顔の無い男 (四)
目を覚ます。ここはどこだ?ここは……牢の中。あの竜巻に吹き飛ばされて、戻ってきた。周囲を見渡すと前回と同じように少女たちが折り重なって眠っている。夢の記憶をたぐるように現実——のはずの記憶、前回戻ってきた時の記憶をたどってまず真っ先にやらなければならないことを思い出す。人数を数えなくてはならない。
まだ動かないでいてくれと思いながら生徒たちの人数を数える。一、二、三、…翠さんもいる、十、十一、…そして一人だけ風変わりな制服を着ている者がいることに気付いた。聖アリンの制服を切って貼ったしてできた船乗りの服、それを着ている者こそ岡田京子だった。彼女もあの顔の無い男の部屋からこっちの部屋に戻ってきたのだ。数えるどころでなくなり、つま先立ちになって誰かを踏んでしまわないように気をつけながら彼女のもとに向かう。肩を揺さぶり彼女の名を呼ぶと目を開けた。体中を眠りから叩き起こすように大きく息を吸うと、すぐに眠そうだった目に力が宿る。
「ここ……遠乃井さん?」
「良かった、こっちに戻ってきたんだ。どこか怪我とか痛いとこは?」
「体は特に……戻って……?ああ、みんなは……」
そう言って体を起こしながら周囲を見渡し、仲間たちがいることを確かめる。しまった、まだ全員いるか確認し終えていない。ちょっと待ってと言って急いで生徒の数を数える。牢の中に生徒は二十人。全員いる。そのことを伝えると京子の顔に安堵の色が浮かんだ。
「あの男の部屋にいたこと、やっぱり夢じゃなかったんですね……あれ、この服、たしか、たしか……夢の、中で……?」
顔の無い男の部屋に閉じ込められていた時、彼女は眠っているようだったが半覚醒というのか、うっすらと意識はあったようだ。そしてあのメアリー・セレスト号を助けにきた時の記憶も残っているらしい。顔の無い男は動かない彼女の制服に細工を施して衣装に仕上げたのだろう。そう考えて、服に細工をしたということは彼女からその服を脱がしたのか、ということに気づく。体には問題ないようだが、いきなり無遠慮に聞いてしまっただろうか、と少し申し訳なく感じる。
船の中の記憶を辿ると既にあの冒険がただの「夢」のように儚くなっていることに自分でも驚いた。何とか覚えていられるのはあの右手の切り傷の恐ろしさがあったから……慌てて右手を見る。が、怪我もその跡も何もない。ないということを確認してしまったせいであの「夢」が本当に「夢」でしかなかったのでは、と思いそうになってしまう。
あの夢は現実であった。その
周囲の少女たちも次第に目覚め出した。少なくとも全員意識はありそうだ。その中から二日酔いじみた気だるそうな顔で近づいてくる人がいた。
「お前も覚えているよな、船」
あの世界は存在していた。これがただの夢ではなかったという証がないだろうか。本来それはその過程自体が厳然たるカタチとなっているべきなのだろう。しかし、ここでは全てが曖昧だ。小道具を手に持っているからといって、千秋楽まで劇をやり切ったという証にはならない。演じている時の写真というカタチがあるわけでもない。しかし、残されたのは、ひどく曖昧すぎる、証拠にもならない証拠。
「ええ、
信じきれると信じこんでいる記憶。この全てが曖昧な世界では、自己の記憶だけが確かな現実だった。光あれ、さすれば……とでも言うように。
船という言葉に少女たちも反応したようで、寝覚めの雰囲気が緊張したように静まり返る。それを生み出したのがたぶん、あの顔の無い男。男の声が蘇る。あの男は探していた。彼のいるべき世界、ある
「あの男のもとに……行かなきゃならない」
声に出ていた。自分自身に確認するつもりだけだったのか、それとも他の人々にその思いを共有したかったのか、あまりにも無意識だったのでもはや検証のしようもない。しかしその言葉を否定する者はいなかった。ただし、少女の間から問題が挙げられた。
「でも格子戸が開かなくて、この牢から出られないんじゃ……」
そうだった、京子が戻って来てはいるがあの扉が開かないのだった。文字通りなんともしがたい障害に直面した。ちょうど格子戸が手を伸ばせば届く位置にあったため、腹立ち紛れも兼ねてぐいと引っ張る。
ぎいと軋んで戸が開いた。あまりに気安く開いたため肩透かしを食らった気分だ。まるで扉が開かなかったことをこの世界が
「あれ、今度は開いた……」
すっかりあぐらをかいて座して大計をめぐらすつもりでいた翠もこの結果は想定外で、つい立ち上がってその拍子に足がもつれそうになる。開いてしまったし立ってしまったしで、向こうの部屋に行かなければならなくなった。
隣の部屋、ガラクタ部屋。そこにはやはり以前のように雑多な物が小山をなしている。その山の手前に男がこちらに背を向けて座っていたのだが、やはり全然目立たない。
「あの——」と声を掛けるが正直何をどう聞けばいいのかよくわからないでいる。
