顔の無い男 (三)

 目が覚める。まだ目が回っている気がする。そして頬には少し固い感触とイグサの匂いがする。畳の床に頭をつけて寝転がっているのだ。

 気がつくと、またあの牢に戻っていた。体を起こそうと床に手をつくとすると何かを押しつぶした感触がした。いたっという声が近くで上がった。見ると手のしたには誰かの足首があった。

 見渡すと白い制服姿の少女たちが折り重なるように倒れていた。部屋の隅の方に一人装いの違う人、翠さんの姿が見える。彼女もようやく動き出そうとしていた。

 そうだ、宮塚亜里沙は、そして岡田京子は——そう思って見渡すが同じ制服姿で埋め尽くされているのですぐに誰がどこにいるか判別がつかない。

「宮塚さん……」

 そう声を上げるが返事がない。まさか、背筋が冷たくなる。はやる思いで周囲を見渡すと、すぐ手の届くくらいの距離に彼女の少し大柄な体があった。うつ伏せになっている体を返して仰向けにすると、彼女の首筋には傷の一つも無かった。胸が小刻みに上下している。息をしている。

「宮塚さん、宮塚さんっ」

 肩を揺さぶるとんんっ、という声がしてうっすらと目を開ける。寝ぼけたような顔で、

「私、うん——?」

 と言いながら体を起こした。周りの少女たちも次第に起き上がっている。

「君、剣で刺されて」

 そう言うと篠井亜里沙の顔に考え込むような皺が刻まれた。

「剣……あぁ、何か夢を見ていたような…」

「縄文時代?というかなんか木の家があって……それで、あぁ、剣を持った人たちがいっぱいいて、それで……」

「私、刺された……?[#「?」は縦中横]」

 彼女が自分を抱きしめるように腕を組む。彼女もあの光景を覚えている。その言葉に触発されたように「何あれ」「ねえ、見たよね?」「昔の」などと周囲でも会話が交わされる。操られていても見たものは覚えているようだ。夢の一片として。

「あれ、部長は?[#「?」は縦中横]」

 誰かが問うと皆周囲を見渡す。しかし答えはない。岡田京子がいない。翠さんと目が合うがどちらも知らない。

 ちょっと動くな、と言って翠が人数を数えると制服姿は十九人。一人、岡田京子だけがいない。彼女は最後僕らと一緒にいた。あの地割れの直前、大櫓の神託の間で従者の男ともつれあって——

 あの従者、隣の住人。まだそこに行っていなかった。「隣」そう言うと翠さんも人を掻き分け格子戸に向かう。一息に力を込めて戸を引いたため、戸が開いた拍子に後ろに倒れ込みそうになった。

 格子戸を抜け、数歩の隣。その部屋を見て驚いた。

 ガラクタの山が築かれていた。下駄、着物、取手の金具、レオタード、材木、風鈴、ボタン、軍帽、消しゴム、ホース、古そうな本、腕時計、キャンバス、鋏、鋳物鍋、正月飾り、重箱、歴史の教科書、刀の鍔、レンズの無い眼鏡、帆布の切れ端……用途も時代も違う雑多な物がひしめき合っている。

 そしてさらに目を引くのが部屋の壁に所狭しと貼られた紙片だ。それぞれメモのようで「起きたら頭の怪我の様子をみること」「夕飯の後は薬」「一月十七日木曜松江医師来た。記憶快方せず。入院続く」そして「何月何日何もらう」など物の来歴や人との会話の内容、相手の人相の絵までがびっしりと書きつけてある。

 小山が崩れる音がする。見ると物の山の向こうに隠れるように、一人の白い制服を来た少女が横たわっていた。間違いない、岡田京子だ。そしてその体の側にあの銅鏡、アルミの鍋蓋が転がっていた。

 アルミの偽銅鏡がここにある。それによく見ると木片を黒く塗って繋げた鎧風の衣装、石を削った勾玉、そして槍に使われていた赤茶けた刃がある。どれもあの邪馬台国で見たものだ。

