人形の夢 (五)

 特訓開始から五日目の夕頃、いよいよ城攻めの段取りを話し合う。

「人形自体はそれほど多くないかもしれない。今のを含め一、二体かもしれない」

 奴は人間を子供の頃から育て自分に適した物に仕上げる必要があるようだ。その分替えは効きにくいし現に行也の姉代わりの人物を用いたものが彼女の行方不明直後から数年間用いられていた。そしてタクと呼ばれた少年がいまはその座にあり、たぶんその次として優馬が。

 おそらく——考えるのも忌々しいことだが——人間という素材には何か鮮度とか耐用年数があるのかもしれない。最高の状態に保つなら稼働直前に人の皮を「収穫」することが良いのだろう。

 そうすると、優馬が最後なのだろうか。可能性は有る。しかしそれに関して「いや…」と行也が歯切れ悪そうに考え込んだ。引っかかる点があるようだった。

「気のせいかもしれないけど……あそこには別の子供がいたかもしれない」

「かもしれない?毎日一緒にいたんじゃないの?」

「あいつらとは一緒だった。ただ……それとは別にいたかもしれない」

 記憶を一つ一つ辿るようにして、彼は慎重に言葉を続ける。

「たまに俺らとは違う声が聞こえた気がするんだ。夜寝静まった時、赤ん坊が泣くような声が聞こえたこともあった。もしかすると城の周りの猫かもしれないけど……俺らの間でも、何となくそうなんじゃないかって気がしてた。俺らはみんな元は、その、家族のもとで育ってたから、赤ん坊からいた奴はなかった」

 赤ん坊、その言葉につうと背筋が冷たくなる。それが本当なら奴は人間を一から育てていたことになる。徹底的に人形の望む形に染め上げて仕上げる。完璧を目指し、まさに人形が人形を造る行いと言えた。そしてそれは行也たちと隔離して育てた理由にもなる。行也たちには多かれ少なかれ元の家族に育てられた時の記憶というか、名残があるのかもしれない。そういった完全なる人形に対してのノイズになり得るものを排するためには、彼らと接触させないようにするだろう。

「未だ優馬に手を出した——かもしれない——ことを考えると、その試みは確証を持てるほどには完全ではなかったんだろう。数もそう多くないはずだ」

 良い知らせと悪い知らせが相混じった予測だった。さてこれをどうするべきか…

 そう考えようとしていた矢先、実験室の壁からいきなりポッポーとけたたましい音がして皆びくりとした。見ると鳩時計が懸命にアピールしていた。それに時刻は…十八時三四分。こんなおかしな時間に鳴るものだろうか?

 翠の「まさか」という驚いた声が響く。他の二人がその声に振り向いた時には彼女は既に席を立ってモニタの入力を弄っていた。その画面には、見慣れた事務所の近くの通りを歩く人影が映っていた。

 人影は人形だった。

 心臓から一切の血が抜けたように恐怖に身が固まる。なぜ、奴がここに——

 同時にその理由ははっきりしている。ここへ乗り込むため。

「なんでここが……まさか、奴の骸があるからか」

 舌打ちしながら振り返る先には一部が焼け皮が切り開かれた人形の骸があった。奴は焼けた人形の記憶があるような口ぶりだった。テレパシーのような通信手段があったとすると、こんな状態でも微かな発信器程度にはなるのかもしれない。

 まだ準備は整っていない。それでも、やるしかないのか。生き詰まる緊張の中、翠は深呼吸を一つすると和朔たちに顔を向けた。

「着いて来い、奴はここで迎え撃つ」

 彼女はそう言うと実験室の片隅にある、幾層のリングが交差する天球儀に手を触れた。するとリングたちが細かに震え各々回転を始めた。それに呼応するように実験室全体が大きく唸りをあげると、壁が途切れ、回り、離れ、差し込まれまるで巨大な機械のように形を変えた。

