黒い蝶 (四)

 水浸しにして天井のガラスを割って、あまつさえ床を切り取るという、通った後はぺんぺん草一本生えない所業に我ながら震え上がった。あの蝶の標本は大きすぎたため車に入らず、翠さんがとある馴染みの商人に電話して軽トラをが来るのを待つことになったが、その間の指名手配犯の気分は忘れようがない。やがてむっつりとした男がやって来て僕たちに乗ってきたトラックを引き渡すと、一目散に僕らは葬儀場を離れた。

 乗り付けたのは山を切り開いて造成された大学のキャンパスだった。蝶は相変わらず板の上で静止している。重い板を二人で運びながら向かった建物には「生命科学・バイオーム研究棟」と書かれていた。キャンパスで最も高い建物のようで、そういうデザインなのか耐震対策なのか分からなかったが壁面に大きな筋交いが何本も通っていた。クリーンで新しそうな入り口を通り、箱を床に追いてエレベータのスイッチを押してやっと一息をついた。

「それで、そのお知り合いというのは本当にここにいるんですか?」

 僕が訝しんで尋ねる。寺社仏閣ならともかくこんな科学の拠点に魔法がどうのと言っている人物がいるようには思えなかった。何を言う、という顔で翠さんは答えた。

「私の技だって体系と再現性に基づくものだ。そこらの人間には知られていないというだけで…」

 そうこうしている内にエレベータが来た。最上階の十階のボタンを押すとエレベータは静かに動き出した。十五秒ほどで十階につくと人の往来を検知して暗かった廊下の照明が点いた。

 なんとなく気後れしている僕に構わずに翠さんが廊下を突き進もうとするので、二人の足並みが乱れ危うく箱を取り落としそうになった。ここだと言われた扉の脇には「芹山教員室」という札が収められていた。翠さんがコンコンとノックをすると、はぁい、と間延びした声が聞こえた。がちゃりと開いたドアの向こうから灰色に白が混じった髪を雑に束ねた女性が出てきた。その近所のおばちゃんを思わせる女性は板に目をやると、あらと嬌声をあげて細い一重の目をさらに細めて愉快そうに顔をほころばせた。

「いらっしゃい、私の実験室へようこそ!」

 僕たちは挨拶する間もなく部屋に入れられた。


 芹山教授の部屋は翠さんの部屋のようにコレクション兼研究対象に囲まれていた。ただし明確な相違は教授の部屋のそれは綺に麗棚に陳列され床の上に物がない点だった。彼女の研究対象は生命と環境との関わりといったところで、三方の壁の棚には博物館のように数々の標本が飾られていた。熱帯から寒帯に至るまでの蜘蛛、サメや蛙も含む水生生物の皮膚、茎から何十もの未成熟な黄色い花が飛び出ている放射線汚染されたタンポポなど多岐に渡る品々が並んでいた。果てはホルマリン漬けにされた数々の生物の目玉や縦半分にぶった切られた嬰児の右半身まであってギョッとした。

 「あらもうこんな時間?陽の光が差さないとつい時間を忘れちゃう」と言う部屋の中には日光による劣化を避けるため窓がなく、その珍品に囲まれた部屋の中央にアンティークの重厚な机が鎮座している。僕たちが持ってきた蝶の標本はその机の上に置かれたが、天板よりも大きくてはみ出している。彼女は「あら美しい蝶!」と歓声を上げた。蝶が見えるということは、たしかに同業者なのだろう。

 僕たちがこれまでの経緯を説明している間、教授は感嘆の声を上げながらしげしげと黒い蝶を見つめていた。教授の細い目の表情は外見では読みづらいが大層面白がっていることはわかったが、僕たちの説明を聞いていたかはわかりかねた。

「ねえこれ生きてるんでしょ?釘みたいなの取っ払ってさ、動かしてよ」

 教授には生物にとって最も大事であろう恐怖という感情が欠落しているようで、毒ガスでも吹かないかなと期待さえしている様子であった。もっとも翠さんもこのために生け捕りにしたので、蝶の胸からピンを引き抜くと途端に蝶が抵抗するように動き出した。教授がワオ!と声を上げる。

