人形の夢 (六)

 残されたのはこの身二つと魔法のランプ。やることは城に行ってすべての人形を破壊する。そう考えているのは駅前の二十四時間営業のハンバーガー店。あの鏡の国で見つけた三面鏡を合わせ鏡にした時、無数に連なる像の中に隠すように一枚の無機質な扉が見えた。その扉へ手を伸ばすと体ごとそこに引き寄せられ、そのまま扉を開けると地下鉄の駅の一画に出た。

 振り返ると出てきたらしい扉には「職員用通用口」と書かれていた。そう遠くもないが、奴が待ち構えている可能性もあるから今更事務所に戻ることはできない。

「それじゃあ、まずは城の工房に行って未使用の人形を破壊する。その後動いてる奴を破壊する……だよね?」

 行也が段取りを確認する。彼も気後れすることなく準備に取り掛かっている。またしてもなし崩し的に行也が行くことが前提になっているが、そもそも僕自身が誰に言われるとなく城に行こうとしている。

 一応僕らにはあの子どもたちを守るという大事な理由がある。しかし、正直行かないということもできる。何も強制ではない。ここで降りるという選択肢は十分ある。というか、普通は絶対に行かない。行くことが素っ頓狂なオプションだ。それでもなぜか自分自身からそうせよと言われるように、行かなくてはならないという思いがする。そして自分はそこから逃れたがっていないような気さえする。

 そして翠さんを、と言い掛けて止めた。結局、彼女がどうなった、どうなっているのかはわからない。少し冷静になって考えてみると、人形は抜け殻になった——ように見えた——彼女をその場で消し去らず丁重そうに持ち帰った。

 もしかすると、彼女の肉体に何か用があるのかもしれない。そう考えて震えが走る。あの工房に人形とともに並べられている彼女の姿が思い浮かんだ気がした。頭を振る。たとえそうでも、そこから解放しに行くのだ。もし彼女の体がのこっているのなら、あの人のことだ。何か可能性がある。その微かな思いに賭けよう。

「うん。ただ……問題は君が以前見たという、城の地下工房へ入れるかどうかだ」

 あの人形が素直に僕らを入れてくれるとは思えないし、ましてやみすみす人形を破壊させるわけがない。ならば当然隠れ潜んで侵入するしかないが、一つ疑念があった。それはあの城に防壁が造られているのではないかということだった。

 人形の驚異的な模倣の力。それを考えるとあの実験室で人形を阻もうとした防壁自体も今や人形に吸収されているのではないか。第一層のような関係者以外にはただ開かないだけの扉ならまだ良い。しかし分離装置のような必殺の意図をもった防壁だったら、近づいただけで一瞬のうちに命を失い、偵察自体命取りになりかねない。

「どこかに穴がないか……」

 監視の目に気づかれない方法。人形が気づかず残してしまった通り道か、開かざるを得なかった通り道がないだろうか。

「完璧に透明になる方法ってある?」

「僕にはない」

「だったらこっちがスライムになるとは思っていないだろうし、俺らが液化して蛇口からあの部屋に向かうのは……」

「米粒くらいの鉛の液化させたことはあるけど、戻すことはできない」

 行也の顔が悩ましげに歪む。悪いが、そこまで器用な術はない。今となってもっと学んでおけばよかったと後悔する。それじゃバイトという目的と手段が入れ替わってるけど。使えないヤツ、と怒っていないだろうか。そこは仕方ないだろと弁明の構えをしていたら、そういえば、と全く別の話しを切り出した。

「あの人形同士はどうやって連絡してたんだろう。電話もないはずなのに持ち帰った人形の場所を特定したり、分離装置で一切消えた次の人形は遺言があったわけじゃないのに装置の力が使えたり」

 それに二度目の人形も焼かれた初代(僕らから見て)と話すことはなかったのに、城に乗り込んだ僕らの素性を知っていた。それにさっき棺桶から目覚めた当代の人形の分離装置の術。先代が食らって一瞬にして消えたはずなのに、目覚めた彼女はその術を知っていた。人形は他の個体が得た情報を随時記録して共有しているらしい。生命の連鎖の最大の欠点は子に親の記憶が伝わらないことだというが、その限界を超えてまさに最も価値有る死の間際の記憶を次の個体につなげることこそ、人形を永劫の存在たらしめる。