 僕らが呆気にとられていると壁と天井は大きなドームとなり、プラネタリウムのように星々の煌めく夜空となり、そこにはそれぞれ異なる色に光る七つの大きな光が輝いていた。なんですか、これ——口を開けたまま見上げながら聞くと翠さんは少し自慢そうに答えた。

「これが我が実験室の防壁だ。ひとまず、座って待っていよう」


 西宮翠という魔女の防壁は占星術を取り入れた七層の仕掛けからなる。各層が月、水星、金星、木星、太陽、火星、木星、土星に対応していて、さらにその星一つ一つを中世ヨーロッパの大学で唱えられた自由七学芸に対応させた力を持つ。月は文法、水星は弁証法、金星は修辞学、太陽は算術、火星は音楽、木星は幾何学、土星は天文学、それらの力が防壁に宿っている。

「天体の並ばせ方は色々あるが、今回は外側から月水金土火木陽の順でいこう」

 実験室のドームには七つの星が燦然と輝いている。今や来訪者を待ち受ける準備は整っていた。そしてモニタを見ると、いよいよ——人形が事務所の入り口に立っていた。人形は軽やかな黒いワンピースに自らの背丈より大きな不格好なほど大きなケースを背負っている。それを下ろすことなく、入り口のカメラの方に向き直った。その顔には微小が浮かんでいた。宣戦布告の笑みだった。

 翠はその優美な姿を見てかえって気を悪くしたようだった。

「まったく、待っているだけなのも落ち着かないな」


 第一層は月の力。人間の住む世界に最も近く闇夜を照らす月は、混沌から事物を正しく指し示すための文法に対応する。それは有象無象から正しきものを選び取る認証の力を防壁に与える。まずは扉と合鍵を、セキュリティの基礎基本。

 ”この門をくぐる者は一切の望みを捨てよ“そう書かれた巨大な石造りの扉の前に人形は立つ。取っ手に手を掛けるも、扉は開かない。それは翠にしか開かない認証機構を備えた扉だ。

「殴り合いにならないうちに立ち去ってくれませんかね…」

 僕が言う。たぶん不安混じりで何か言わないと落ち着かないのだろう。しかし脆くもその望みは消え去った。人形は一度手を離すと自身の右手を見つめた。そして左手で右腕の肘や手首に何度か触れた。その度に右手の指先がぴくりと動く。

「何か……調整しているのか?」

 翠がそう言った時、人形は再び取っ手を掴んだ。すると、がちゃりと重い扉が開いた。翠は思わずなにっ、という声を上げる。

「あいつ……私との二度の戦いで模倣してきているんだ……私自身を」

 そんなことまで。見かけのわかりやすさがないから余計に得体の知れない不安が湧き上がる。人形が何事もなかったかのように扉をくぐるとドームの星が一つ消えた。

 扉をくぐった先、第二層には真っ白な壁がせり立っていた。人形は壁の前に立った。ゆっくりと左右を見渡してこの白い壁しかないことを確かめると、人形は背負った箱の脇に触れた。カタンと小窓が開きそこから一本のナイフを取り出すと右手をすっと横に振って壁を切りつけた。すると壁は鋼鉄へと変わり、人形の眼の前の壁に一つの小さな穴が開いた。その瞬間人形は弾かれたように横へ飛ぶ。皮一枚の虚空を壁から放たれた銃弾が通過した。突如出現したその小さな穴は銃眼だった。

 第二層は水星の力、弁証法。自らの論理を補強し相手の論理の隙を突くという、敵の攻撃を受けながらそれに適応した防護を固める言わば攻性防壁。人形はナイフによる近接戦を得意とすると見るや壁を鋼鉄に変え、敵を近づかせない遠距離攻撃の構えをとった。

 人形は俊敏に回避軌道をとって後ろに退き続く銃弾を避ける。あの大箱を背負っているのに全く乱れのない足運びは恐るべきものだ。

 そのまま人形は駆けながらナイフと同じように箱の脇から銃を取り出す。バンッバンッと続けざまに壁を撃つ。地を這うような低い姿勢で、大きく仰け反りながら、回りながら振り向きざまに撃たれた幾発の銃弾は正確無比に壁の一点を捉え——壁が氷に覆われる。その銃弾はあの時水銀を凍らせた氷の銃弾だった。人形は炎の笛の次は氷の銃を取り込んだ。