「どうかされましたか?……おや、初めて聞く声ですね。私は……」
初めて?いいや二回目だ。この男、あまり耳はよくないのだろうか?訂正しようか、それとも前回はちょっとした喧嘩別れだったためそのままでいこうか。
そもそも作戦という作戦もなかったので、何の話から切り出そうかと次の一手に詰まっているうちに、男が振り返った。そして壁に貼られた人相描きを眺めわたす。
「ああやっぱり。たしかに貴方たちをお見かけした
その顔に顔は無く、黒い虚無が覗いている。そして、記憶ではなく記録。
しかし見えない彼の目は僕らの姿を認識しているようだ。それなのに初めて見たという。ということは、この男は僕たちに会った
そして部屋中に貼られたたくさんのメモが目に入る。手元近くのメモには次の「作品」のテーマや寸法、何をどう使うか、どこまで終わったかといったことが大小のスケッチと共に異様に細かくびっしりと書いてある。
その中で男の手が持っていた小刀を寝台に置いて、代わりに紙とペンを手に取った。僕たちと紙を黒い顔で交互に見つめながらペンを走らせている。楕円のような丸の中に小さな線が描かれていくと次第にそれは人の顔となっていった。そしてだんだんとその顔はよく知った人の顔に似てきて——ついに翠さんの顔となった。男は似顔絵を描いていた。
「貴方、女性の方、お名前はなんといいますか?して、どういうご身分でしょうか?」
「私は——西宮
「なんてことだ、どうやったんだ……!ああ、本当に魔女だというのか!」
そう言いながら翠の似顔絵に「西宮葵、魔女」と勢いよく書きつけた。そのメモは壁に貼ってある人相描きと同じだった。
顔の無い男は興奮冷めやらない様子でしきりにぶつぶつ言いながら、ついでに僕のことも絵に描いた。翠さんを習って名前はちょっと変えた。魔女見習いということになったが本来はアルバイトであることを考えると、ここも正確ではないかもしれない。
「はあ、して魔女というお方が、こんなところへ何のご用でしょうか?」
「そうだな、どこから聞けばいいか……じゃあ、ここは一体どこなんだ?」
翠さんの言葉の後に少し間があった。
「ここは……地獄です」
顔が無いからなぜそのような間が生じたのかは表情からはwからない。ただその声には男の存在のもっとも深いところに沈む悲哀を孕んでいた。男からはそれまでの愉しげな雰囲気は微塵もなくなり、牢獄の重苦しさ、格子戸一つで隔たれた絶望が滲んでいた。
「……地獄?」
また牢が静寂に包まれた。固い壁と天井に圧しつぶされるような息苦しさを感じて沈鬱した気分になる。自然と床に目がいき、そこに積み上がったガラクタの山が目に入る。ガラクタの山はガラクタよろしくどれもどこかが壊れていて、また使おうと思える品ではない。
その山を例えるなら墓標、世界から見放されたモノたちが流れ着いて積りに積もり、時折崩れるに任せるだけの墓場だった。その中に、顔の無い男がいた。
「そうです、地獄です……ここは、世界から追放されたものの掃き溜めでなのす。
男の言い方に妙なものを感じた。実際にここへ入った者の末路をこの場で見ているようで見ていないような、なんというか推論のような段階があるように感じる。そこで部屋中に貼られた異様に神経質というかあまりにも些細なことも書かれているメモに思い至る。もしかするとこの男は……
「もしかして、あなたは記憶に問題があるんですか?」
その言葉を聞いた男ははっとしたようにぴくりと動くと、ため息をついたように肩を動かした。
「その通りです。私は、記憶が一日しかもたないのです……」
部屋中に貼られた一挙手一投足までを指図するメモがそれを物語っている。きっと日常生活に支障があるレベルの記憶障害があることが癲狂院に入れられた理由なのだろう。
そして彼はその奇妙な記憶と無数の記録の上の「身の上」を語り出した。
私の記憶は一日しかもちません。だからこうして物を作るにも全ての工程を前もって一つ一つ小分けにしておいて、書かれている作業を上から順にやらないといけません。人の顔や名前を記録しておかないと、会ったことを覚えることはできません。
記憶以外は問題ないから、ここの看護士の代わりにまわりの牢の世話をすることもあります。掃除程度なら問題ありませんから。とはいえちゃんと記録していないと、朝起きた時、昨日誰がどこの牢にいたのかわかりません。
一応、自分の記憶に問題があってたぶんそのせいで普通の暮らしができないから、この牢に少ない間入れられているということはわかります。ただ朝起きると考えるのです。わたしはどれほどの間この牢にいるのか、他の人はどれほどで、出て行くことはあるのか。そして——自分は何者なのか。
他の人の掃除や下の世話をして、今日は誰が
この牢の中で死んだのです。
その日は恐る恐る看護士に聞くのです。その人はどんな風に死んでいったのか。
そのあまりに残酷なこと!