 カツカツと音がする。山の手前、こちらに背を向けて寝台を机代わりに何か作業に没頭している人間がいる。周囲のガラクタに溶け込んでいるが微かに動いている。顔は見えない。

「岡田さんっ」

 そう言うが彼女は眠り続けている。格子戸を開けようとするが、どんなに力強く押しても引いても開かない。

 その時、声がした。

「どうかされましたか。ええっと、誰かな……」

 作業をしている男が特徴の無い声で僕たちに尋ねた。彼が振り返ろうとするが「初めてお会いします」と伝えると振り返るのを止めた。格子の中で男が背を向けたまま僕らに尋ねた。

「その子を返して頂きたい」

「その子……?[#「?」は縦中横]はて、おや、なんとこんなとこに若い娘さんが。どうやって手に入れたんだっけな……」

「いや、あなたの物じゃない。その娘を出してほしいんです」

 男はなおも振り向かず思案しているようだった。その男の向こうに窓が見え、窓の向こうに壁が見える。窓から見えるのはたぶん別の建物だ。向かいに別の建物があるらしい。窓からは向かいの建物の二階部分が見え、丁度向こうの硝子窓に面している。硝子窓にカーテンはなく、その部屋の中がうっすらと見えた。

 そこに一人の女性がいた。その顔はヨーロッパ風の顔。間違いない、あの弥生時代の遺跡で見た卑弥呼の顔そのものだった。

 男は話を続けた。

「私の部屋にある。だからこれは私のものであるに違いない。これはお前らには渡さない」

「違う、そいつはお前の部屋に迷い込んだだけで……」

「黙れ!お前らの考えは分かっているぞ、この盗人め!」

 そう言って男が振り向いた。

 その顔には顔が無かった。

 ただの虚無が、漆黒の闇があるだけだった。

 顔の無い男は口の無い顔から声を張り上げた。

「私の世界を奪う者は何人たりとも許しはしない!ここは私の世界だ、それ以外有り得ぬ!」

 顔の無い男が声を張り上げると世界が歪んだように感じた、またあの目が回るような感覚がして……

 そして僕らはいつの間にか少女たちのいる牢屋に戻っていた。突然現れた僕らに皆驚いている。「どうしたんですか」「部長は」と心配そうな声がする。

「……あの隣の部屋に閉じ込められていた。眠ったまま動かなかった」

 不安そうな十九の顔に見つめられる。まずはここを出てまた——格子戸に手を掛け力を込める。しかし、どうやっても開かない。

 主の怒りに触れた僕らは今度こそ牢獄に閉じ込められてしまった。

 

  目が覚める。俺は誰だ、何者だ?何を持っている?赤茶けた刃先。若い娘がいるぞ。この服は、セーラー服?セーラー、船、水夫……そういえば。おや体が全身濡れているぞ。それに板が二枚ある。大きな板には大きな傷。小さな方は反っていて樽の破片のようだ。それに帆布の切れだ。そして彼女は誰だ、彼女は、そうだ……そして俺は、ああ、そうだった……

 さて、私は誰でしょう?

 

 皆で話し合っていると、また唐突に世界が反転した。邪馬台国に飛ばされた時と同じだ。また邪馬台国か?いや……

 目の前には砂漠が広がっている。その砂漠の中央に一隻の船がある。砂漠に船、全く相反するものだ。三十メートルくらいの船で、二つの大きなマストを備えているようだが、帆は張られておらず、大きな帆柱だけが屹立している。

 そういえば体は自由に動くようだ。他の人はいるかと振り返ると同じように周囲を見渡す翠さんの姿があった。しかし他には誰もいない。

「行くしかないな」

 砂漠に立っていても仕方ない。彼女の声に促され砂の中を歩む。

「邪馬台国はまだしも砂漠に船……何なんでしょう?」

「その邪馬台国だっておかしなことばっかだった。あの銅鏡とかも」

 銅鏡、鎧、勾玉、槍の刃、その拙いお手製の工作がどれもあのガラクタに埋もれていた。まるで小道具を作って劇をやっているかのように。

「この船、どこかで見たような……」

 翠が考え込むように呟く。古い構造の船には違い無いが、船体に穴が開いているわけでもなく、むしろ手入れされているようだ。ただ、抉れているというほどではないが一条の傷が船体の外板についていた。

