【短編】俺は死んじまったんだから早く別の彼氏作れよ

夏目くちびる

第1話

「ごめんね、私もすぐになぎさ君の後を追いかけるね」



 寺に数ある墓の一つの前で、何時間も泣きながらブツブツ言ってる女がいる。

 かれこれ、一週間だ。よくもまぁ、涙も声も出なくなってるのに延々泣き続けられるモノだ。あのパワーは、思い出を消費して生み出しているのだろうか。



 いや、『消費』という言葉は適当じゃないな。だって、多分一つも忘れられていないのだから。

 もしも、ちゃんと一つずつ忘れられていくのならば、どれだけ幸せだっただろうかと切に思うよ。本当に。



 ……さて。



 俺とあの女が何者なのか?という話だが、俺は交通事故で死んだ会社員。女は生前の俺の恋人だ。



 名前をあいという。28歳で、俺より四つ年上だった。



 馴れ初めに関しては、俺が会社の後輩で教育係の藍の下へ就いたことが起因する。

 よくある話、面倒を見てくれていた彼女を俺が好きになって、だから告白したら何だかんだで彼女が付き合ってくれたという普通の恋愛を経た普通のカップルだった。



 そして、もうそろそろ結婚かと考えていた二週間ほど前。俺は、飲酒運転の暴走車に巻き込まれかけた少年を助けて死んだ。即死だ。



 藍は、相手に何を言うでもなく茫然自失と言った様子で、忙しさが薄れた時折静かに泣いていた。両親のいない俺の身辺整理を全て請け負ってくれていたのだ。

 元々、気の強い彼女が相手や警察に何も言い返さない事には少し驚いていたが、更にビックリしたのは俺が助けた少年が両親と共に藍へ挨拶をしに来た時に。



「君に怪我が無くて、本当によかったよ」



 化粧もしていない素顔で、泣きはらした目で、もう枯れた声でようやく喋って。力を振り絞って少年の頭を撫で、立てないくらいに震えながらそう言った時だ。



 俺は、どうしてこの女に惚れたのかを心の底から理解した。



 ……ところで、話は変わるのだが幽霊ってのはどうして悪霊しかいないのだろうか。



 おかしいと思わないか?



 死後の強い念が現世に残留して霊体化するというのなら、なぜ悪意だけが幽霊に影響を及ぼすのか。

 もっと、孫の結婚まで見届けたくて仕方なかった婆ちゃんとか、親に産んでくれた感謝を伝えられなかった子供とか。そういう死者の未練だって、悪意に匹敵するパワーを持っていると思うのだ。



 ならば、復讐にも似た強烈な目的を、達成する為に現世を彷徨う奴が居てもおかしくないだろう。

 仮に、こいつを『善意』を持った『善霊』と名付けるとして、そんな善霊が未練を残さないために善意を全うする活動を起こしても何らおかしくないだろう。



 そう、おかしくない。



 だから、死んでからも藍に惚れ直した俺がきっと。



「よぉ、藍。何泣いてんだよ」



 こうして、霊体となって彼女の前に現れる事が出来たのだろう。



「……へぇ?」



 すいぶんと間抜けな声だ。ちょっとかわいいじゃんか。



「お前らしくねぇなぁ。いつもだったら、とっとと気持ち切り替えて次に行くだろ。そういうポジティブなとこ、結構好きなんだけど」

「な、渚君?」

「他の誰に見えるんだよ。毎日同じベッドで寝てた男の顔をたった二週間足らずで忘れるなんて、お前も案外酷い――」



 藍は突然立ち上がって俺に抱き着こうとしたが、そんな事は霊体なので叶うハズもない。

 すり抜けて自分の手に感覚が無い事を実感した彼女は、振り返ると俺の顔の輪郭をなぞるように指を動かして大粒の涙を流した。



「別に、お前の頭がおかしくなって幻覚を見せてるってワケじゃないんだぜ。安心しなよ」

「ど、どうなってるの?」

「俺が死んでも、お前がちゃんと幸せでいられるかが心配過ぎてよ。だから、地獄に行けねぇで残っちまった」

「じ、地獄って……っ」



 いつもの冗談を聞いて安心したのか、それとも冗談になっていないジョークを聞いて不謹慎だと思ったのかは分からないが。

 藍は、またしても大声を上げて泣いた。



「しょうがねぇなぁ」



 俺は、彼女を抱きしめてあげる事は出来ないから、ただプカプカ浮かびながら彼女が泣き止むまでずっと笑っていた。



 朝と夜が入り混じる、オレンジ色の黄昏時。

 夏もそろそろ終わる、大きな雲が浮かぶ空の下でこの物語は始まったのだ。



 × × ×



「ご飯食べる?」

「食えねーよ」

「お風呂入る?」

「入れねーよ」

「今日はもう寝る?」

「寝れねーよ」



 どうにも、藍にはちゃんと俺が死んでいることを実感してもらう必要があるらしい。

 気丈でやや男勝りな振る舞いを見せていた彼女が、ちょっと恋人が死んだくらいで信じられないくらい女っぽくなりやがった。



 帰ってくるなり、やたらと過保護だ。反応に困る。



 そういう新妻的な優しいのも嫌いではないが、俺はやっぱりあの少年に気を負わせないように強く生きようとした藍が大好きだ。



 だから、俺の事はきっちり説明しておかないとな。



「色々と言うべきことはあるんだけど」

「うん」

「先に死んで、悪かったな。結婚もできなくなっちまった」



 まぁ、泣くとは思ってたけど。

 そんな強がりやら悲しみやら元気やら入り混じった複雑な顔でされると、俺もどれから話せばいいのか分からなくなってしまう。



「ごめんな、幸せにするとか嘘ついちまって」



 謝って済む問題かどうかはさておき、これは俺のケジメだ。

 幾ら互いに辛くても、伝えておくべき事柄は必ずある。俺は、まるで投資信託で余剰資金のない顧客に巨額の負債を負わせた新人証券マンのように、心苦しい思いで藍に謝った。



「許さないって言ったらどうなるの? ずっと居てくれるの?」

「ぶっちゃけ、よく分からん。俺がここにいるのは、藍が幸せになれるかどうかを知りたいって事だけが理由だし。ある日、お前が俺を忘れて笑えたら勝手に消えるんじゃねえかな」

