第百二話 「それは最も近くて、最も遠い場所」

 


 里葉とささかまと、全員で何かをするわけでもない、本を読んだり、各々のことをする、穏やかな時間を過ごした。


 休憩を取った後は、また仕事だ。行ってらっしゃいと、ささかまを持ち上げて手を振らせた里葉を置いて、俺は雨宮の重世界にある参謀本部の方へ顔を出す。


 御庭によって整備された、重世界間通信の音が鳴り響く部屋の中。重術によって机の上に映し出された地図には、妖異侵犯の起きた場所に魔力の光でピンが刺されている。目の前に映る光景は、下手な科学より、よっぽどSFしているように見えた。


「お疲れ様です。広龍様」

「片倉もお疲れ。どうだ、表側の方は」


 俺の姿を見て椅子から立ち上がった、刀を差したクールビズ姿の男を見る。片倉大輔。彼は、俺の右腕ともいうべき立場の、参謀本部の副長を務める人材で、出会った時から今まで、ほぼ完璧に近い仕事ぶりを見せる男だ。


 平時の仕事ぶりも優れたものであるが、やはり特筆すべきは、集団戦の際の指揮能力の高さである。大枝の渦……B級ダンジョンに対し電撃戦を仕掛けたとき、実地の指揮は彼が執ったが、被害を最小限に抑える、素晴らしい指揮だった。個人の戦闘能力も、彼の持つ特異術式”衰勢の黒釣鐘”を筆頭にかなりの実力を持っており、雨宮の中で上から数えた方が早いくらいには、もう強い。


「……やはり、国と国民、双方ともに緊張感がありませんね。国の中でまともに状況を察知できているのは、重術監査院の監査官と、特設された重術科の部隊くらいでしょうか。ダンジョンシーカーズはデータベースを握っている者たちですので、間違いなく気づいているでしょうし、重家の峰々もその経験則から状況を察知しています。ヒーローたちは……まあ、いつも通り活動を続けている、といった感じです。彼らも独自のネットワークがありますので、少しは気づいているでしょう。それとなく、情報も流して警告しています」


「如何せん、俺たちが出てって妖異を狩るわけにもいかないしな」


 苛立ちを見せるように言った俺に、彼は冷静に答える。


「それをすると、妖異侵犯件数は多いのに、逆に妖異被害が減ってしまって、決定的な瞬間を迎えるまで気づかないものが増えてしまうかもしれません。やはり大半の人間は、実感でしか気づけないですから」


 机の上に表示される魔力の光を眺めながら、彼は続ける。


「今の雨宮は強い。佐伯の要請関係なしに、出ないのは正解だったかもしれませんね。それに、力を温存して練度を維持できます」


「うーん……しかし、市民が襲われているのに出撃ができない現況を、雨宮の妖異殺したちは悔やんでいたようだが」


 首を動かして、彼は俺の方を向いた。


「しかし、力を蓄えていた方が、大規模侵犯が起きたときに雨宮が活躍することができます。そうすれば、雨宮グループは更に影響力を高め、強くなることができる。今は他の家に戦わせるべきです。消耗するのが、我々である必要はない」


 それに、悔やむこの現状があった方が馬鹿力を出してくれそうだ、と彼は言った。


「……なかなかに恐ろしいことを言うな」


「不快でしたら、申し訳ありません」


「いや、そんなことはない。重家の、高潔なる精神……それが建前のものではないんだなと、重家への第一印象が最悪だった俺でも最近は感じ始めている」


 参謀総長用の、革張りの椅子に座る。それを見て彼は、俺と彼用のコーヒーを入れ始めた。


「なあ……片倉。しかし、聞いたぞ。お前の、その、娘さんの話。いや、正確に言うと娘さんの話ではないけど、彼女の通学路に、いきなり侵犯妖異が出たという話だ。話を聞いて、お前がすっ飛んでいってすぐに討伐したから大事には至らなかったが、そんなことが起き得るって」