「女子高生の親ばかりが狙われるってねぇ…普通の蝶基準なら卵から三ヶ月で成虫になるから厄介だこと。あなたのことだから何かサンプルでも採ってきたの?」

 教授が尋ねると翠はバッグから底が赤く染まった小瓶を取り出した。安斎友恵の血だった。教授は小瓶を受け取って眺めると机から針を一本取り出して先を血にちょんと浸す。針先の血を綿棒になすりつけると、血の付いた綿棒を蝶の前脚に近づけた。するとそれまで宙をもがいていた脚が、綿棒をドラムのように叩き出した。教授は何度か小さくうなずくといきなり和朔の手を引っ掴み、袖をめくると今朝の一件の怪我による絆創膏を引っ剥がした。彼が呻くのにも構わず血の付いた絆創膏を先程の綿棒のように蝶の前脚に近づけた。蝶は最初は先程のように絆創膏を叩いたが直後、興味を失ったように絆創膏を無視してまた脚が宙をもがき出した。

 教授はちょっと待っててと言って部屋を出ていった。この期を逃すなとばかりに和朔は翠に問い詰めた。

「一体なんなんですか、あの人」

「まぁ同業者だ。彼女はこの世界とそこで起きる生命という現象の関連に興味があって、そういう点では科学にも熱心なんだ。環境が生命をつくるなら、生命の意思や願望が逆に世界に影響を及ぼすんじゃないかという仮説で魔術の研究もしているんだが…」

 廊下でパタパタという足音がしてドアが開く。教授の手には試験管立てが握られていた。二十本くらいの試験管はどれも底が濃い赤色に染まっていた。

 まさか、と思ったら案の定「ちょっとそこら辺の人の血を採ってきたのよ」と平然と言ってのける。和朔たちの顔色を一切気にすることなく、彼女は手早く準備を始める。その試験管のシールには○○クンなどと犠牲者の名前が記されていた。

 一本、また一本と血に浸した綿棒を蝶の前脚に近づける。多くの場合反応は無かったが三回だけ蝶が激しく反応した。

「あらほんと、女子高生の親だけは反応するみたい」

「…そんな奇妙な力を持っているんですか、この蝶は」

「ううん、蝶としては当然かもしれない。蝶ってさ、卵を産む植物を厳格に選ぶのよ」

 そういえば理科の時間にそんな話を聞いたことがあった。ナミアゲハは柑橘系、キアゲハはセリ科の植物のみに卵を産み、幼虫はその種類によって決まった植物の葉や茎だけを食べる極端な偏食家なのだと。

「前脚に蜜柑の葉とかに含まれる特定の成分に反応するセンサーがあって、何度も叩くように触ってみて産卵に適した植物かを判断してるのよ。雄は卵を産まないから雌ほどはその感知能力は高くないけれど、反応できるくらいにはあるからね。種ごとに別の植物に特化することで一つの植物の奪い合いを減らそうとしてるって考えられてるけど」

 いつかのイメージがまた頭をよぎる。人の心を蜜として吸う黒い蝶と、人に取り憑きその生を根本から食い荒らす芋虫たち。そして取り憑かれ芋虫の供物になるのは京子の両親ら、花盛りの娘をもつ親たちだった。その一つ一つの家が蝕まれ壊れていく様を考えるとまた胸が締めつけられる思いがした。

 そして——その家の数はこの街では数千に上る。広い街の中、女子高生のいる家を一軒一軒探し出して全て検査する。もしかすると未検査の親に取り憑いていた幼虫が、検査済みの別の親に乗り換えるかもしれない。そうなればまた全件調査は振り出しに戻る。とてもではないが僕たちだけでは、いや鴉たちの力を借りても困難だった。

 なにか大規模にやる方法はないだろうか。そうだ、街中のスピーカーから翠さんの笛の音を鳴らすことはできないか。そう提案したが、険しい顔をした彼女が首を横に振った。

「音の魔力は無限の細部に宿る。いくら高音質なスピーカーでも零と一の電気信号の羅列で区切られたらその力を失う。だからといって街の端から端まで聞こえるような巨大楽器を作ったとしても、今度はそのでかすぎる音で全てを破壊し尽くしてしまう」