「もう笑えるワケないじゃん、バカなの?」



 俺の体に触れられないと分かっているハズなのに、こういう日常の中で無意識にやっていたスキンシップは癖付いてしまっているらしい。

 藍は、上目遣いで俺をジトっと睨んだあと肩を押し当てようとしたが、それも虚しくすり抜けて、やはり寂しそうに俯いた。



「なんで、死んじゃったのよぉ……っ」



 今の藍に何かを答える事は、あまりにも愚かだと思って再び黙った。

 こうして傷付いている元カノを見ていると、何となく無力な自分に腹が立ちそうなモノだが。



 どうにも、俺はその辺の感覚を失っているようだ。



 悪霊が悪意のみを成し遂げるように、善霊は善意を成し遂げる為の事しか出来ないらしい。



 だから、上手いモノを食いたいとか、かっこいい服を着たいとか、新しい映画を見たいとか。

 そういう、俺が生前に抱いていた欲求や喜怒哀楽なんかも全て失われている。今俺にあるのは、ただ純粋に藍が幸せになって欲しいという思いだけ。



 ……これって、人間的にどうなんだろうな。



 きっと、藍はいい部分だけを見て俺を好きになってくれたワケではない。むしろ、教育係だったのだから他の恋人よりも多角的に俺の欠点を分析していたハズだ。

 この欠点とやらが個性であり、また人間らしさに繋がって愛すべきポイントになっていくのだと思うが。



 ならば、それらのアイデンティティを失った俺は本当に俺なのだろうか。



 的なことを、シクシクと涙を流す藍を見ながら考えていた。考えていたが、やがて「そうやって俺への興味を失ってくれるならば」とも思った。



 ……あぁ、これは本当に人間の考え方じゃないよな。あまりにも無機質で、独善性が無さすぎる。



「とりあえず、会社には復帰しろよ。塞ぎ込んで立ち止まってると、いつか本当に人との関わり方を忘れちまうぞ」

「嫌だ、触れなくても渚といる」

「バカたれ、お前の世界にいる人間は俺だけってワケじゃないだろ。会社の人とか、よく遊びに行く友達とか」



 藍のスマホには、多くの連絡が届いている。きっと、彼女を心配した人たちが、何とか立ち直れるように声を掛けてくれているに違いない。



 結構、頼られるタイプの彼女だから、これまで面倒を見てきた子たちも心配しているに違いない。

 そして、今までは高いところに見えた藍の背中が、自分たちと同じように悲しんでいるのを知って近くに感じるに違いない。



 だったら、これまでよりも深くその人たちと関われるだろう。中には、守ってやりたいと思う男だって現れるかもしれない。



 そいつは、俺よりも有能で顔もカッコよくて、体を鍛えてて洋楽が好きで、休みの日にはキャンプに連れてってくれたり友人を誘ってホームパーティーなんてやってくれる最高に自慢出来る男かもしれない。



