黒い蝶 (五)
今は待つことしかできないし、今日は大変な一日だったしそういえば怪我もしている。そういうわけで寝ることに異議は無かったが、今に翠さんに呼び出されるかもしれないし、京子に何かあるかもしれないと思うと眠る気にはなれなかった。
そのため自然と、まあ今日くらい真面目に魔術の勉強でもするかと思い立って、読みかけの『完備による有限への無限の包摂——結界のあれこれハンドブック』を手に取った。その途中で力尽きたようなタイトルと巨人の手基準の図体からするに、作者はその道の人々よろしく偏屈な人なのだろう。
だんだん眠気が台頭してきた頭で「第二章第三節 距離と空間の密度——突っ切るべきか回り道すべきか」を読んでいると向こうから扉が開く音と足音が聞こえた。京子だった。
「ああ、起きてたんだ。寝てなくて大丈夫?」
「何だか
僕は沽券の危険を感じてさっと、しかし余裕そうな振りを崩さないように本を閉じた。こんな夜中に気を詰めても良くないよ、と言って本を遠ざけはぐらかした。幸い彼女からもそれ以上の追求は無かった。
「そういえば遠乃井さんは翠さんのもとで学んで長いんですか?」
「一年半くらいかな。…そもそも僕自身バイトなのか見習いなのか雑用なのかよく分かっていないけど」
岡田京子があれ、バイト?と頭の中で整理するように首を傾げる。いや別に何も重要じゃないよと言って彼女の貴重な頭脳を解放する。それがかえって奇妙に聞こえたのか、彼女はくすりと微笑むように口角を緩めた。
「でも、何だか羨ましいです。私の周りは…良くも悪くもすごくきっちりした人が多いので」
彼女はそこまで言うと、慌てて手を振って、遠乃井さんや翠さんがきっちりしていないわけでは無いですよと取り繕った。その姿に思わず笑ってしまった。
「いや、本当にいい加減でしかないよ」
「ああ、いえ、ほんとそうじゃなくて…その、私の学校の人たちは相手に隙を見せたくというか、無意識に緊張してる感じなんです。だからお二人のようにお互いの少し崩れたところを突っつき合えるような関係が少し羨ましいんです。」
たしかに、あのお嬢様学校じゃそうかもしれないなと思った。
「まあ、でも隣の芝生ってやつかな。こっちからするとあの学校こそ羨ましいけど」
「そうなんですかね?やっぱり、やってみないことには分からないものなのでしょうか」
僕たちは互いに苦笑いした。
「遠乃井さんは、やめたいなと思ったことは無いんですか?」
彼女が一転、真剣な面持ちで問う。
「正直、この仕事は本当に危険だと思います。…死よりも恐ろしいことがあるかもしれません。よほど魔術に魅入られているのではない限り、報酬という報酬も正直、割に合わないんじゃと思います。遠乃井さんならもっとずっと良い道もあると思います。なぜ、そうまでして続けているのですか」
うーんと、ため息をつきながら考える。もちろん何でこんなとこ入っちゃったんだと思うことは毎日のようにある。理不尽な雑用ならともかく——ここにいなければ、知らなければ、これほど人が悲しむのを見ることは無かっただろう。そう思った途端、目の前の京子と出会うことになってしまった因果に、恐ろしさを感じた。
何か特別な力を持っているが故に運命に翻弄される人もいれば、何の力が無くともただそこにいただけで未来が捻じ曲げられる人もいる。どちらであろうと自らではどうしようもない力に従わされていることに変わりはない。そんな不条理を何度も見てきた。
「正直、いつも、”ここを出れば楽になるぞ"とか"お前まで巻き込まれなくていい"って考えが頭に浮かんでくる。だから、たぶん僕は、背を向けるだけの強さがないんだと思う」
京子の顔が曇った。
「——私が言うような立場でないことは分かっています。ですが——」
岡田京子の顔が悲しげに歪んだ。
「もし、逃げる勇気がないのならば、勇気を出して逃げるべきです。
もし、同情や罪悪感があるならば、ご自身のことだけを考えてください。
だからお願いします、こちらの世界には来ないでください。ここには貴方の思うどんな望みもありません」