「後ろの方、梯子があります。登ってみましょう」

 梯子と言ってもカーブを描く船体に取り付けられた足場でしかないため、垂直よりやや背側に倒れていて登りにくい。そんなに角度はないのだろうが落ちないかと不安になる。とはいえ初めを過ぎると垂直に近くなった。登り切ると甲板が見えた。

 濡れいている。甲板は水浸しだ。砂漠の中にあるのに甲板はびしょ濡れだ。そして甲板には誰もいない。動く物の影すらない。しかし甲板も荒れているところはあるが特段歩けないほど壊れいてるというわけでもなさそうだ。

 船尾にまわった翠は舵の裏側にある台を見ていた。

「羅針盤は……壊れているな。それに救命艇も無くなってる。帆はどうだ?」

 少し傾いている甲板は歩きにくかったが、帆柱を見上げると枝分かれした腕のように水平方向に伸びる支柱に帆布が括り付けられている。きちんと仕舞ってあるだけで壊れている印象は無い。

「この砂漠に船を棄てたんでしょうか。動かないように帆は仕舞って」

 言ってからここは現実世界でなかったことに気付く。そうだ、夢の空間のはずだ。矛盾も唐突も何だってありうる。しかし翠さんは僕の言葉に特に突っかかることなく思案顔のままだった。とりあえず中に入るか、と船室へ続く階段を降りていく。手には笛が握られている。

「中は綺麗なものだな」 

 荒れた跡はなく甲板よりも整っている。むしろ整いすぎているくらいで、そこからひょっこりと船員が現れてきてもおかしくない。

 次の部屋は倉庫だろうか。箱を開けると樽やパンが出てきた。食糧が保管されている。

「食べるなよ」

「別に食べませんよ。それに固そうですし。フランスパン?」

「いやライ麦パンだろうな」

 階段はもう一階下まで続いている。行ってみようと階段の手すりに手を掛けようとすると、そこに汚れがあった。赤茶けた汚れ、もしや血痕か。これって、と思いよく見ようと屈んだところ階段の下側が視界に入った。階段の先を見てうわっと声を上げる。

「浸水してます、しかも深い」

 階段の途中から一面水で覆われている。水深は一メートルはありそうだ。なんたってこんな砂漠の中に浸水した船が……その破綻した状況にますます困惑する。

「あの積荷……山のような樽か?」

 たしかに無数の樽が積まれている。とするとこの船は樽に入った水か酒だかを搬ぶための貿易船なのか。しかし船を棄てるならなぜ積荷がそのままなのだろうか。

 その時船が軋むような音を立て揺れた。何事だ、と甲板へ急いで戻る。先に戻った翠さんが驚いた顔で砂漠を見ている。階段を駆け上がると砂漠は一変していた。

 砂漠のあちこちに大きな水溜まりがでていた。

 それぞれの水溜まりは急速に広がっていき、すぐにそれは合わさって池となった。池はどんどん広さを増し、見ている側で湖となった。晴れた空なのに砂漠に水だけが溢れ出る。船体が揺れる。足元を見るといつの間にか船までも湖の中にあった。湖と湖がつながり砂漠は一面、見渡す限りの海となった。船体が水に流されて動き出し、僕らはこの船に閉じ込められた。

「あれは砂漠だったんじゃない、砂洲だったんだ……」

 海流の変動や砂の堆積、砂粒が湧水を塞いだりとかで起こるとされる、幽霊のように出没しては消える陸地。今や陸地は消え、この船は当て所なく海を漂うこととなった。

 そうだ思い出したぞ、と翠の声がする。

「この船は……メアリー・セレスト号だ」

 百五十年前に海を漂っていた謎多き幽霊船。海は急速に夜の闇に包まれていった。

 