「しかも、マジで優しいみたいな。そしたら、いつか俺が死んでよかったって思えるんじゃないか?」

「に、に、二度と! そんなふざけたことを言わないで!」



 藍は、本気で怒鳴って部屋を出ていってしまった。これも、いつも通りだ。

 喧嘩したときは、どっちかがシャワーを浴びて冷静になる。二人で決めたすぐに仲直りするための方法。



 もちろん。俺は怒っても哀れんでもいない。ただ、本心から幸せを願って提案をしただけさ。



 何というか、人って色んな要素でバランスを取ってコミュニケーションしてるんだな。

 こうやって、たった一つを追求した意見ってのは洗練されすぎていて心に鋭く突き刺さる。だから、人は言葉に様々な装飾を施して相手が傷付かないようにするのだろう。



 心って、本当によく出来てるよ。



「ごめん、冷静になった?」

「うん、こっちも怒ってごめん。今日は、とにかくいっぱいお話しよ? 私、伝えられてない事もいっぱいあるんだ」

「そうだな、聞かせてくれ」



 ……皮肉な事だ。話を聞く内に、そう思った。



 俺がちゃんと居なくなっていれば、いつか時間が解決してくれただろうに。

 藍は、霊体である俺の存在のせいで否が応でも思い出を懐かしまなければいけない。

 それどころか、俺との生活を続けようとしてしまう。こうして、俺との約束を守ろうと習慣や癖を繰り返してしまう。



 そんなこと、絶対にダメなのに。



「もう、疲れたから寝るね。ずっと隣にいてよ?」



 俺は、まるで鎖だ。鍵穴のない、彼女を過去へ縛り付ける鎖。

 聞けば聞くほど、考えれば考えるほど、やっぱり死者は現世に出しゃばらない方がいい理由が見つかってしまう。相手の幸せを願うなら、尚更だ。



 どうして、奇跡は彼女へこんなにも残酷な事をしたのだろうか。

 俺は、ようやく寝息をたて始めた藍の顔に触れるように手を添わせ、永遠に答えの出ない問について考えた。



 何が善霊だ、まるっきり悪霊そのものじゃないか。



 × × ×



 3日後。藍は、会社へ復帰した。



 俺との旅行用に残していた有給を全部消化したお陰で、欠勤扱いにはならなかったらしい。

 まぁ、見寄のない俺だから、会社さんサイドも藍の忙しさに多少の理解を示してくれたのだろう。



 感謝感謝。



「今日ね、新人の子が私の仕事を自分から手伝ってくれたの。私が戻ってきたとき、喜ばそうと思って頑張ってたんだって」

「そうか、いい子だな」



 夕飯時、藍はいつものように会社での出来事を俺へ語った。それからテレビを見て、少しの酒を飲んでベッドに入って。



 次の日も、その次の日も。本当に、俺が生きている頃とまったく同じ事をしていた。

 確かに悲しみは薄れたのだろうが、これでは苦労の引き伸ばしだ。かと言って、俺がなにか別の道を提案すると怒ってシャワー浴びちまうし。



「……いや、待てよ?」



 これだけ今まで通りに生活しているのなら、そのうち体に触れられないストレスや俺のしょーもない発言で普通に別れる事も出来るんじゃないだろうか。



 なんてことだ。



 死別なんて衝撃のある経験をしたから気付かなかったが、普通に破局するぶんには藍に迷惑がかからないどころか俺を嫌いになれるかもしれないしいい方法じゃないか。



 というか、そんな回りくどい事をしなくても俺がフレばいい。



 極論、死別ってのは互いに好きなまま別れるのが辛いだけなのだから、その後で一般的な終わりを迎えたのなら普通の人生に戻れるんじゃないのか。



 ならば。



「なぁ、あ――」



 こ、言葉がでな……っ。



「ど、どうしたの? 渚君」

「ぐ……っ! あぁぁぁぁッ!!」



 声を掛けようとすると、突然俺の体を強烈な痛みが襲った。

 まず、信じられないくらいに熱い。煮立った油を脳天からぶっ掛けられたような熱さだ。

 それに、切るような、刺すような、千切るような、蝕むような。あらゆる感覚が皮膚の内側に直接打ち込まれている。

 そして、息ができない。霊なのに呼吸するというのは何とも奇妙だが、その呼吸を許さないくらいに俺の神経が痛みに支配されているのだ。



 痛ぇ、痛ぇ痛ぇ痛ぇッ! この痛みは絶対にマズい! この世のモノでないなんて比喩が、死んだ俺のこの痛みに匹敵しているワケがない!



 ま、まさか、悪霊が生まれる理由ってのは……っ!?



「……何でもない。何でも、ないんだ。藍……っ」



 否定し、ようやく痛みが収まった俺は吐くモノがないから酷い嗚咽だけを漏らして、目眩の中で藍の形を探した。

 彼女は、泣きそうな顔で俺を見ている。あの日、引き潰れた俺の死体を見てへこたれたときの、辛い涙すら流せない瞬間の顔だ。



「渚君……」

「気にするな。多分、霊ってこういうモンなんだ。大丈夫」

「ねぇ、なんで嘘つくの? そんなに辛いの?」

「辛くないって」



 ……なるほど、そういうことか。



 つまり、この結末は藍が幸せになれないと俺自身が理解したのだ。

 だから、俺を復活させた奇跡が俺に制裁を与えた。

 特別に選ばれる程の純粋な願いを抱えておきながら、妥協するなんて許さないと天使に囁かれている。

 あってはならない事を実現させた、尋常ではない想いのツケを払えと悪魔が呟いている。



 もしも、あの痛みを受け続けたのなら、俺はきっとなると直感した。



 悪霊とは、存在だったのか。



 道理で、みんな一様に藻掻き苦しそうな顔をしているハズだ。

 奴らは、永遠に囚われているのだ。あの、この世のモノではない痛みに。



「……冗談じゃない」



 俺が悪霊になったら、真っ先に殺す相手は藍なのだろう。それだけは、絶対にあってはならない。



 ならば、探さなければ。藍が俺を忘れ、そして幸せになる方法を。



「なぁ、藍」

「なに?」

「次の休みの日、外に出かけよう。『一生の間にやりたい事リスト』、まだ全然埋まってないんだろ?」



 一生の間にやりたい事リストは、その名の通り藍が生涯で未練や後悔を残さないように、やりたい事をカッコつけず恥ずかしがらず、どれだけ些細な興味でも全て書き記したノートの事だ。



