黒い蝶 (七)

 童話に出てきそうなあの京子の家を訪れるのは半月振りだったろうか。危なっかしい運転を繰り広げた山がちの道も、何とかましにこなせるようになった気がした。

 そろそろ目的地に着く。時刻は午後六時過ぎ、初夏の太陽もようやく西日となった頃であったが、木々の合間を縫う道では夏の夕刻にしては暗かった。

「——着いた」

 京子の家は以前と変わらずそこにあった。全くもってそれは当然なのだが、実際にその瀟洒な姿を見るまでは、もしかすると家全体が蔓に巻かれていたり、巨大な蝶のさなぎになっているのでは、と空想してしまっていた。ヒグラシのかなかなという無常感漂う声が主の不在を引き立たせた。それは力強い西洋風の家とはやや不釣り合いに感じた。

 皆それ以上口を開くこともなく車を降りた。散発的にドアをばたんと閉める音が妙に際立った。京子は家を一瞥すると、そちらは問題なさそうだな、と納得したように目指す庭園に視線を戻した。それは彼女の几帳面な性格ゆえか、あの場所に行くのを躊躇ってかはわからなかった。彼女がそちらへ足を向けるのに合わせるように、そろって庭園の方へと歩みを進めた。

「ちょっと……荒れちゃってますかね」

 京子ができ損なった苦笑いを浮かべて言った。彼女なりに緊張をほぐそうとしていたのだろう。庭園は両親が常日頃こまめに手入れしていたからスプリンクラーなどの機械はなく、多少雨が降ったとはいえ、この暑さの中では萎びている花もあった。

 庭園の奥に進んでいくにつれ足が鈍る。注意しろ、観察しろ、と心の警告に従っているふりをしているが、緊張を隠す方便だということに自分でも薄々気付いていた。

 いくら先延ばしにしても、いずれは向き合うことになる。

 路の端に小さな黒い塊が見えた。黒百合だ。

 黒百合は以前見た時に比べ、花の脈が白く浮き上がっていた。花の縁も波打っていて、おそらくもうじき枯れるのだろうと思われた。三ヶ月少しだろうか、それまでの丁寧な手入れのおかげか百合にしては十分長い方だろう。

 そして、あれ、と思う。

 黒百合が二本しか無い。

 以前来た時は確かに三本あった。それが今は二本だけだ。残った黒百合の周囲を見てみると、すぐ側に土がやや凹んでいる場所があった。よく見るとそのすぐ近くの土に靴跡のようなものがある。ハイヒールだろうか。しかし京子も翠もそんな靴は履いていなかった。まるで何者かが一本球根ごと持ち去ったように見える。

「確かここにもう一本あったはずじゃ」

「ええ、三本あったんですけど、どこに——」

 その時、僕たちを待っていたかのように、一匹の蝶がふらりと舞ってきた。蝶はひらひらと飛びながら黒百合に近づくと萎れかかったその花に止まり、蜜を吸い出した。

 突然、蝶が身悶えして震え出した。見る間に翅の縞模様や腹の起伏が厚いひだに変わり、全身がみるみる黒くなった。そして畳んだ折り紙を広げるように翅のひだが開かれていくと、巨大な一枚の黒い翅となり、腹は黒い風船のように膨らんだ。

 その姿こそ、僕たちが追い続けていた黒い蝶だった。

 変態を終えた黒い蝶は何もなかったように翅を開げ飛び去ろうとした。その時、狙い澄ました魔笛の音が聞こえ、誕生と同時に黒い蝶は死を迎えた。

「……どうやらお前が当たりだったな」

 蝶を禍々しい黒い蝶に変えてしまう黒百合。

 教授の話を思い出した。蝶が餌とする植物を乗り換えて別の種となっていくことを利用し、蝶を自分好みにデザインするまでになった魔境の花。その花が咲いた四月、始まりの蝶が生み出されて京子の両親に卵を産みつけた。三ヶ月近くかけて幼虫は魂を喰らって二人を死に至らしめ、京子が見つめる中飛び去った。それこそが一連の事件の発端だった。

 触れるものを黄金に変えるミダス王の手のごとく、その花は蝶を黒くする。

 京子が黒百合に屈み込んだその途端、彼女は前のめりになると短い悲鳴を漏らして、黒百合に添えていた右手を離して頭を押さえた。鋭い頭痛に襲われたようだった。どうしたのか支えようとして彼女の方を向いた時、西日が目に入って思わず顔を背けた。その視界の端にさっきまで無かった黒いもの、妙な影が目に入った。

