黒い蝶 (ニ)

 僕らは事務所へと戻った。いつ烏が連絡を寄越してくるかも分からなかったため、泊まり込みをすることになった。もとい京子は既にここの住人だったため僕も加わることになったわけで、帰る途中に自分の部屋に戻って当座の泊まり支度をした。急かされながら逃亡犯のように慌てて荷物をまとめたせいで、洗面器具一式を忘れてしまったことに後から気づいた。しかもその甲斐虚しく夕飯時になっても烏からは何の音沙汰も無い。

「夜中には来ないだろう。彼らは夜目がきかないから」

 翠さんはそう言いながら、ついさっきコンビニで買ってきたデミグラスソースのかかったオムライスを食べている。僕はカツカレーを、京子はサンドイッチを食べている。節制をしているわけでもない女子高生の夕食にしては量が少ない気がしたが、ここへ来た直後はほとんど何も食べられなかったことを考えればよい方だろう。今の所、この夕食では蝶に関する具体的な話は出ていなかった。問題は山積ではあったが打開策の一端は見えたため、一時のまともな休憩であった。主に僕と翠さんが口を動かしていたが、おずおずと京子が切り出した。

「あの烏たちは一体何者だったんでしょうか」

 翠さんは「何もそんなに珍しいものでもない」と答えたがそれこそ俄には信じ難い話であったが、それよりも大事なのはあそこで烏と交わした「契約」なのだという。

「あれは<ファミリア>――ようは使い魔の一種にするための契約だ」

 使い魔、魔女の使う獣。その「契約」が履行されている間は魔女に従い、手足のように使役されるという。その時、ふとあの屋上で去り際の烏の左翼に五芒星のような模様が浮かび上がっていたような気がしたことを思い出した。あの時は目の錯覚だろうと思っていたが、それこそがファミリアの印なのだという。あの契約に縛られている以上、烏たちは間違いなく蝶の捜索を行ってくれるという。だが契約といえば…

「問題は私の方だな。もし向こうが約束を果たしてしまったら、私も約束を守らねばならない」

「それってあの顔の無い男と交わしたような——」

「まったく、売り言葉に買い言葉といえ何であそこまでしたかな…?」

 彼女のプラン、というか胸算用によると山を丸ごと買えば何とかはなるだろうとのことだったが、どうやって山を買うのかは後で検討するとも付け加えた。当面はあの山に入っていく重機を片端から吹き飛ばして文言を守ると言った。いくら数が多くても、鴉じゃブルドーザーをひっくり返せはしない。幸い機械をぶっ壊すのは彼女の趣味兼特技だ。

 僕が命令を粛々と守ってしまったせいだろうか。頭が痛くなった気がして、ため息混じりに首を振った。


 その晩から泊まり込んだが、畏れ多くも僕は応接間の一人掛けのソファを寝台にあてがわれた。そこら辺の床の上でないだけ尊厳を認められたのかと思ったが、座り姿勢のまま眠るというのはどうも寝付けず、初日の数時間で既に諦めて床に寝た。

 それでも烏からの連絡はなく、日中は刑事よろしく足で稼ごうとするも徒労に終わった。ビルの谷間、住宅地、郊外の登山道、この広い街を三人で探し回っても人の足では広大な地図にか細い線を引くのがやっとだった。横になるとここ数日のことが次々と思い出された。しかしそれだけ身体の疲れも幅を利かせてくるようで、気づけばうつらうつらと、ついには眠りこけてしまった。

 三日目の朝、コツコツという音が聞こえる気がして目が冷めた。見渡すと部屋は物が何とか見える程度には白んでいたが、まだ夜明けとも言えない時間であった。まだ夢見心地であったがコツコツという音が確かに、断続的に聞こえた。音のする方向を見るとガラス窓で、その向こうに黒い影があった。鴉だった。鴉はコツコツと嘴で窓を叩いていたが、僕がその姿に気づくとカアと一声浴びせた。僕はハッとして飛び起きると慌てて二人を起こしに急いだ。

 京子はさすが聖アリン生と言うべき寝起きからの切り替えの早さで凛とした表情を見せた。対して翠さんは魔女はこんなもんだろうと言うべき夜明けの光への弱さと顰め面を見せた。しかし実際に鴉を見るとすぐに車を準備させた。

 鴉は頭上高くを飛びながら僕らを導こうとしていた。そのため僕はその烏を目で追いながら同時に地上の信号や道や、時折現れる対向車を確認しながら運転することとなった。助手席からは「あっちへ行った」「そっちじゃない」「前を見ろ」だの鬼教官のような声が飛んでくる。警察が見ていようものなら、その不安定な半蛇行運転は間違いなく二日酔いの飲酒運転と見なされただろう。