 藍は、これを全てやりきる事を人生の目標にして生きている。逆に言えば、こいつを全てやり切れば藍は絶対に幸せになれるのだ。



「そういえば、すっかり忘れてた。ちょっと待ってて」



 何故か俺のデスクの鍵が掛かった引き出しをゴソゴソと漁ってから、藍は再び戻って来た。

 手には、しっかりノートがある。それを見て自分の興味を思い出したのか、藍は俺が死んでから始めて笑っていた。



 無意識の笑顔だ。ささやかで、かわいい。

 笑えないなんて、やっぱり嘘だったんじゃないか。



「どうせなら、上から順番にやって行こうぜ」

「上からだと、『レジ前のいちご大福が食べてみたい』だよ」



 これ、あれだな。



 スーパーやコンビニで買い物するときに、レジの前に置いてある謎の和菓子は気になるけど中々手が伸びないとか。そんな理由で、藍が書いたヤツ。



「これは今からでも出来るだろ」

「あはっ、そうかも」



 という事で、ついでに『超豪華な生フルーツジュースを作る』と『お腹いっぱいになるまでキャラメルポップコーンを食べる』を消化する事にした。

 キラキラして如何にも陽キャって見た目なのに、藍は妙に庶民的なところがある。だから、やりたい事もこういう『子供の時にやってみたかった事』が多い。



 微笑ましくても、涙なんて出ないけど。



 そんなワケで、まだ開いていた近所のスーパーにて一番高いメロンとマンゴーとサクランボとパイナップルに、大量のキャラメルポップコーン。

 最後に、レジ前に置いてあったいちご大福とついでにピンク色のすあまを買ってきた。



「このピンクのヤツも、一回でいいから食べてみたかったんだよね。ノートに書くときすら存在を覚えてなかったけど」

「エクストラミッションだな」



 家に戻ると、雑に切ったフルーツをミキサーでシェイクしてジュースを作った。

 藍の好きなフルーツだけを混ぜた完全なミックスジュース。このドロドロ具合は、ジュースっていうよりもシロップって感じだ。



「味はどうだ?」

「おいしいけど、一個ずつの方がよかったかも。ウケる」

「やりたいことなんだから、それでいいんだよ」



 そして、和菓子を食べて腹がはち切れるまでキャラメルポップコーンをつまんだ藍は、静かに眠りについた。

 寝顔に悲しみは残っておらず、以前のように安らかで無邪気だ。

 やっぱり、俺が死んだことをちゃんと理解していないのだろう。無意識のうちに、俺がまだ生きていると思い込んでいるのかもしれない。



 付き合う前は、俺の告白を二回も断ったのに。どうして、いつの間にかそんなに好きになってるんだか。



「バカだよ、ホント」



 次の日から、仕事の後にやりたいことのための準備を着々と済ませ、待ちに待った週末。



 今日から、習い事の消化が始まる。



 といっても、別に本格的にサークルや教室に入ろうというワケではない。

 世の中の習い事には、大抵の場合体験入学という便利な制度がある。初回の参加を1000円くらいの値段で行えるという便利なモノだ。



 こいつを上手く使って、ノートに書いたやってみたいことを安価にこなしていくのが計画。

 まずは、お料理教室だ。藍は、買ったエプロンを身に着けて三軒茶屋にあるビルの一角で包丁を握っていた。



「へぇ、上手いモンだな」

「私って結構器用だから」



 俺の姿は、藍以外に見えていない。この辺は、俺が藍以外に影響を与えられるほどパワーを持っていないのか、もしくは他人の認識の問題かがあると思われる。

 要するに、人々は俺のことはもちろん善霊の存在を知らないのだ。

 知らなければ意識することは出来ないし、だから視界に映っていたって気にすることもできない。路傍に転がる石みたいに。



 一応根拠はあって、それは悪霊が大抵の場合噂と呪いを通じて人々の前に現れるって事。

 みんな、最初から存在を知っている。だから、すべからく白い服を着た女の姿なのだ。みんな、あの姿が悪霊だと思っているから、あの姿で認識しているというのが正しいのだ。



 人は、見たいように見て聞きたいように聞くからな。



「丁寧でいい仕事じゃんか」

「もっと褒めていいよ」



 それなのに、俺の呟きにわざわざ言葉を返す藍が妙に愛おしく思えた。

 他の人たちは、ブツブツ言ってる藍を見てどう思ってるのかと思ったが杞憂だったようだ。女というのは存外独り言の多い存在らしい。



 あっちこっちで「あぁ! ミスった!」とか「上手にできた〜」とか、別に誰に語りかけるワケでもなく口を動かしている。



 なるほど、生前は誰かに反応してほしくてわざと聞こえるように言ってるんだと思ってたが、そうでもないんだな。

 というか、勝手に喋って相手の話聞いてない子も結構多いし。あざといんだか天然なんだか、それなのに突然思い出したかのように周りとコミュニケーション取るし。



 相変わらず、妙な生き物だよ。女って。



 それから、絵画教室にスカッシュ体験とギッチリ詰め込んだ予定を消化していった。

 最後には、スカッシュで出会った男子二人に女子一人と軽い夕飯を食べて終了。どうやら、ナンパされてしまったらしい。



 俺を意識せず遊びに行けと言って彼らへ強引に付き合わせたが、何だか彼女的にマズいと思ったであろうセリフを言われるたびに、藍は後ろを向いてプカプカ浮いてる俺をチラ見していた。



 だから、俺は飲み屋を出てボーッと飛び回り、なるべく藍の意識の外側へ行くことにした。



 いい傾向だ。

 元々社交的なのだから、こうして人脈を広げていく事に抵抗はないハズ。

 今すぐ誰かと仲良くなれと言うのは流石に無理でも、長い時間を掛けてゆっくりと忘れていってくれればそれでいい。俺以外の誰かを見つけて、幸せになってくれればいい。



 彼女の両親だって、それを望んでいるハズだ。



 そう思って、俺は池尻大橋ジャンクション付近にあるタワーマンションの屋上に腰掛け、ぼーっと渋谷から中目黒までの景色を眺めていた。



 ……一瞬だけ、あの痛みに似た感覚が体に走った。



 × × ×



 半年が経った。



 色々とやりたいことを消化した結果、藍は着物の着付け教室にハマった。どうやら、ドンピシャだったらしい。

 普段着に着物を着るくらいに趣味に没頭する姿は、元カノながら自慢してしまいそうなくらいに美しい。



 身長はそこそこ高いし、首も長いし、肌が白いし、髪は黒いし。こうして楽しんでいる姿を見ると、むしろどうして今までやってなかったのかって気分になってくる。



 物に触れらるのならば、俺の趣味が写真になってたかもな。



「渚く〜ん、どこ〜?」



 呼び出され、俺はマンションの屋上から彼女の元へフワフワ飛んでいった。

 恐らく、帯の形が気になっているのだろう。確認だけなら俺でもしてやれるからな。



 ……あの部屋は引っ越した。俺の匂いが残っているし、生活リズムを変えられなくて思い出から抜け出せないからな。



 かなりゴネて泣かれたが、俺の生命保険もあるし少しはいい生活をしろと半ば命令するように告げ、或いは根気よく説得した。

 そうするうちに、着物に出会ったことも幸運だった。あの部屋には真っ直ぐに吊るして綺麗に保管できるクローゼットがなかったからな。



 だから、別にそこまで高い部屋じゃなくたっていいから、服を清潔に整えられる場所へ引っ越せと三ヶ月近く言い続けた結果、藍はようやく重い腰をあげた。

 ここなら、南青山にある着付け教室に通いやすいし。仕事だって電車で一本だ。新しい生活を始めるのに、とてもいい環境だと言える。



 そして、俺は徐々に藍から離れるようになった。新しい部屋に、俺の匂いを残さないためだ。



 匂いって言ったって、別に本当に花から認識する香りのことを言ってるワケじゃない。

 音楽や、シチュエーションにも内在する『懐かしさ』ってヤツだ。こいつを、俺は便宜上『匂い』って呼んでるだけ。理由なんて、特にない。



 とにかく、だから俺は意識的に彼女の無意識から離れるようにしている。

 と言っても、普段は俺を探してすぐに不安がるから定位置を決めずフラフラしながら藍の話を聞いているが、何かに集中したり没頭したりしている時はシレっと渋谷あたりに飛んでいく。