とても人の死に方ではないのです!牢の中で骨と皮だけになりながら、泡を吹きながらうわ言を繰り返し、誰に顧みられることなく死んでいく……その答えに慄きながら机(ああ、この寝台です)の脇をみると一枚のメモがあります。『誰かがいなくなった時は、机の下に記録すること』。このメモに気づいて机の下に潜ります。積み重なった物をどけて床の畳をどかします。すると……
そこには残酷な死の一覧があるだけなのです。生きて出た記録はありません。
これを見て私は悟るのです。ここは地獄なのだと、すべての者が
そして私自身に考えが及ぶのです。私の記憶は一日しかもちません。だからこの牢で毎日同じような生活をしていると、まるで同じ一日を無限に繰り返すような、時が止まったような感覚がするのです。永遠にこの一日が続くような。しかし、気付くのです。私もその、腐って、朽ちていく日々の途上にいるのだということに……
男は絞り出すように話した。ふと気がつくと今までそこにあったはずの寝台、彼の机は消え、それに隠されていた下が見えるようになっていた。
そこには細かな文字でびっしりと「死の記録」があった。誰が何処でどんな様子で死んでいったのかの羅列はまるで経文のよう。それは死人の鎮魂のためなのか、男自身の仏業としての祈りなのか、どちらにせよ男がここで死んでいくことへの恐れがありありと刻まれていた。その死はふだんは無数のガラクタにより男から隠されている。あるいは男が隠している。
「では、その工作は……」
「これは劇の小道具です。いつも考えてしまうのです。ここじゃなければどんな日々が送れたのかを……村一番の長者になったかもしれない、黒船で外の国に行ったかもしれない。王になったかもしれない、いやそれよりも……愛する者がいたかもしれない。
そして、悪戯をするのです。自分に対して。
寝る前にその小道具を持って眠るのです。そして朝目覚めた時、自分の姿を確認します。自分は何者だ?手がかりはないか?自分は何を持っている?剣?眼鏡?本?そんなものを持っているとは、もしかしたら本当の自分は……」
赤茶けた刃、銅鏡、木の鎧、勾玉、セーラー服、帆布の切れ端……彼の手から生まれた、そうであったかもしれない彼のもう一つの人生の捏造された証拠。目覚めてから見る夢の物語。
いや、それは夢ではないのかもしれない。過去を記憶できない男にとって、今手の中にあるものがすべて。今手の中にあるものが海賊セットなら、彼が海賊であることを否定する者はいない。特に自分自身は。今が遡及して過去を創り未来を敷き直す。記憶の無い男だからこそ許された、夜明け過ぎの一時の甘い夢。
男は何かに導かれるようにすうと立ち上がり、僕らから視線を外した。その顔が向く先には小さな窓がある。窓の向こうには、別の建物。そしてちょうど窓に面しているのはその建物のある一室。男はその部屋を見ていた。
「机の脇にもう一つメモがあります。そこにはこうあります。『窓の外を見よう。あの
こんな惨めな私を見守っていてくださる。一体なぜなのでしょうか。
ああ……もし彼女の愛があれば、彼女の愛の中で死を迎えることができれば、この朽ちゆく魂も救われる……」
声を掛ければきっと届く距離の窓辺に一人の女性が佇んでいる。時に卑弥呼、時に船長の妻であったヨーロッパ人顔の女。それは以前僕らが初めてこの男のもとに来た時と寸分違わず同じ姿勢で、同じ方向を眺め、同じ表情をしていた。その女が何者であるかははっきりとしていた。
その女はただの模型だった。医学講習かなにかで使われて、倉庫の窓辺に置かれているだけのただの模型。ふと見かけただけなら人間と見紛うようなものだから、男は気づかなかったのかもしれない。あるいは、気づかないふりをしてきたのか。永遠のようなこの牢の生活のある日、男はその女性がただの模型であることを知って絶望したことがあるかもしれない。しかし彼には絶望に抗う手段があった。記録に残さなければよい。記録に残らなければ記憶には残らない。次の朝目覚めれば、昨日の模型はまた人間となって彼の前に戻ってくる。
本当にそうだったのかは僕が知るはずもない。しかし、また男は祈った。
目が覚める。俺は誰だ、何者だ?何を持っている?干からびたネズミや虫の死骸、土、空の水筒。そして彼女は誰だ、彼女は、そうだ……そして俺は、ああ、そうだった……
さて、私は誰でしょう?