 壁もそれを見逃しはしない。またも壁が震え変化を遂げようとする。だがそれよりも壁が凍りつくのが速い——いや、不自然に氷が多い。

 壁自身が氷そのものになろうとしている。そして壁から放たれる銃弾はいつしか鬼火となっていた。

 壁自体が氷ならば、氷の弾丸を撃ち込まれれば撃ち込まれるほど、氷の上に氷が重なり壁は強固に厚くなる。そして壁は無数に撃ち込まれる氷から、敵が氷に類する者だと考えた。それならば氷を溶かす火をくれてやろうと判断した。そして鬼火が撃ち出されれば撃ち出されるほど、熱が去っていった氷はますます冷たく引き締まった氷の壁となる。形をもった敵対的生成。人形は壁に近づくことすらできないまま、鬼火をなんとか避け続ける他はない。

 そこからはまるで舞踏会を見ているようだった。舞うように駆けながら氷の弾丸を撃ち続ける人形と、それを追って放たれる鬼火。いつ終わるとも知れない氷と炎の舞踏に心を奪われる。

 しかし「妙だ」という声で現実に引き戻される。

「どうしてあいつはあんなにも氷の銃弾ばっか撃ち続けるんだ……」

 翠が眉を顰める。なおも人形は氷の銃弾を壁の一点に撃ち続け、壁の一点は紛うかたなき氷そのものとなる。

 そして遂にその均衡が破られた。壁が氷となったのを見ると人形は一瞬のうちに腿から長笛を取り出した。次の瞬間周囲の鬼火がかき消されたかと思うと氷の壁が突如白い霧に包まれた。

 霧が晴れた時、壁にはぽっかりと穴が開いていた。壁は敗北した。

 壁はあまりに賢すぎた。壁は相手が氷しか使えないと見るや徹底的に自身を最適化して氷となった。それが敗因だった。あまりにも行き過ぎた局所最適化の末、突如食らわされた思わぬ一撃に対処することは出来なかった。

 人形が悠々と穴に近づく。壁は悪あがきのように鬼火を撃ち出す。人形の左手の甲に当たる。しかし、人形は涼しい顔をして穴を通っていった。長笛に焼かれた身体にもはや炎は効かなかった。

「くそっ、奴にまんまとハメられた。逃げる必要の無い鬼火を逃げて壁を油断させやがった」

 翠は歯ぎしりをすると吐き捨てるように「ちょっと五層目に行ってくる」と言って出ていこうとする。

「いきなりどうしたんですか。危ないですよ」

「どうも嫌な予感がする。それなら一つやっておきたい細工がある」

「だからって……だったら僕も行きますから」

 行也も「俺も」と続く。一瞬その目に険しさが宿るがちらと下を向く。そして「だったら手伝え」と言ってドームを後にする。夜空の七つ星はまた一つ消えた。


 そして人形が三層目に足を踏み入れた時、その足がふと止まった。気がつくと人形は横たわっていた。横たわっていることがわかったのは、己を覗き込む男の姿があったからだ。それも自分が知っている男が。男が愛おしむように人形の体に触れる。ああ、貴方は——

 ため息を漏らすのにさえ息を震わせているのは人形の生みの親、つまりは創造主たる人形師だった。着物とも洋装ともつかないその服は彼の時代を象徴するものだ。その興奮の中にあってさえ生白い顔はまだ食の足りない時代だからか、それとも男の生活によるものか。たぶんその両方だろう。

