人形の夢 (七)
また、どさり、と人形が倒れる音がした。黒い人形——翠も倒れた。
和朔は行也から翠のもとへと駆け寄るが、倒れる二人の顔は全く同一の人形の顔だった。今のところ、倒れている場所でしか見分けがつかない。翠さんと和朔が名前を呼ぶと、人形は弱々しい返事をした。
「くそっ……この体とはいえ、さすがに無理がたたりすぎたらしい…」
「それじゃああの再構成の術を使えば……」
「こうも削れて壊れていると、人形のスピリトの補給が要りそうだ……生憎、そこの紅いのが行也もろとも全部持って行った……」
そして、素材になってくれそうな他の人形ももうない。満身創痍となった人形の体を修復する方法がない。
「……行け」
翠はそう呟いた。そこへ、ふらりと紅い人形——行也が歩み寄ってきた。
「いるんだろう、まだ、子供が。まずはそこへ行け。……そして、その先へ」
この事件を引き起こした者のもとへ。和朔と行也に言った。そう言って目を閉じた。
「翠さ——」
心配する声を聞いてので翠は不快そうな返事をした。
「……別に寝るだけだ。死にはしないよ、たぶん」
後ろ髪引かれる思いがしたが、彼女をその場に寝かせると和朔と行也はホテルの最上階へと向かった。
城の最上階、そこには新郎新婦用の一際豪華な部屋があるという。
階段を登ると、赤ん坊が泣く声が聞こえた。
目的の部屋に近づくにつれ赤ん坊の声が大きくなっていく。オギャー、その声に導かれるように扉へと歩んでいく。ウェディングドレスの着付けは会場近くの別の部屋で行うのだろうが、それを来たままこの部屋に戻る事態を想定してか、子供たちがもといた部屋に比べて扉はかなり大きく、物々しさすら覚えた。行也——のはずの女性と目配せをすると、ゆっくりと扉を開く。
広い部屋だった。
そこには子供用のベッドに寝かされた赤ん坊と——巨大な卵があった。
それは全体が真っ白の楕円体で高さは二メートル以上あった。まさに鶏やトカゲの卵の巨大版だった。まさかこの赤ん坊は卵から…そんな考えが浮かんだ。しかしこれまでに少し齧っただけの錬金術の本にあった奇術を思い出した。
哲学者の卵。大いなる作業が行われる
そして卵から声がした。
〈——
重く、厳格な、老いた男の声だった。恐るべき時間の重みというべきものを感じて圧倒される。
「あなたが……すべて仕組んだのですか」
顔の無い男、黒い蝶、人形。そして城を建て祭壇を構え、何十年もの時間をかけて器を満たすだけの力を持った少女が現れるのを待った。そのための多くの者を犠牲にした。
〈——いかにも。だが——〉
〈もはや、すべて終えた…〉
恐るべき時間の恐るべき疲労に満ちた声。その皺がれた一音一音に、果てしない風雨にさらされたような擦り減った疲弊が滲んでいた。
「なぜ、こんなことを」
いつの間にか赤ん坊は泣き止んで眠っていた。自分以外の世界を知らないそれは、幸福そうに。
〈——無敵となるため〉
無敵?そのヒーローに憧れる子供のような言葉に意表を突かれた。
「いったい……何に対して……?」
その瞬間、頭の中に膨大なイメージが流れ込んだ。
それはあまりにも残酷で、救いのない、破壊に満ちた世界の姿。すべてが茶色で土煙に覆われ、その中を能面のような顔の兵隊たちが、途切れることなく乱れることなくどこかを目指して行進し続けていた。あらゆるもの、人は鉄は社会は土地は知識は資源となり、時間も空間も果てしない戦いに注ぎ込まれた。
人よりも神が多かった時代には、それは終末戦争とかラグナロクとか、恐ろしくも崇高な劇画として描かれていたかもしれない。しかし男の生きていた時代には、それはもはや止まることのできない茶色への帰化運動でしかなかった。無論どこまで行こうとその先には、新世界の始まりの二人などという甘美な楽園神話なんてなかった。神なき世界にあったのは、地球全土を砂に帰するための全人類による行動計画だった。
ただ破壊、ただ破壊。破壊、破壊、破壊……
果てしない破壊の中で男は願った。
傷つくことのない世界が欲しい。何人もそれを一片たりとも損なうことはできず、奪われることも脅かされることもない世界が欲しい。無謬で完璧な金色の神殿。神殿から溢れる神の光をこの身に浴びる様を思い描いては、昼に夜に砂塵舞う大地に涙を流した。
そして、男はある秘蹟に出会った。