 時折、僕らを導く烏に別の烏が随伴する。その度に軌道が少し変わったから、おそらく蝶の居所を確認するための連絡要員なのだろう。幸いにも時間はそうかからず大きく進路が変わることもなく、クラクションを一回鳴らされただけで目的地と思われる住宅街にたどり着いた。

 何の変哲もない住宅地だった。二車線とはいえトラックも行き交う主要通りの一つから抜け道のような狭い側道に入り、両脇を一軒家に囲まれながら数回ほど曲がっていく。家々には雨露に耐え年季の入ったガレージを備えたものも散見され、また分譲住宅地のように画一的な作りでもないことから、土地の者が長年そのまま住み続けている印象だ。烏はそんなありふれた住宅の一つの庭木に降り立つと、ある方向をじっと見つめていた。見つめる先はある家の二階の窓だ。

「あそこに、何かあるんでしょうか」

 いよいよ目的地とあって心臓の鼓動が早まるのを感じた。

「ここからじゃ見えないな。――入ってみよう」

 すると翠は鞄から小銭ほどの大きさの金属の器具を取り出した。それは魚の骨のように、細長い棒の横からさらに数十本のより細くい金属棒が飛び出していた。それを何の躊躇もなく鍵穴に差し込むと、くるりと横に回した。カチリと音がして鍵が開いた。鍵穴から器具を抜くと、横から伸びる金属棒の長さが一本ごとに挿れる前と違っていて、本物の鍵のような形をなしていた。自動ピッキング装置というわけで、器具を仕舞うと代わりに笛を取り出した。

「なじみの人形師に作ってもらったんだ。とにかく、急ぐぞ」

 翠さんは扉を開けるとそのまま土足で上がり込んだ。僕と京子は一瞬狼狽したが、そうする他なく意を決して踏み込んだ。住人はまだ寝ているようだった。玄関の靴を見ると、革靴とハイヒール調のビジネスシューズ、そして京子が履いているようなローファーがあった。両親と学生の娘の家族だろうか。若い女性の寝ている間に侵入とはより罪悪感を感じたが、足音を立てないようにまだ暗い家の中に入っていった。

 一階のキッチンを覗くと買い出しメモや赤線が引かれた表などが貼られていて、シンクから見渡せるリビングの中央にテーブルがありその周囲を背の低い棚が囲んでいた。

 その奥に、祭壇のようなものがあった。一瞬旧暦換算でのお盆飾りかと思ったが、祭壇の上には白髪の老人の写真と方形に膨らんだ絹の袋があった。

 骨壷袋だ。この写真の老人が亡くなったのだろう。翠は覚えておこう、と言うように頷いた。

 家人は皆二階の部屋にいるようだった。階段を慎重に登ると音が一つ聞こえた。人の声のようだった。誰かが起きたか、僕らは身構えた。しかし耳を凝らすとそれはどうも呻き声のようだった。心臓の鼓動が一気に早まり、汗がにじむ。

 翠は素早く、しかし静かに階段を登った。和朔と京子も逸る気持ちを抑えながら続く。またくぐもった声が一つし、その声のする先には扉がひとつあった。翠は既に扉に手を掛けていた。扉が開き、翠を先頭に三人が踏み込む。そこは、家の両親の寝室だった。部屋の奥のダブルベッドには二人の男女が横になっていた。そして――

 ひっ、という言葉にならない悲鳴が京子の口から漏れた。彼女は背後の壁に突き当たり崩れ落ちた。

 そこにいたのは黒く巨大な蝶だった。

 蝶は体を不自然に曲げてその腹の先を寝ている男に突き立てている。どく、どく、と音が感じられそうなほど、その腹を鼓動させ動かしてる。

 産卵だ。男は悪夢でも見ているようにその寝顔に苦悶の表情を浮かべ、脂汗が厚く滲んでいる。蝶はこちらを気にする素振りもなく産卵を続けていた。僕は翠さんの方を振り向くと彼女は険しい表情を浮かべ笛を構えていた。しかし、吹きはしない。翠さん、と僕が言おうとすると、彼女は片手をさっと挙げてそれを制した。すると蝶の動きが止まり、その巨体を引き上げて男を解放した。そして黒く巨大な翅を広げると僕たちの方目掛けて飛んできた。