 ううむと一同沈黙。磔にされた蝶の脚だけが嘲笑うかのようにせわしなく動き回っていた。その時、教授がふと呟いた。

「そういえば、その幼虫に寄生されると、芋虫が這っている幻覚がするような統合失調症的な症状が出るんだってね」

 教授は腕を組むとちらりと天井の方を見上げしばらく思案ていたが、どこに置いたっけと独りごちながらまた部屋を出て、今度は小瓶を一つ取ってきた。

「それは?」

 翠が怪訝そうに尋ねると、教授はちょっと愉快そうに小瓶を振りながら答えた。

「とあるキノコの胞子。精神的な疾患を抱える人がこのキノコの成分を体に入れちゃうと、体が石のように固まって動かなくなっちゃうの」

 教授はますます疑わしげな目になった二人の聴衆を見て、かえって饒舌に語った。

 曰く、そのキノコの毒は脳や神経における元々バランスの崩れた神経伝達物質の平衡を、ますます悪化させる力があるという。その結果、度が過ぎた伝達物質の過不足を引き起こし精神疾患における発作的な症状の一つである緊張病カタトニア、体が硬直してしまう症状を誘発する。

「GABA-Aレセプタの機能低下とか、ドーパミン代謝の低下によるグルタミン酸過剰とかをひどく悪化させるみたいね。あ、君は興味ない?まあいいけど。緊張病は過剰な抗精神薬の副作用で生じることもあるみたいだけど、本来は捕食動物を前にした被食動物が恐怖のあまり金縛りにあうことに由来しているんじゃないかって思う。突然動くとかえって襲われやすくなるからね。今回のケースでは蝶に喰われちゃうみたいな疾患様被害妄想が症状として出ているみたいだから、試してみるのも面白いかもよ」

 教授の漢字カタカナ英語を捲し立てる説明には開幕直後から置いて行かれたが、つまりは幼虫が人の生命を喰うことで引き起こされる精神疾患症状を、ますます悪化させるということだろうか。それは…

「むしろ最悪の事態ですよね?」

「そ、一見そうなんだけど…」

 今度こそ満面の笑みを浮かべた教授が言葉を継ごうとした時、翠が口を挟んだ。

「その毒をバラ撒いて芋虫の宿主となった人をぶっ倒れさせて、病院に集めると?」

 教授が至極残念そうな表情をして「もう先に言わないでよ」と悪態をつく。

「うん、まあ、そういうこと。患者さえ集めてしまえば、あとはあなたで虫くだしはどうにかできるんでしょ?」

 翠の目はそれで良しと言っていた。突破口は見つかった。あとは、それをどう実行するかだけだ。

「バラ撒くと言っても市民全員には人手もキノコ自体も足りないだろう。第一無関係の精神病患者まで巻き込みかねない。幸い今回は対象は分かっている。女子高生の家族に行き渡ればいい。しかしどうするか…」

 僕はふと昼間見かけた小学生の姿を思い出した。彼らはみんな手に同じようなものを持っていた。プールの水着を入れるバッグだ。それなら高校生だって——

「学校のプールにキノコのど…成分を混ぜるのはどうでしょう。プールに入った人に成分というか…毒を染みつけて、家にいる親の元まで運んでもらうというのは」

 自分が無差別テロに加担している気がしてならなかったが、これは人命のためだと自分に言い聞かせた。しかしその気遣いは教授には全く不要だったらしかった。

「水に毒を混ぜる!ぜひやってみるべきよね。うまいこと分子カプセルにして丁度帰宅する時間に毒を揮発させて…時限爆弾も作れそう」

 毒には毒を、蛇の道は蛇。しかしこの人とは早々に縁を切るべきである。倫理という言葉の対極にありそうな教授の不敵な笑みに思わずゾッとした。ゾッとするということは、僕はまだ人の道の土俵際に踏み止まっているのだろう。

「毒キノコの栽培は得意だけど、それでも三日はかかると思うから、楽しみに待ってて!」

 医は仁術なり、僕は今日ほどその言葉を疑った日はなかった。

 