 背もたれに寄りかかって、呟く。


 信頼できる仲間である彼には……家族がいる。

 彼は父親で、奥さんもいて、一人娘がいる。彼の娘はちょうど、小学一年生になって、という年だ。

 彼に言った、妖異侵犯が起きたという話。幸いにも、今は夏休みで通学している生徒はいなかったので子供が襲われた、という話ではないが、もしこれが小学校のある時期であれば、どうなっていたか分からない。


 普段は冷静沈着の彼が、血相を変えて妖異を誰よりも早く討伐したらしい。通報を受けてヒーローやら雨宮からの援軍が訪れたときには、灰の山と八日月の剣を手にした片倉の姿しかなかったそうだ。


「……娘の関わることですから」


「……片倉は、自分の子供が、好きなんだな」


「そうですね。愛しています。だから私は娘と妻を優先しますし、仕事仲間や友人……自分たちが傷を負うくらいなら、他は捨て置く」


「しかしお前は、わざわざ白川を相手に敗色濃厚な俺たちのところに来ただろう?」


「…………そう、ですね。」


 コーヒーを入れ終え、お盆を持ってきた片倉が、それを机の上に置いた後、俺の隣の椅子に座った。


「命を救われた……というのが最大の理由でしたが……」


 クイッと、マグカップを手に取って、一服する。


「ここで動かなかったらきっと、娘に誇れる父であれないと思ったから。貴方だって、私からしてみればまだ子供です。大人には大人の責務が、父には父の意地がある」


「……! そういう、理由だったのか。ハハハ。お前、さっき言ったことが信じられないくらいには、甘いな。結局、目の前で誰かが襲われてたら、なんやかんや理由をつけて助けるだろ」


 濁ったコーヒーの液面から、湯気が立ち昇っている。御庭の重術によって空調の整ったこの部屋では、温かい飲み物も、冷たい飲み物も、どちらも美味しい。


「できることはします。しかしできなかったら、諦める。ここで諦めない人が、本当のヒーロー、なんでしょうがね」


 徹しきれない、自分の矛盾にも気づいているんだろう。彼が、ニヤッと笑った。


「……まあ、さっきの話に少し戻るが、いかんせん、十歳差だしな。今俺が十八で、片倉が二十八だろう……娘さんの年齢からして、随分若くに結婚したんだな……」


「そうですね。私は、妻一筋です。いや、今では娘もいるので、少し違いますが」


「ハハハ……なあ、片倉。少し、聞いてみたいんだが」


「はい。何でしょう」


「これは本当の与太話だ。すぐに忘れてくれて構わないんだけど……」


 マグカップの持ち手を掴んで、持ち上げる。

 竜の右目が、金色の瞳が、煌めき変わり続ける光彩のように。

 有り得たかもしれない可能性を映し出す。


 砂嵐が走る光景の狭間に見えるのは、誰かとの食卓。


 現在過去、未来永劫を。

 今の俺は、里葉に手を引かれてこの世界の在り方を知った。

 竜の右目を得て、重世界の構成を、龍脈の姿を見た。


 気づきたくなかった一つの可能性に、俺だけが気づいている。

 まず間違いなく、それはきっとあり得ないものだ。しかし、


「片倉。お前がもし……君の娘と遠く遠く、その存在も感じ取れないほどの距離に離れて、連絡なんて取れないまま、どこかへ行ったとしよう。そしたらお前は……どう思う? どうする?」


 顎に右手を当てて、真面目に考え込んだ彼が、小さな声で呟く。


「……そもそも、私は娘の元から離れる気はないですが、もし、そうせざるを得ない状況になったとして、考えてみましょう」


 どうやらこれは彼にとって究極の質問であるようで、普段すぐに答えを導き出す片倉が、生真面目に悩んでいた。


 一度瞳を閉じ、見開いた彼が言う。



「きっと、狂おしいほどに想い続けると思います」



「……そう、か。ありがとう。じゃあ、雑談もこれまでにして、そろそろ真面目な話をしようか。報告書をくれ」






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