「幽霊船に砂洲……嫌な組み合わせですね」

 真っ暗な闇の海を漂う船一体何が始まるというのか。乗員が忽然と消えた船。あのコナン・ドイルさえ魅了した多くのミステリーを孕む船。

「組み合わせ、というかそういう説はあったんだ。砂洲にはまって乗員が助けを求めに砂浜を歩いて行った。その間に水が戻って船だけが流されたという」

「しかし……なんだか真相として行き過ぎな気がする説ですね」

「さすがに真相ではないんだろう。ただこの空間、それっぽければ何でもオーケーという雰囲気がする」

 それじゃあ今回はそのミステリーが繰り広げられるというのか。

「一旦船室で——」

 甲板から船室につながるドアを潜った時、闇の中にキラッと何かが光った。動物的な直感で思い切り後ろに飛び退く。シュッ、と右手に熱い痛みが走る。切られた。それを理解する間もなく後ろへ倒れ込み体を横に転がす。タンと金属がそれまで僕の首があった場所に突き立った。月光にきらりと刃が浮かぶ。

 和朔が何とか立ち上がり体勢を立て直すと翠がその背に回る。襲撃者も刃を床から引き抜き構え直す。そして船室から新たに影が現れ、影は揺らぐと人の影の形になった。新たに現れた者たちは襲撃者と歩調を合わせるよう並んだ。

 月光に照らされたその襲撃者たちの顔は少女だった。その服は日頃の制服とよく似てはいるが、船員服にアレンジされている。船員が船長一家を襲ったというメアリー・セレスト号船員反乱説を思い出させた。

「このっ……![#「!」は縦中横]」

 翠さんが魔笛を吹く。弥生時代と同じ相手を眠らせる音だ。汽笛のような低い音が響く。しかし、彼女らは眠らない。魔笛の音が効いていない。それどころか音に神経を逆撫でされたようにうあぁっと奇声を上げながらナイフを掲げ突っ込んでくる。

 獣のように踊りかかってくる少女をすんでで躱し、すぐ側にあった大きな木の棒を引っ掴む。切られた右手が痛む。だが文句を言っている余裕もない。もう一人が切り掛かってくる。その手を棒で腕を叩きつけるとナイフを取り落としたが、彼女が腕の痛みに顔を歪めるのを見て罪悪感を感じる。しかしそれでも彼女たちの殺気は変わらないと見え、咄嗟にナイフを拾って左手で構える。

「笛の音が、それに様子がおかしいっ」

 錯乱しているように奇声を上げ、ただナイフをかざして突っ込んでくる。時には何もない中空目掛けてナイフを振り回している。

「精神の錯乱……パンだ、あのパンっ」

 パン、あの固そうなあれ?しかし考える余裕もなく少女はまた突っ込んでくる。

「ちょっと引きつけとけ」

「ちょっとって」

 目の前の敵を放り出して翠さんはマストの方へ駆け出していく。残された僕は四人を相手取って棒を振り回しナイフをちらつかせ、叩いては逃げる大立ち回りを演じる。いつ切られてもおかしくない無我夢中の戦い。

 すると笛の音が聞こえたと思った途端、目の前の少女二人が弾かれたように後ろの帆柱へまとめて宙を飛んでいった。そして突如軌道を変えがくんと地に伏した。見えない腕で持ち上げられたような異様な動きの後、少女たちの腹には縄が巻き付いていた。そのまま地を引き摺られるようにして帆柱に縄で括り付けられる。

 笛の音が鳴る。その中をヒュンという音とともに別の縄が飛び交う。帆を操るための長縄が笛の音に合わせ動いている。さながら毒蛇を操るインドの蛇遣いのように、笛が鳴る度に縄が意識を持ったように動く。そうしている間に後の二人も絡め取りもう一本の帆柱にぐるぐる巻きにされた。甲板では縛られた少女が恨みの声を上げるだけになった。