 大学を出たのは午後八時近くだった。初夏とはいえ既に周囲は薄暗く、西の山際がごくわずかに沈んだ太陽の残光に赤く縁取られていた。そういえば東の空がこんな風だった今日の朝を思い出す。黒い蝶が人を喰いものにする様を目にし、家の半壊に巻き込まれ、家々に侵入して、葬儀場で蝶を捕まえ、そして大学で物騒な博士と物騒な計画を練る。どちらかといえば肉体的には数の多い怪我くらいだったが、精神的にはこの目眩く一日でヘトヘトだった。それにつられ神経と筋肉までいらぬ疲労を訴えているようだった。

 ようやく今日は事務所に帰るのだということを思った途端、京子のことを思い出した。病院で目覚めた直後、翠さんの口から彼女は無事だとは聞いてほっとしたが、そのせいでかえってあまり気にかけられなかった。勝手に事務所にいるものだと思っていたが、彼女は大丈夫だろうか。

「あの子なら確かに事務所へ帰して休ませた。ここ最近はずっと私たちと一緒だったから少しひ独りにさせた方がいいかと思ったが…動かないと気が済まなそうな性分だから、じっとさせるのは逆効果だったかな…?」

 翠さんは少し困ったように言った。両親を奪ったあの蝶と向き合うことになったのだ。たぶん、できれば翠さんも彼女の傍にいておきたかったのだろう。しかし問題が解決していない今、それはできなかった。かといって僕がいてどうとなる話でないことは分かっていたが、それでもどこか罪悪感のようなものを感じた。

「…たぶん今回の件は顔の無い男の話と関係がないわけじゃないと思う。あれは地縛霊的なものだったから外に影響が及ぶことはないと思っていたけれど、本当なら関わった子たちのフォローをしとくべきだったかもしれない。特に彼女はあんな性格だから、本当に大事になるまで話しに来ないことぐらいは想像すべきだった。…そういう意味じゃ、私にも責任があるんだろうな」

 珍しく彼女が弱音を吐いた。たしかにそう思うことはある。強すぎる力には責任が伴うと言うけれど、あまりにも過酷すぎるのではないかと。

 そういう雰囲気だったから、僕も少しくらい思っていることを言う。

「…時々、思うことがあります。この力はほとんどの人が使えない力だからこそ、一度関わってしまうとあらゆる責任を負うはめになってしまうんじゃないかって。零か一じゃなくて零か百しかないみたいな。ただ…それはあまりに、自分から未来を閉ざしている、という気がするんです」

 そこまで言っておいて、息を継ぐように見せかけて言葉を探した。

「だから、せめて変えられた一、どんなに小さくても本当だったら何もなかったはずの所にできたきっかけが、いつか予想もつかないことにつながるんじゃないかって…まあ、そう思うようにしています。そしてそれが必要な限り、いつか一から百に埋めてくれる人が出てきてつないでいってくれればなって。…完璧さまで求められたら僕こそ真っ先にクビですから」

 それもそうだろうな、というように彼女は夜道を見ながらかすかに笑った。話を切り上げるように、そういえば、と翠さんが付け加えた。

「あの子、お前に怪我をさせたことを心底申し訳なさそうにしていたぞ。無事な姿を見せて安心させてやれ」

 言われなくても。何もできないようなら、なんてこと無いというぐらいには堂々としていなくては。あんなデリカシーの欠片もないマッドサイエンティストを見たせいか、切にそう思った。

 

 それから事務所に帰ったのは晩御飯時にはかなり遅い時間だった。大学を出た時に京子には僕から電話をしたが、彼女が電話に出た時は正直心底安堵した。僕は大丈夫だと言い張ったが、彼女は終始申し訳なさそうな姿勢を崩さなかた。とりあえず晩御飯をどこかで買って帰ると言ったところ、なんと彼女は自分が用意しておくと豪語した。無理はさせたくなかったが、彼女のことだから何かやることがあった方が気が紛れるかもしれないと思ってお願いすることにした。

