顔の無い男 (五)

 あの男は永劫に牢の中で彷徨い続けている。記憶が無い男に寄ってすがる過去はなく、それゆえに何も持たない彼はただこの牢で朽ち果てるのを待つだけだった。

 だから安住の未来もない。過去にも未来にも行き場がないから現在いまこの牢を永遠に繰り返す。一見して何も変化のない牢は、繰り返す日々にうってつけの場所だった。

 だからこそこの奇妙な牢獄に囚われた僕らは逃れられない。一見すると何もないこの牢には実は全てがあった。永劫に変わらない居場所、変わらず繰り返す一日という時間の輪、過去や未来という差分のない、現在しか知らない男。全てが自己完結して独立した空間。

 アクアリウム、ふとそんな例えが浮かんだ。水槽に苔や水と小魚とかを入れて蓋をしてしまうあれ。苔が光合成して酸素を出して、魚が酸素を吸って苔を食べ、魚のフンが栄養となってまた苔が成長する、手のひらほどの水槽の中の小さな閉じた小宇宙。僕たちは男の想像が生み出した、この牢という奇怪な異空間の水槽に迷い込んで、閉じ込められてしまった。

 だが彼は出口を探していた。過去も未来もない男は、世界に彼を受け容れてくれる居場所がない、正に水槽の浮草だった。居場所が欲しいと男は切に願っていた。世界の片隅であろうとも地に根ざした居場所が、人が共に生きる場所でその生を祝福してもらえる居場所が欲しかった。

 自分の名前が、顔が、生き方が誰かに大切にされてほしかった。それが彼の考える「居場所」だった。

 とすると、その居場所とは、彼を包み込んで認めてくれる誰かの愛だった。

 

「この空間は彼が生きている限り存在し続けるだろう」

「“生きている”とは?」

「自らの力で自らを不断に再構成し続けること」

「それをやめるとは?」

「自らの力で自らを維持することをやめること。自分ではないものに全てを委ねること。——死を受け入れること」

「では彼が死を受け入れれば……」

「この空間は消えると思う」

 何も手にすることができなかった男に、死を受け入れさせることができるのだろうか。それはあまりにも残酷な要求に感じた。それなら、

 手に入れていたことにしてしまおう。もう十分でしょう、あなたの欲しかったものは、すべてここにあったのですよ、と。

 だがどうやってこんな殺風景な場所を約束の地にするのか。そして、その上で死を受け入れさせる方法は。

 やはりあの女性ひとが鍵になるのだろう。

「死、か…」

 魔女が珍しく哲学的な呟きをした。

「ナイフ、首縄、毒……お前、何か死ぬ方法について考えはあるか?」

 前言撤回。あまりにも即物的な問いだった。

「…そういえば、いや信じてるわけじゃないんですけど、あの“契約”は」

「契約?」

「僕の雇用契約、魔女の契約です」

 僕と彼女の間のアルバイト契約。労働基準法のへったくれもないいいかげんな魔女と人間の契約。契約を破った者のペナルティは、死。

 ほう、と彼女は一つ考えに耽った。

「紙切れ一枚でなんでも御託を並べたい放題。芝居の小道具には丁度良い」

「……ちなみにホントに効果はあるんですか?」

「ある。そう言ったろ?」

 彼女は最初に聞いた時と同じように真顔で答えた。きっと大嘘をつきに行く前の嘘の予行演習だ。そうでありますように。

「あいつが信じそうなもの、そういえば階段の前に絵があったな……」

 

 目が覚める。俺は誰だ、何者だ?何を持っている?絵があるぞ、いつも階段の前にあるやつだ。それに一枚の紙……契約書だろうか。そして彼女は誰だ、彼女は、そうだ…そして俺は、ああ、そうだった……

 さて、私は誰でしょう?

