顔の無い男 (六)

 世界が反転した。そして気がつくと目の前には二十人くらいの少女たちと、翠さんと、そして——自分自身がいた。

 いやこれは自分たちの姿が写った鏡だ。鏡から目を離すとそこには、左右と後ろは白い壁で天正には音響装置やプロジェクター、床はフローリグ。そして少女たちと翠さん。

 あの牢の世界から戻ってきたのだ。

 周囲から戸惑いとも歓喜ともつかない声が上がった。これはまだ自分の願いという夢の中なのではないか、夢から覚めた夢の心地だった。その瞬間、頬にものすごい痛みが走った。

ったい!何するんですか!?」

「じゃあ夢じゃないんだろうな」

 和朔の頬を思い切りつねりあげた翠は無表情に言った。そのおかげか周囲の喜びの声が心なしか強くなった。

 とはいえ本当にここは正真正銘の実習棟なのか、それが気になる。恐る恐る部屋から階段に出てみる。何も起こらない。階段を下ってみる。一段、二段、三段、…そして踊り場を曲がると周囲が明るくなった。日の光だ。

 階段を下るとその前には校庭や教会、そして白い大きな建物があった。出てきたはいいが、そういえばここが本当に聖アリンなのか分からない。来た時は真夜中だったから周囲の建物の印象がまるで違う。夢でないと言い切れる自信はない。

 ぼうっと見回していると突然女性の金切り声が聞こえてびくりと震えた。

「あなた!一体どこにいたんです!?あぁ、さっき夜中突然消えたから本当にびっくりして、…って、えっ、そんな、ああ、あなたたち…!」

 半狂乱の女性は僕を尻目に階段の方へ走っていく。その先の階段には呆然としながらかたまりあっている少女たちがいた。女性は少女たち一人一人の頬を両手で挟むとあなた誰々よねと鬼気迫る表情で尋ね回っていた。あの女性はたしか……そうだ、僕と翠さんを案内してくれた国語の大宅先生だ。あれは何日前だったか——

 さっき?夜中?

 彼女の言葉が気にかかる。僕らは何日も何日もあの、世界史を巡るような奇妙な冒険をしていて——

 その思考を破るように今度は大勢の大人がどっと実習棟に駆け込んできた。いたぞ、ほんとか、見つけた、とか喚きあっている。今はいつですか、そう聞こうとしたがあまりの勢いに問うタイミングを完全に逸してしまった。仕方なく見上げた白い大きな建物、たぶん本館、の上にある大時計を見たところ、時刻は朝の七時四分。

 本当か?思わず見た腕時計——本当はこっちはずれていて当然なのだが——は見ている前でぐるぐる針が回り出した。衛星電波を受信したらしい。まるでタイムスリップするように針が回り、辿り着いた時間は朝の七時四分。そして、針の裏側にある日付が表示される液晶画面には——

「嘘だろ……こっちではまだ五時間も経ってないのか……?」

 少女たちが消えた、そんな話を聞いて真夜中の聖アリンに来たことはもう何日も前に感じる。しかし、この世界、現実世界では数時間の出来事に過ぎなかったのだ。

「まったく、逆浦島太郎だな」

 横を向くと翠さんが肩をすくめていた。さすがの彼女もいささか気後れしているようだ。

 二月の朝だからやっと日が上ったというくらいだったが、どっと疲れが襲ってきたせいで日没のように見えた。あくびが出てうっすらと目に涙が浮かんだ。

 当然ではあるのだが後ろがやたらと騒がしい。涙ながらに少女を抱きしめる人々は彼女の親たちだ。大人たちの中には普段着の人もいるがスーツ姿の人も多い。その何人かは警察だろう。

 この事件はどう扱われるのだろうか。世間的には大事件ではあったが皆もう戻ってきた。それに卑弥呼がどうこうとか言っても誰も信じはしないだろう。何であれ、それらは僕らがどうこうできることではない。

 騒がしい人の群れから一人の少女がこちらに抜け出てきた。岡田京子だ。その後ろには彼女を見つめる男女がいた。それぞれ黒と薄茶のコートを着ていて華美ではないが洗練された印象を受ける。ブランド品と聞くとそれだけで正直ちょっぴり反感を覚えてしまいそうだが、こんな事態の中にあってもそのようなものを気品をもって着こなしている。そして僕らの方に歩み寄ってくる京子もいつの間にか高そうなコートに身を包んでいた。威厳がある。うーむ、さすが聖アリン。

 ちょうど二人と目が合ったので軽く頭を下げた。京子もそれに気がついたようで軽く振り返りながら「両親です」と言った。

「みんなは大丈夫そう?」

「はい。今のところは皆問題ないようです。ただ……心の問題とかは、これからあるのかもしれませんが」

 こんなあまりにも奇妙な体験をしたんだし、なおかつ家族といえど「異世界に飛ばされた」なんて説明を納得してくれるのは難しいだろう。誰に話すこともできず溜め込んでしまうのかもしれない。ただここには二十人の仲間がいる。せめてその中だけでも支え合えればと切に願う。

