第九十六話 デザイアオブレッド

 

 夏の匂いが、すぐそこでする。

 巡回中、突如として現れた侵犯妖異を、討ち取った佐伯初維とその家の者たち。かなり大規模なその攻勢を前に、彼らでは手が回らない。


 佐伯家の集団の中で最も優れた妖異殺しである初維が、対応することのできなかった場所には、多大なる被害が想定される。しかし、遅れてその場所へ駆けつけた彼女を迎えたのは、たった一人の、尋常でない男だった。


 彼は何一つ、特別な装備など身に纏っていない。黒のズボンに、白のシャツ、そして灰色のサマージャケットを羽織っている。先ほどまで発露させていた、横溢するほどの紅迅の魔力は既に無く、夏空に揺らめくタバコの紫煙が、その残滓を埋め尽くしていっていた。


「…………」


 彼を前にして棒立ちを続けていた少女が、やっと再起動した。彼女が手に握っていたナイフの存在を再認識し、それが髪の毛に戻った後、声を発する。


「あ、あの、私、佐伯初維と言います。その、あの、ごめんなさい」


「いいさ。怪しいと思われた俺が悪い……さっきから、周囲であのモンスターを狩って回っていたのは君だろう。邪魔が入らなかったし、集中出来て助かったよ」


 ぶち切れられるんじゃないだろうかと身構えていた初維が、体を弛緩させる。どうにもこの人は、自分が斬りかかったのを気にしていないようだ。


 既に彼は初維から背を向け、怪我をしていた女性の容態を確認している。息も絶え絶えといった様子の彼女は、初維がやってきていることにも気づいていない。


「……被害の方はどうなっているか、知っているかい?」


「……ごめんなさい。分からないです。私は妖異を狩ることに集中していて、避難誘導や救助の方はみんなに任せているので……」


「そうか、ありがとう」


 一度立ち上がった彼が、遠く、和洋折衷の装備を纏いビルの狭間を飛び跳ねていく妖異殺したちの姿を目で捉える。


「……初維様! 状況はどうなって……何者だ!」


 初維の横に立つ城戸の姿を見た彼らが、一度刃を抜く。刀の切っ先を向けるとまではいかずとも、明らかに臨戦態勢を取っていた。


 冷たい表情を浮かべた城戸が……タバコの火を足で消す。彼がスマートフォンを取り出し、画面をタップする直前の状態で、構えた。


 一触即発。腕をあわあわと振り回した初維が、彼らの間に割って入る。


「ちょ、やめてください! 彼は……えっとその、探索者さんです! ここの妖異を倒して、あそこのお姉さんの手当てをしていた!」


 初維の言葉を聞いた佐伯家の妖異殺しが、刀を鞘へ納める。


「……失礼した。表側とはいえ、混沌の時世だ。ご容赦頂きたい」


「……構わない。ニュースでも、最近よく聞く。違法デバイスを使って秩序を乱す連中がいることは」


 軽く頭を下げた姿を見て、話の分かる妖異殺しであることを察した城戸が、女性を親指で示しながら、口を開いた。


「そこの民間人の保護を頼みたい。あんたたちがやってくれた方が都合が良い。それと、ここの討伐記録を、全てそちらのものとしてくれ」


「前者は受け入れよう。しかし、後者は受け入れ難い。我ら佐伯家は、他者の手柄を奪うような妖異殺しの家ではない」


 灰の山をちらりと確認した妖異殺しの目が、少し大きくなる。


「……この短時間で、伝承種を討ち取ったのか。ましてや、周囲にもかなりの妖異が散っている……改めて非礼をお詫びする。その上で、貴方の名前をお伺いしたい」


「城戸雄大だ」


「城戸雄大……? 誰か、知っているか?」


 沈黙を保っている他の妖異殺したちへ彼は確認を取ったが、誰一人として返事を返さなかった。佐伯家という重家は、これからの訪れるであろう時代の在り方を読み取り、表側に傾倒し始めた家である。上位の探索者は全て把握しているし、そのうちの幾名かは彼らがパトロンとなって、支援をしているほどだった。そんな、表側に精通しているはずの彼らが、これほどの実力者の名を知らぬという。唯一、たった一人の妖異殺しが、確かそれは、ベータ版DS上位ランカーの名です、と呟いたのを聞いた。


 ベータ版DS上位ランカー。楠晴海、倉瀬広龍を筆頭に、化け物だ、と言われる者たち。


 しかし、妖異殺したちが認識しているのは、ヒーローや探索者などといった今表側で活躍しているものたちだけである。ベータ版の、母数が少ないプレイヤーの中から生まれた過去のプロスペクトでしかない彼らのことを、そこまで詳細には把握していなかった。