 

 牢の中で二人の人間が向かい合っている。一人は女、一人は男。そしてその間には机と、その上に一枚の紙。もっと正確には女は西宮翠とい魔女で、男は永遠の漂泊を生きる顔の無い男。

 牢は音が日々を過ごしている牢によく似ていたが、しっかりした机がある。畳の上に直接机を置くことに眉を顰める人もいようが、二人は気にしていないようだった。場所が大事だ、ここであること。そして契約書には——

「なぜ私が生きているのか」

 男が言った。その言い方は、己が生きている理由がこの契約書に書いてあるのですね、と聞いているようでもあれば、そもそもなぜ私は生き続けているのだろうかと自問しているようでもあった。

「なぜお前が生きているのか」

 女が言った。どっちであれ話をすれば分かるだろう、と言っているようだった。

「お前が生きているのは、一人の女性が私と契約したからだ」

「なぜ……?」

「お前を救うために」

 女は、魔女は続けた。なぜだろうかと男は思った。自分は何か良からぬことをして死ななければならなかったが、彼女の言う一人の女性がこの魔女に頼み込んで免罪してもらったのか。それとも自分は死ぬかそれに瀕していたが、一人の女性がこの魔女に頼み込んで魔法の力で生き返らせてもらったのか。

 前者であろうと後者であろうと、この魔女とわざわざ契約してまで私の命を救ってくれた人がいるのか。自分の思い出せない生涯より先にその女性ひとのことが気になった。

「その女性は、誰ですか?」

 男には顔が無い。顔が有ったらどんな表情をしていただろうか。

「彼女は——」

 魔女はふうと一息継いだ。

「お前を愛していた」

 男には顔が無い。しかし一拍の間をおいて胸がゆっくりと膨らむ。息をする事さえその硝子細工のようにもろく繊細な感動を壊してしまうのではないかと恐れるように。

 どちらも話さない。しかし魔女はこの男の内面に起こっていることをわかっていた。

 かりそめの永遠の繰り返しのなか、誰からも見向きもされず、腐るように死を待つしかなかった魂。凍えるように、死の冷たさはふとした瞬間、いつだって彼の身に迫ってきた。

 その冬の旅路が突然、一面の暖かな春に変わる。その激動の中に、男はいる。

 長い沈黙の果てに男は厳かな声で問うた。

「教えてください。私は、彼女は何者なのか——」

 

 ある小さな村があった。男と女はそこで暮らしていた。だがある時、大嵐が村を襲った。三日三晩の大雨と大風で川は氾濫して木は軒並み倒れ多くの村民が家を失った。二人も同様でやっとのことで命だけは助かったばかりだった。

 しかしそれすら風前の灯だった。食糧も泥を被っており、疲れ切った女がそれを食べて昼に腹を下した。そして夜にはとうとう熱にうなされながら一歩も歩けず寝込んでしまった。明くる朝には熱は高まるばかりで言葉も発せないほど朦朧としていた。女は命の危機にさらされていた。しかし薬はみな流されてしまっていて手の施しようがなかった。

 彼女を助けるためには誰かが山をおりて町へ向かわねばならない。無論、危険極まりないことだった。あちこちで山は崩れているだろうし道もかき消されているだろう。濁流となっているだろう川を渡らなければならない。そう考えると皆二の足を踏んでしまった。

 しかし一人の男は違った。背嚢にわずかばかりの食糧を詰めると村から出て行こうとした。驚いた村人が留めようと制しても男の意志は揺るがなかった。

「待て、危険だ。それにお前さんに何かあったら誰に頼れというんだ」

「行かなきゃあのが死んでしまう。それに皆なら俺がいなくても大丈夫、、、、、、、、、、だ」

 そう言って側にいた者に頼むぞと言って町への道を歩き出した。村人たちにとってその男は大切な仲間だった。彼は常に村人たちを助け、村人たちも彼を助けた。お互いにどんな不幸にあっても仲間を見捨てることはなかった。だから今度も当然のように男は町へ向かった。

 町への道は大変な道のりだった。何度も脚を滑らし、一度はもう少しで谷底に落ちかけた。しかし何とか町へ辿り着いて女のための薬を手に入れて帰途に着いた。少しでも早く帰ってあの娘の苦しみを取り除いてあげたい、そう思いながら既に暗くなりつつある山道を急いだ。村の近くの崖に差し掛かった。もう少しで村だ。

 その時、パラパラと頭上から音がした。しまった、と男が思った時には既に手遅れだった。崖を駆け下ってきた落石が男の頭に直撃した。衝撃で一瞬視界が真っ白になったようで、男は地面に倒れた。岸壁側の斜面に倒れ込んだおかげで何とか崖から落ちなかったのは、ただの偶然だった。