「ひどいですよ、いきなり置き去りにして。それに銃もあった」

「物騒なことを口にするな。銃を使ったら死にかねない。宮塚のことはあるとはいえ、死んでどうなるのか確証が持てなかったんだ。それよりお前、傷は?」

 右手がじんじんと痛む。血の跡が広がっているが、おそらく手を振り回したからだろう。傷は深くない、と思う。

 甲板に少女たちを残して船室に向かう。

「そういえば、あのパンって何だったんですか?」

「パン?ああ、ライ麦パンの麦角菌だ。『聖アントニウスの火』とか言われてて手足が黒くなって壊死していく。LSDに似た成分があるせいで悪魔の誘惑に例えられる幻惑を見るんだとか。メアリー・セレスト号集団錯乱海飛び込み説だ。まったく、教育がなってない、聖書の読み過ぎだ」

 ランプに火を灯し、傷口に布を当てがう。宮塚亜里沙は死ぬような切創を負っていたが目覚めた彼女には何の変化も無かった。目覚めた途端に記憶からほとんど消え去る夢のように、僕が目覚めたらこの痛みのことも忘れているのだろうか。しかし、今は痛い。この痛みを感じる体は残念ながら夢ではない。

「しかしこの船、何が目的なんでしょう」

「分からんな……しかし気になったことがある。お前の持っているそのナイフ」

 さっきの戦いで奪ったナイフ。明かりの元で見ると赤茶けた汚れの中で刃がぎらりと光る。血がこんなに、と身構えるがよく見るとただの赤錆だ。それにこの汚れた刃、そういえ…ば…

「これ、あの卑弥呼の従者が持っていた槍の刃先と同じだ」

「それにあの子たちの服装。船乗りのセーラー服だったが聖アリンの制服を流用したものだった」

 また邪馬台国の時に感じた印象が蘇る。小道具を作った大掛かりな劇。これもまたあの顔の無い男のガラクタから生まれた世界なのだろうか。

「この“血染めの“ナイフ、メアリー・セレスト号伝説通りなら船長室の枕の下にあったはずだ。ざっとしか確認してなかったから、また見てみよう」

 そうしてすぐ隣の船長室に戻る。枕をどけるが何もない。ここに今手に持っている、一見血の汚れのような錆びたナイフがあったという。

「おい、これ」

 翠さんに呼ばれ覗き込むと、その手には一枚の写真があった。三人の人間が写っている。大人の男女と赤子。家族写真のようだ。実際のメアリー・セレスト号でも船長とその妻子が乗っていて彼女らも消えた。

 その写真の中の男の妻、赤子の母と思われる女の顔は、あのヨーロッパ人の顔だった。

 卑弥呼の顔であり、顔の無い男の部屋から見えた隣の建物の女の顔。その夫の顔はなんというか、まったく特徴が無い。この時代がかったモノクロ写真にしてこの顔ありというような顔。

「また出てきたな、この女」

 一体この船はどこへ向かっているのか。寄港地のない船。船も謎も永遠に暗い海を彷徨いつづける。そんなのは御免だ。

 どおん、と音がして船が揺れる。「なんだ」と写真から顔を上げる。

「鯨か氷山でもぶつかりました?」

 タイタニックも御免だと思った時、くぐもっているが船体を外からザアッと擦るような音が聞こえた。大きい何かが船体にぶつかっている。そして甲板からガコンと何かが壊れる音がした。

「何か……」

「行くぞっ」

 そう言われて船室から甲板へ飛び出すと、奇怪な光景が目に飛び込んできた。帆柱が増えている。それも船体の外に。なんであんなところに柱が?そう思った時増えた柱が曲がった。木ではなく、その太さにも関わらずふにゃりだらりと柔らかく曲がるその様はまるで生きているようで——生きている。