それが、
彼にとって、戦争に比べればその秘蹟の道はあまりにも短く、安いものだった。秘蹟をなすための場所と質量を求めて長い旅をした。
そして長い長い彷徨の末、ついにそれに手が届こうとしていた。
そして——それは儚くも打ち砕かれた。
破壊が世界であった場所で生まれた男。彼が求めたのは、何者にも破壊されることのない永劫、すなわち完全なる最強の世界だった。男は求めるものを得るための才や忍耐をもっていた。もってしまっていた。しかし彼の生きた世界はその手段を提供することができなった。だから彼は常人には誇大妄想としか言えないような道を歩んだ。幸か不幸か、彼はそのための力はもっていた。
一人の男の、あまりにも哀しい生涯だった。一人の人間がなすには大きすぎる業の最後——失敗を、僕らは見届けようとしていた。
成就させてあげたい。一瞬でもそう思ったことは罪だろうか。
ぴき、ぴき、と音がした。そして、卵が割れた。
巨大な卵が割れ、中から出てきたのは一人の裸の老人だった。生まれたばかりの艶やかな皮膚には、すでに無数の皺が刻まれていた。その時ふと特徴的な匂いがした。ゆで卵を剥いた時の匂い……硫黄の匂いがした。硫黄の匂いを漂うわせる老人は、ただ卵があった場所に横たわっていた。もはや自分では身体を動かすことができなかった。
なぜだかその姿を目にするのが辛く、その身体に触れ仰臥させると、側にあったタオルをその下半身にかけた。男は生きていた。まだ。
「その術の最後は、人形の女と結ばれることだったのですか?」
〈……いかにも。永遠の器にこの魂を注ぎ込み、この大業は完成する。この身体が動かなくなって後は、あの人形が祭壇をあつらえた〉
とすると聖アリンに古びた本を置き、京子の家に黒百合の球根を植えてその花を摘んだのは、人形だったということか。
〈そうだ……この人形だ…〉
老人の指が動いた。その指が人形——行也の頬に触れた。慈しむように、懐かしむように、その献身を慰めるように、震える指で優しく触れた。
〈ならなかった……無為だった……争いのない世界は……〉
老人の目は濡れていた。
〈罪の先にも、ないというのか……もはや力ない者に、救いはないのか……〉
強大な信念のもとに歩き続けてきた道の最後で、老人は贖罪の思いに打ちのめされていた。楽園のための人類最後の犠牲と信じて、人の心を閉ざし罪なき者を殺めてきた人生。しかしすべてが水泡に帰した今、残されたのはその責任を果たせなかったという罪の意識だった。
もはや安息はないのか。苦しむしかないのか。
「……あの人は、そういう人じゃない」
唐突に女の声、行也の声がした。
「あの人は、翠さんは、誰だろうと見捨てることはしない人だ。勝手だし乱暴なこともあるけれど、俺を、俺の家族を、それにもっと色んな人たちを見捨てず助け出してくれた。そういう人だって、いる」
その時老人の目にほんの微かな光が差した気がする。いや、ただの夜明けの光かもしれない。客室の大きな窓はうっすらと白んでいた。
〈……その者にとって、我は獅子に見えよう。高邁で、弱きを喰らう、斃すべき〉
「きっと、彼女なら戦うよ。あなたの側に立って、倒れそうな人を支えるために」
その言葉を聞いて、老人が消え入りそうなほど弱々しくも、深く息を吐いた。いつしか老人の震えは収まっていた。穏やかな時間だった。
〈……レコードを使え〉
「レコード?」
〈その女は音に自らの魂を込めて人形となった。その音を肉の体に聞かせよ〉
翠さんが肉体を取り戻すことができるのか?レコードはゼロとイチではないアナログの音だ。音の細部を省くことなく、すべてありのままに記録して再生できる。
しかしそのための音源がない。
〈人形の体のゼンマイ。あれは力を記憶するものだ。ゼンマイの渦模様をレコードに転写し ろ。さすれば……〉
そこで老人の言葉は掠れ、途切れた。だがそれで十分だった。その目が夜明けの光に向けられる。老人の目には眩しすぎる光に。
〈この宇宙に意志があるのならば、それは我を拒んだ。
……だが、別の者を認めたということだ〉
僕はその小さな身体を抱えると、夜明けの光を背に受けながら客室を歩み出た。
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