黒い蝶 (一)

 顔の無い男による神隠しの後の日々は穏やかなものだった。

 しかし、異変は五ヶ月後、七月初旬、夏の暑さとともに訪れた。

 岡田京子の両親が死んだ。

 重苦しい表情をした翠さんからその知らせを聞いたとき、忘れかけていた黒い影がすっと眼前に現れるように、あのときの不安と焦燥が蘇ってきた。

「――あの男のせいですか」

 僕は詰まりそうになりながら尋ねた。

「おそらく、違う。分かっている限り、二人が消えたりしたことは無かったらしい。…それに、その死因が妙なんだ」

 死因、そのどこか無機質な言葉が、これは現実なのだと冷たく響く。そして妙という言葉が反対に、何者かの陰惨な蠢きを感じさせる。

 二人が亡くなったのは二日前、事故や事件でもなく目立った外傷や病気もない衰弱死――強いて言えばそうと言う他ない――まるで、内から力尽きたような死に方だったという。

「私もついさっき彼女から聞いたばかりなんだ。もしかすると以前の事件に関係があるんじゃないかと思って私に連絡をしたそうだ。やっとの思いだったんだろう。ひどく怯えているようだった」

 ついこの間の彼女、あんな異常な状況においても仲間を引っ張り、いつだって冷静に振る舞っていた姿を思い出して一層胸が締めつけられる。

「今彼女は実にいるらしい。親戚もいるが自分のせいで万が一両親のようなことがあったらと考えてそっちの家に泊まりたくはないそうだ。これからすぐ行くところだ。場所は聞いてある。ちょっと離れた山の方だが――」

 お前も来れるか、と聞く必要もなく僕の意思を察したようだった。彼女が微かによしとうなずくと、二人で手早く支度に取り掛かった。


 山の方とは聞いていたが、娘が聖アリンに通うくらいだから高台にある高級住宅街を想像していた。しかし実際に行ってみると、本当に地図に「山」とマークされている峠道だった。道の崖下には小さな耕作地が点在し、瓦葺の古民家やサビの浮いたトタン張りのあばら家といった家々の密集地もありはするが、家に行くというよりは、山深い温泉に向かうホテルの送迎車のような感覚だった。とはいえその車を運転するのは免許を取り立ての僕で、山の地形に沿った急なカーブに差し掛かる度にあくせくとハンドルを回していた。

 岡田京子の家はその国道の峠越えの道の中腹にあった。来るまでの家々を思ってかなり年季の入った家を想像したが、実際には瀟洒な別荘とも言うべき洋館風の住宅だった。雪国ならではの傾斜の急な屋根をもつ、ニ階建てにしては大きい家で、大屋根の下は漆喰の壁だがそこからせり出した玄関と応接間は煉瓦調になっていた。家の四隅の一角は丸くせり出し背の高いガラスがぐるりと張り込まれ、聖アリンの礼拝堂にも似た塔のようだった。

 そしてさらに驚いたのが、その家さえ凌ぐような見事な庭園だった。五十メートル四方はありそうな広い敷地は胸の高さほどの庭木で囲まれているが、蔓に囲まれたアーチや、よく茂り実をつけた木々が庭木の向こうに見えた。見える範囲だけでも、白や紫、薄桃の花が青々とした芝生の路の脇を飾り、低木は赤く大きな花を纏うように咲かせている。

 だがもはや、そこに主の姿は無かった。やがて忘れ去られるだろうその残された木々の美しさは、主人があまりに突然に消えたことに気づいていないとでもいうようだった。

 彼女は本当にこの家の中にるのだろうか。両親が非業の死を遂げ、こんな人里離れた家に一人でいるのはどれほど辛いだろうか。駐車場から玄関まではほんのわずかな距離でしかないのに、心なしか早足になった。緊張しながらベルを押す。頼む、出てきてくれ、そう思った途端ドアの向こうから微かなカチリという音が聞こえ、扉が開いた。岡田京子がそこにいた。やつれた顔をした彼女は、僕たちの姿を見ると膝から崩れ落ち,嗚咽とともに涙を流した。


「一昨日の夜でした。部活が遅くなりバスで帰ろうとした時二人に連絡したのですが、返信がありませんでした。仕方なくバスに乗りましたが、最寄りそこのバス停に着いてからも、二人からの連絡も、姿もありませんでした。」