「美しい。君こそが完璧な人間を体現したものだ……」

 ——ええ、それが貴方の願いですもの。

「人は望む。永遠の生を。しかし望んでも得られない。人間は常に不完全で一つ手に入れると十も手に入れていなかったことに気づく」

 ——悲しいことです。それが不完全なる生の宿命なのですから。

「だが君は達成した。永遠とは完全ということだ。不変は美しいのだ。永遠に不変の存在とはこの宇宙で何者も君を傷つけることはできないということだ」

 ——嬉しいことです。そこは完全なる生の王国なのですから。

「変化とは失われるということだ。失うというのは死ぬということだ」

「美しくないものは、滅びてしまうということだ」

 ——だからこそ、私はこの世界に永遠に存在し続けるのです。


 人形は目を開いた。その時人形は小部屋の中に立っていた。人形がふと過去を懐かしんだことこそが第三層目の防壁だった。そしてそれは突破された。第三層目、金星。甘美にして思いを馳せることを尊ぶ修辞学。その防壁は本来侵入者の最も望む夢を永遠に見せ続けることで眠り続けさせる甘い蟻地獄だった。金が欲しい者には億万長者になった夢を、孤独に苦しむ者には愛する者と一生を共に過ごす夢を。覚めることを望まない世界に閉じ込める。

 しかし人形自身には願いなど無かった。人形はあくまで器でありその虚ろを満たすものは完璧なる人間を造るという人形師の願いだった。そして、その願いは既に器そのものとして形になっている。見つかった願いが既に成就されている以上、防壁はそれに手出しを加えずに放っておくことしかできなかった。

 小部屋の中央には煙をたてる香があった。人形は造物主との心地よい思い出を反芻しながら香に拳を振り下ろした。


 第三層が消えた。翠さんの表情に焦りが浮かんでいた。たぶん、僕と行也もだろう。

「いったいこの装置何なんですか」

 楽器の並ぶ室内をちらと見ながら聞いた。

「話しは後だ。本来の防壁だけじゃ足りないかもしれない」

 防壁では防げない相手。どれだけ時間をかけても無駄だ。そう言われている気がして不気味さに恐怖がこみ上げてくる。ともかく手を動かすしかない。

「これがこの前言ってた『考え』ってやつなの?」

 行也の言葉に翠さんが自嘲気味な笑みを浮かべる。人形に先手を取られたのが痛恨で仕方がない様子だ。この場所までは、あと一層の防壁に頼るしかない。


 惑星一つ一つの軌道を支配する法則を導くと同時にその相互作用の法則も見出すのが天文学。その多体問題を極限まで暴走させたのが第四層、土星の防壁である。空間は完全なる球形。

 人形はその空間に入った瞬間、逃れる術を探した。ここでもたらされるのは——

 逃れる場所などない。それを教え込むように空っぽであるはずの脳が、その極小の一点一点までもが絶叫する。頭全体がすべての点がすべての方向に引き裂かれる苦しみ。事実、その通りだった。

 空間に存在する物体をスピリトレベルで解析し、計算し、別々の方向に運動を曲げて物体を極限まで引き裂く分子分離装置。全てを計算し尽くしその力を統合のためでなく分離のために解放する悪夢の兵器。

 それは互いに結びついて安定状態にった粒子の一つ一つを引き剥がして独自に動き回るようにするということだから、必然的に膨大なエネルギーを与えてやらねばならない。それゆえターゲットは一点に絞られる。人形の顔、そのすべてのヒトを魅了する美しすぎる穴にそれ自身惹き込まれたたように、巨大な計算機のリソースが集中した。

 それが放たれた瞬間、人形の頭部は断末魔を叫ぶ暇もなくこの世から形を失った。

 あまりにあっけない最期だった。

 首なしの人形は膝から崩れ落ちると一瞬背の大箱が自立するように引っかかった。しかし残った人形の重さに傾くと、人形を下敷きにするように箱が倒れた。思わず僕らの手が止まった。

「……お終い?」

 行也の上ずった素っ頓狂な声が聞こえた。終わったのか?ここも、もしかしてあの城も——

「……やっぱりか」

 翠の憎々しげな顔の先には大荷物があった。その時胸騒ぎがした。その大きな箱に抱いていた印象は棺桶だった。死した者が入る場所、そして別の生を得て目を覚ます場所。

 箱の扉がぱたりと開く。その扉は勝手に開いたのではなく、中で動く人の手が見える。透き通るような美しい手。その手が箱の縁に掛けられると、続いて二本目の腕が反対の縁に掛かる。そして、ゆっくりと裸体の女が上半身を起こした。人形だった。