 事務所に帰り着いた僕たちを待っていたのは素晴らしいご馳走だった。ピーマンや赤いパプリカ、大ぶりな海老やアサリなど具沢山のパエリア、色とりどりの夏野菜に特製の和風ソースのかかったサラダ、鶏肉のトマトソース煮込み、とうもろこしの冷製スープ、最後にデザートの抹茶ババロア。こんな手の込んだ料理が並ぶ光景は料理器具メーカーのCMでしか存在しない都市伝説だと思っていた。

 悲しいことに感性の貧しい僕らは、これ作ったの?と月並みな反応しかできなかった。粗食が常食の僕たちにとって、美味しそうという感情より、自分たちが食べてはいけないのではという卑しい警戒が先行した。

「二人とも——両親は、料理好きだったんです。私もよく手伝っていました」

 その顔は一瞬目を伏せ、笑みと懐かしさと、切なさが混ざり合ったような複雑な表情を浮かべた。しかしそれはパッと切り替わり、久しぶりだったのでとか、パエリアと鶏ってどっちも味濃いですかね、とか表面的な快活さの裏に消えていった。

 それじゃ、早速頂こうと翠さんが言うので僕も最後の配膳を手伝い席に着き、食べ始めた。翠さんがパエリアを口に運ぶと、口にまだ頬張ったまま「これは美味い」と目を輝かせた。同時に僕に対してなんでお前はこれくらいできない、という謂れない非難の目を送ってきた。シェフになるだけの給料はもらっていない、と即座に目で反論した。

 料理はどれも見た目通りとても美味しく、話も弾んだ。そういえば食卓を囲むのも久しぶりだっけとも思ったが、目の前の食事に夢中でそれ以上考えることを忘れてしまった。

 食事を終え片付けも済むと、何となく現実に引き戻されるような感覚がした。二人もそうなのか、自然と口数は少なくなった。

 その雰囲気を悟ったかのように切り出したのは京子だった。

「それで…あの計画というのは」

 彼女には今日の出来事のごく一部しか伝えていなかった。今後のこと、特にあの毒キノコ作戦のことを翠が話すと彼女はギョッとして身構えたが、やがて説明に納得したように落ち着きをとり戻した。

「それじゃあプールにそのキノコエキス…パウダー?を入れなきゃならないんですよね」

「この街の、たしか十五校だったかな。夜中入ればいいし、別日に分けたっていい。そりゃあ早いに越したことはないが…」

「それ、私にやらせてください」

 京子は言い切った。内容自体はそう困難でないとはいえ、彼女の存在があるのはありがたいことではある。現役の女子高生なのだから昼間学校に侵入して追加投入をしても怪しまれにくいし、当然聖アリンでやるのなら彼女が適任だ。しかし彼女の真意はそこではなかった。

「自分でやりたいんです。少しだけでも。…それが何か私にとって意味あることになるのかは正直わかりません。でも自分で何かできれば、いつかそれが何かの…」

 そこで彼女は言葉を選ぶように一拍置いた。

「道標みたいなもになるんじゃないかって思うんです」

 彼女は噛み締めるように言った。与えられたものかもしれなくても、自分で何か闘えたんだ、変えたんだという思いが欲しい。理不尽に全てを奪われた彼女ができる、精一杯の反抗だった。

 翠は一言、そっか、と呟いた。そしてまたさらりと、

「それなら、こっちとしても願ったり叶ったりだ」

 そう言って立ち上がると彼女の肩にポンと手を置いた。京子は堪えるように小さく頷いた。

 

 その晩、夜遅くに翠さんは事務所を出ていった。昼間のマンションの家族や付近の女子高生家族も含め、蝶についての確認と毒の実験をするそうだった。あの教授も一緒とのことだった。僕もついて行こうとしてが、事務所に残るように言われた。

「一応あのストレンジラブは優秀だから問題はないだろう。それよりはここにいること。話はしなくても、傍に誰かがいるだけで少しは安心するだろ」

 岡田京子は既に部屋に籠もっていた。まだ起きているのか、寝ているのか音のしない部屋ではわからなかった。ただ、せめて「普通の」時間が過ごせるよう、頑張って普通の振りをするのが今の僕の任務だった。

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