黒い蝶 (三)

 僕たちは夜明けに訪れた住宅地に舞い戻ることとなった。蝶が訪れたという家に向かう前に、今朝のあの家に寄っていくことにした。だが屋根が見えそうな距離まで近づくと警官が迂回誘導をしており、その背後にちらりと見えた半壊した家屋には既にブルーシートが掛けられていた。通りの向こうにはテレビ局のアナウンサーと思われる大きなカメラを前にする人の姿があり、さらに午後の授業を終え帰っていく小学生の一群とすれ違った。閑静な住宅街で爆発事件、住人負傷、原因不明ということで集団下校となったようで、見ると男の子達が真剣そうな顔で話し合っていた。きっとスパイチームとかなんとか称して壊れた家を探しにいこうと画策しているのだろう。それぞれ水泳の授業用の水着と思われる透明なビニールバッグを持っていて、光の反射がどこか幻想的な気分にさせた。まだ午後二時に差し掛かった昼過ぎの住宅街にしてはあまりにも奇妙な光景だった。

 目的地はそこから数百メートルと離れていないマンションの一室。それは一軒家が立ち並ぶ住宅街の中からひょっこり伸びたビルで、八階建てで各階四つの部屋をもつファミリーマンションだった。築十年で朝訪れた家よりは新しい。先導した鴉は駐車場脇の木に止まると僕たちを見下ろして素気なく説明した。蝶はこのマンションの二階、四階、七階に一部屋ずつの計三部屋にしばらく留まっていたという。嫌な気分がした。また家族が襲われたのか。見上げたマンションが一部屋一部屋、虫食いのように荒らされていくイメージが浮かんで思わず目をそらす。すると丁度その視線の先に五十代くらいの男の姿が管理人室と掲げられた部屋に入っていくのが見え、すぐに窓口のカーテンが開いてさっきの男が顔を覗かせた。

 「あれ、管理人さんですかね」

翠さんに声を掛けると「丁度良かった。オートロックは面倒だから」と言いながらエントランスに入っていった。

 エントランス脇の管理人室の窓口に立った翠は、ここに住んでいる人のことが知りたいと尋ねたが、管理人は少し困ったように個人のことは教えられないと言った。悲しい男の性か、そのよそよそしさと鼻の下を見れば明らかに翠のことがまんざらでもないようだ。それを知ってか知らぬか翠は十八番の技を繰り出す。

【どうしても知る必要があるんです】

 本人曰く、聞く者は命令を実行しなければならないという抗い難い衝動に駆られる声。好きな物を欲する衝動と嫌いな物を避けようとする衝動の二つの報酬を刺激するのがコツ。

 技のせいか彼女の美貌か熱意のおかげか、管理人は「まあ、それなら」と腰を上げて翠たちを室内に案内した。奥の鍵付きの棚を開けてファイルを取り出すとそこには住人の家族構成や勤務先の情報が書かれていた。「ええと、二○一、四○二、七○四ね…」と独りごちながらページをめくると、それぞれ数枚ずつの紙束を取り出した。そこには蝶が訪れたという部屋の住人の情報が記されていた。

 二○一号室、林家。両親と二人の子供。一人は女子高生でもう一人は男子中学生。四○二号室、山内家。シングルマザーと男子大学生、女子高生の三人暮らし。七○四号室、安斎家。両親と女子高生の一人の娘。僕たちはおやと顔を見合わせた。

「三室とも、それに岡田さんも朝の家も、みんな女子高生がいますね」

「偶然とは、思いにくいな」

 このマンションはオートロックで,部屋に出入りするには入居者を呼び出す必要があった。しかしこんな昼間に見ず知らずの二人組が怪しげな理由で面会を希望しても無駄だろうと思われたため再度管理人に「お願い」をして中に入った。

 まずは二○一号室の林家に向かう。段取りとしては適当に管理会社の者だが話があると言って、出てきたところで何か異常がないか見極めようという作戦だった。そのために鴉から場所を聞いた時にスーツに着替えておいた。加えてなにかの役には立つかもと、ついさっき管理人から住人情報や部屋に関する書類を拝借しておいた。林家のインターフォンを押す。しかし返事がない。「留守でしょうか、それとも」と僕が言う傍で翠はまたあの秘密道具を取り出して鍵を開ける。

 はばかりながら入っていったが家人の姿は無い。住人情報によると共働き家庭らしく日中は家に誰もいないようだ。

「卵が産み付けられていないか、直後は大きな症状はでないのかな」

「おかしな点は無さそうですが…」

 ふとリビングのテーブルに目をやると市販薬が置かれていた。CMでもやっているイライラや不安を落ち着ける、七つの生薬配合をうたっている薬だ。新しい。すぐ隣のコンビニで買ってきたばかりだろう。