 次に気づいた時、あたりは真っ暗でいつまで倒れいたかも分からなかった。だが村に待っている人がいるという一心で歩き続け、そして村へと辿り着いった。これもほとんど奇跡と言うべきものだった。

 男の持ってきた薬が女に与えられると、喘鳴のようだった彼女の息が穏やかになっていった。次の朝には女は治っていた。しかし——

 

「ここからが、お前の知らないことだ」

 魔女は言った。

「”契約”の部分だ。そしてお前がここにこうして存在する理由だ」

 

 女は治った。しかしお前は——頭に直撃した落石の怪我が深くて死にかけていたんだ。

 彼女は自分が助かったのはお前が命懸けで持ってきた薬のおかげだということ、そして今度はお前が死にかけていることを知った。打ちどころが悪くて脳がやられてたから助かる見込みはなかった。自分のせいでお前が死んでしまうかもしれないということに、彼女は恐ろしいほどの罪悪感を感じたんだ。そして——藁をも掴む思いである場所に向かった。

 それが、ここだ。

 いや、医者に診せたってわけじゃない。私の元に来たんだ。私が住んでいる場所こそお前の牢の窓から見えるそこの建物だ。私がいることにずっと気づかなかったのか?まあ、ともかく、さっきも言った通り医者にすがったんじゃない。私は医者じゃないからな。その代わりもっと恐ろしい力、人の生死の運命を変えられるかもしれない力——

 魔女の力に頼ったんだ。

 私の力はそこらの村娘の間でちょっとした噂になってた(知らなかったか?まあ、年頃の娘はそういうもんだ)ようだ。私の元に来た彼女はお前を救ってくれるよう頼んだ。その代わり何でも渡しますから、と。だが彼女には何の財もなかった。唯一価値があるものは、その若さと美しさ、つまり彼女の生命だった。

 だから私は彼女に提案した。「あの男の命を助けよう。しかし——お前は覚めない眠りについて、未来永劫その若さと美しさで私の部屋を飾れ」、と。

 彼女は承諾した。お前の命を助けるために。そう、お前が眺め続けていたものは、永遠に時間を止められて、生きた彫刻となった彼女だったんだ。それを可能にしたのが、この紙にある”魔女の契約”なんだ。

 

 そこまで言って魔女は深く息を吐いた。長い沈黙の末、男が切り出した。

「ではなぜ私に、彼女やその村の記憶がないのですか」

「私がお前の元に来た時には、すでに怪我のせいで脳の大部分が回復不能だった。命は助けられても、あれほど繊細な器官で失ってしまったものは私の力をもってしても取り戻せない。お前は記憶を失い、そして記憶する力を失った」

「証拠は——証拠は、あるのですか」

「お前の部屋にメモがあるだろう。頭の怪我を確認しろ、医師が来る、というもの。あれはこの時の怪我のせいだったんだ」

 男はそれで納得したようだった。長い習慣のせいで自分で書いたものなら、確かに自分の身に起こった出来事なのだろうと考えていた。記録こそが彼の記憶だった。

 そして男は悟った。本当の自分が何者であったかを知る時が来たのだと。そのために最も知りたいことがあった。

「彼女は——彼女はなぜ、私の——私なんかのために、彼女の生命を貴方に差し出したんですか?」

 もし顔があったらこの男はどんな表情をしているのだろう。この男と話しているとそれが知りたいと思ってしまう。その問いには男の全てがかかっていた。男の長い旅の終着点、その場所が本当に彼のために天から与えられた約束の地なのか、そうでないのかの答え合わせの時だった。

「それは、彼女がお前を愛していたからだ。心から、命を捨てていいと思えるほどに」

「では私がここにこうして存在しているのは——」

「それが彼女が自らの命と引き換えにしてでも、お前を生かしたかったからだ」

 男は黙っていた。

「言ったようにひどい怪我で命が助かっても他は何も保証できなかった。それは彼女も分かっていた。それでも——彼女は望んだ。せめて生きていれば……生きていれば、いつかお前に想いを伝えられる日が来る、そう信じて」

「その想いをのせて、眠りに入る直前にお前に一つ贈り物をした。いつまでもお前を覚えているということを形にするために」

「それがあの絵、階段の前に掲げられた男の絵だ」

「お前自身は忘れていたかもしれない。でもそれはずっとそこにあった。一枚の絵に彼女が覚えている男のすべてを描きとめて、裏に潜ませるように、その想い人の名前を記して」