 僕は蝶の真正面から向き合うことになった。その二つの眼は黒い体より一際黒く、光が逃れることのない究極の黒。それは半球状に頭部から盛り上がっているべきなのに、光がすべて飲み込まれるせいか遠近感がなく、むしろ空間に突如空いた穴のようだった。距離感が狂う、そう思い身体が動かない。その間にも蝶は迫ってくる。突如「和朔っ」と名前を叫ばれ腕をドアの横へ引っ張られ、その方向へ倒れ込むようにして蝶を避ける。咄嗟に振り返ると翠さんはドアの方を睨みつけていた。その視線の先には蝶とドア脇にへたり込んだ京子の姿があった。蝶が京子に向かう。

 しかし蝶は京子を無視する。別の部屋に向かったのだ。

 翠さんは笛を構えながらその後を追い、僕はつんのめるようにして京子のもとへ駆け寄った。彼女の顔には恐怖が張り付いていた。しかし大丈夫かと問うと「あっ…」と気づいたように僕に目を合わせ、そしてたった今翠さんが出ていったドアの向こうに目線を送った。その目に促されるように蝶の後を追う。

 十歩もない廊下を急ぎ斜向かいの部屋に駆け込むと、そこには少女が眠っていた。背格好もちょうど京子と同じほどだった。

 しかし、その少女の身体の上には蝶が取り付き、彼女の身体に黒い口吻を突き立てていた。

 翠は苦々しげな顔で笛を構え、その様子を見ていた。早く笛を吹かなければ彼女が…今度こそ「翠さんっ」とその肩を掴んだ。しかし彼女はまたしても僕を制し「まだだ」と言った。焦りを抑えた声だった。

「でも――」

「あの子と近すぎる。それにこの手の魂だけの奴は何を仕出かすかわかりにくいんだ。…その時はちゃんと吹く」

 まだこの黒い蝶のことはわかっていない。そのためには今はまだ、観察するほかない。少女の顔がうなされるように歪んだ。蝶は花の蜜を吸うように細長いストローで彼女の精気を吸っている。胸の張り裂ける思いがするが、笛を構えた彼女の方が一層その思いが強いのだろう。

 早く、どうにか、そう思った途端、背後から「やめてっ!」という金切り声とともに突然床を蹴りつける音がして驚いて振り向いた。

 すべては一瞬の出来事で、突進してくる京子に翠が気づいた時はもう遅かった。。

 京子は勢いそのまま翠へ突っ込むと、笛を奪い取ろうとした。翠が咄嗟にその手を振りほどこうとしたが体勢が崩れ笛が手から離れた。和朔が駆け寄ろうとした既にその時には、笛はもう京子の手に渡っていて、ためらうことなく彼女は笛を口に当てた。

 そこから先は記憶が曖昧だった。翠さんの「あの子を」という声が聞こえた気がする。気がつくと僕は蝶に取り憑かれていた少女の方へ倒れ込んでいた。そして、一瞬の笛の音が聞こえた気がしたが、直後、爆風を受けたように身体が宙を舞った。

 京子が渾身の力で笛を吹いたのだ。

 僕は蝶と少女の隙間に滑り込むように吹き飛ばされ、彼女の身体に触れた。その時、意識が飛んだ。

 僕たちのいた二階は壁ごと吹き飛んだ。


 目が覚めたその瞬間の視界にあったのは、白い天井と、そこから四方に垂れ下がるライトグリーンのカーテンだった。

 途端、猛烈な不安感に襲われる。

 それは、生理的なものだったのだろうと思う。まったく知らない景色の中で目覚めるという、陸上物としてあるまじき事態に対する反射的な困惑。そして自分自身に問う。昨晩眠ったのはどこだったろうかと。眠りから覚めた瞬間の頭が手当たりしだいに記憶の断片をたどり、そして突如思い出し今度こそ正真正銘の恐怖に心臓が縮んだ。

 僕はあの家で爆発に巻き込まれた。

 全身が強張り、それに反応して全身が我も我もと悲鳴を上げる。その苦痛にうっと首がすくむと、その首と頭まで痛みを訴えて自分が呻く声が聞こえた。落ち着け、目は見える、耳も大丈夫だ、口もきけそうだ、だが体は――

 シャアっと右側のカーテンが開かれた。カーテンの吊り下げ金具がチリンと音を立てた。奇妙にも僕はその瞬間、たしかに目も耳も大丈夫そうだとほっとした。一瞬遅れて気がつくと、そこには翠さんがいた。髪が乱れ服が汚れているようだが、目立った怪我はなさそうだった。彼女は僕を見るとさすがに驚いたようで「大丈夫か」と体を乗り出したが、僕は答えに窮した。それを悟ってか、反対に彼女が僕に話し始めた。