「何か精神的な不調でもあったんでしょうか…」

 気にはなったが家人がいないことにはどの道現時点で確認する方法はない。具体的な進展としては「夜中にでも来よう」と泊まり込みの無期限延期が決まったぐらいだった。

 四階の山内家に向かった。しかしここも留守で、家の中に大きな異常はなかった。夜明けに一回、午後に二回の夏のお天道様への冒涜的な無断侵入の数々。今日通算四軒目、この二十分間のハットトリックとなる無断侵入を決めようと三軒目の安斎家に向かったところ、驚くべきことに人がいた。専業主婦の母親、安斎友恵であった。当然の結果であるはずなのに多少面食らってしまったが、家の更新が云々と口から出任せを言うとリビングに通された。

 玄関を上がり洗面所、浴室、洋室を通り過ぎてリビングに向かう。これまでの二部屋と同様の間取りの何の変哲も無い一室。ダイニングテーブルの上にそれっぽく書類を広げ待っているとお茶が出てきた。どうもその姿が少し弱々しいように感じられた。見ると具合も悪そうでやつれているようだった。「お風邪ですか」と僕が尋ねると彼女はええ、と頷いた。

「何だか気分が落ち着かないというか、動悸がするというか…頭痛もして。主人もそうみたいで、風邪でしょうか。こう、変な感覚もして…」

「変な感覚というと?」

「なんかこう…身体中を芋虫が這っているような、食いつかれているような…」

 ああすみません、こんな変なこと、と安斎友恵は切り上げた。風邪だと納得させるように、感染っちゃいけないから、と付け加えて小走りにマスクを探しに行く。その隙に翠が小声で和朔に耳打ちした。

「間違いない。彼女の体には蝶がいる。たぶん父親の方も」

 自然と拳を握っていた。急な精神不調のような初期症状があるとすると、一軒目の林家もそうかもしれない。二軒目の山内家も見てみる必要がある。

 翠は何か考えがあるように「適当に話しをして注意を引け」と和朔に命じた。そうしているとマスク姿の安斎友恵が戻ってきた。

 翠は「それじゃあ今日は確認だけ」といって安斎友恵の隣に座り書類を横から差し出した。彼女が僕に目配せする。突然のことに戸惑ったが意を決し、ちょっと深刻そうな顔をして安斎友恵に向き合い、実は先日の住宅不正融資の件でこの物件が…とか切り出す。彼女がえっ、と目を丸くしている脇で、翠さんは何か物を取り出していた。

「それって別の会社じゃ」

「えっと、ここの親会社の委託先が…」

 和朔が何とか話をつなげていると、翠は安斎友恵の首筋に手を寄せて極細い針のようなものを突き立てる。すると刺された痛みを感じないほどの細い注射針から毛細管現象と血圧によって自然に血が流れ出し、それを小瓶が受け止めた。その間も和朔は「あくまで居住実態の確認です」「この住人情報に間違いはないですか」と時間稼ぎを続け、やがて小瓶に蓋がされ針も引き抜かれた。

 丁度話のネタも尽きたところで翠は何事もなかったかのように、これにて終了ですと締めくくった。二人は口々にすみませんこんな時にとか、お大事にとか言いながらそそくさと家を出ていった。

 時計を見てもまだ午後三時前。ひとまず住人が帰り寝静まる夜まで待つしかないか。そういえばあの血は何に使うのだろうか。そう思いながら外へ出ると先ほどの鴉が近づいてきた。

 もう一匹の蝶が見つかったという知らせだった。

 場所はここから約三十分ほどだったため休む間もなく向かうことになった。車に乗り込もうとすると翠さんが鴉の方を振り返った。僕らはまた鴉の先導で車を走らせた。


 車は国道を流れるように走り、次第に道路脇に畑やスーパー、車のショールームが点在する郊外の造成地を進んでいった。市民球場と陸上競技場が併設された運動公園の脇を通った。そういえば小学四年生だったか、ここで市内の学校の同学年が全員参加する記録会に出させられたことを思い出した。誰も出たがらない八百メートル走を押し付けられ、往復のバスの中でふてくされていたことをよく覚えている。今思い出してもむっとするなと再確認していると鴉が高度を下げていった。その先には市営霊園と、広い駐車場に車が少なからず止まっている斎場があった。

 斎場の入り口には「吉見家御通夜」と書かれた立て札がかかっていた。僕たちは直前までスーツ姿の不動産屋に化けていたから係員の女性は弔問客だと思ったらしく、すぐに会場に誘導された。案内された会場は天井が高さ十メートル近くある吹き抜けで、白い壁が上まで伸びていた。天井近くには採光用のガラスがはめられ、あたたかな別れの場というよりはむしろ神々しさや荘厳さを感じた。木の床は長年の摩耗による光沢を放っていて、足を踏み入れると中身の詰まった木特有の少し高い足音がした。祭壇の中央には白い棺が置かれ、故人の顔写真が飾られていた。