 岡田京子は手にしたマグカップを両手で握りしめながら、震える声で話した。彼女によると、幼少時からほとんど毎日、両親の車で送り迎えされているのだという。都合がつかない時はバスを使用しているらしいが、それでもバス停までは迎えに来てくれることが常だったという。

「少し前から二人とも体調があまりすぐれないような、疲れているようでした。父親は仕事の関係で重い責任を背負うことが多く、専業主婦だった母も精神的に疲労することも多かったと思います。ここ数日、実は父も休みをとっていたのですが、きっと無理がたたったのだろうと思っていました」

 彼女がバス通学をしていたのも両親の負担を和らげるためだったという。

「家が見えた時、いつも通り明かりは灯っていましたし鍵は開いていました。しかし家に入っても返事は無くてリビングにもいませんでした。その時、両親の部屋の明かりが点いていることに気づいて、部屋へ行ってみました。そこで——」

 言いかけて、彼女は沈黙した。見ると口は閉じきっておらず、言葉を必死につなごうとしているようだった。その姿は何か、これから口にしようとすることをひどく恐れているようだった。

「何か、起こったんだね」

 翠が静かに切り出す。京子は沈黙の末、絶え入るように、彼女は最後の言葉を吐き出した。

「そこで――黒い蝶を見ました」


 黒い蝶。それはベッドに横たわった両親の体の上に留まっていた。父親のもとと母親のもとに一羽ずつ。そして、それは巨大だった。体長だけで人の半身ほどはあった。しかしひと目見ただけではそれが蝶であることは分からなかった。もちろんその巨体であることもその一因だったが、それに加えもう一つの理由があった。はねがまだ縮れていたのだ。

「それは…二人の身体の上で羽化したんです」

 そして立ちすくむ彼女が見つめる先で蝶は羽を目一杯に広げていった。二人が眠るベッドを覆うほどの大きい翅を広げ、ゆっくりと慣らすように少しづつ翅を羽ばたたかせた。翅が力強く羽ばたき出すと、まるで傍らの蝶と言葉をかわすように互いに小刻みに羽ばたかせ、ふわりと宙に浮き上がった。もつれ合うように、勢いを増して、壁をすり抜けあるいは戻って、二羽の蝶は大きな翅と翅を激しくひらめかせ自由自在に飛び交った。

「そういえば…先週くらいでしょうか、父がおかしなことを言っていたんです。珍しく朝起きるのが遅かったので起こしに行ったら、寝ぼけたように体を摩りながら『虫に食われる夢を見た』と言ったんです。それに母も同じようなことがあって、うたた寝しいたら急に声を上げて飛び起きたんです。そして『蝶が来る』って青ざめた顔で言っていたんです」

 そして彼女は、ああ、とたった今理解したかのように言った。

「あの蝶が、蝶が両親を死なせたんです。そう、あの蝶に食われたんです。生を吸われ、苗床として——繭にされたんです」

 がくりと力を失ったように彼女は俯いた。すでに涙の枯れ果てた身体が、まだ絞り出そうとするように彼女は辛そうにまた嗚咽を漏らした。翠がその肩に手を掛けると二の腕を擦るようにして抱きすくめた。翠の引き結んだ口元にも、その苦悩が浮かんでいるようだった。やがて京子の喘鳴がやや収まると、振り絞るように言った。

「蝶は飛んでいきました。二羽で螺旋を描くように、すうっと部屋を抜け、どこかへ」


 話を終えた僕らは家を出た。ひとまず決まったこととしては、僕らは蝶を追い、彼女は事務所に泊めるということだった。今はまだ岡田京子の身、あるいは彼女に関わる僕らの身に危険が及ぶのかは分からない。しかし彼女を一人にすることはできなかったし、したくなかった。車に向かおうとすると、彼女が庭園の方を眺めていた。僕らもつられて庭園を眺めた。

「母の長年の夢だったんです」

 彼女はそう言うと庭園に歩みを進め、庭園の中に入っていった。目に焼き付けるかのように庭園をゆく彼女のすぐ後ろを僕らも歩いていく。外側にいた時はよく分からなかったが、よく見ると一口に白い花といっても大小様々な種類の違う花々だったことに気づいた。花の甘い香も強くなった。