「見えない繋がりはあるんだろうね。ちょうど僕らが実験室から地下鉄にワープしたみたいに」

「……じゃあ、俺らも飛べたりしないの?あの城の中に、一気に」

 そう言って行也が僕を見つめる。僕もあっと、気づく。あれと同じように繋がりがあれば、それを頼りにここからあの城へ跳べるのではないか。

 人形とていついかなる時に訪れるか分からない死に対応するためには、情報のためのバックドアであるスピリトの通り道までは塞ぐことはできないはずだ。

「あの鏡、今どこにある?」

「鏡はいま……」

 鏡の世界の記憶を辿る。たしか……そうだ、ちらりと見えた翠さんは、その胸ポケットに手鏡を仕舞い込んでいた。もし人形が彼女の体に興味をもっているならば、その体は工房にあってもおかしくない。一気に相手の喉元に迫れる直通路になりうる。

 互いに目を見合わせた。いけるかもしれない。

 ヒューヒュルルー、また笛の音が聞こえた気がした。


 人形は抱えていた魔女を工房の一画にある台の上に横たえた。その魔女の体は息もしているし熱を帯びてもいる。しかし二度と目を覚ますことはない。魂を吸われた体は彼女を彼女たらしめていた、その身体に脈打っていた波のパターンを失っていた。とはいえそのハードウェアたる体は無事なわけで、人形としてはその体に少しずつ異なったパターンを与えてみて、それがどのような反応を示すかを見てみることで今後の改善に活かそうとしていた。そう納得していた。

 そろそろ時間だ。あの子の食事を作ってやらねばならない。その時ふと、そういえば、と人形は思い至る。この魔女に付き従っていた男と、ここから逃げようとしていたあの出来損ないはどうしようか。そして逃げていった子どもたちはどうしようか。刃向かってこようとも造作もない。

 しかし——と判断が決定の手前で引っかかる。どうも妙だ。今まで判断は即ち決定であったはずなのに。その原因を探ろうとして、人形は思い至る。ああそうか、この妙に手強い魔女との戦いがあって、今保有している「素材」は一人だけだ。あの子どもたちを取り返して補充する方が良い。あるにこしたことはない。そのためにはあの男と出来損ないから子どもたちの居場所を聞き出す必要がある。すぐに殺すべきではない。死は不可逆なのだから、有用性があるうちは生かしておこう。それすら造作もない。そう納得した。

 ヒューヒュルルー、またしてもあの笛の音が人形の中で反響した。


 「それじゃあ……いい?」

 地下鉄の職員用通用口を前にして僕は行也に問う。これで決着だ、という気分にはなれなかった。終わりと思ったらそうでもないという予測のつかない事態ばかりが続くから、どうも今回もそのいつも通りな、なんてことない数珠玉の一個に過ぎないのではという思いがする。きっとこの後もこれまで通り続いていくはずだ。

 しかしそれと同時に恐怖もある。むしろ人形に気づかれないように行動しようと絶えずその存在を意識し続けなくてはならないから、未知への不安は一層高まる。そんな切迫感のない心と不安に押しつぶされそうな心に引き裂かれ、早くやってしまいたいという妙な前のめり感がある。

「……オッケー」

 行也が隣で言った。

 やらなければならないことは三つ。まずは工房で未稼働の人形を破壊する。その間に城内で人形が育てているであろう子供——まだ赤子かもしれない——を探して保護する。そして動いている人形を破壊する。破壊工作は僕が、捜索は行也が担当することとなった。

 じゃあ行こうか、そう言おうとした時行也が、ああそうだ、と切り出した。

「もし俺がダメだったら、お前ちゃんと逃げろよ」

「いや——」

「そんで……、そんで、もしできれば、あいつらのこと、気にかけてくれると嬉しい」

 行也は通用口を見据えたまま言った。彼にとって、最後に踏ん切りをつけさせるのはやはり弟と妹のことだった。あいつらだけは守ってやる、その最後の手段として誰かに託すという選択肢を作ろうとした。だからこそ励ましのためであっても「そんなこと言うな」なんて拒絶はできなかった。

