明けない夜はない

蓮田凜

30年後の僕に送る

 あれは小学5年生の夏休み。僕たちは多摩川からの分水として作られた玉川上水の上流で、大自然の遊びを満喫していた。

 玉川上水の両岸に紐をくくりつけてターザンごっこをしてみたり、笹の葉を川に流して誰が一番早いか競争してみたり、結構危険なことをしていたと思う。


 仲間は決まって僕(信也しんや)、光夫みつおあきらの3人だった。

 そんなある日、僕らは虫取をしようと玉川上水周辺のクヌギやコナラの木を見て回っていた。

「ここならカブトいるんじゃね?」と、あきらが言い出した。それは雑木林の前だった。

「うんうん、絶対いそう!」と、光夫みつおも賛同する。


 しかし、入口の立て看板を見て僕は忠告した。

『危険 立入禁止』

「立入禁止と書いてあるよ? 止めた方がいいんじゃない?」

「すぐに出れば問題ないっしょ」

 あきらは冒険心が強い。

 光夫みつおあきらの意見に釣られやすい。

 意見が分かれたとき、多数決になれば必ず負けるパターン。


 案の定、数負けして中に入ることになった。

 夕方も近かったため、幸運にもクヌギの木に蜜が溢れ、カナブンが集まっているところを発見した。しかし、そこにカブトムシはいなかった。

 あきらが「もう少し遅くなったら、カブトが飛んできそうじゃん」と言うので、一度引き返そうとした。


 2人が背を向けて歩きだした後に、僕は不思議なものを発見した。

 それはクヌギの木の裏に、低木の枝が重なりあって囲まれたトンネルのような空間だった。

 思わず、「秘密基地だ!」と叫んだ。

 2人もそれを見ると興奮して、中に入った。


 中は意外と広く、高学年が5,6人は入れるスペースがあった。

 僕らは無造作に草をちぎってきて、露出した地面に敷きならし、座っても痛くない程の床にした。

 それから葉のついたツルを引っ張ってきて、入口に網目状にかけると、簡単な暖簾のれんに変わった。


 そうこうしていると雷が鳴り出した。

 夕立だ。


 どしゃ降りの雨が一気に雑木林に降り注ぐ。

 僕らは身動きがとれず、秘密基地で待機することにした。


 幸い、秘密基地の上部は枝葉の絡みのお陰で雨水から守ってくれた。

 退屈しのぎにじゃんけんやグリーンピースといった手遊びを繰り返していた。

 30分が過ぎても雨は止まない。むしろ、強くなってきた。遊び疲れもあり僕らは徐々に言葉を失っていた。


 やがて、黒雲と共に空は夜へと移り変わっていく。

「誰かー、誰か来てください!」

 僕は声を大にして助けを求めたが、雨の音に流されるばかり。


「いつになったら止むんだよ! 信也しんやがここにいようと言うから悪いんだ!」

「そうだ! 信也しんやが悪い」

 あきらの罵声に光夫みつおも同調して、非難を浴びる。

「元はと言えば立入禁止なのに入ろうと言ったあきらの責任じゃんか!」

 言われっぱなしは御免だ。


 しかし、この言葉がただの喧嘩になることはわかっていた。

 僕はあきらともみ合いになり、光夫みつおに止められるまで無我夢中だった。


 息をきらし、ひたいを指でなぞる。我に返ったとき、そのひたいに痛みを感じた。


「2人とも落ち着いて……」

 光夫みつおはただただ泣いている。

「ごめん……」

「ごめんよ……」

 先が見通せないこの状況に、僕とあきら鬱憤うっぷんを当て合っただけで何も解決には至らなかった。


「雨が止むのを待とうよ。そうすれば外に出られるし、それに心配して誰かが来てくれるよ」

 僕は助けが来ると信じた。

「お腹空いたなー……このまま出られずに死ぬなんてないよね……」

 光夫みつおがお腹をさすりながら泣いている。

「大丈夫だよ。明けない夜なんてないでしょ?」

 光夫みつおが納得したかは気にしなかった。誰か一人でも諦めなければ何とかなる。僕はそう自分にも言い聞かせた。


 雨の音がむなしく響くだけで、周辺は完全に夜になっていた。

 光夫みつおは時折、「お母さん……」と叫んだり、泣いたりしている。

 あきらはそっぽを向いて安座したまま動くことはない。

 僕は「助かる、助かる」と読経どきょうのように呟いていた。


 雑木林に入って3、4時間、いや6時間……。

 沈黙状態が続いていたとき、茂みから雨音とは別の何かが聞こえてきた。


 徐々に音はこちらに近付いてくる。

 足音だ!

 心配して誰か来てくれたんだ! 皆、胸踊らせながら入口の方へ目をやる。


「誰か! 助けて下さい!」

 僕は入口から顔を出した。

 ツタの隙間から足が見えた。

 助けが来た!