 写真の中の故人――吉見尊志は笑っていた。三十代か、四十代前半だろうか。筋骨の張った顔をほころばせ、襟元からジャケットが覗いている。目線が微妙に逸れていているところを見ると、なにか趣味にでも興じている最中に誰かが撮った写真なのだろう。奥の白い花壇には勤め先なのかオーヤマハウスデザイン株式会社という名前や、高校の部活の同窓会、そして家族一同の札が立てられていた。棺の横のパイプ椅子では三十代くらいの女性が痙攣するように腰を折りながら泣き続け、傍らにいる年配の男性がその肩を擦っていた。さらに男性と同年代くらいの年配の女性が一人の幼い子どもを脇に抱え、その子の顔が胸に埋まっていた。あれが、亡くなった吉見尊志の家族、妻と両親と子供なのだろう。

 そして――まるで子供に大きな羽が生えたように、子供の背には黒い蝶が止まり、細長い口吻を突き立てていた。

 人の夢や悲しみを糧とする蝶…蝶は翅を満足そうにゆっくりと大きく動かしていた。参列者たちは何事もないかのように席に座りじっとしている。その静の会場で不自然に大きく動く翅はまるで現実味がない。和朔のこめかみが心臓の鼓動を反映するようにぴくりぴくりと動く。翠は既に笛を手にしていた。彼女の考え、それはあの蝶を「捕まえる」ことだった。

 和朔の方を振り向いた目は用意はいいかと訴えていた。彼は小さく頷いた。それを見て取ると、右手の人差し指と中指を立て拳銃のように天井の火災報知器に向けた。指先がパッと光る。直後、けたたましい警報音とともに会場中のスプリンクラーが一斉に作動した。


 会場は突如パニックとなり人々が口々に悲鳴をもらすも、ここから出てた方がよいのかもわからず右往左往していた。咄嗟に一人のスタッフが棺桶の蓋を閉じて水が入らないようにし、続いて会場に二人のスタッフが駆け込んできて声を張り上げながら避難誘導を始めて合図とともに棺桶も急ぎ搬出された。もはや遺族すら故人どころでなくなり慌てて動き出すと、蝶も驚いたように子供の背を離れ、雨の降りしきる会場をひらひらと舞っていた。

 水に覆われた会場に翠が歩み出て落ち着いた笛の低い調を奏でた。すると床の水が意思を持ったかのように一箇所に集まっていく。集まった水の塊が床から立ち上がり人の背丈ほどの像となった時、目が覚めるような高い笛の音が響き渡る。

 その瞬間、水の塊が弾かれたように花壇に伸びると、白い花を花弁一枚一枚巻き上げ勢いそのままに彼女を中心として渦巻くように水が駆け回る。花びら一枚、水滴一つが煌めく、無数の花弁と迸る水が織りなす真っ白な奔流だった。蝶は真下で繰り広げられる水のショーに気圧されたか、会場の中心でふわりと上に逃れようとする。しかし突如奔流は十本以上の細い分流となると一斉に蝶に向かって四方八方から襲いかかる。蝶はその巨体を右へ左へ揺らしながらその追跡を躱そうとする。しかしその勢いと数の前に為す術もなくたちまち絡め取られる。細い流れの一本一本は蜘蛛の網となって、黒い蝶を荒れ狂う白い檻の中で転げ回していた。

 その姿を見つめていた翠はヒュルヒュルっと軽やかな音を鳴らすと蝶を抱えた水の塊が下へと動き出した。目線ほどの高さまで蝶がゆっくり引きずり降ろされたかと思うと、砲弾のように床めがけて叩きつけた。蝶はなお水と花弁の鎖に拘束されたまま翅がぴったりと床に押し付けられている。

 そして翠の手には、長さ三十センチほどで片方の端に菱形と唐草文様が組み合わさった飾りのついた、杭ほどもある五本の針が握られていた。彼女は動けない蝶に歩み寄ると左右のそれぞれの前翅と後翅に一本ずつ針を打ち込んだ。その度に針を打ち込まれた翅は凍りつくように静止した。すべての翅の動きが止まると残された一本の針を蝶の中心の胸に打ち込んだ。打ち込まれた瞬間に蝶が一度だけ体をのけぞらせたが、それまでだった。蝶は一切の動きを失って床に磔にされていた。最後にまた笛の音が一つすると、バリバリという大きな音と共に天井のガラスが粉々に割られ、無数のガラス片が床に降り注いだ。ガラス片は蝶の周囲を囲むとその鋭い切り口は蝶を型どるように木の床を走って、ついには床板を切り離した。

 それは巨大な蝶の生きた昆虫標本だった。

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