「まあ何なら私たちに相談しろ。別に雑談だって歓迎だ。今回ばかりはアフターサービスだ」

 翠さんの言葉に京子の顔も少し綻んだ。僕でよければと笑う。何も下心があるのでなく、こればっかりは。

 束の間の穏やかな雰囲気の後、京子が眉を顰めた。

「でも……一体なんでこんなことに……?」

 軍学校の頃から人や物が消える事件はあったようだ。しかし今回の件はさすがに規模が大きすぎる。何かあの男を呼び覚ますようなきっかけがあったのだろうか。

 実習棟の裏手から何だこれ、という男の声が聞こえた。

 行ってみると先行した数人の人々が囲む先には大量のガラクタが散らばっていた。錆びて赤茶けたナイフ、模様のついたアルミの蓋、傷のついた木の板、鼠の死骸……すべてあの牢で見たものだった。男が真の意味で死んだことで牢の世界が閉じた。その時吐き出されたのは僕らだけではなかったようだ

 その中に一冊の古そうな本があった。ぱらぱらと本をめくってみると、ウラディミール、エストラゴンという二人の人間の会話が連なった劇の台本のようだ。表紙は『ゴドーを待ちながら』。

 たまたまこれは僕も知っている劇だった。二人の人間がある街道沿いでゴドーという人間を延々と待ち続ける物語。「俺たちなんでここにいるんだっけ」「ゴドーを待つんだろ」「俺たちはいつからここにいるんだ」「明日には来るんじゃないか」というような会話を延々と繰り返す物語。自分たちの目的さえ見失って、いつと知れない過去からそうやっていたらしいからと、今日もただひたすらに路傍で待つ。

 そしてその今日すら繰り返す「待つ」という日々の一つになって、また明日か明後日かも知れない日も待つ。待つという今日を永遠に繰り返す物語。

 テレビでやっていて、何か最後に大どんでん返しがあるのでは、と期待したがまったくそんなことはなく肩透かしをくらったのを覚えている。ベケットとかいうノーベル文学賞者が作った二十世紀の問題作。

 似ている、と思った。あの顔の無かった男と。無限の過去と未来の中で同じ今日を繰り返す。永遠のループの中に閉じ込められた人間たち。

 京子はその台本を手に取った。実際には台本そのものというよりは元が演劇なのでそれを文章化して本に仕立てたものだった。彼女は手の中の古ぼけた本を見つめながら「これ……」と呟いた。

「そういえばあの牢の中に入る前、実習棟の練習場にこの本が落ちていたんです。部員の誰かの持ち物かと思ったんですが、誰も自分の持ち物ではないと言っていたんで不思議だったんです。あそこはたまに授業で使うことはありますが、基本は部活で使っています。あの時はちょうど他の部活が休みだったんで、演劇部以外が入ることはなかったはずなんですが……」

 彼女はそう言ってまたじっと本を見つめた。背表紙が少し日に焼けている古い本だ。奇妙な作品とはいえ、それなりに名前の知られた劇のはずだから綺麗な新品も手に入るだろう。しかし、何というか、この年季の入った本からは時間ときの重みとも言うべき圧を感じる。幾年月の中で永遠に繰り返す今日という物語を紡いできたという力、この世界とは別に存在する時間の流れの結晶、そんな印象を受けた。

「それ、預かってもいいか?」

 翠さんが言うと、京子ははっとしたように視線を上げた。彼女もその本が与える不思議な印象に感じ入っていたのだろうか。

「ええ——私たちの物ではないようですから」

 そう言って京子は本を差し出した。受け取った翠さんも神妙そうな顔で手の中の本を見つめた。

「それに……なんだかちょっと怖いような気がして」

 牢の世界では芯の通った強さをもったリーダーという印象だったから彼女が見せたほんの小さな弱さに、こっちが少し戸惑ってしまう。

 京子、と向こうから声がする。振り返ると彼女の両親がいた。そろそろ別れの時間のようだ。彼女は僕らに一礼すると両親の方に歩き出した。そうだ、と翠さんがその背に声をかけた。

「お前も、あんまり無理をしすぎるなよ」

 振り返った京子が少しぎこちない笑みを浮かべて頷いた。そしてまた両親の元へ歩んでいく。

 その背を見送る翠が「彼女には見込みがある」と満足そうに言った。

「あの空間に支配されず、卑弥呼の時はあの女を刺そうとさえした。あれは気持ちだけじゃできない。相当なこの道、、、の才があるな、あいつ」

「この道って、どの道ですかね」

「そりゃあお前、魔術に決まっているだろう。いや、あれは磨きがいがありそうだ」

 その才能を活かすとこんな金欠で乱暴な魔女になってしまうから気をつけろ、去りゆく姿がもう戻ってこないよう切に祈る。

 見るともうすでに仲間たちを集め何か話している。きっと、何かしていないと落ち着かない性分なのだろう。あの優秀な聖アリンの仲間たちからすら頼られる存在なのだから、何かあっても彼女から頼れる人は少ないのかもしれない。大変だな、力があるのも、と思う。

「さて、私たちも帰るか。この騒ぎじゃ、今日は報酬の話も出来そうにない」

 というより疲れたから帰りたいのだろう。既に伸びをしながら駐車場の方へ歩き出している。

 ついて行こうと思ったが、最後に一度ガラクタの山へ向き直る。他の大人たちは既にガラクタへの興味を失ったらしく誰もいない。ここにあるものたちは、また忘れ去られようとしていた。

 なんとなくそうすべきだ、という気がして手を合わせる。ある意味、あの男は僕たちの嘘に騙されて死を受け入れた。そんな申し訳なさと、結局彼の本当の素顔を知ることはなかったという一抹の寂しさのようなものを感じた。

 願わくば、彼の魂が真の安らぎを得られますように。

 おーい行くぞという声がした。僕もまたガラクタの山に背を向けた。だが彼のことは、このガラクタの山のことは覚えていよう、そう思った。

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