 見ると30代、いや40代だろうか。自分の父親に近そうな人だ。

 傘を差しメガネをかけて、こんな雨なのにスーツ姿。下半身は地面に跳ね返った雨のしずくや水溜まりに足を突っ込んだためか、ビチョ濡れだ。


「君は……」

「助けてください! 雨が凄くて出られないんです!」

 おじさんは傘を落とし、メガネが次々に流れ込む雨粒に覆われていく。その先にある瞳が見えない。

「……おじさんが来たからもう大丈夫だ」

 助かった……。

「さぁ、帰ろう。お父さんお母さんが心配しているよ」

 誰かはわからないが、僕らを探しに来てくれた人に違いない。


 大人の傘に子供3人が身を寄せながら、秘密基地を後にする。

 スーツ姿の男性は僕らのために傘を持ち、びちゃびちゃだ。濡れたメガネで先が見えているのだろうか。


「立入禁止と書かれていただろう? よくこんな薄暗い林の中に入っていけたね。助けが来なかったらどうなっていたか……」

「誰かが来るまで諦めなかったですよ。現におじさんが来てくれたし、助かりました! 本当にありがとうございます」

「そうか……」

 おじさんは僕の顔をよく見ると、軽くあたまを叩いた。うつむいていたおじさんのこうべが前を向いたような気がした。

「……ありがとう」

 逆にお礼を言われちゃった。変な人。


 おじさんは僕らを玉川上水の流れる遊歩道まで送ってくれた。

 雑木林を出ると不思議にも空は晴れていて、夕暮れ前だった。後方からヒグラシが盛んに鳴いている。

 おじさんにお礼を言おうと振り返ると、姿はなく、『危険 立入禁止』と書かれた看板が目の前にあるだけだった。


 あれ、何かおかしい……。

 僕は暫くおじさんの行方を追い、挙動不審きょどうふしんに辺りを見渡した。

 すると、横にいたあきらが、

「ここならカブトいるんじゃね?」と言い出した。

「うんうん、絶対いそう!」

 そう応えたのは光夫みつおだ。


 ん、デジャブか……? 雑木林に入る前と一緒の会話。


 あきら光夫みつおに雑木林での出来事を話してみたが、「何のこと?」と、全く知らない様子だ。

 しまいには「何で傘差してるの?」と、あきらが言うので、おもむろに右手を見ると雨のしずく残る大きな傘を差していた。




 それから30年後、僕は今も玉川上水の上流付近に住んでいた。

 今日は仕事で重大なミスを犯し、会社からの信頼を失い自暴自棄になっていた。

 ああ、転職でもしようか……。

 うつむき歩く玉川上水の遊歩道は、まるで暗黒の世界に続くような思いがした。

「疲れたな……」

 僕は思い出したように、付近の公園によることにした。


 周囲に人はいない。それもそうだ。今は22時。ベンチに座ると、雷が鳴り出し、突然滝のような雨が降りだした。

「おいおい、勘弁してくれよ」

 天候は無情にも僕の心を癒す気などないようだ。

 傘に身を委ね、しぶしぶ家路に就こうとした。


 すると、誰かに呼ばれたような気がした。

 振り返るとそこには大きな土管が置かれていた。

 思えばここは秘密基地のあった雑木林。今は広大な公園となり、当時の林は一部にしか残っていなかった。


 いざなわれるように土管に入ると、別の世界へ吸い込まれたような感覚がした。

 大雨をさえぎる土管が、かつての秘密基地を連想する。


 土管は全長3メートルはある。僕は反対側に光る出口に向かって歩いていく。

 外は大雨のはずが向こうは光輝く世界。何かおかしい。そして、まだ誰かが呼んでいる気がする。


 土管を出ると光の粒子が飛び交い、目の前が真っ白になった。

 慣れない目を開けると、立っている場所は雑木林になっていた。ただ、大雨は変わらない。

 呆然と立ち尽くしていたので、ずぶ濡れになっていた。すぐさま傘を持ち、濡れたメガネを拭き取る。

「ここは……見覚えがある」


 小学5年生の夏休み、立入禁止を無視して入った雑木林だ。

 記憶を頼りに歩き進んでいく。地面に吸収しきれない雨水が靴から靴下に、そしてスーツのズボンに染み込んでいく。


 大人の足でも随分と歩いた。

 ようやく着いた場所は秘密基地だった。

 秘密基地は僕たちが作った姿そのままだった。


 そうしていると、ツタの隙間から小学生らしき子が顔を出した。

「君は……」

 ……紛れもなく、僕だ。

「助けてください! 雨が凄くて出られないんです!」

 ……そうだ。こんな暗闇に長時間も子供3人で助けを待っていたんだ。

「……おじさんが来たからもう大丈夫だ」

 奥にいるあきら光夫みつおが半べそかきながら安堵の表情を浮かべている。

「さぁ、帰ろう。お父さんお母さんが心配しているよ」


 雑木林の外まで送ると、それ以上先は出られなかった。

「立入禁止と書かれていただろう? よくこんな薄暗い林の中に入っていけたね。助けが来なかったらどうなっていたか……」

 もし、僕が今日土管に入らなかったら、過去の自分はどうなっていたのだろうか……。

「誰かが来るまで諦めなかったですよ。現におじさんが来てくれたし、助かりました! 本当にありがとうございます」

 そうだ。僕はあの時、微塵も諦めるつもりはなかった。きっとここで僕が迎えに来なくても、助かっていたに違いない。

「そうか……」

 過去の自分に励まされたな。

「僕よ、ありがとう」


 遊歩道に出た子供の僕たちは姿を消した。

 そして、僕は再び大雨の降りしきる雑木林の中を歩き出した。

「あ、傘……」

 そんなことどうでもいい。

 雨に打たれようが、仕事のミスに悩もうが、今の僕には大したことはない。

 無邪気だった頃を思い出せ。君ならできる。僕ならできる。そう、子供の僕に励まされた気がした。


 雑木林の奥から光輝く輪が迫ってきた。引き寄せられるようにその中を入っていく。

 閃光が包み込み、ゆっくり目を開けると土管の中にいた。


 土管を出るとそこは公園だった。さっきまで降っていた大雨は止み、月明かりが照らし出す。

「大丈夫だよ。明けない夜なんてないでしょ?」

 再起した僕は、希望ある未来に向かって歩き出した。

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明けない夜はない 蓮田凜 @ashimashin

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