 だから代わりに僕も託すことにした。

「……それじゃあ、僕がダメだったら…」

「たぶん、その逆はないから大丈夫」

 お前だけずるいぞ、と思ったが正直その先の言葉が咄嗟に思い浮かばなかったため抗議は飲み込んだ。

 通用口の扉を開ける。ヒューヒュルルー、扉の軋む音だろうか。真っ暗な空間へと入っていく。


 暗い道を逃げてきた時と逆方向に歩く。ただ真っ暗だから本当に逆なのかは分からない。しかしどうやらたどり着きはした。雪が舞うように周囲にちらちら銀色の破片が混じり、やがて破片の一つ一つに街の景色が宿っていることに気づく。鏡の国だ。

 ただ、どっちに進めばいいのか…

 その時チリチリと左手に痛み、というほどではないほどの刺激を感じた。そこは僕が翠さんとバイトの契約を結んでしまった時に証として刻まれてしまった契約の印だった。

 魔女の契約、生と死をもって二者を結びつける恐ろしい絆。しかし今、その印は僕を呼んでいる。

 左手首の契約の印に意識を集中させる。極微かな痛みのような、針の先でほんの少し突かれたような刺激だ。その場で一周ぐるりと回ってみる。するとある方向だけ痛みが和らいだ。この方向だ、と思った。魔女から離れて逃れようとする時に痛みの警告が発されるようだ。痛みを逆方向のコンパス代わりに歩んでいく。大丈夫、まだ何もない。大丈夫だ、進め…

 そしてとうとう「壁」に突き当たる。手首の印の紋章が大きくなり再帰的に小さくあるいは大きくなる紋様が描かれている。その紋様の前に立って、すぐ後ろの行也に目配せをする。彼は小さく頷いた。いつの間にかもう息を潜めていた。壁のように見えた紋様に触れると水面のように何の感触も無く手が突き抜けていった。

 二の腕まで入りかけてやっと、何があるのか分からないのだからいきなり利き手から入れるべきではなかったかなと思う。しかし止まらず頭もくぐらせる。壁は水のようだったから通り抜ける瞬間思わず目を瞑る。ヒューヒュルルー、ここだ、と指し示すような笛の音が頭に響く。そして——

 いつかテレビで観たことがあるイタリアかどこかのヴァイオリン工房を思わせる場所にいた。そして目の前の台を見て一瞬ぎょっとした。肘から先の人の腕だ。

 しかし、その腕から血は一滴も流れておらず、代わりに木くずが散らばっていた。その隣には彫刻刀と紙やすり。

 城の工房だ。電気も点いておらず微かな月明かりだけが窓から差している。振り向くと入ってきた通用口の扉の代わりに立て掛けられた棺があった。

 その中に動かない翠さんがいた。


 振り向いた途端、翠さんの胸元からぬっと手が伸びてきたかと思うと、その身体を突き破るようにして行也が出てきた。出口を塞いでいた格好になった僕は現れた彼に押されてよろけ、腕の置いてある台を支えとした。行也も無意識に出てきた場所を振り返ると、戸惑ったように固まった。

「俺もしかして……」

「ああ、翠さんの体から出てきた」

 彼の反応に構わず恐る恐る翠さんの首筋に触れて脈を確かめる。体温は低く、脈は遅い。しかし生きている——そう思った次の瞬間には、まさか生きながら、もう目覚めることは——と反対の不安がよぎる。

 音を立てないよう注意しながら、彼女の耳元でなんとか聞こえるであろう小声で名前を呼ぶ、が何の変化もない。再び呼びかけようとした時、行也に肩を叩かれる。

「俺は、行く。子どもがいないか探してくる。……ここ、頼む」

 そうだ、僕の最大の目的はここにあるであろう人形を破壊することだ。行也の言葉に頷く。彼はそれを確認すると再び「頼むな」と言って音を立てず工房を後にした。頼む、という言葉により大きな意味を感じた気がして、彼が去る姿を目で追ってしまった。