 それは小さな子供の影だった。

 驚いてまたその方向を振り向くと京子の肩の向こうにぼろ衣を着た少女がいた。その衣の中心は黒く——血で染まっていた。

 突如、刺すように頭が痛むと周囲の光景が歪んだ。

 

 痛みが引いておもむろに目を開けると、そこには見たことの無い田園風景があった。ぽかんと口を開けていると「気付いたか」と翠さんの声がした。声の方向を振り向くと首を軽く振る翠さんの姿と京子の姿があった。大丈夫ですと答えて立ち上がってはみたが目が回る気がする。京子もふらりと立ち上がった。

「一体ここは——」

「いつかの牢のような結界だ。あの花と——少女に関係しているんだろう」

 周囲を見回そうと足を動かすと地面がぐにゃりと歪んだ気がして思わずつんのめった。あの世界が歪む感覚、たしかに顔の無い男が異空間を造った時とよく似ていた。

「気をつけろ。どうやら私たちはお客さんのようだ。突発的な動きはしない方が良い」

 しかし一体何のための、と言いかけると京子がまた右手を頭に当てた。また頭痛がしたのかと思ったが、その姿は真剣に何かに注意を払い耳を澄ませているようだった。何かが彼女に語り欠けている。そしておもむろに彼女が口を開いた。

「見せる、ようです。この黒百合の物語を。ああ、蝶と、黒百合と、あの少女の物語を——」

 

 少女が知っている景色というのは、この村の田畑と茅葺の家々だけだった。世には将軍様と呼ばれている、大層多くの米を抱え、城とかいう小山ほどもある家に住んでいる人がいる聞いたことはある。だが、彼女にはそんなものを想像することもできなかったし、ましてどれほど遠くにあるのかは知る由もなかった。

 少女にとっては「お山さん」がほんの少し禿げた場所にできた、子供でさえ息を切らせば止まらず駆け上がれるくらいの広さの村が全てだった。

 その村はそれより五百年くらい前に拓かれたらしい。はじめの頃に数人やってきて、気と腰の許すかぎり田を広げ、後に来た者達は気と腰と先住の者の許すかぎりまた田を広げた。いつしか人も田も家もそれ以上増えなくなった。ただ、目の良い老人ならば、自分の生まれた時と比べどこかの家が古くなっているか新しくなっていることに気づき、駆け回る子供たちの間に自分と似た顔の者がいることに気づいた。それ以外は、四季ごとに稲穂の長さが変わり、田に水が張っているか雪で覆われていることくらいしか違いはなかった。一年経てばまた同じ景色となる。そんな変わらぬ世界だった。

 少女はその何百年と変わることない動的平衡の中の一人でしかなかった。

 しかし、その永遠の繰り返しの中で事件が起こった。

 この村を治めている——大人たちが米を運んでいく——大名、という人が替わったのだという。それは将軍様と違うのか、どんな服を着ているのか、少女にはよく分からなかった。ともかく、カツセロクトウという者が新しい大名になったのだった。

 その年の秋の暮れ、少女は初めて騎馬というものを見た。三騎の騎馬には男が乗っており、鎧とかいう鉄板を編み込んだ服を着ていた。その大きな姿に驚いていると、そのうち騎馬のまわりを遠巻きに村の大人たちが囲み、この村の「親父さん」が騎馬の前へ進み出た。

 騎馬の男は馬から降りることなく叫び出した。少ない、どういうことだ、出せ、などと捲し立てている。声の主はひどく怒っていることは明白だった。少女はどうしていいか分からず騎馬と親父さんを忙しなく見比べた。親父さんは怒鳴り声を一身に受けながら相槌のように頭を何度も下げていた。

 突然、騎馬の男が勢いよく馬から降りると、そのまま親父さんへと歩み寄った。

 その刹那、男が右腕を大きく振ったかと思うと、親父さんは後へとよろよろと倒れ、同時に粗末な着物がみるみる赤く染まった。

 斬られたのだ。

 親父さんは仰向けになって動くことなく、赤い水溜まりがじわじわと広がった。大人たちの悲鳴が聞こえ、逃げるように後ずさる者と棒立ちになった者に分かれた。男はまた何事かを叫んだがもはや意味を捉えることはできなかった。そしてすぐ近くにいた女、あさという名の女を捕まえると拳骨を振り上げその顔や背、腕を何度も殴りつけた。彼女が地に伏すと抱え上げて馬に乗せた。男はまた何か叫ぶと帰っていった。