その国は今存亡の危機を迎えていた。灼熱の太陽が照りつけ、最後に雨が降ったのを覚えている者はいなかった。『国は百の昼からなる』と言われていたがこれは日照りが百日続くという意味ではなく、百日かけてやっと端から端まで歩き通せるほどこの国は広いという意味だった。
無論日照りは百日という生半可なものではなかった。学のある者がやっと数え方を知っているくらいの数字だった。その間に国中の大地は乾き切って、どこにいようと蜘蛛の巣のような無数の網目にひび割れた地割れが走っていたから、国の全土が一匹の蜘蛛の巣になったようだった。
あらゆる生き物が死に絶えて久しく、魚と聞くと思い浮かぶのは骨の形だけだ。ネズミさえ見れば驚くほどで、動いているものといえば小さな虫くらいだった。人は何でも食った。食うしかなかった。ミイラになった家畜や犬にネズミ、乾き切ってぼろぼろとに千切れる草の根、生きている虫はなおのこと、そして人間も食った。それは腹を満たすためではなく一滴ぶんでも残った水を求めてのことだった。
その国にごくわずかに残った二人の人間としてある男と女がいた。二人は隠れ潜むように他の死にかけた人々と同様ミイラと虫を食って生きていた。だが他の人々と大きく違うことが一つだけあった。その女は伝説に語り継がれる雨乞いの巫女の唯一の子孫だった。伝説によれば巫女を生贄として捧げその血を一滴残さず大地に還せば、たちまち嵐が起こり大地に豊穣の雨を降らせるということだった。
当然、国を統べる王がその伝説を知らないはずがなかった。王は国の辻という辻に触れ書きを出してはその巫女の血を引く女を探していた。山のような報奨を約束したから兵も民も血眼になって彼女の行方を探していた。本物と間違えられて捕らえられた女も数知れず、その真贋を見極めるもっとも確かな方法が斬り殺して嵐が起こるか確かめることだったから、街という街で女が滅多やたらと斬り殺され、辻という辻は赤く染まった。
男と巫女の女は恋人だった。男は女を守るため幾度も追手から逃れて国中を彷徨った。そして辻を通るたび女の人相描きを目にして彼女を求める魔の手に恐怖した。
夢の中で王は何度も彼に語りかけた。
「お前が隠すその女を引き渡せ。そうすれば何でも好きなものをくれてやろう。城も爵位も富もやろう。どんな美酒も女も思うがままだ」
男は元から卑しい身分の生まれだったから、貴族の生活と言われても想像することは困難だった。ただこの灼熱地獄の逃避行にあって、男の望んだのは、穴の無い壁と屋根がある家が欲しいということだった。
テーブルがあって、その上にはパンと肉と何よりもいっぱいの酒、でなければ水が欲しい。それが生きている限り毎日続いてほしい。そして、その食卓の光景には常に傍に巫女の女がいた。時には二人の子供もいた。これが男の望む「何でも好きなもの」「思うがまま」だった。王の大権があれば一瞬のうちで空から現れそうな気がした。
だが夢想から醒めると、もはや王のどんな力があってもそれが不可能であると分かっていた。家もパンも肉も酒も毎日手に入れることはできる。しかしそこに愛する女はいない。もし愛する女と共にいることを望めば、ひび割れた地面しかない。
まだ暗い夜明け前のあばら家で眠る女の傍で男は一人座っていた。暗いこの時間こそが人が昼よりは暑くないから唯一、休息できる時間だった。
男は考えに耽っていた。国のどこにいようと追われ、逃げ続ける度に灼熱の大地で死にゆく人々を見てきた。辻という辻で怨嗟の声を聞いた。
〈あの巫女の女が生きているせいで……あの女もどの道死ぬしかないなのなら、
なぜ我らを 苦しめてまで生きるのだ……なんと浅ましいこと……〉