 その時、天井の小窓に差し込んだ月明かりの光が強くなった。雲の切れ間から月が覗いたのだろう。月明かりに照らされた部屋の中で、十を超える人形が眠っていた。


 思わず息を呑み、身構える。その長い長い数秒間が過ぎる。が、何も起こらない。人形はただ、眠っていた。部屋の中ほどまで歩み出ると、人形の肌に木が露出しているのが見えた。彼女たちは人の皮が張られるのを待っている、眠り姫だった。

 この美しい人形たちを破壊する——一瞬それは花園を踏み荒らすような冒涜的なことに感じた。しかしその考えを何とか振り払う。そうだ、そのために来た。そのために行也も今、戦っているはずだ。

 破壊のための準備を始める。持ってきたナイフで右手の親指の先を少し切る。ピンとした痛みが走り、血が流れ出る。その血で部屋の中央に魔法陣を描く。切り口と床がこすれる度にずきんと痛みが走る。速習の、ほとんど見様見真似の魔法陣。その中心に黄金のランプを据える。そして親指から血を絞り出すと、魔法陣から放射状に各人形の足元へ血の筋を伸ばしていく。数分で準備は終わる。後は行也を待つだけだ。

 

 しかし、待てども行也は来ない。時計をちらちらと確認する。緊張で一瞬一瞬が長く感じ数秒ごとに見てしまう。が、約束の時間が近づいても彼の姿は見えない。しかし彼とは約束していた。戻らなければ、一人だけで実行する。人形に見つかりこの瞬間にも術を発動させる前に消されるかもしれない。せめて人形の破壊だけは達成する、それが彼との約束だった。

 そして約束の時間が来たが彼の姿はなかった。途端に途方もない孤独に襲われた。後ろには翠さんの体がある。しかし彼女が手を差し伸べてくれることはない。やるしかない、独りで。ランプの蓋に手を伸ばす。手が触れた瞬間、ヒューヒュルルーと笛の音がした気がする。そうだ、やるんだ。

 ランプの蓋を開けると翠さんの元へ駆け寄る。その身体を背負うと一目散に頑丈そうな用具倉庫に駆け込む。視界がすべて白くなった。


 工房に突如現れたのは輝く緑の炎を燃え立たせた魔神だった。しかしその炎は本当の炎ではなかった。炎に見えたものは迸る魔力の奔流、魔神は力という絶対の秩序を体現したような魔力の結晶だった。

 本来そのランプこそ防壁の太陽の層を構成するものだった。他の星すべてに無限の光を与える太陽はあらゆる学問の基盤となり叡智をもたらす算術に対応し、このランプに秘められた膨大な魔力が他の層の防壁を駆動してもいた。今やその力は解き放たれ、導火線のように引かれた血の筋を辿り、眠る人形たちを焼き尽くす。正確にはあの人形たちは焼けることはないし、分離してガスとなったわけでもない。それらは魔神の力を使い勝手よく転化しバリエーションの一つに過ぎない。

 魔神の力は存在そのものを完全に消滅させる。魔神の炎に触れたものは対となってこの世界から完全に消え去る。魔神はこの世界の外側の混沌の体現であり、混沌という相補をもってこの世界の秩序の境界を線引きして定義する存在だった。ランプはその対となる世界がこちらの世界に触れないように隔離する言わば真空魔法瓶。

 魔神が腕を一薙ぎする度に人形の胴が後ろの壁もろとも消え失せる。別の腕でまた一薙ぎ、別の人形が消え去る。そのたび工房の一部が消滅して空間は広くなる。注意してみれば魔神が少しずつ小さくなっていることに気がついたかもしれない。人形が消える度、魔神の身体も対となって消え去っていく。しかし魔神はその腕を止めない。人形という秩序の塊を崩すことに荒れ狂っている。

 やがて魔神はそんな名前とは程遠いようなか細い炎となる。しかし消え入りそうな炎となってもなおその破壊を止めない。最後の火が最後の人形の胸を貫き中の機構を消し去った。終に静寂が戻る。しかし暗黒は戻らなかった。いつの間にか工房の天井には大穴が開き、そこから月の光が差し込んでいた。その光はランプを照らし黄金は一層妖しく光っていた。


