第2話 教員の地位が天皇のように高かった時代
誠と克之は、茂夫らと派手に喧嘩をしてしまい、顔に傷をつくったまま帰宅した。
「どうしたんや、二人とも!」
誠はことのあらましを全てぶちまけた。克之は隣で泣いてばかりいた。
ひとしきり誠の話を聞いた母は、夜の仕込みの手を止め、
「ありえんわ!ちょっと今から先生のドタマかち割ってくるわ!」
と信三の制止を振り切り、店を飛び出していった。
五分もしないうちに、克之の母、平田和子が血相を変えて店に飛び込んできた。
「すんません、何か克之があったみたいで。」
「何も、友達との喧嘩や。女房が喚きながら出て行ったから、何かあったんかと思って、近所の人があんたを起こしに行ったんやね。まだ寝とり。昨日も遅かったやろ。かっちゃんはいつものようにこっちで食べさせるし。」
和子は青白い顔を晒し、何度も深々と頭を下げた。
克之は母一人子一人だった。父親は戦地で死んだと聞いている。和子自身は、関東大震災で親兄弟を亡くし、その後、戦争まで経験した苦労人だった。
克之を育てるために、多くの引揚者や身寄りがない人々とともに金浦商店街へ流れ着いた和子は、鮨金から五十mほど奥に入った飲食店で勤め始め、その店が抱える別棟で克之と暮らしていた。
面倒見のよい信三と千恵は、和子と克之の境遇を憐れみ、和子がお店に出ている間、克之を預かり、夕飯まで食べさせてあげていた。
「いつも、甘えてばっかりで、すいません。今日はお弁当まで持たせて下さって・・・。」
この弁当が騒動の発端になったのだという話は一切、和子にせず、
「かっちゃんは、誠と同い年。双子やと思っとる。お弁当も店の残りもんしか詰めとらんさかえ、気にせんといてま。今夜もお仕事あるやろ。金曜日やし、忙しいと思うげん。かっちゃんは一晩こちらで預かるさかえ、もう一眠りしておいで。」
と和子の背中を押した。
「ほんとにすんません。ほんとに。」
和子は終始、青白い顔をしていた。
「二人とも、今日な、お向かいの橋爪さんからおはぎ貰うたんや。それ食べたら、風呂屋行ってき。二人とも真っ黒けや。よう派手に喧嘩したんやな。誠、服も風呂屋で洗ってき。」
日頃から甘いもんに飢えていた二人は、喧嘩のことなどに忘れて、居間においてあったおはぎにむしゃぶりついた。
風呂屋に行って、戻ってきたときには、居間に母と担任と教頭先生がいた。祖父と父は開店準備に忙しそうだった。
「戻ってきたんか。もうすぐ六時やし、外で遊ばんと、二階に上がって二人で遊んどり。先生と大事な話をしとっさかえ、一階に降りてきたらいかんよ。」
母さんは二階へ上がる誠たちの背中に向かって、あとで夕飯持っていくさかい、と声を投げた。
下に降りてくるな、と言われれば言われるほど、気になるのが子どもである。
階下を覗き込むように二人仲良く顔を並べて、息を殺した。一階の居間からは、大人の言葉が飛んできた。
「まぁ、鎌田茂夫君の親には、今後、そのようなことは言わないように、私の方からもきつく言うておきましたんで、今日のところはお納め下さいな。」
教頭先生の温度の低い声が二階までまっすぐに伝わってくる。
「なぁ、まこっちゃんの母ちゃん、茂夫ん家まで怒鳴りに行ったんかな?」
「いや、行っとらんと思う。家知らんし。」
大人の会話は難しい言葉の羅列でよく意味は分からなかったが、次に耳へ飛び込んできた言葉は、生涯忘れえない言葉となってしまった。
「ほやけど、よう、こんなところで子ども育ててますなぁ。子ども育てるような環境じゃないでしょうに。」
今でこそ、教師の地位は平常値に戻り、こんな言葉を言い放てば、一発免職だろうが、終戦直後の混乱期、教師の地位は天を仰ぐほどに高かった。
「育てるところじゃないって・・・。」
母さんの息を飲む音が二階まで伝わってくる。
「まぁ、育てていらっしゃる方の前で言うのもなんですがね、この商店街は青線ですからね。夜になったら、立ちんぼがわんさか湧き出てくる。今、国会で売春防止について話し合われていて、もうすぐ何だかの法はできるかと思いますが、このような非合法の町は、このまま行くでしょう。今、話し合われているのも赤線が対象ですからね。平田克之君のお母さんも夜は街頭に立っているでしょう。飲食店勤務って身上書には書いてありましたが、この界隈じゃ二階で客を取っているのは公然の事実ですからね。先ほどお母さんがそろそろ六時だから二階で遊んでいなさい、と子どもに声をかけていましたが、あれでしょ、子どもに克之君のお母さんの私娼姿を見せたくないんでしょう。克之君の面倒までも見ていらっしゃる点は頭が下がる思いですが、学校の方でもこの界隈には近づくなと指導しております。要は治安が悪いからです。商店街の中には、やくざが絡んどる店もあります。ある程度のことは覚悟して、育てていかないと、子どもさんに害もありますよ。」
要は学校としては、今後このようなことがあっても、ここに住んでいる人々が悪いんだから、守り切れませんよ、と言っていたのだ。
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