「父もたまに手伝っていました。なにせこんな辺鄙な場所に家を建てたくらいですから」

 ふと歩みを止めしゃがむと彼女は続けた。足元には白い百合が咲いていた。大きく立派な百合だ。

 僕もしゃがんで百合を見ようとすると、ふと腐ったような生臭い匂いがしたことに気がついた。匂いのする方を見ると黒い花が咲いていた。三つ子のように三本生えていてそれぞれに椀状の黒い花が咲いている。それに気づいたようで、ああ、この百合…と京子が思い出すように言った。彼女の顔が少し和らいだ。

「黒百合です。二月のあの事件が終わった後くらいから、ひょっこり芽を出してきたんです。それからは私が育てたんです。いっぱい水をやったり肥料を混ぜたりして。そのおかげか普通の黒百合より三週間くらい早い四月の中ごろから、こうして花を咲かせているんです。」

 彼女は細い指で黒百合の花弁にそっと触れた。ここへ来てはじめて見た彼女の嬉しそうな顔だった。しかしすぐその顔が曇った。

 生存競争に生き残るために黒百合はラフレシアのような強烈な匂いで虫を引き付けるようになった。その浅ましいまでの生存戦略は生物の生への執着を物語っているようだ。

 しかし彼女の柔和な顔が陰った。黒百合に触れるその姿に後悔と罪の意識が滲んだ。

「喧嘩をしたんです。母が花を摘んだことに。大きな花を咲かせるために花を間引くんです。一本の百合に一番目の花だけを残して、二番花以降は摘んでしまうんです。そうすれば球根に栄養が行き渡って来年も綺麗に咲くんです。だけど私は花が可愛そうだと思って、口喧嘩になりました」

 白い百合も黒い百合もたしかに普通より大きい花を咲かせているが、茎一本ごとに花が一つしかない。この庭ではそこから選りすぐりの一花だけにすべてを注ぐ。美しい庭でさらに過酷となる生存競争の頂点がこの花なのだ。

「せめてこの子だけでも、咲き続けてほしいと思っています」

 愛おしそうに、そして寂しそうに黒百合を見つめると、彼女はゆっくりと立ち上がった。この家を離れることを決めたようだった。僕らは庭園を出ると、車へと乗り込んだ。


 かくして喫緊の課題として蝶の行方を追うこととなった。しかし消えた蝶をどう追えばよいのだろう。京子の言葉を信じるならば、人に宿り死に至らしめる黒い蝶。

「人の精気を喰らう虫か。似たようなものは少なくないかもしれない。人の心に浮かんだものを次々言い当て、終いには心を食ってしまうさとりとかいう奴もいるし」

 翠はそう言うと腕を組み、壁に背をもたれながら机を囲む和朔と京子に向き直った。蝶が彼女の両親の死に何らかの関わりがあるのだろう。しかしどのようにして命を奪うのかはまだ分からない。

 もう一つ恐れている点があった。二羽の蝶は雄と雌の可能性があった。これは彼女が両親の部屋で蝶を見た際、父親に留まっていた蝶は腹が細めでやや尖っていたから雄で、母親の方は腹が丸みを帯びていたから雌ではないかということだった。

 そして庭園で多くの蝶を見てきた経験から二羽の蝶の動きを思い返すと、その翅を見せつけるかのように雄が雌の周囲を飛び交った様は、たぶん求愛行動だろうと彼女は言った。そうだとすると事態はますます悪い。謎の蝶は繁殖する可能性がある。

「飛び去った蝶を捕まえる。もしそれが既に繁殖しているようなら、そこを突き止める」

 翠が言った。

「でも、人ほどの大きさがあると言っても、この大きな街からどうやって探しましょう」

 僕がおずおずと言った。たぶん常人の目には不可視だ。見習い扱いされて教育されてしまった僕や、魔的な力の素養があるという京子でもない限り、気づくことすらできない。しかし翠さんの方を見ると、思いつかない、というよりは眉をひそめどこか躊躇いがちな表情をしている。どうも彼女には何か手があるように見えた。ただ、あまり気乗りしない方法が。しかし時は一刻を争う。三人だけの人海戦術でも、できることはやるべきだ。