 逃げ込んだ倉庫は工房の向かい側にあったがよくは見えなかった。やっと光が収まったあたりからほんの少し見られたが、あの部屋にあった人形がすべて消え去ったことは明らかだった。胸に手を当て昂揚を鎮める。やることはもう一つある。あそこにあったのはまだ動いていない人形にすぎない。もう一つ、人形がある。翠さんをその場に横たえると残されたランプのもとへ駆け寄ろうとする。

 しかし声が聞こえ凍りついたように倉庫の影で動けなくなる。それは苦しみもがく声、行也の苦痛の声だった。そしてカツカツと足早にこちらへと来る足音。

「——やってくれたわね」

 人形の声がした。


 人形は右腕で行也の喉を掴み上げたまま工房の惨状を見ていた。行也のうめき声だけが響く。右腕と両足をだらんと下げたまま、左腕だけが力なく抵抗していた。恐怖、後悔、罪悪感、心が激しい痛みに襲われる。だが行くことはできない。人形を倒すため、耐えるしか無い。

「あのランプね」

 冷たいはずの人形の声に怒りが混じっているようだった。人形は行也を掴んだままランプのもとに歩み、左手でランプを手に取った。

「あなたのね」

 行也の眼の前にランプを掲げると、行也から一層の苦痛の声が漏れる。すまない、後少し耐えてくれ、そう思った時、人形の肩越しに行也と目があった気がした。すると行也は口の端から血を流しながらわずかに唇を歪めて弱々しい笑みを浮かべた。

「何がおかしいの」

 人形の怜悧な言葉が響くが行也はその表情を崩さない。気付いている、こちらに。そう思い力が湧く。

「そのランプの奥のヤツがやったんだよ」

 彼が必死で悪あがきの笑みを浮かべたから、つい人形はランプを覗き込んだ。

 今だ——彼の目が僕を見る。その刹那、僕は魔法のランプに願いを託した。


 再帰迷宮。始まりも終わりもない無限の輪。それが人形が捕らえられた結界だった。その無限の繰り返しを造るのは人形自身。

 〈お前はお前を造れ。造られたお前はお前を造れ。また造られたお前はお前を——〉

 人形が人形を造り、その人形がまた人形を造り、またその人形が人形を造り——始まりもない、終わりもない。

 テレビの中のテレビの中のテレビの中のテレビの……

 生きるために生きる。その究極の自己完結である人形は、その完全に閉じた在り様、世界に自分が囚われてしまった。

「違う、私は——」

 一瞬が無限である壮大な空虚なパノラマの中で人形は落ち続ける。「私の定義は『私の定義』を参照せよ」という永遠の参照をたどってもその無限の辞書に一項たりとも別の言葉で彩られた定義はない。

「なぜこんな——」

 ああ、と思い至る。それはあまりにも自分のための場所だったから。

 生きるために生きる。永遠に続く生、どんな宇宙においても維持され続ける恒常性を求め、手足を、記憶を、反応を、時が流れ変わりうるものを一つずつ捨て去り行き着いた姿がこれなのだ。ここが私の居場所なのだ。

 そう人形が理解し閉じられた無限の一片となった時、ランプの蓋は閉じられた。


 人形が無辺の牢獄に閉じ込められるその時、僕の目に見えたのはただ一瞬にして人形の姿が消えることだった。突如として生まれた虚空にランプが投げ出され、そして行也も支えを失って倒れ込む。ランプがまだ床に付いていないうちから僕は行也のもとに走る。行也が崩れ落ちるどさりという低い音はランプが床に落ちてカンと金属のやけに鋭い音の裏にかき消された。

「行也、行——」

「……いたんだ、でも、ごめん、俺……」

 その顔は子供を連れてこられず自分が捕まってしまったことを悔やんでいた。だがそんなことはもうどうでもいい。人形が消えたのだから何も問題はない。

「客室の、最上階…」

「大丈夫だ、行也のおかげだ、それよりも傷を……」

 近くで見てみてぞっとする。彼の手足から血が流れ今もなお流れ出している。ナイフで切られたような鋭い跡だ。

 上着を脱いで傷口に強く当てて血を止めようとする。傷の数が多く並行してもいる。そうか、最初の時に見た数本一組のピアノ線だ。手のひらを伸ばし足で挟んで何とか覆う。病院に行かなければ。戻れるか——戻る、そうだ、翠さん——彼女もどうなっているんだ。今更になって切迫する。

