。

そんな時、二人は布団を頭からかぶって、脳内にあるすべてのスイッチを切って眠りについた。

小さなせんべい布団を二人で頭からかぶると、どうしても尻が出た。

その尻を窓から差し込む、下品なネオンの明かりが、小さな体を焼くように照らす。

「なぁ、まこっちゃん。この布団、俺らには、もう小っちゃいっけ。どうしても尻が出てしもう。こうやって尻だけ明るかったら、俺ら、ホタルみたいやな。」

「ほんとや、俺ら、ホタルや。毎日光る、ホタルや。」

二人は声をあげて笑った。


今でも誠は布団をかぶって寝ることがある。この癖に関して、女房から野次が飛ぶが、幼少期に染みついた癖はなかなか取れないものだ。こんなところに育ちが出るのか、と思うと、情けなくなる夜も数多くあった。

       ○

誠は母の涙を一度だけ見たことがある。

どんな時も気丈に振舞ってきた強い母しか見たことがなかったので、その涙の存在を知った時、かなり驚愕したものだ。

その日は年末近い、寒い冬の日だった。深夜、尿気を覚え、一階の便所まで降りてきたときに、誠は目撃した。

まだ店は開いていて、父親と母親が酔客の相手をしていた。

過分に酔った男性とその愛人とおぼしき一組が汚い言葉で、両親をからかっていた。

「日本が景気良いったってさ、さほどこの界隈じゃ関係ない話でしょ。」

「へえ、あまり良い風は感じませんねぇ。」

父親は営業笑いを浮かべ、鮨を握っていた。  

「なぁ、女将さん遊ばないか。懐だって寒かろうよ。」

「あたしんとこの二階貸してあげるから、商売をしてきなさいよ。」

「冗談はよして下さいよ。うちのなんかとても、とても・・・。おい、奥で、明日の仕込みが足りるか見てきてくれるか。」

「あぁ、はい。」

信三は機転を利かし、千恵をカウンターから外した。

誠は千恵の視界から隠れるように、便所の中に隠れた。そして少しドアを開けた。

しばらくすると、嗚咽の音がドアの隙間から、侵入してきた。

母さんが泣いている!

張りつめていた糸が切れたのだろうか。堰を切ったように泣いている。

この線の上で生きていくには、このような下品な嘲笑を交わす技術も必要とされた。この日の母は寒さのせいか心が弱っていたのだろうか。いや、母もこの線上では毎日、気丈に振舞って見せてはいたが、本当は心をすり減らしながら生活していたのだろう。

ほんの少しの時間、悔しさを流した母は、割烹着で顔を拭き、明日の仕込みの確認作業に入った。

後にも先にも母さんの涙を見たのは、それが最後だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る