「どんな方法でも、あればよいんですが」

 彼女を見ながらまたも僕がおずおずと言った。彼女はため息を一つつくと大義そうに壁から背を放した。

「仕方がない。高い見返りのためには相応の対価を払うべきだ」

 それは自分自身に言い聞かせているようだった。



 夕暮れで空が赤とオレンジに染まる中、翠さんに連れられ市街地の外れにある五階建ての公営住宅の屋上に向かった。もとは警察職員向けの官舎だったようだが、もう使われてはおらず、ほとんどの部屋の窓が開け放たれていた。災害時の仮設住宅代わりに取っておいてはいるらしかったのだが、周囲に人も見えず時折向こう側の道路を車が一台通る音しか聞こえなかった。

「こんなとこでいいだろう」

 そう言って取り出したのはいつもの横笛ではなく、ちょうど太めの葉巻のような木製の筒だった。筒に唇をあて息を吹き込む。すると「カァー」という少し冗談っぽい音がした。烏の声を真似たカラス笛だ。

 吹き終えると気難しそうな顔で遠くを見遣り何かを待っているようだった。しばらく沈黙が続くと、翠が「そうだ」と思いついたように言った。

「もし交渉が決裂したように見えたら、いいかんじに『鷹』という言葉を出せ」

「鷹?鳥のですか?」

 唐突な要請に戸惑っていると、側の手すりに黒い烏が一匹ばさりと舞い降りた。その烏は人間たち、とりわけ翠を矯めつ眇めつ眺めると、背を向けて飛び去った。翠はなおも待っていた。

 そして鴉が飛び去って数分後、驚くべきことが起こった。見渡す住宅地の中から黒い点がぽつぽつと空に舞い上がると、それは次第に数を増やし、やがて四方八方が黒く飛び交うものに包まれた。からすの大群だった。それは狭まる網のような巨大な渦となって、突如一斉に屋上に降り立った。無数の鴉に囲まれあっけに取られる和朔と京子をよそに、翠は凛とした顔をして立っていた。すると、一羽の大柄な鴉がその眼の前に降り立った。


 屋上を埋め尽くした鴉たちと縮こまった二人の人間の視線の先では、一羽の鴉と一人の女、翠がじっと睨み合っていた。翠がその沈黙を破った。

「お前がこの街の鴉たちを束ねる長のからすか」

 向かい合った烏は彫像のように身じろぎひとつしなかった。しかし、不意に異様な、低くしわがれた声がした。

「いかにも」

 烏が喋った。しかし今の声は烏が普段カアと鳴くようなあの甲高い声ではない。あの大柄の烏の内から湧き上がる魔性を帯びた声だった。あえて言うなら老獪な威厳を音にしたようなものだった。京子が息を飲んだ。その手の才のある彼女にはより一層響いて聞こえたに違いない。しかし翠は顔色一つ変えず、だろうなとでも言うように先を続けた。

「お前たちに頼みがある。この街であるものを探しているんだが、手伝ってほしい」

「お前が頼みを?…ほう、話してみよ」

 烏がくっくと愉快そうに促した。しかしそれは人間たちの焦燥がさも滑稽だと言うように。

 翠は黒い蝶のこと、それが人の命を喰らい今まさに増えかねないことを話した。その間烏は鳥らしく時折ちょんちょんと跳ねたり翼を開いたりしていたが、翠が話し終えるとフクロウのように首をぐるりとかしげ、戻して言った。

「ああ、あれのことか」

「知っているのか」

 翠がぴくりと眉を動かして言った。やや間を空けて烏が答える。

「いかにも。また人間どもがまがいものを作りおったのかと思っていたが、その通りよ。よく肥えておったというが、あんな下手物、犬畜生も食わん」

 まあ、そもそも形も無いのだがな、と冗談めかして呟いた。その声には明らかな嘲りが込められていた。

「力を貸してほしい。そいつを探し――」

「断る」

 烏がつれなく遮った。自分自身でも、えっ、という言葉が僕の顔に出ているだろうことが分かった。それは京子も同じだった。それを愉しむように烏は僕と彼女の方をちらと向いた。