女が死んで千万の民が生きるか、千万の民が死んでついでに女も死ぬか。灼熱の大地のあまりに残酷な冷たい秤の計算式。この女は、ただ苦しむ生の数刻の時間を引き伸ばすために人の命を喰らう。
それは——怪物ではないか。
男は昔見た傷ついた野犬を思い出した。痩せ細って脚を引きずり苦しそうな息をしながら、なおネズミを捕らえようと地にのたうつように一心不乱の苦闘を繰り広げていた。その飽くなき生への執着は目を背けたくなるほどだった。
同じではないか、この女も。
だがこの女はそれ以上だった。自分が死ねば民が救われることがわかっていながら、罪というものを知りながら生きながらえようとするのだ。恐るべき罪人ではないか。
男の手は知らず動いていた。両の手をそっと女の喉に当てた。締めてしまえ、殺してしまえ、千万の民のためというより、この巨悪を生かしてはならないという思いに駆られ、いつの間にか手に力を込めようとしていた。
その時、女の目の端に涙が浮かんでいることに気がついた。水がもったいない、そう思って我に帰ると己のしようとしたことに慄然した。
女は震えていた。こんなにも辛い生だというのに死ぬことが恐ろしくて、そしてそのために千万の民が死ななければならないという罪の重さに夢の中ですら震えていた。
その姿を見て男は自身を恥じた。一瞬でも女を殺そうとしたことに深い罪の意識を覚えた。
罪、と男は考えた。罪とは、何だろうか。己が生きようとするために他の人々を苦しめるのが罪だというのか。ならば——ならば、王は、兵は、千万の民はどうなのか。己が生きるために一人の女が死ぬことを望む者は罪人ではないのか。
千万に対し一人が死ぬだけなのだから、罪があったとしても千万分の一になって毛ほどでもなくなると彼らは言うかも知れない。
そうだろうか、男は指先で女の目元を拭いながら考えた。彼女の命を千万の人間が食い漁る。極限の飢えに苦しむ民によって、彼女の体は千万に引き裂かれ骨の一片も残らず食い尽くされる。
千万分の一になるのは罪ではない、彼女のこの細く震える体なのだ。そして千万に引き裂かれた彼女は千万の口の中で噛み潰され、千万回の叫びを上げる。
これを望む者たちが罪人でなくして何であろう。
夜が明けて彼女が起きると、その手をとって山道を歩いた。灼熱の道だった。一歩進むたびに太陽に近づき身が焼かれるようだった。それはまるで試練だった。浄罪の劫火で焼き尽くされるのが先か、それとも——。男と女は耐え続け、歩き続けた。
そしてとうとう、二人は山の頂上に辿りついた。国が見渡せるその山の頂に立った男と女は、さながら太陽神のようであった。試練を超えたその体には、むしろ下界の人間たちに試練を与え裁く力が与えられたようだった。
男は大地を見渡した。百日の昼の国はすべて茶色だった。枯れた草木、獣の死骸、荒れ果てた家々、国の大地の全ては今や莫大な薪木であった。その上で千万の罪人が獣よりも醜悪に、己の生のために動き回っている。国は燃えるのを待っていた。
男は傍の女に行った。
「今日は街を、明日は都を、明後日は国を焼きましょう。そして二人だけで穢れない世界に生きましょう……」
そして世界に火が放たれた。荒れた大地を駆け抜ける風が吹子となって、火はどこまでも燃えていった。
男は言った。
「何を犠牲にしようとも俺はあの
その時、こうも思った。まるで夢から覚めたようでもあった。
「なぜだ……なぜいつも奪われるのか、失ってしまうのか!教えてくれ、なぜ彼女は喋らない、彼女の本当の想いはどこにあるののだ!それは……一度として私を包んでくれたことは無かったのか……?」
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