 その瞬間、血の凍る声を聞いた。

「ほんとうに、無様ね」

 振り返る間もなく世界が反転した。


 壁に打ち付けられ背中全体に痛みが走る。骨が突き出た場所が特に鋭い悲鳴を上げる。

 逃した。失敗した。すべて破壊することは出来なかった。

 後悔に圧し潰される。しかしもはやすべてが遅い。

 そこにいたのは二体の人形だった。一体は真紅のドレスを纏い超然としている。そしてもう一方は倒れ込む僕の背を踏みつける。動くことすらままならないが、その姿は黒いワンピースを着た——いいや、間違いようが無い。分離装置でガスとなったはずの人形がそこにいた。なぜ二体も、なぜ破壊したはずの人形が。二重のなぜの中ドレスを纏った人形が答える。

「この体はついさっきできたばかりなの。こんな木屑も舞う場所には置いておけないから。そして」

 その触れれば傷つきそうなほどの柔らかそうな肌は幼い子供のものに違いない。奴は確かに赤子から育てていたのだろう。すべてを人形のためにあつらえた極上の完成品を、赤化ルベドあかに包んでいる。

「見覚えがあるでしょう?首から下の体と、あなたたちの実験室にあったものを合わせて直したの。スピリト一つ一つの動きを制御して引き離す分離装置。良い物ね。それを逆転させたの。無秩序から秩序へ。丁度あの空間にはそれまで個体だったときの残滓が残っていたから」

 人形になぜそんな芸当が。恐るべき成長だった。ドレスを纏った人形は優美ともいえる足取りで行也のもとに歩み寄り、見下ろした。行也は動かない。人形の滑らかな動きと対称的に彼の胸は不規則に微かに動くばかりだった。人形が腰を屈めると先ほどと同じように彼の首を掴み片手で持ち上げる。

「あなた達のせいで、余計に収穫をすることになってしまったわ。どうしてくれるの?」

 またさっきのように人形の手が行也の首を締め上げる。

「あの子たちはどこにいるの。あなたが攫った子たち。教えなさい」

 行也は答えない。苦痛の中、必死の形相で人形を睨みつける。

「誰がお前に……」

 ランプを手元に寄せようとした瞬間、風が吹き荒れた。絶叫が聞こえる。

 行也の左腕が消えている。分離装置の力だ。彼の腕が一瞬にしてガスとなった。

「分かっていると思うけれど、あのランプも無駄よ」

 そう言いながら人形は冷たい目をこちらへ向ける。その目に射すくめられる。

「あのランプの精ほど無粋なものは無いわ。形を失うだけでなく、この宇宙から消滅する。それほどの無駄もないもの」

「私はこの宇宙にとっての祝福よ。すべての物質は、私に教化され、私そのものとなる。私は永劫を願う人間の総意の到達点なの」

 暗黒の宇宙の冷たい黄昏、たったひとりの永遠の千年王国。動的平衡すらない平静不動の宇宙の女王となるだと、人形は決定されていた。

「あなたのような出来損ないの人間は不要よ。あとほんの少しで死ぬ。そんな醜悪な姿でも、まだ少しでも形を留めていたいならあの子たちを——」

「お前は……偽物だっ」

 行也が血の混じった唾を飛ばす。白い人形の手首が赤く滲んだ。人形の指が首に食い込み聞いたこと無い苦痛の声が漏れる。それでも、行也は人形を睨み続けた。

「お前の世界なんて…偽物だ。人間は不完全だから、もっと良い世界を創ろうとする。不完全だから……誰かに託して自分以上のことができる。だから……」

「完全な人間なんて、人間じゃない」

 死の間際だというのに行也の赤く滲んだ目は人形の冷たい目を恐れず睨みつける。人形の顔が一瞬歪んだように見えた。

「赦しを乞いなさい。そうすれば——」

「お前は……間違ってる!」

 その瞬間目も開けられないほどの暴風が駆け抜けた。そして——

 掲げられていた人形の片腕の先には何もなかった。その手首に赤い染みを残して。行也をガスとして消し去った。人形は腕を下ろすこと無く立ち続けていた。まるで怒りを抑え込もうとするように。