 それでも翠が言った。

「人が減るのはお前たちにとってもあまり良くないだろう。なにせ畑からゴミ捨て場まで、今ではお前たちの命の糧でもある」

「滅べばいいさ!」

 烏が一際声を張り上げ、ばさりばさりと舞って給水タンクの上に降り立つ。人間たちを見下ろしながらゆっくりと続ける。

「滅べばいいとも。一人残らずな。それが嫌なら街は棄て、我らに開け渡せ。人間の食い物が消える?ふん、よかろう。とこしえの森が成るというならば、同胞だったもの体を食ってでも成就させよう」

 そこにはもはや先程までの愉快さは無かった。ただひたすらに重く冷たい言葉だった。住む森を失い、追い立てられる鴉たちにとって、それは悲願であった。

「どうしてもか」

「どうしてもだ。我らが子らのため」

 周囲の鴉たちの間から小さくばさっばさっと音が聞こえたが、長と人間との間の沈黙を邪魔しないよう、できるだけ音を立てないようにしているようだった。

 しかし重苦しい対立と沈黙を破ったのは烏からだった。

「――だが、我らは所詮烏の身。いかに数を増やし、空を自在に飛び交えども、もはや人間には敵わん。ましてやそこの笛吹きよ。その笛の音一つで我らを殺すも絡繰からくるも自由。それが我らの運命」

 烏の声はひどくしわがれて、一瞬にしてひどく老いさらばえたようだった。取り囲む鴉たちも諦めと嘆きから弛緩したように、隠すでもなく飛び跳ねたり羽を広げたりしている。しかし翠さんから出てきたのは予想外の言葉だった。

「べつにそんなことは、しない」

「――なぜかね」

 烏は猜疑心に満ちた目を向けて問うた。

「もとよりこれはお前たちと何ら関係ないことだ。お前たちが犠牲になる必要はないし、なってはならない」

「ならば、どうする」

「別の方法を探すよ。あがくだけ、あがいてみるさ」

 翠はそう言うと手にした笛を仕舞い、踵を返して烏に背を向けると僕たちのもとに歩み寄った。帰るぞ、という目線を送った。

「すまない、彼らに強いることは出来ない。だけど必ず方法は探す」

「でも――」

 京子が張り詰めた顔で声を上げた。もし間に合わなかったら、また誰かの命が奪われる。僕も京子も考えることは同じだった。そう訴える彼女の顔から視線をそらすと、翠さんは凛とした顔で言った。

「だからといって、彼らにその苦しみを押し付けることはできない」

 彼女は腕でぐいと膝を押して立ち上がった。行こう、と僕らに告げて地上へ続く階段のドアを開けようとした時、僕は最高にタイミングの悪そうなことを言った。自分ではこの状況下で必死に言いつけを守って頭を動かしていたつもりだった。

「じゃあ、“鷹”に頼むんですか——」

「——鷹、だと?」

 翠さんの頭越しに烏の声が聞こえた。

「――待て」

 はっとして僕は振り返った。いつの間にかタンクから屋上へ降りていた烏が呼び止めた。翠さんも声に出さず、そうだった、とでも言うように困りげに唇を動かした。たぶん彼女も忘れていて本当に帰ろうとしていた。

「…条件をやろう。西に見えるあの山、あれに今後百年人間は手を出すな。嫌というならば、先の言葉を違えてみよ」

 それは魔女に対する最大の侮辱であり挑発だった。たかが鴉のために、代価を払って意思を貫くか、あるいは醜く本性を晒すか。答えられるものなら答えてみろ、烏の目にはあの残忍な愉快さが戻っていた。しかし彼女は余裕そうに微小を浮かべ、あっけなく答えた。

「もちろん、受け入れるとも」

 翠は烏の前に歩み寄ると手のひらを上に広げた。そこに烏が飛び乗ると小声で何かを呟いた。すると夕焼け空の強い真っ赤な光の中、微かな赤い光が烏の羽に浮かんだ。

「契約は済んだ。我らはお前の空からの目として働こう」

 すると鴉たちが一つの生物のように一斉に飛び去った。

「我らは烏。大勢であるがゆえに」

 そう言い捨てて烏たちは街へ消えていった。

 思い過ごしかもしれないが、最後に「鷹?あんな奴らに!」という声が聞こえた気がした。

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