 その日以来、村での暮らしは悪くなる一方だった。米の大半は年貢に持っていかれ食うものもなく、米倉を解体して薪にして冬の寒さを凌いだ。痩せほそった体で鍬を振り、去年より出来が悪ければ半殺しにされるかあるいは殺され、飢え死ぬ思いで去年並みならばまだ出せるだろうと年貢が重くなった。一度村の若い男が山を越えて逃げようとしたが、数日後生皮を剥がされたその男——だとされた肉体が転がされた。その男の親族も殺されるか拐われた。

 春に、夏に、秋に、冬に人は死んだ。

 村はあまりに静かな地獄となった。

 少女はそれが悲しかった。心が痛んだ。そのあまりのむごさにあまりにも愚かになった。

 あの大名様にこの身を捧げれば穏やかな村を返してもらえるのでは、と考えた。少女はある日やって来た騎馬に縋りついてその身を差し出した。

 言うまでもなく、そんな望みが叶うはずなかった。カツセというのは大柄な男だった。その男が発する強くすっぱい臭いが鼻についた。三日三晩の後、彼女は穴という穴から血とその他諸々を垂れ流し、体中が藍色の痣とそれが破れた血に染まっていた。彼女がその生涯で成し遂げたことといえば、村に来た騎馬武者が怒るのを一回先延ばして、大名の三日分の慰み者になることくらいだった。最後に少女は七人の人間を一列に並べた先頭に立たされ、まとめて長槍で貫かれた。

 闇の中城の裏の山林に彼女の身体が投げ棄てられた時、少女の命は尽きようとしていた。泥にまみれながら最期を迎えようとしていた時、微かに肉が腐ったような匂いがした。その饐えた匂いはあの男の体臭と似ていた。

 目玉だけ向けると、その先には一本の黒百合があった。

 その花の匂いに誘われるように蝶が舞っていた。

 少女はふとずっと昔の村を思い出した。少女は外の世界に憧れていた。大きな翅で自由に飛んでいく蝶に憧れていた。そのまま誰かが言っていたことを思い出した。

「…まぁただいだいばっかし蝶の芋虫どもに食われちまった。こりゃあ正月飾りもできねぇなぁ…」

 少女は再び蝶へ恋焦がれた。ああ、自由に飛べたら。いっぱい食べてしまえたら。死にかけた身体で己の存在の全てをかけて願った。

 この魂は蝶となって、どこにいようと奴を探し出して喰い殺してやると。

 彼女の骸の手は憎しみもあらわに地面を掻き食い込んでいた。その手には黒百合の球根が握られていた。

 

「その怨念を閉じ込めていたのが、黒百合……」

 夢見心地で呟いた。周囲には彼女が最期に見た鬱蒼とした山と闇がそのまま広がっていた。そして、彼女の骸もそこにあった。時間が止まっていた。葉一枚そよがず雨露も落ちることはない。音もない。横たわる骸はその静謐な景色の一部となっていて、触れようとは思わなかった。

 骸が言う。

 〈あぁ、憎い、憎い…〉

 その声を感じた。聞くのではなく、直接沁みわたる声だった。

「——なぜ彼女の親を殺した」

 翠が問いかけた。なぜ岡田京子の両親の命を奪ったのか。

 〈奴らは私の家族を奪った…欲望のために、摘み取って…〉

 何の話を——と虚を突かれた思いでいると骸の手が動き黒百合を握りしめた。それに教えられるように、初めて黒百合を目にしたときに岡田京子が言った言葉を思い出した。

 ”……大きな花を咲かせるために花を間引くんです。一番目の花を残して、二番花以降は摘んでしまうんです……”

 彼女の両親は黒百合を傷つけた。「彼女」から仲間の花を——家族を奪ってしまった。

 それを、黒百合は許しはしなかった。

 〈あぁ、憎い、憎い…〉

 〈奴らは皆殺しにする。同じ“匂い”をもつものは、必ずや皆殺しに…〉

「そんな——」

 京子は苦しそうにそう吐き出して、膝から崩れ落ちた。咄嗟に彼女の身体を支えたが、心の内では思いを馳せる。

 自分を住まわせてくれた場所が、愛してくれた人々が理不尽に奪われる。突然に、時間を掛けて心すら破壊しつくされる地獄。耐えようと、逃げようと、救おうとしても一度囚われたが最後、結局は地獄に飲み込まれるしかない。その中で少女は復讐を誓った。人の肉体を捨ててでも数百年と残る罠となり、人を超え敵を全て討つことを。