 そして、ふと振り返った時に俺が居ない事が当たり前なのだと、藍に知っていて欲しいのだ。



 まぁ、いい大人なんだからちゃんとしないとさ。



 未来の無い俺は藍のモノだけど、まだ生きていく藍は俺のモノではない。そう言うふうに、心じゃなくて頭で理解してもらえるように動いているワケさ。



「どうした」

「……帯の形、見てよ」



 俺が消えてしまったと思った。どうしていつも心配させるような事をするのか。



 飲み込んだ言葉は、この辺りだろう。もちろん、問い正したりはしない。



「バッチリ決まってると思うぜ」

「そう、ありがと」



 藍は、振り返るとジトっとした目で俺を見た。



「渚君、寂しくないの?」

「だから、死んだらそういうの無いんだって」

「私、今日も月野つきのさんと出かけるんだよ?」

「嬉しいよ、彼となら仲良く出来そうでさ」

「……カノジョが他の男と出掛けるんだよ?」

「元カノだよ、お前は」



 俺には家族がいない。だから、放っておけない。



 過程に色々な出来事があったとはいえ、藍が根負けして俺と付き合う事にした決定的な理由はこれだろう。



 年下で一人っ子の俺が妙に家庭的で自立している謎を、何度か問われた事があった。

 最初の頃はアプローチ中に明かすのがズルい気がして、適当な事を言って誤魔化していた。

 しかし、藍は嘘を見抜くセンスが抜群に高い。すぐに看破されて、詰められてしまったのをよく覚えている。



 結果、部内で唯一俺の事情を知っていた部長に話が飛んでしまい、彼がうっかり喋ってしまった事で俺は藍の同情を誘ってしまった。



 要するに、哀れみなのだ。俺と彼女の関係は。

 彼女がすぐに俺を忘れられないのも、そういうズルい要素が絡み合った結果といえる。



「本当に、そういうふうに思ってるの?」



 だったら、もう俺に同情させなければいい。



 死して尚、俺をかわいそうだと思わせなければいい。唐突な結末すら幸福に転回出来る方法を、実のところ俺は一つだけ知っていた。



 だが、それを使うのは無理だ。藍が幸せになれない。



「そうは言っても、同じ趣味の男なんて中々見つかるモンじゃないぜ? 恋かどうかはさておき、後輩として仲良くするのがいいと思ってるよ」



 ……体が痛い。痛すぎて、泣いちゃいそうだ。



「上から見ててね?」

「表参道辺りをボーッと飛んでるから安心してくれ」



 どこかの心理学者が、女の心は常に愛を注ぎ続けなければ漏れて興味を失うが、一度形となると裏切ることはできなくなる。だなんて事を言っていたっけ。



 要するに、何が言いたいのかと言えば月野さんがコンスタントに藍へ愛情を注ぎ続けてくれれば、そのうちどこかで風化していく俺との思い出を追い越すと思うのだ。



 余談だが、男が浮気に気付かない理由はきっとここにあるのだろう。

 ほら、俺らって一回めちゃくちゃ愛されるとそれ以降もずっと好きでいてくれると勘違いしちゃうだろ?