 人形は身体の感触を確かめるように腕と指を軽く曲げるとすうと立ち上がった。透き通るような裸体が露わになる。そして身体を屈めると先代の人形のワンピースを脱がして、自分の体を通した。それまで奴は死んでいた。今、人形は死から蘇った。死から蘇った人間、二千年前に神となった男のように。

 まずい逃げろ——その声に思い出した。人形がここへ来る、もうあと数えられるくらいの時間で。

「お前たちは逃げろ。奥の七層のランプを持っていけ」

「逃げろって翠さんはっ」

「私はここで——」

 言葉が途切れる。翠の顔が一層険しくなる。

「急げ、来る」

 人形は軽やかな姿で第四層と第五層を隔てる扉に歩み出している。咄嗟に翠さんの手を引いて奥の扉に駆け込もうとするがその手を振り払われる。見ると彼女の手には胸元から取り出した手鏡があった。

「なぜ」

「奥のランプを持っていけ、魔力を閉じ込めた器だ」

 鏡が掲げられその鏡面が動き出しどこまでも深く落ち込んでいく。うわっ、という行也の声が響く。しかし彼の方を向くこともできず渦に飲まれるように鏡の中に体が引き込まれていく。

「三面鏡を合わせ鏡にしろ。そうすれば出口が——」

 その言葉が言い終わらぬうちに行也もろとも鏡の国に落ちていった。

 鏡の国は翠の結界の一つだった。和朔たちが迷い込んだ空間は万華鏡の中のようで鏡の向こう、もとの世界にいる翠が逆さまになって見えていた。逆さまの翠が振り向く。その口元には笛が添えられていた。

 そして第五層の入り口に人形の姿が見える。彼女を迎えるようにオーケストラのような音楽が鳴り響く。その中でヒューヒュルルーと笛の音が聞こえる。聞こえる、そう思った時人形の声が響いたが、それは水中にいるようにぼやけて聞こえる。

 〈よく会うわね、魔女さん〉

 人形の声がくぐもって聞こえる。なおも翠は笛を吹き続けている。何を思ったか人形は立ち止まったまま話しを続ける。

 〈妙な音ね、でも、〉

 人形が右手をひらりと払うと翠の左側の楽器群が一片と残らず消し飛んだ。

 あの分離装置を模倣したのだ。

 ガスとなった仲間の暴風を受けながら、半数を失ったオーケストラは不格好な音でなお音を奏でている。ヒューヒュルルー、笛の音が相対的に強まって聞こえる。

 〈挨拶も無いとは礼儀を知らないのね、でも、いいわ〉

 人形は歩み寄ると右手で翠の喉を掴む。翠さんの顔が苦しみに引きつるが、ヒュー、と途切れ途切れにも笛を吹き続けている。やめろ——と和朔そこへ駆け寄ろうとするが、どれだけ力強く走っているつもりでも眼の前の光景の場所にたどり着くことができない。必死に叫ぼうとも二人の女には何も聞こえない。

 〈だからこそあなたをっておきたいの〉

 そう言うと人形の顔に幾筋の細い線が走った。それはきっと人の皮を加工した際の分割線なのだが、その存在には全く気が付かなかった。そして花が開くようにがぱっと顔が割れ、その仮面の下に真っ黒な虚無が覗く。

 口も、喉も見えないのに人形の声が響く。

 〈あなたの力のすべてをもらうわ〉

 顔の無い顔が翠の顔の眼の前に寄せられると、翠さんの顔が一層険しく歪み目が見開かれる。ヒューという絞り出した笛の音が聞こえた。

 魂を吸い込まれている。見ることしかできないが、それは確信だった。

 その間もなおヒュルとか細い笛の音が聞こえた。しかし最後の一瞬、翠の体がかしぐと目が力を失って閉じられる。ルーという音を最後にその体を人形が抱きとめたが、笛は地面へとこぼれ落ちカタンという音を立てて転がった。そして蓋を閉めるように割れていた人形の顔が元に戻る。