その声は激しい後悔に震えていた。無論彼女に原因があるのかすら分からないし、彼女が望んで歩んできた道ではない。こんなはずでは。運命に絡め取られ自ら全てを壊してしまう罪を犯したのか、それともその罰として奪われたのか。どちらであろうとも、それは手から零れ落ちるように失敗して失ってしまった自分への悔悟だった。
だからこそ、と僕は思った。
「それでも、僕はどんなに言われても結局は逃げそこなうと思う。だったらいっそ、もう少しここで足掻いてみようと思う。少なくとも無事であるうちはそのことで少しでも、僕がいなかったら誰もできなかった何かできるかもしれないし、その分、自分の居場所ができるかもしれないから」
誰が言ったか、英雄の中には逃げ遅れだだけの奴がいる。望み薄とはいえ、少しでも普通の力ではできなかった何かができる可能性があるなら、それに賭けたいという思いがある気がする。いや、実際はただの逃げ損った言い訳だろうけど。
「誰かのために闘う人は、最後は自分も救われるべきだと思うんです。ただ、まだ生きているうちに」
彼女は目を伏せてつぶやいた。
その後床に横になると急に睡魔に襲われ、いつの間にか眠り込んだ。目が覚めた時はとっくに日が昇り、京子が朝食を作り始めていた。そして、いつの間にか帰ってきていた翠さんは部屋で眠っているとのことだった。丁度朝ごはんの支度が整ったころ、その匂いに誘われてか彼女も姿を見せた。三人で朝食を摂りながら昨日の翠さんの実験結果を聞いたところ、ゴーサインとのことだった。じゃあ本当に毒が効いたんですかと恐る恐る問うと、「人が石みたく固まると結構ホラーだったな」と感心しきりだった。やっぱり僕はただ闇雲に巻き込まれているだけなんだろうな、と苦いコーヒーを啜った。
それから三日して毒の用意が整ったとの知らせが芹山教授から届き、またあの研究室へ赴いた。今度は京子も同行することになった。教授は彼女を見て「ああ、あれが例の子ね」と呟くと、彼女は怯えたように身を強張らせた。
「ねえ、大学は決まってる?うちに来てよ!人手はいっつも足りないし、あなたはとぉっても面白そうだからさあ」
「いいから、早く渡せっ」
翠がぴしゃりと言うとデリカシーとは縁もゆかりもない教授は未練そうに話を切り上げて、注意を惹きつけるようにゆっくりと左手を挙げ指をパチンと鳴らした。
その途端、四方の壁や棚、天井に床が波紋のように揺れると、和朔たちのいた場所は両側に
教授に連れられてその中を歩いていくと、木組の広い空間の床に幾つかぽっかり穴が空いている酒蔵のような間に案内された。酒蔵は発酵の熱で暑いというがここは少し肌寒い。穴の中には何か液体が入っているようで、穴のすぐ側で誰か別の人が作業していた。その人物が来客に気がづくと振り返った。その人は教授と瓜二つ、いやむしろ本人だった。教授が二人いた。
「いやさ忙しくてさぁ、もう一人作っちゃった」
案内してきた教授の方が言った。
「ええっと、じゃあ本物は…」
「どっちも本物なんじゃない?少なくとも私は自分を本物だと思ってる」
「そうそう、私も自分が本物だと思ってる。ま、やることやってればどっちも偽物でもいいけどね」
二人の教授は仲良く言うと、そうそう、と足元の穴を僕たちに見せた。
「これがご所望の品ね。これをプール一つに五百ミリリットルぐらい入れればオーケー。冷やしてある時は何も起こらないけど、プールの水に入れれば塩素濃度に応じて一定の時間で毒が出るようになるよ。塩素はどこの学校でも濃度の規定があって使いやすいからね。そこの穴ごとに爆発時間をずらしてあるから、良さそうなタイミングのやつを使って」
中の液体は白濁していて生臭いような匂いがしていた。とはいえさほど強いわけではなく、プールの大量の水に混ぜれば一切分からないだろう。持ってきた保冷サーバーになるべくそそくさと液体を詰めて用を済ませた。
帰り際、二人の教授は異口同音に「それじゃ、また後で!」と付け加えた。薄々予想していたとはいえ、やはり彼女たちにとっては結果の気になる実験でしかないのだろうなと思い、ため息をついた。