「なんてな」



 こういう時、物語の主人公ってのはパッと信じられない力を発動してあり得ない角度から解決するんだろうな。



 でも、残念ながら俺は普通の男だ。

 やれることは、ただ勤勉に藍と藍を取り巻く関係を研究し、俺との関わりを薄くするための努力を怠らず、藍に不幸を感じさせないように付き合っていくことだけ。



 至って普通に積み上げる。『俺を過去にする』という目的に向かって、要素を一つずつ積み上げる。

 ドラマティックでも、ヒロイックでもない。

 ただ、仕事や受験勉強のように、チートも魔法もない当たり前の世界の中で、他人とコミュニケーションを取れないというハンデを背負いながらひたすらにこなすしかないのだ。



 俺に心があったなら、きっとおかしくなっていただろう。



 そんなことを思って、俺は家を出ていく藍の首に気持ちのこもっていないキスをするフリをした。



 体は、痛くならなかった。



 ……どうやら、あの月野という男はそれなりに信用できるらしい。



 江戸時代から続く呉服屋の息子であり、現在31歳。仕事は銀行マン、店を継ぐためにマネーや株の知識を培っているんだとか。

 お坊ちゃん的な生まれと育ちの通り、やたらと上品な立ち振舞を見せてくれる。

 和装もよく似合っている。日本の美を極めたら、正しくこうなるだろうと言った男だ。



 どうして知り合いになったかといえば、成り行きで藍と行くことになった赤坂の明治記念館という結婚式場でバッタリと居合わせたからだ。

 何か名家らしい付き合いがあるのだろう。大きな紙袋を手に下げているとき、俺へ振り向いた藍がぶつかってしまったのだ。



 いいじゃないか。運命的で。



 ややキザったらしいが女遊びもしていないようだし、イケメンなのに夜も将来に実家を経営するため自己研鑽に励んでいる。

 それに、どうやら藍の事を結構気に入っているようだ。さり気なく服装の乱れを直してやるところなんて、慎ましくて気持ちがいい。



 あいつが腹黒じゃなきゃ、多分藍を幸せにしてくれる。

 両親は結構厳しいっぽいけど、もし扱かれてもそれは名家としての尊厳やプライドから来るモノであって、決して息子の相手を遠ざけるイジメの手段ではないと予想出来る。



 というか、月野自身が結構色んな事に気が付いて両親に詰め寄る事も多い。

 ただの放蕩息子や甘え上手な若様って感じはない。そもそも、甘えていない。なんと、大学は私立でなく自分で受験して東大に受かったというじゃないか。



 すげぇや。



 いるところにはいるモンだな、マジの天才ってヤツがさ。



 ……。



「最近、表情が明るくなったな」

「仕事も上手くいってるし、友達も増えたからね」



 更に半年後、俺は空に浮かびながらテラスの手すりにより掛かる藍に話しかけた。

 最近じゃ、家の中に入ることも少ない。彼女が、目を覚まして着替えて、家を出る前に手を振ってやるくらいだ。



 空を飛んでるっていうのは、なかなか俺の現世離れした特徴なんだと思うけど。藍は、もうなんの違和感もなく上を向いて話すようになった。



 だから、涙がこぼれなくなったのだろうか。寂しそうだったあの時の表情だって、あまり見かけない。



 そろそろ、話を振ってみる頃だと思った。



「やることリスト、もう全部埋まりそうなんだろ?」

「うん、本気でやろうと思ったら結構すぐだったね」



 富士山を登ったり、デンマークでラズベリーパイを食べたり、プロレスを見に行ったり。

 本当に、色んなことがあった。俺は、隣で藍が楽しんでいるのを見ているだけだったけど、いつも楽しそうに笑ってくれたのが嬉しかった。



 ただ、友達とかと一緒に行けばいいのにって、ずっと思ってた。



「最後のページが終わったら、どうするつもりだ?」

「んっとね、わかんない」



 最近、俺は藍の教室を覗かなかくなった。

 月野のやたらデカい家系を調査するのに忙しかったのもあるが、プライベートの時間を覗くのはちょっと気が引けたのだ。



 結構、女同士だと俺に聞かれたくない話だってあるだろうし。



「それで、最後には何が書いてあるんだよ」

「ナイショ」

「何でだよ、教えろよ」

「いや〜や」



 生前と同じ、イタズラをする時の口調。こういうのを聞くと、本当に俺のやり方があっているのか心配になってくる。



「そうかい」

「ても、すぐにわかるよ。だから、私が仕事してる間に覗き見とかしちゃダメなのだ!」

「いや、そもそも触れないから」



 妙に、含みのある言い方だ。こいつ、何企んでるんだろう。



「まぁ、いいや。今日も月野と出掛けるんだろ?」

「うん、ちょっと用事があるの。一緒に来る?」

「行かないよ、俺も用事があるんだ」

「えへへ、嘘つき」



 ヘラヘラと笑いながら髪を整え、藍は下駄を履いて家を出た。



 今日、帰ってきた時の反応でアクションを仕掛けようと思っている。

 具体的に言えば、月野を褒めるような言葉を使ったり喜んでいるような仕草を見せたり。



 そういうふうにしてくれれば、俺は月野がいい男であると伝えたい。あいつ、マジで藍のことが好きみたいだから。



 もう、俺が死んで一年も経ったんだ。新しい恋人を作ったって誰も文句なんて言わない。

 付き合った瞬間消えると何だか態度が悪いように思えるから、俺は徐々にフェードアウトするつもりだ。

 まぁ、実際には彼女が幸せになったら俺が勝手に消えるって感じなんだろうけど。その辺り、特に重要じゃない部分について考えても仕方ない。



 必要なのは、藍の幸せだ。彼女が幸せになりさえすれば、俺は何でもいい。



 ……ところで、死んだあとの世界っていうのはどんな感じなんだろうな。



 俺はきっと地獄に行くだろうが、果たしてそこでは何をすればいいのだろうか。

 絵巻なんかじゃ仕事をしているみたいだけど、物理法則の通用しない世界で肉体労働をするってのもおかしな話だ。

 何かを作ってるのか。それとも、拷問の為の意味の無い嫌がらせなのだろうか。もしも、営業部があったりするのなら俺はそっちに配属してくれると嬉しいな。



 天使相手にでも、売り捌いてみせる。



 しかし、考えてみればやる事が無いって言うのはとても退屈で苦痛な事だ。



 目的さえあれば、どんな苦労でも受け入れるつもりだけど。

 まぁ、世界があるなら社会もあるだろうし、地獄では地獄なりの生活が待っているのだろう。

 噂によると、1000京年みたいな今日日小学生でも使わないアホな桁の年数を過ごすらしい。普通に考えて、獄卒の鬼さんたちもそんなに長い間人をイジメてられないだろ。



 どんな楽しい事だって、精々100年も経てば飽きるっつの。



 案外、落ちてきた奴から色んな娯楽を教わってそれで遊んでるのかもな。

 それで、みんなで「あぁ、俺あと30兆年で輪廻転生だわ。ダリィ」みたいな緩い感じだったりしてさ。

 世界中のイカれた犯罪者たちが痛い目見たくらいでまともに働くとも思えないし、むしろ鬼を狂わせたりしてるのかも。一体、どんな生活をしてたのか話を聞いてみたいぜ。



 なんか、楽しみになってきた。みんな、死ぬことを怖がり過ぎなんだよ。現実よりも怖い事なんて、俺は無いと思ってる。



 だって、よく言うだろ?地獄には、笑いが絶えないってさ。



 × × ×



 結局、俺は藍に月野と付き合うように進言した。



 しかし、彼女の反応は微妙だ。最近では滅多に見なくなった泣き顔を浮かべ、「どうしてそんなに酷い事を言うの?」と涙を流してしまったのだ。

 それから、俺は藍が眠るまでずっと隣で話を聞いていた。それどころか、彼女はどうしても溜まってしまったというから、「耳元でいっぱいエッチな事を言って」と願ってオナニーをし始めたのだ。