 半分だけのオーケストラの音の中、人形は力なくもたれかかかる翠の体を抱えていた。


 僕は呆然と鏡の国に立っていた。周囲にはどういう基準でか、どこかの本棚や公園の一区画、飲食店のカウンターなどの雑多な風景が無数の鏡の一片として映っていた。

 ヒューヒュルルー。その音がまだ頭に響いていた。実感がない、と考えに次いで、何の?という疑問が湧く。

 翠さんは結局どうなった?体はまだあった、息をしているのかは分からなかった。吸われた魂はどうなった、そもそも魂を吸われるとは?あれは生きているのか、それとも——唐突に行也の声がして振り向く。

「翠さん、どうなったの…」

 不安を隠さない目が向けられる。そして目線を合わせたまま反らせられない。何か行也の次の言葉が逆に教えてくれるんじゃ、というような食い違いがより一層困惑を深めた。

「……わからない」

 そう応えるのがやっとだった。本当に、わからない。機械的に聞いたような質問だったのか、返答を聞いても何の反応も無い。また淡々とした声が続いた。

「……どうする?」

「どうするって——」

 その時、行也の奥の空間が目に入った。金色の何かが浮かんでいる。気がつくと足はそっちに向かっていた。どうかしたの、行也は言いながら僕の進んで行く先を振り向くと、あっ、と気がついて立ち上がった。

 それは一個のランプだった。ぱっと頭に浮かんだのはインド料理店のカレーの器に蓋が付いたものという印象だった。

「ランプ、だよね。アラジンに出てくる」

 行也のランプという言葉についさっきの翠さんの言葉が蘇る。ランプを持っていけ。この中に魔力が閉じ込められている。

 ぼうと眺めていたランプが焦点を結んだようにはっきり見えてきた気がした。彼女はまだ諦めちゃいない、そんな気がした。そこに肉体が伴っているかは重要でない気もした。行也がさっきと同じ問いを口にした。

「……どうする?」

 その声はさっきの疑問に満ちた声でなく、どことなく期待が混じった声だった。ランプか、行也か、自分自身か、何に背を押されたのか僕はその問いに答えた。

「これで、城へ行って…あの人形を斃す」

 ヒューヒュルルー。また頭の中で笛の音が響く。目を上げた先には三面鏡を備えた化粧台が立っていた。


 ヒューヒュルルー。珍しく人形の中で雑念のような信号が反響した。

 人形は今や魔女がいた実験室に立っていた。その腕の中には魔女本人の肉体が横たわっていた。無論この肉体を消し去るのは造作もない。しかし人形はそれをやらないでいた。どうもやってはならない、そんな思いがするようだ。こんな曖昧な反応は人形にしては奇妙なものだった。しかしちょっと理由を考えてみると、自分という存在は人形という物質や体と切り離せない存在であり、だから自分はこの魔女の肉体までも解明しようとしているのだ、だから壊すのを保留しているのだ、という論理的な理由で落ち着いた。この思考の乱れは言わばまだ吸収直後で魔女が栄養として消化しきれていないからだということにした。

 そう納得して実験室を見渡すと、二世代前の焼けた人形の残骸を見つけた。美しかった肌はもうなく、焼け残った木偶の素体が露わになっている。そしてついさっき頭を失った先代の存在に気付いた。頭以外は綺麗だ。そしてあの分離装置。ああ、それなら——

 人形に浮かんだのは「ひらめき」だった。それは与えられたこと、命じられたことを為すだけの人形には無いはずのものだった。しかしそのひらめきが実用的なものであったため、その過程を不具合と見なして検証することはなかった。

 ヒューヒュルルー。また笛の音がする。妙に記憶をかき乱す音だ。

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