第三十七話 彼の根源(2)

 


 冬の終わりが近い、ケヤキの並木道。樹形をはっきりとさせるように、葉のついていないそれは一種の寂しさを覚えさせる。


 俺がここまでに至った道を、彼女に話さねばならないと思い出す。うまく彼女に語れるか不安に思いながらも、口を開いた。


「里葉。俺の生い立ちというか……家族の話をしたい」


 彼女が神妙な顔つきで頷く。


 自分が覚えている一番古い光景は、父親が国を去る時。母親と手を繋いだまま、頭を包み込んでしまうくらい大きな手に撫でられたのを覚えている。


「俺の親父は……俺が物心がついてすぐに、海外に飛んでしまったんだ。それから一度も、


「は……? それはつまり、国に帰ってくるどころか電話してすらいないと?」


「そうだ。一度たりとも。ましてや、結局親父がどこにいるのかも分からない。ただただ毎月、生活費が振り込まれるだけ。だから俺には、父親との思い出なんてない。持っているのは、自分の父親らしい男の写った古い写真だけだ」


 付け加えた言葉を聞いて、海外赴任をしている、ということしか知らない里葉が絶句する。


「それで俺は、ずっと母さんと二人暮らしをしていたんだ。小学生の時も。中学生の時も。ずっとなんで親父が帰って来ないのか、それに対してなんで俺の母さんは何もしないのかって怒り狂ったんだよ」


 指先が冷えて、手を組む。


「そうするといつも母さんは少し申し訳なさそうな顔をして、そういう人と私は結婚したからって言ってさ。俺にとっては、どういう人かも分からないのに。そういう人って……どういうクズなんだよ」


「……」


「……母さんは、何で親父がずっと外にいるのか理由を知ってたみたいだ。だけど俺は、それを知ることを拒否した。知りたくもなかった。どんな理由でも、受け入れられないとわかっていた」


 一度深呼吸をする。彼女の前で、取り乱したくはない。


「同級生の、幸せそうな家族を見るたびにさ。辛かったんだよ。嫉妬とか親父に対する憎悪とか、なんで自分はいるのかとか、いろいろぐちゃぐちゃになって」


「……だから今日は、行きたくなかったんですね」


「…………ああ。俺はいつもそんなんで、母さんに何回も言ったんだ。俺には何で親父がいないんだとか、母さんは幸せなのかーって」


 右手で前髪を掻き上げ、額を掴む。


「そうしたらいつも母さんは俺に……親父がいないことを寂しそうな顔で謝った後、『確かに不自由はあるし私も会いたいと思うけれど、人生には小さな幸せがあればいいから』って言って。誰もが驚くような出来事とか、人生の彩りとか、そんなものは必要ないんだって言ってたんだ」


 考える。言葉が、喉につっかえて出て来ない。

 横に座る彼女が俺の背に触れた。


「だから……親父も母さんも否定するために、優れた人間になって言い返してやろうと子供心に誓ってさ。学校の活動に限らず色んなことを全力で頑張ってみたけど、うまくいかなかったよ。世の中『本気でやれば何でも出来る』なんてことはやっぱり無くて。楽しむ余裕もなく自分が苦しむ中、俺よりも持っているやつがどんどんうまくなっていく。その光景を見て、自分を呪ったよ。凡庸で凡愚。母さんを否定して、自分だけの道を歩むことはできないのかもしれないって」


 生唾を飲み込む。


「それで、悩んで悩んで考え込んでいたある日。母さんときちんと話し合ったんだ。それで母さんは言ったんだ。誰もが輝かしい人間になる必要はなくて、皆が皆なりの努力をし、一歩一歩進んで楽しく生けていければいいんだと。そうやって真面目に何時間も話して、母さんの言っていることをやっと理解しよう、寄り添おうと思ったんだ。あの日、前向きになれたのを覚えている」


 里葉がほんの、ほんの少しだけ息を荒げる。その先を察しのいい彼女は分かってしまったんだろう。


「それから一週間経った頃……忘れられない。家に帰ってきたら、台所の前で母さんが倒れてたんだ。救急車も呼んで、訳も分からず呼びかけてたけど……」


「じゃあ、ヒロのお母様は……」


「心筋梗塞による突然死。俺の祖母もそれで倒れちゃったから、遺伝もあるんだろうな」


 頭を抱える。体が震え始めて止まらない。

 触れていた彼女の手が、俺の背を摩る。


「それで俺は……一人になって、母さんの言ってた小さな幸せもなくなっちゃってさ。そこでずっと壊れかかってた何かが、きっと完全に壊れた」


 俺の視界に映っているのは、歩道の模様だけ。彼女の姿は見えないし、彼女がどんな表情をしているのかも分からない。


「学校では友達もいたし、そこそこ楽しく暮らしてたんだけど……その日から、何も楽しくなくなった。挙げ句の果てに、俺のことを少し嫌ってたやつがさ。俺の母さんのことで……煽り入れてきたんだよ」


「ひどい……」


「それで何かが切れて、そいつをボコボコにぶん殴った。情状酌量の余地があったからか分からないけど、学校から食らったのは停学処分だけだった。それでも、それからは周りに誰もいなくなったよ」


 俺の背を触る、彼女の手の温度が伝っていく。


「それからしばらく経って……やっぱり時間が経てば、少しは整理がつくものでさ。なんとか立ち直ってから、自分から何か楽しくできないかっていろいろ試したんだ。心が死んでしまったかのように、何も感じれなくなってしまったから」