 誤算だ。俺は、どこで間違えたのだろう。



 間違いなく、距離を離したハズだったのに。月野に心が傾く様に、散々仕向けたというのに。これだけ勤勉に働いても、まだ俺を忘れさせることが出来ない。



 同情とは、これほどまでに根深いモノか。女ってのは、男に対してどこまでも優しくて甘い。

 女が逮捕される理由は、なんと8割が男との共犯だというではないか。なるほど、惚れてしまえば理性なんてどうしようもなく働くなるというのは間違いないデータだ。



 かわいそうだ。このままじゃ、藍は永遠に幸せになれない。



「ねぇ、渚君」



 翌日も、お詫びとしてずっとこの部屋にいろと言われてしまったから、俺はボーっと彼女が縫物をしているところを眺めていた。

 どうやら、着物に合せる巾着を作っていたらしい。こういう凝り性なところ、本当に魅力的だ。



「なに?」

「今日ね、やりたい事リストを全部終わらせようと思うの」

「そうか、どこに行くんだ?」

「月野さんのとこ」



 言われ、俺は意味も分からずに準備を終わらせた藍の後を飛んでマンションを降りて行った。すると。



「今日はさ、飛んでないで私の隣に居てよ。手、つなご」



 そう言って、藍は通り抜けてしまう俺の手に手を重ねて笑ったから、俺は地面に降り立ってそこに手を重ねた。

 当然ながら地面に立つ事は出来ないから、俺は超低空で飛んでいる。三ミリだけ浮いている、ドラえもんみたいなモノだな。



「月野のところって、何しに行くんだ?」

「明治記念館でね、ブライダルフェアをやるの。そこで、パンフレットのモデルを頼まれたから写真を撮るんだよ」

「へぇ」

「セットもね、本物の式と同じなの。私が着るのも新婦用のかわいい色打掛けなんだから」



 色打掛けとは、新婦が着る着物の事を言うようだ。今日作っていた巾着、どうにも普段着用の着物とはベストじゃないと思っていたけど、そういうカラクリだったんだな。



「未婚の女がウェディングドレスを着ると、婚期が遅れるっていうよな。和装でもそうなのか?」



 冗談のつもりだったが、要らない事を言ってしまった自覚があった。

 だから、ゆっくり藍の方を向いたが、彼女はただ微笑んで静かに歩いているだけだった。



 なんだ。普段だったら、一つや二つは言い返して来るのに。妙に静かなモノだな。



 明治記念館に着くと、既に月野や撮影のスタッフたちが集まっていた。

 思っていたよりも大掛かりなイベントらしい。衰退してるブライダル業界の逆転の一手何だとしたら、藍みたいな一般人をモデルに選ぶのも変な話だが。



 それとも、彼女はそこに抜擢されるくらい美人なのだろうか。着付け教室にだって、他にも逸材はいるだろうに。



「ねぇ、渚君」

「ん、どうした」

「渚君さ、私を月野さんと付き合わせようとしてたでしょ」



 控室で藍が唐突に呟く。心臓は動いていないのに、何故かハネた気がした。



「どうして、そう思う?」

「分かるよ。だって、渚君ってば露骨に私のことを避けてるんだもん。最近はたまたま忙しくて気にする時間もなかったけど、酷いよ」



 言葉の通りなら体中が痛くて悲鳴を上げるハズだが、俺は少しもそうならなかった。

 ならば、問題は藍がどこで嘘をついてるかだ。



「月野のこと、好きじゃないのか?」

「好きだよ、渚君がいなければ惚れてたかも。かっこいいし、頭もいいし」

「俺も、俺とは比べようもない男だろうと思うぜ」

「ふふ。そうだね。月野さんがどれだけ頑張ったって、渚君には及ばないモノ」



 ……何を言ってるのか、分からなかった。俺が、あの男よりも優れてるだって?



「冗談じゃない。俺は親もいねぇ貧乏で、頭も大して良くないんだ。大学だって出てない。ただ、偶然あの会社にスカウトされただけの営業マンだぞ?」

「でも、自分の命を掛けて誰かを守れる」



 すると、藍は俺の体に手を伸ばした。控室の鍵は、掛かっていない。



「口で言うのは簡単だけど、本当に目の前で人が死にそうなときに助けられる男って、この世界に何人いると思う?」

「あれは、ただ体が勝手に――」

「そう、きっと勝手に動いたんだと思う。渚君っては、もうすぐ私と結婚するっていうのに、私の家族にも挨拶してくれたのに。あんなこと、何か考えてたら絶対に出来ない事だよ」



 そして、まるで俺を抱き締めるように、藍は自分の腕で自分を抱いた。



「渚君がお墓で声をかけてくれた時、私がなんて言ってたか覚えてる?」



 ――私もすぐに渚君の後を追いかけるね。



 忘れるハズがない。

 だって、あの一言が無ければ俺は藍に話しかけようだなんて思わなかった。俺を追って死ぬことが不幸だと分かっていたから、俺は藍の運命を変えたのだ。



「あの時、本当に死のうと思ってたの。あの帰り道で、海へ行こうと思ってたの。やりたいことリストだって、渚君とやりたいことを書いてたの。あなたがいなければ、私には何一つやりたいことなんてなかった」



 ……だから、あのノートを俺の机の中へしまっていたのか。もう、二度と見る必要のないモノだったから。

 彼女は、俺との思い出の中に未来を閉じ込めていたのだ。



「私は、本当に自分の命を捨ててまで誰かを助けられるあなたが大好きなの。この世界には、あなたよりもカッコいい男は存在しないって本気で思ってる」



 そして、藍は俺に



「大好き。それだけが、私のあなたへのすべて」



 霊体ってのは、きっと人の魂そのものなんだって思った。



 だって、温かいのに震えるんだ。こんなに嬉しくて、流すことはないと思っていた涙が流れるんだ。自分が彼女と関わっちゃいけないってわかってるのに、俺は……。



「……本当に、悪かった」

 


 彼女が幸せになれないことで、俺は悪霊になるんだと思っていた。

 でも、そうじゃなかった。藍が俺以外の誰かの元へ行くが辛いから、俺の体は痛かったのだ。



 あの痛みは、きっと心の痛みを表したモノだったのだ。生きている間は肉体のお陰でガードされていた心のダメージを、剥き出しになった痛覚が伝えていたのだ。



 だから、藍が悲しそうな顔をするたびに痛かった。誰よりも大切な藍が幸せになれないと思う、俺自身が感じていた痛みだったのだろう。



 涙が、止まらなかった。



「先に死んじまって、本当にごめん。俺は、本気でお前のこと好きなんだ。それなのに――」

「うん」

「い……っ、一生、お前のことを守るとかカッコつけたのに、甘えてばっかだったしさ。全部、嘘になっちまった」

「うん、うん」

「金もねぇし、顔だって大して良くなかったしよ。だ、だから、藍にはそういう全部持ってる男と幸せになってほしかったんだ」

「うん、分かってるよ」

「でも、でも」



 体は、痛くない。



「俺! もう何もしてやれねぇからさぁ! 触ってもやれねぇからさぁ! こ、こうやって達観して、俺が思うお前の幸せを押し付けるしかなかったんだ!」

「うん」

「本当は、俺が幸せにしたかったんだ! 月並みだけど、俺は命かけてるつもりだったんだ! でも、その命だって他の子供にあげちまったから! 俺がやってやれることなんて、他には――」