「……それで、貴方たちは」


「妖異殺しの重家、佐伯家だ。今現在、表側の巡回活動、そして渦の破壊に力を入れている。今日は、佐伯直系の妖異殺しである、初維様に連れられ横浜を巡回していた」


「なるほど……」


「そうですよ。城戸さん! 私、凄い妖異殺しなんです一応! まだ十六歳ですけど、既に妖異殺しとしてバリバリ働いてて、将来有望なんです!」


 煌めく笑顔と共に、芝桜の文様を発露させた初維が、えっへんと両手を腰に当て、胸を張る。


「…………」


 彼女のその可愛らしい仕草とは真反対に、妖異殺しの男をじろりと見る城戸の表情は、歪んだ、彼を、彼らを軽蔑するような視線で━━


 悪寒を覚えるような、夏を切り裂くその冷気。小さな小さな、決して侮辱には当たらぬように、聞こえないようにして呟かれた独り言が、感情の色を残す。



「…………こんな少女にも、戦わせるのか。重家は」



 静かな怒りを生唾と共に、彼は大人の処世術で呑み込んでいく。


「まあ、というわけで、この女性のことを、宜しくお願いする」


 そう呟いた彼は、先ほどの威容とは比べ物にならぬほど乏しい、紅迅の輝きを灯した。


「あっ! 待てっ!」


 跳躍しビルの影へ隠れた城戸。彼を追う素振りを見せた妖異殺しを手で制し、初維が声を出す。あの魔力量にしては、随分と動きが素早い。特別な術式を行使している可能性がある。


「私が追いかけるよ。聞きたいこともあるし」

「あっちょ、初維様まで!」


 灰の山が風に消え、更に細かい粒子となり、大気に消えていく。重術による女性の応急処置を開始した佐伯家を今日もまた置き去りにして、自由奔放な少女は男を追いかけた。


 パトカーと救急車のサイレンが、辺りに響いている。

 

 夏休みの商業施設には、多くの人々が集っている。頭から血を流しながら歩いている男や、靴が片方だけ脱げてしまった少女の姿が、混乱する群衆の中で酷く目立っていた。他国と比較してしまえば、この被害は大したものではないと言えるが、それでも、被害者はいる。


 和風セーラー服の裾が、風に揺れる。初維は、視界の端で彼らの姿を認識しながら、城戸を追いかけた。


 城戸は衆目に上手くつかぬよう、建物の狭間を縫うように、素早い動きを取っている。その様子からして、かなり手慣れているようだ。


「ほっ! やっ! ふっ!」


 商業施設の壁を蹴り、ゲーム顔負けのアクロバティックな動きで、初維が上空から城戸のことを追いかける。


 一本道の路地へ城戸が差し掛かったところで━━初維は行き道を塞ぐように、降り立った。


「……佐伯、初維」

「城戸さん……」


 立ち止まった城戸は、見下ろすように初維のことを見つめていた。


「ねえ、城戸さん。私、聞きたいことがあるんですよ」


「……なんだ。それを答えたら、道を開けてくれるかい?」


「うん。城戸さんって多分だけど……すっごく強いよね? 私が出会った中でも、すっごく上の方にいると思うんだ」


「……」


「どうして、表舞台に出ないの? 爺様からこいつには気をつけとけっていう人集めた表貰ったけど、そこに名前がなかった」


 ふらふらと小さく体を揺らしながら、彼女は続ける。

 

「ここの周りの渦を全部破壊してるの、多分、城戸さんだよね。城戸さんなら、もっともっと高い地位に行けると思うんだけど……ねえ、どうして?」


「……ただの、気分さ」


「気分で、徹底的なまでに渦を殲滅することはできないよ。それ、嘘じゃない?」


「……俺はそんな大した人間じゃないよ。俺は、ただの情けない大人だ。飛び込むことも出来ない。停滞が心地良い、そういう人間だ。俺には、この世界を変えることはできない」


 彼が、煙草に火をつけた。


 少しだけ眉を顰めさせて、初維の方を見る城戸。彼は初維に怒っているのではなくて、初維が背負っている何かに対して、強い苛立ちを覚えているようだった。


 その苛立ちが、彼女にも伝わっている。しかし未熟な初維では、それを推察することは出来ない。

 惰性を、紫煙に託す。


「やっぱり、大人って難しいんだね」

「そうだ。だから、難しいことは大人に任せて、君はパフェでもつついてた方がいい。本当は、そうあるべきだ」

「?」


 足音を立てて、城戸が路地を去る。彼の言葉の意味を考えることに集中しようとする初維は、それを止めようとしなかった。


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