 〈あぁ、足りぬ、まだ憎み足りぬ……たとえこの肉は憎しみの火に焼かれようとも、その苦 しみで奴を殺せるなら、この魂さえ残れば……〉

 それが歴史の中で本当に達成されたのかは分からない。しかしその悲劇の連鎖として、また一つの家族が壊された。地獄を突き破ってなお、悲劇と苦しみは依然として口を開けていた。そう思うとあの少女の生涯、黒百合になってしまった後にさえ、言いしれない悲しみをおぼえた。

 静止画だった空間が歪みはじめた。終わりは近い、そう直感した。暗闇に薄く光が差した気がした。外の世界の夕焼けの光に似ていた。その時、少女の最後の言葉が響いた。

 〈あなたたちの世界では、まだ——〉

 まだ、強い者が弱いものを虐げていますか。安住の地はありませんか。それは願望だったのだろうか。彼女の言葉は薄れゆく世界とともにかき消えた。


 ふと目を開けると庭園の中に戻っていた。夕日はより黄色く、沈みかけの最後の鮮やかな光だった。そして、黒百合も変わらずそこにあった。気づかないほどの小さなそよ風にその黒い花を微かに揺らしていた。

 誰も言葉を交わさなかった。ヒグラシの声すらしなかった。

 京子が沈黙を破った。

「——燃やしてください」

 彼女の底から湧き上がるような迷いのない声だった。

「これ以上、苦しむ人がいないように。……ここで、終わらせてください」

 翠が前に出て黒百合の前で屈んだ。指先を黒百合に当てると、花がぽうと燃え上がった。あたたかな炎、そう感じた。炎は茎へ葉へ、そして根へと伝わっていった。黒百合の生涯は最期に微かな炎となって、あっけなく閉じられた。また、誰も言葉を交わさない沈黙が降りた。

 そして、その沈黙を再び破ったのも京子だった。しかし、その声は涙に震えていた。

「私が……私の力のせいで、この花の呪いを目覚めさせてしまったんです。そのせい父と母が……呪われるべきだったのは、呪われていたのは私だったんです。私が……私が罰を受けなきゃいけなかった」

 肩を震わせる彼女にそれまでの力強さは消えていた。張り詰めていた糸は切れてしまっていた。その肩に今度は翠さんが手を掛けた。

「お前のせいじゃない。遥か昔からの因果に巻き込まれたんだ。そしてお前はそれに抗って、成し遂げた」

 そうだ、彼女は多くの人を実際にその手で救った。悲しみの中でなお、仲間を想って力強く校門に歩んでいった。

「でも、私がそれを解き放って、不幸をばら撒いたんです。私がその罪を償わないと——」

 それが彼女だった。人一倍強い責任感をもった、悪く言えばもってしまった、一人の少女。

 そこに、翠さんが意地悪そうな笑みを浮かべて言った。

「それなら、私からひとつ注文をつけてやる。お前は幸福に生きろ。もし出来ないというなら、お前の両親に関する記憶を消し去ってでも、そうさせる」

 岡田京子の震えが止み、えっ、と虚を突かれたように顔を上げた。

「でも、私は——」

「だからそうする。消すか、消さないか——」

「それだけはっ」

 咄嗟に彼女は拒んだ。自分でも驚いているようだった。

「……それだけは……残してください」

 不安も、後悔も入り混じった声だった。しかし、その声には守るべきものがあることを感じさせた。自分を守り育ててくれた愛する両親の記憶、険しい道が待っていようとそれこそが彼女が失いたくないものだった。

 引っかかった、とばかりに翠さんが口元を緩ませる。

「見ているからな。……今度こそ」

 そして立ち上がると夕日を見遣った。夕焼け小焼け、家に帰る時がきたのだ。山の巣へ帰るのだろうか、遠くで鴉が鳴く声が聞こえる。

 烏たちは黒い点々となって黄金色の空を西へ飛んでいき、やがて夕日を背負った山々の影に消えていった。明日はたぶん晴れだろう。とはいえ時々雨が降るくらいなら花々にとって恵みとなるだろう。ともかく、明日はまたいつものように暑い日になりそうだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る