 息を吸う。


「音楽、映画、読書、運動、ゲーム、スポーツ、山登り、散歩、料理、勉強、片っ端から調べて、試せるものは全部試した。それでも、何一つ熱中できなかった。毎回どこかで必ず冷めて。そして次に期待できなくなっていく」


 俯いていた顔を上げて、冬空を見る。

 クソ。曇りじゃねえか。


「そうやって全てを諦めて、死ぬ勇気も湧かず、周りの人に自分は一人でもやっていけてますなんて顔しながら、ただただ無為に生きていた時。『ダンジョンシーカーズ』に出会ったんだよ。初めてダンジョンに潜った時は、しばらく忘れていた胸の高鳴りを思い出した。これなら上へ行ける。楽しくできるかもしれないって」


「昔から何も知らない場所を、探検をすることが好きだったのかもしれない、と思う。正直な話、なんで俺は戦いが好きなのかとかは分からない。もしかしたら、互いの命を削る感覚が、好きなのかもしれないな。俺は壊れているから、そうでもしなきゃ生きていることを感じられないんだろ」


「ダンジョン攻略というもの自体が……俺の人生を彩り別の段階へ連れて行ってくれる、最後の砦みたいなものなんだ」



 彼女の方を見る。なんか口に出してみて、すっきりした感じがあった。


「これで答えになったか━━って、里葉?」


 淡々と語り続ける中。今初めて、彼女の様子がおかしいことに気づいた。


 隣に座る彼女は少し俯いていて、前髪が目元にかかっている。その綺麗な宝石の瞳が、少し潤んでいることに気づいた。


「ヒロは……何も悪くないです。強がらなくて、いいんです。ヒロは、がんばりました」



 立ち上がり、ベンチに座る俺の前に来た彼女が一度しゃがみ込む。

 真正面。目と目を合わせた彼女の両手が、俺の冷え切った手を包んだ。


 しょうもない男のプライドだとか何だとかで虚勢を張ったとて、簡単に見破られるものなんだろう。



「いや……俺が悪いんだ。もっともっと早く、母さんと話をして自分に父親がいないことを、受け入れていればさ。どうやって頑張っても変わらないようなことで頑固になって、そうやって時間ばっかりが経って、母さんがさ」


「ヒロ。後悔することはたくさんあるんだと思います。それが必要じゃないものだなんて、私には言えない。分からない。だけどヒロが今、寂しいことだけは分かります」


 目を逸らして俯いた彼女。ぐちゃぐちゃになった頭で、一瞬見えた彼女の表情は今まで会った中で最も暗いものであったことに気づいた。


「私にはヒロの、。さびしい、気持ちが分かる」


 両手を包んでいた温もりが突如として消える。

 彼女が、俺を真正面から抱きしめた。


「……里葉?」


「私が、ひとりぼっちで寂しかった時はお姉さまがこうやって抱きしめてくれました。どんなに辛くても、どうしようもない時でも、こうすれば一度落ち着くし幸せな気持ちになれるんです。私にはお姉さまがいたけど、きっとヒロには、もうそういう人がいないから」


「里葉。周りに……勘違いされるぞ。やめた、方がいい」


 消え入るような声で呟く。それを彼女は、真正面から否定した。


「じゃあ全力で透明化使います。これで、だれも見てないです。えへへ。もっともっと、ぎゅってしていいんですよ? ヒロはなにもわるくありません。がんばりました」


「さ、里葉」


 先ほどまで早かった心臓の鼓動が、別の意味で速くなる。ダンジョンに潜りボスと戦った時ですらここまで大きな鼓動の音は聞こえて来ない。


「勘違いしないでください。私も確かに、すっごく恥ずかしいんですよ? でもそれ以上にヒロが、かわいそうで、さびしそうで。俺は大丈夫だって言いながら、すごく、辛そうな顔をしています」


 囁かれる声。右手で俺の後頭部を撫でる彼女の表情は見えない。

 俺の肩に顎を乗せていて、両腕を回しているから。

 それぐらい深々と、俺を抱きしめている。


 無垢な、純粋な、穢れなき好意。

 ただただ相手を慮る為だけの純真な行動。


 初めて出会った時から、その有様は確信していた。


 だからこそ俺は彼女を丁重に扱ったんだろうし、戦闘中思わず叫んでしまったんだと思う。


 ここ二週間の間。人がいなかったからだとか、いろいろ理由をつけて考えていた感情の萌芽を、きっとこのままだと抑え切れなくなる。彼女は命令のため。仕事のため。俺みたいな人間が、迷惑をかけてはならない。そうやってきたのに、絶対にどこかのタイミングで、それを抑え切れなくなると確信していた。


 包み込む彼女の優しさに、涙が出そうになる。


「ねえ……ヒロ。今は、楽しいですか?」


 一度体を離した彼女が俺の両肩を掴んで、真正面からニコッと見つめる。


 真冬。装飾もなければ青々とした葉もない、枯れきったケヤキの並木道。


 ただ冷たい空気だけが包み込んでいて、一年という時間の中。この場所で最もつまらない時間。それはまるで俺の人生そのもの。


 しかし、今目の前には里葉がいる。この空間に彼女がいる。

 今はただ、自分に出来るだけの笑顔を。


「今はすごく楽しくて、この時間が続いてほしいと、そう……願うかもしれない」


 諦めたような笑みを浮かべた彼女が、最後に呟く。


「……私も、そうかもしれません」


 体を離して、飛び跳ねるように立ち上がった彼女。両手を背中で組んで道の先を向く。


「ヒロ。聞かせてくれてありがとうございました。でも、まだまだ一日はこれからですよ。じゃあ、行きましょう!」


 片手を上げておーと叫んだ彼女を見て、笑みがこぼれた。


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