「もう、大丈夫だよ」



 ふと、体が軽くなる。



「もう、大丈夫。私、渚君のお陰で残りの人生も生きていこうって思えたから。あなたは、私の命も救ってくれたんだよ?」

「それは、俺が死んじまったから――」

「いいの。私は、渚君がとても正しいことをしたって思ってるから」



 そして、彼女は背伸びをして俺の頭を撫でた。優しくて、見ていられないくらい優しい笑顔だった。



「やりたい事リスト、最後はね。渚君と結婚式をあげることだよ」

「……あぁ」

「お嫁さんになりたいなんて、本当に小学生の頃から何も変わってないと思うけどね」



 何だか、体が薄くなっている事に気がついた。

 どうやら、これが渚の望む本当の幸せの形らしい。残された時間は、そう多くないだろう。



 なら。



「愛してる、結婚しよう」



 せめて、告白の言葉くらいは俺が送るべきだと思った。

 もう、何もしてやることは出来ないけど。藍が、これから先ので幸せになれることはないのかもしれないけど。



 それでも、この一瞬に俺のすべてを捧げられるのなら、それは心の底から幸せだって本気で思えた。



「うん」



 ……スタッフが呼びに来たから、俺たちは写真を撮影するセットへ移動した。

 藍は、微かに涙を流している。監督には会場の雰囲気と役割に感極まってしまったと説明していたが、どうやらこの表情が気に入ったらしい。



 監督は、上を向いて目を閉じている写真が欲しいと言った。



 藍は、壇上に上がって俺の方を見た。他の人には、一体どんなふうに見えているのだろう。

 こうして、本気で愛している人間を目にしている人間が、果たしてどんなふうに映るのだろう。



 スタッフたちの、息が止まった。藍は、俺を見つめて目を閉じた。



 もう、体が消えそうだ。最後に見せた俺の顔は、ちゃんと笑えていたのだろうか。ずっと甘えていた俺だから、最後くらいは男らしい顔を見せられていたらいいだなんて。



 そんなことを考えて、俺は藍にキスを落とした。



 ○ ○ ○



 幸せな人生だったと思う。



 私は最後まで一人暮らしだったけど、多くのかわいい弟子を持つことだって出来た。

 だから、少しだって寂しくなかった。こうして、最後の瞬間にもベッドの傍らで泣いてくれる子たちがいる。もう、何一つ未練なんてない。



 あの日、キスを終えて目を開けると渚君の姿は無かった。

 代わりに、光の粉が空へ舞い上がっていくように見えた。何ともメルヘンチックで私らしい錯覚だと勘違いされそうだけど、きっと本当にそんな現象が起こっていたのだ。



 だって、心がとても綺麗な彼だから。消えたときに見えたあの光は、渚君の心の色に違いない。



 目を閉じて、息を引き取る。



 この安らかな感覚は、人生という長い物語を失う喪失感にしてはいささか優しすぎると思った。

 好きなドラマが終わるとき、私は心に穴が空いたような感覚に陥るから。自分の人生が終わるときも、きっと同じような事を思うんだと考えていたけど。



 ……いや。それは嘘だ。



 だって、死んだら絶対に会えるって楽しみにしてたのだから。



「広いなぁ」



 目を開けると、見渡す限りの青い空と緑の陸が広がっていた。

 爽やかな風が吹いていて、ここは天国なんだって一目で分かる情景だった。



 体がフワフワと浮き上がり、最初から知っていたかのように飛び回る事が出来た。

 私は、何も考えずに空の下をゆっくりと飛んで、気がつくと大きな木へと辿り着いた。



 きっと、ここにいる。だって、分かるんだもん。



「やぁ、渚君。何泣いてるの?」



 後ろ姿は、やっぱりあのときの若いままだ。

 私は、もうお婆ちゃんになっちゃった。顔も手もシワシワだし、声だってしゃがれてる。

 若いときは、写真に取られるくらい綺麗だったのに。こんなになってしまったら、もしかすると渚君は私だって気が付いてくれないかも。



 ……なんて。そんなこと、あり得ないって分かってた。



「いい人生だったな」

「ずっと見てたの?」

「まぁ、なんの間違いか天国に来ちまったからさ。悪い奴もいねぇし、お前のこと見てるくらいしかやることなかったんだ」

「あ、ストーカーだ」



 お婆ちゃんになっても、どうにも彼に甘えたい気持ちは抑えられないらしい。

 私は、振り返りもせずに呟く彼の背中に抱きついた。すると、渚君は何も言わずに弟子たちとの別れの涙を慰めてくれた。



 やっぱり、あの頃のままだ。



 だから、私は渚君の事を好きになった。

 同情してるって思われてるのは知ってたけど、全然そんなことはなかった。私は、いつだって他人のために本気で頑張れる彼に惚れたのだ。



「変わってねぇなぁ」

「変わったよ、お婆ちゃんだもん」

「いや、変わってない」



 顔を上げると、渚君は私を見て頭を撫でてくれた。お婆ちゃんになった私が、孫くらいの歳の男の子に頭を撫でられて、おまけに泣いちゃうだなんて。



「今度こそ、俺が幸せにしてやれるな」



 なんて、長い遠回りだったのだろう。

 心の底から嬉しくて、彼に触れられることが幸せで。もう、これ以上を望むことは未来永劫ないと誓えた。



 結婚してら50年。ようやく、私は彼と同じ空の下で夫婦になれたのだ。

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【短編】俺は死んじまったんだから早く別の彼氏作れよ 夏目くちびる @kuchiviru

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