 動揺、虚無感、絶望、悲しみ、怒り、静も動も関係ななく感情があふれてくる。しかし、それらはすべて、あの人形を斃さねばならないと訴えていた。

 ヒューヒュルルー。笛の音が聞こえた気がした。

「耳障りな……」

 人形の唸るような低い声がした。この笛の音がか。いや、違う。行也の言葉が。人形が屈服させることのできなかった意思の言葉が。

 ヒューヒュルルー。また笛の音が強くなる。その時人形の顔が僕の方を向いた。能面のような白い顔。しかし、その仮面の下の顔は歪んでる。

「愚かな一生を徒に終えた馬鹿だこと。どうせこいつが全て喋るのだから、本当に無意味な存在だったのね」

 奴が歩み出す。それに合わせるように背を押さえ続けていた人形も動き出した。これが僕の最期の瞬間になるだろう。しかし、それでも怒りが勝った。

 僕もお前には屈しはしない。行也のように。

 ヒューヒュルルー。笛の音がその意志を肯定するに聞こえた瞬間、背を踏みつけていた人形が迫り来る人形に踊りかかった。


 真紅のドレスのスカートと黒いワンピースの裾が地を駆け空を舞い衝突と分離を繰り返す。激しくもつれ合う劫火のように互いに相手の喉元に切り込みすんでで躱す。

 貴様——紅い人形が渾身の力を込めてピアノ線を一閃させる。黒い人形はナイフの刃で糸を押し上げながらその下に潜り込んで逃れる。極限まで張り詰めた糸に刃先がこすれるとヴァイオリンのようにキィンと甲高い音がした。糸を防ぎはしたがその力に押された黒い人形は勢いに任せるように後ろへ二歩三歩と飛び退く。その間に紅い人形も糸を引くと構え直して体勢を立て直す。両者の間に十メートルほどの距離が開くと、一陣の風が吹き去った後の張り詰めた緊張が場を支配した。

「——貴様、あの魔女だな」

 魔女、まさか——魔女と呼ばれた黒いワンピースの人形は答えない。しかし紅い人形は沈黙こそ肯定と受け取って続ける。

「あの音楽、、だな。妙に頭に残る音だと思っていた…」

 黒い人形はまだ答えない。しかしその瞬間ヒューヒュルルーという笛の音が頭の中で響いた。

「……そういうことだったのね。私があの部屋で聞いた音、あれは一度聞くと永遠に頭の中で響き続け、思考を妨害する曲。そして——」

 ヒューヒュルルー。だがもう朧げな音ではない。一音のどんな細部であろうと音に充足された力強い小節となって響く。笛の音、それじゃあ——

「その音にお前自身を乗せたな。お前の思考の、存在のパターンの波を笛の音に込めて、私の中に残すために」

 紅い人形は悟った。永遠に頭から離れない音。その音律に潜めた西宮翠という魔女の感情や思考のパターンに侵入されていたのだ。その兆候はあった。魔女や行也の肉体を消し去るのを、一瞬でも、躊躇ったこと、分離装置の逆転なんて創造的なプロセスを思いついたこと、そして喜び怒りの感情を得たこと。

 そしてそれは人形にとって最悪の呪いだった。永遠に消えない曲、生き続ける曲。それは人形の最も親和するものであるから人形の中で消えることはない。それゆえ個体だけでなく全ての人形が魔女のパターンに侵蝕され、魔女に乗っ取られていく。あらゆる記憶を一つの間違いもなく引き継いでいく力を持った代償として与えられた、避けることのできない破滅の未来だった。

 行也の遺志が人形のはりぼての鉄仮面にひびを入れた。その下から目覚めさせられた黒い人形の魂こそ、西宮翠だった。

 黒い人形は僕の方へ顔を傾け、とうとう言葉を発した。

「あとは、私の番だ。……二人とも、よくやったな」

 再び二体の人形は切り合う。黒い人形が横薙ぎに糸を開くと同時に、紅い人形は斜め一閃に糸を開く。打ち合った糸が菱格子を作ったかと思うとそれぞれの糸の交差点が一斉に火花を散らし、そこかしこで断ち切れた糸は小片となってぱらぱらと降り注ぐ。糸の雨の中二体の人形は互いに銃を向ける。一つの銃声の間に放たれた弾は二発。互いに逆行する二発の弾丸は二体の人形の正に中間でその弾頭を潰しあった。降り注ぐ糸と弾丸で形作られた見えない壁を目掛けてナイフを構えた二体の人形が疾走し——