 男の体が微かに動いたが、その裏にはこの百年で最大の驚きと緊張が湧き上がっていた。

 じゃあ、本当の私は……

「あの肖像画がお前の本当顔だ。そして真の名前は、野辺清五郎」

 俺は……ああ、そうだった。思い出した。顔も、名前も。

 

 魔女の前に一人の男が座っていた。目立たない男だった。男の顔はなんとなくこんな男いるよな、というような特徴の無い顔だった。特徴の無い名前だった。

 しかし、それでも顔はあった。どこにでもいるかもしれない。しかし一人の男、顔と名前をもった一人の人間がいた。その頬に涙がつたっていた。それこそが男が紛れもなく正しく一人の人間であることを物語っていた。

 顔の在る男がその口を動かした。

「私は……愛されていたのですね。そしてこの場所こそ、私を愛してくれていたその女性ひとが、私を守るために与えてくれた場所だったのですね……」

 魔女は頷いた。もはや男がいたのは牢、あの人が朽ち世界から切り離される場所ではなかった。永遠に変わらぬ愛で満たされた神殿だった。

 一枚の契約書の上に建てられた神殿。

「そして、彼女は……生きているのですか…?」

「どう言えばいいかな……永遠に眠り続ける、まさにその通りだ。意識もなく夢も見ない。形のある死人しびとと言ってもいい」

 死人、その言葉を聞いて男の顔が歪んだ。

「では……彼女は目覚めることはないですか?」

「そうだ。この契約がある限り」

 男は目の前にある一枚の紙に目を向けた。その紙にはこんなことが書いてあった。

 

    西宮葵は野辺清五郎を生かすこと。

    これが履行されている間において菊山千代は眠りにつく。

    

 そして最後に「西宮葵」「菊山千代」と署名がなされていた。

 菊山千代、これが彼女の名前なのか。男はその名前の一つに恐る恐る触れた。それは慈しむようであったが、同時に恐れているようでもあった。天井近くにある窓の向こうは座っていると見えなかったが、彼女はきっとそこにいる。私がこうして彼女の名前に触れることができているこの一瞬の間にも、彼女は覚めることのない眠りについている。

 男は堪えきれなくなって聞いた。

「目覚める方法はないのですか?そうだ、ああ、お願いします。どうか……彼女を解放してください!どんな苦役でも受けましょう。だから彼女は、彼女だけは自由に……!」

 男は涙を流して哀願した。しかし魔女は瞑目してゆっくりと首を横に振って拒んだ。しかしそれは男に対する侮蔑からではなかった。。

「お前が何と言おうと無理だ。できない《、、、、》んだ。この契約は……私の失敗だ。

 この契約には“私がお前を生かす”と書いてある。つまり私はお前を生きさせる義務がある。しかし、その期間が書いていない。だから私はお前を永遠に生かし続けなければならない。こうしてお前が永遠に生き続ける限り、あの女も眠り続けなければならない。永遠に」

「永遠に生きる……私が?じゃあ寿命や病気は……?」

「私の管理下にある限りお前を不死とすることはできる。だがそれを少なくとも私が生きている限りやり続ける必要がある」

「では、契約を破棄しては?あの女性は生きる。もちろん……私の身は貴方に捧げます」

「無理だ。“魔女の契約”は一度結ぶとそれを改めたり取り消したりすることはできない。いくら互いに棄てることに合意したとしてもだ。契約が満了されるまで一言一句変えられない」

「ですが約束が破られてしまう場合も当然ありますよね?だったらそういうことで……」

「その場合は契約は破棄される。しかし……破った者は命をもって償う。死ぬんだ、私であろうと」

 そんな……という顔が男に浮かんだ。魔女自身であろうとこの契約を覆すことができない。つまり菊山千代を眠りから覚ますために男の命を区切れば、魔女が契約を破ったことになって魔女が死ぬ。あるいはなんらかの手段で菊山千代が自発的に眠りから覚めてしまうと、眠り続けなくてはならないという義務を彼女が契約を破ったことになり菊山千代が死ぬ。魔女本人が自分が死ぬことを望むはずがない。しかし菊山千代が死んでは元も子もない。