毒を譲り受けると、車二台に分かれて担当の学校に忍び込み、毒を混入して回ることとなった。僕は岡田さんとペアとなり、街の西半分の高校を任された。その中には聖アリンに加え、中堅を絵に描いたような僕の母校もあった。
一校、二校と任務を達成して三校目、何を隠そうここが僕の母校である不動西高校だった。その名の通り不動尊を祀る近くのお寺が由来であり、実は聖アリンより歴史の長い高校だったりする。しかしそのWikiにある「著名な出身者」の項目は見出しにするまでも無いほど短く、かなりマイナーな分野が多い。宗教戦争はキリストの圧勝である。
「ここが遠乃井さんの母校なんですね」
僕が武道棟の正面玄関を翠さんから渡された万能鍵で開けている横で京子が興味深げに言った。目指すプールはこの棟の屋上にある。勝手知ったる場所とはいえ、夜の闇はその雰囲気を一変させるようだった。正面玄関から右に伸びる廊下から武道場に入れるが、今はその扉も全て閉められており、武道場の中は覗けなかった。中の見えない広い武道場の暗がりに、何か潜んでいるのではないかという気がして少し身震いした。
その廊下の手前、正面玄関入ってすぐの広いスペースには靴置き場と筋トレマシーンが数台並び、階段はそこを通った奥にある。
彼女が鼻をひくひくさせるような音がした。次いで咳払いの音がした。なるほど、お嬢様はここに染み付いた汗と制汗剤の匂いがお気に召さなかったようだ。
「さすがにここの匂いはキツいよね」
「いえ、そんな…まあ、でも、ちょっと」
出身者である僕を気遣ったのだろうが、その必要はない。僕もこの
「ほんと、僕がここにいた頃から夏は蝿が
蝿が集る、そう言ってふとあの蝶を思い出した。蝶が花の匂いに惹かれるなら、あの蝶は何の匂いに惹きつけれているのだろうか。ふと、一つの考えに思い至る。
死の匂い。
あの半壊した家のお骨、葬儀場どちらも人の死に関連している。間近な人の死に直面した人の絶望の匂い。もちろん偶然かもしれない。しかしその考えが妙に頭をもたげた。
そして、僕はどこかでそれに似た匂いを嗅いでいた気がする。
考え事をしていて歩みが遅くなる。どうかしましたか、彼女の声に引き戻され何でもないと答えた。今はこんな思いつきでしかない蝶の話はすべきではないだろう。ちょっと懐かしくてと付け加えると、彼女は暗がりの中で微笑み、また屋上へと階段を登った。
ペットボトルに入れた毒、良く言えば薬剤をプールの水に混ぜると、教室棟に入ることなく母校を後にした。良くも悪くも何も無い地域だったこともあり閑静な文教地区を売りにしていたため、他の高校も近くにあった。後は少し離れた聖アリンだけだった。もうすぐ夜明けも近い。
「本当に登校するの?まだ休んでいた方が…」
僕が尋ねた。というより暗に止めさせようとしていたかもしれない。彼女は聖アリンに仕掛けるにあたって、普通に登校して朝昼二回薬を撒くつもりだった。
「やっぱりあそこは私と多くの面で似ている人が多いから、狙われやすいと思うんです。その分二回薬を入れて万全を期したいんです。昼に忍び込むのは目立ちますから、ここは正攻法でいきます」
彼女の論理的な説明とは裏腹に、その顔は不安と決意がない混ぜになっていた。
「無理はしない方がいいよ、多分一回だけでも十分だろうし」
彼女は深呼吸すると呟くように言った。
「…でも、これ以上
僕がかける言葉に迷っているうちに、彼女は鞄を肩に掛け、よしっと言って車のドアに手を掛けた。一瞬見えた横顔には、いつかの牢で見たような責任感の強い凛々しい表情が浮かんでいた。僕が反射的に言えたのは、何かあったらすぐ連絡して、だけだった。
「それじゃあ、行ってきます」
彼女は普通でない思いとペットボトルを抱え、普通の日常へと溶け込んでいった。僕はその背中を見送りながら、やっぱり彼女もそう変わるわけではないんだな、と苦笑いした。
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