「目と耳は?大丈夫か。口も問題無いな。手足も一応動いていそうだし、じゃあ問題ゼロ」

「いや全身痛いんですけど…」

「いや見た目は問題ないから手足が動かせて感覚器官が無事なら大したことない。ただの脳震盪と他は痣やありがちな怪我が多少」

 覚えていないとはいえゾッとした話だった。しかし、それよりも大事なことがある。

「あの二人は、大丈夫なんですか」。

「寝ていた女の子の方は大丈夫だ。怪我はしているがお前ほどではない。お前が庇ったおかげということにしておこう。京子の方は――」

 そう言って、少し言いよどむ。「私と彼女はあの中心でもつれ合っていたから、吹き飛びはしてなかった。だから怪我は特にない」とはいえ壁に穴が開くほどだったから、二人は衝撃と埃に包まれたという。

「彼女には気の毒なことをさせたな。あんな光景を見て、笛を吹かずにはいられないもんな」

 そうバツが悪そうに言った。京子は事務所に戻っているらしい。彼女のことを思うと悪い気がしたが、連想するようにあの蝶――そしてあの女の子、その両親のことが気になった。。

「あの蝶は死んだ。出鱈目の音とはいえ、魔的な力のある京子がこの笛を、それもあんな至近距離で使ったんだから」

 翠さんの見る限り、女の子に関しては問題ないという。蝶になにかを吸われていたが、生命そのものを不可逆的に侵すようなものではなく、そこから発散される「気」のような雫を餌にしているという。そしてあの両親。驚くべきことに、翠さんは同じく病院に運ばれてきた彼らをひっそりあらためてしまっていた。。

 両親の身体から見つかったのは蝶の「卵」というべきものだった。その卵から孵った幼虫が人の生命を司る生の本質、「人の魂」を内側から喰らい尽くしてしまうのだという。京子の両親を殺したのは幼虫の方だった。

 羽化した蝶は感情や気力や夢といった人の生の甘い発露を吸うが、それ自体で死に直結することはない。さながら花の蜜を吸う蝶と、魂を喰うことで葉や茎そのものを蝕んで枯らしてしまう芋虫のように。

「あの両親に宿った卵も産みたてでまだ弱かったんだろう。音でほとんど壊れていた。うまい具合に――と言っては悪いが――まだ生きているものもあったから観察していたんだが、見つけ出せさえすれば、殺せはしそうだ」

 見つけ出す。ある意味それこそが差し迫った問題だった。もう一匹の蝶はどこに、そして卵は他にもあるのか。ここへ来て蝶が死んでしまったのが悔やまれる。もし他に卵があるのだとすると、その大きな手がかりにつながる可能性が失われたことになる。

 僕が歯噛みしていると突如左側のカーテンに大きな影が現れ、窓の向こうでばさりと音がする。それに気付いた翠がベッドを回り込むと窓を開けた。「噂をしようと思えば」と彼女がカーテンを開くと、そこには一匹の鴉がいた。

 その鴉はビルの屋上で出会った大烏と比べるとかなり細身だったが、その見事な黒い羽毛はなで付けられたように整い、こちらを見据えたまま油断なく構えて様に気後れを感じてしまった。「お聞かせ願おう」と翠さんが言うと鴉は話し始めた。低いが若々しい声だった。

「もう一匹は依然捜索中」

 もっとないのか、頭を下げている身とはいえそう思わずにはいられない。翠さんも顔には出さないが心ではそう思っているに違いない。一瞬の沈黙。それに耐えかね、それじゃあと僕が切り出す。

「あの家で見つけた蝶は人間に卵を産みつけていた。他に卵が産み付けられた可能性のある人は」

「その営みの過程の仔細はわかりかねるが、お前たちがあの家に来る直前までに何軒か他の家に入っていったとは聞いている」

 そうこなくっちゃ。僕たちは顔を見合わせた。「場所は」「どこに」二人の声が被さる。

「あの家のすぐ近くだ。どうも――」

 鴉はそこで言葉を打ち切った。なにか思い当たることがあるようだった。

「いや、それはお前たちが判断することだ。場所なら教えよう」

「よし頼む。それじゃあ私は――お前何やってる?」

 身体を動かす度にそこかしこが先を争って痛みを訴える。が、何とか我慢できるだろう。動かした方が楽かもしれない、とか騙し騙し身体に言い聞かせて身を起こす。

「僕も行きます。運転は…やれそうなら」

 僕はしっかり荷台のお荷物になると、車は構わず走り出した。

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