 男の前で魔女が嫌そうに嘆息した。

「全く私としたことがこんな間違いをするとは。本来なら“お前を生かしている間は女を眠らせることができる”とでもするべきだったんだ。したいならすればいいという形式にしておけば、お前の寿命は私の気分しだいということにはなったが、へんな義務が発生することはなかった」

 魔女はそっぽを向き、男は紙に目を落としていた。この部屋はしょっちゅう沈黙に支配される。魔女は独り言のように呟いた。

「……もうじき、ここを引き払う」

 男がえっ、と言うように魔女を見つめた。

「そろそろ飽きた。こんな辺鄙な場所、もう棄てる。……お前は連れて行く。お前が死んだら契約不履行になって私が死んでしまうからな。本当は、もうあの女を飾っておくのにも飽きているんだがな」

 ここを離れるというのか。男は驚いて反射的に部屋を見渡した。木板の壁、畳の床、何もない牢。ここには本当に何もない。言ってしまえば誰も望む場所じゃない。だが…と男はためらった。

 だが、ここは男が長い年月——と思われる時間——を過ごした場所だった。記憶の無い男でも唯一受け容れてくれる場所だった。そして、今やその牢はそれだけではなかった。ここには愛があった。思い出せない。それでも命に換えても私を守ってくれた女性の愛に満たされた場所だった。

 この牢を去る、ということに怯えていた。そうすべきじゃない、という葛藤があった。

 その時男は契約書の下の方の一文に気づいた。 

 

    なお菊山千代が眠る間は野辺清五郎が菊山千代の契約を代行する。

    

 これは、と男が問うと魔女は気だるそうに答えた。曰く、菊山千代は永遠に眠ることになることは分かっていたから、とりあえず書き足しておいただけだという。「そっちに気を遣っておいて、なんであっちを忘れるかな……」と魔女は腹立たしげに言うが男の耳には入っていなかった。

 やがて男は緊張した声色で尋ねた。

「じゃあ……私がこの契約を破棄したら、どうなりますか?」

 魔女はちょっと考えるようにして答えた。

「この契約に違反しようとする方法としてはお前が菊山千代を起こすという手があるが、まあお前には私の術は解けないだろう。とするとお前が……自分から死ぬことだが、この場合は一見すると私がお前を生かすという契約が果たせなかったことになる。しかしそれの引き金となったのが代行者として私の契約相手となったお前自身だから、お前が陰謀して契約を破ったことになる。だから結局お前が悪いことになって、私は無事だ。そして契約はなかったことになる」

「その場合……あの女性はどうなりますか」

「まあ、代行者としてお前が罪を被ることになるから彼女は何ともないだろう。何事もなかったかのように目覚めるだけだ」

 男に雷に打たれたような衝撃が走った。どくん、どくんと胸の鼓動がこめかみにまで届いた。男は周囲を眺めた。どんな小さいものだろうと全てを見通そうとするように。全てを感じ尽くそうとするように。——彼女の愛を心の隅々まで行き届かせようとするように。

 そして、男は覚悟したように言った。

「——契約を破棄します」

 魔女がゆっくりと男の顔に振り向いた。先頃までの気だるさは一片もなかった。

「分かってるな?お前は結局死ぬことになる。この牢の中で」

 男は怯まなかった。小さく頷いただけだったが、それは知らず知らずのうちに全身が決心に力んでいたからだった。

「分かっています。正直、死は恐ろしいです。しかし——」

 男は息を継いだ。

「私は嬉しいのです。この人生が無意味ではなかったと知って。愛される喜びに満ちていたのだと知って。これ以上の幸福はありません。もしありえるならば、それは……それは、私が愛する、、、女性ひとが、一瞬でも同じような幸福を知って、、、、歩んでいってくれることです」

 男は契約書を手に取った。再び、女の名前にそっと触れた。魔女は何も言わずただじっとその手を見ていた。男はまた小さく頷いた。

「契約を破棄します——死を受け入れます」

 びりっ、と音がした。一枚の契約書が男の手で二つに裂かれた。魔女はそれを見つめていた。

 世界が歪んでいく。牢が、木板の壁が、畳が、そして窓が——歪んで薄れゆく世界の中で、最後まで男は紙きれの中にあった女の名前を見つめていた。

 男は死んだ。夢のような愛の中で。

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