 二つの人形が激突した。紅い人形の刃は黒い人形の左胸の上に刺さりその心臓を狙う。黒い人形の刃は白い人形の左脇腹に刺さりその心臓を狙う。木で造られた空っぽの体。しかしその中心目掛けて互いの刃はじりじりと切り口を広げ合う。どこまでも互角。違いは中身が人形か魔女か。だが紅い人形が微笑む。

「もう終わりにしよう。私の力とお前の力。それがあれば全ては私達のものだ」

 ギイと音がして黒い人形の胸が切り開かれる。最後のつばぜり合いの帰趨はその造り物の身体により良く最適化されていた紅い人形に傾こうとしていた。

「残念だな。お前の意識はこの体を不完全にするだけのようだな」

 黒い人形、翠の身体が傾ぐ。紅い人形が最後の力を込めようとした時、黒い人形は笑みを浮かべた。

「不完全だから、なんとか足掻くんだ。閉じこもるんじゃなく…あいつが言ったように」

 その瞬間白い人形に突き立った刃が白く光った。紅いドレスの胸元に宿った光は純白の花飾りのようだった。この光は、分離装置の——いや、違う。逆転している。翠が力強く言った。

「戻って来い、行也!この人形の中に……あの子たちのもとに帰るんだろ……!」

 周囲が目も眩む光に包まれる。それは空間に溢れる無数の行也だった光の粒だ。

 人形に形を奪われた行也の魂の光だった。

 光の粒は一個、二個と白い人形の裂け目から紅い人形の中に入って行こうとする。しかし紅い人形はそれを意に介さない。

「……だからなんだというの?私はその術も——」

 紅い人形は同じ逆転の術を用いて傷を塞ごうとしていた。その時異変が起こった。人形が再成の術を使うにつれ、だんだんと粒子の流れは勢いを増し、遂に白い濁流となって人形に流れ込んでいく。黒い人形ともつれ合いながら、異常を察した紅い人形は必死で抵抗するが胸を押さえても指の隙間から光は容赦なく入り込む。穴を塞ごうとすればそうするほど光は怒涛のように流れ込む。

 曲がりなりにも人形の一部となるために行也は育てられた。そのため傷をの人形が傷口を塞げば塞ごうとするほど、空間に充満している行也だったスピリトが必然的に取り込まれていく。

 そして人形の中に行也が形作られてていく。生きるために生きるという閉じた結界に穴が開き、行也という存在が解きほぐし、再構成していく。想像と破壊、麻酔のない外科手術のように激しく、そして優しく。

 人形の中の黒い虚無は、檻の中の閉ざされた虚無でなかった。沸き立ち凝集する中心をもつ新たな宇宙誕生の爆発を待つ虚無だった。その凝集がある臨界の密度を超えた時、人形という閉じた世界の向こうへと——

 光が人形に飲み込まれるにつれ霧が晴れていった。どさり、と紅い人形は倒れた。それを抱きとめると後を追うように、どさり、と黒い人形も倒れた。

「翠さんっ」

 彼女の名前を呼ぶ。人形の体に脈はないから生と死を判断することは人間にはできない。だが間もなく明瞭な判断材料が与えられた。

「……あいつは……」

 ハッとして傍らに倒れ込む紅い人形を覗き込む。同様にわからない。意を決して触れてみる。しかし脈もない。その姿は紛れもなく人形の姿だった。

 ごく微かに人形が動いたのを感じ取った。

「——行也……?」

 眠っていた誰かが目を開ける瞬間を、これほどまじまじと眺めたことは無かった。長いまつげの下で目がうっすらと開く。向こうで指がぴくりと動く。腰がほんの少し折れて体が曲がる。動いてずれたその顔を慌てて目で追った。

「……俺、どこに……」

 その端正な顔に全く似合わない言葉だった。

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