「嘘だろ、クラーケン……」

 メアリー・セレスト号巨大海洋生物襲撃説。船体についていた少しばかり大きな傷から空想がどこまでも肥大化した荒唐無稽な説。それゆえに人間の好奇心を惹いて止まない説。

 クラーケンの足がマストの横木に絡みつく。それまで柔らかく曲がっていた足が次第に直線に近づいていくと船体中からみしみしと悲鳴が聞こえる。次の瞬間雷のような音を轟かせて横木の一本が根本から折れた。その衝撃に船が右へ左へ揺さぶられる。そして破片の降り注ぐマストには少女たちが括り付けられている。

 翠が笛を鳴らし縄から解放しようとするが、大揺れの船の上では上手くいかない。その間にもクラーケンの魔の手は別の柱に絡みつく。

「奥は僕が、翠さんは前を」

 そう言って甲板に出ていく。揺れと海水で滑り何度も足を取られる。二十メートルもない距離だが歯を食い縛るように進んで何とか奥の帆柱にたどり着く。柱に縛られ二人のた少女たちは幻覚成分が切れたのかぐったりとして動かない。ナイフを力いっぱい振るい縄を断ち切るが、縄が緩むと少女のか細い体は船の揺れに合わせ飛ばされようとする。一人ずつ運ぶのは無理だ。二人の腕をしっかり握り締め、引きずって船室の方へ戻る。

 ここで死んでもまた何事もなかったかのように蘇るのではないか。そうかもしれないが、そんなあやふやな可能性に賭けることはできない。後少し、というところで船が大きく揺れる。クラーケンの腕がマストを強かに撃ったのだ。船体が大きく傾き足を滑らせた。しまった——脇ががつんと何か大きな物を抱え込む。手前の帆柱に引っかかった。帆柱には既に少女の姿はない。揺り戻しの一瞬に人影が近寄って来て、腕の先でだらりと倒れている一方の少女を掴んで引き寄せる。「離していいぞ」と聞こえたので少女を離す。空いた腕で体を起こすともう一人を引きずって。一息でドアの側の窪みに押し込んだ。四人ともいる。

「あの怪物、どうすれば……」

「どうするって、あれ……」

 暗闇の中に見えた明かりが彼女の言葉を尻すぼみにさせた。暗い海の向こうからもう一隻の船が真っ直ぐこちらに来る。

「そうか、メアリー・セレスト号を発見した船までいるのか」

 デイ・グラツィア号、漂流していたメアリー・セレスト号を発見・曳航した船にして船長同士は親友だったという。メアリー・セレスト号偽装救難説。船長同士が共謀してわざとメアリー・セレスト号を海で棄て、偶然を装って現れたデイ・グラツィア号が救援活動をしたとして保険金を騙し取った詐欺の可能性。

 船と船がぶつかる大きな音がする。二つの船が横付けされた。デイ・グラツィア号の甲板には船員が待機している。その船員も役になりきった少女たちだ。そしてデイ・グラツィア号の舳先に立っている船員は岡田京子。彼女が船の上で叫んだ。

「翠さん、これは一体——」

 彼女は既に目覚めていた。役にはまらず自らの意思で動いている。

「ここにお前らの仲間が四人いる。そいつらを飛ばすから受け止めろ」

 向こうの船の船員たちが慌てて受け止める準備をする。その直前、翠は和朔を振り返った。

「お前は船底の樽を開けろ。そんなに多くなくていい。霧が濃くなる程度だ。だが絶対火は使うな」

 樽から霧、それだけ覚えて船室へ駆け降りる。

 船が横つけされ多少揺れにくくなっているとはいえほとんど落ちるように船底にたどり着く。無数の樽の一つの栓を開ける。するとブシューという音とともに白い煙が上がり、咳き込む。

 何だこれ、アルコールじゃないか。アルコールの霧が室内に拡散する中、腰まで水につかりながら二個、三個、四個と次々に栓を開ける。咳き込む。船が大きく揺れる。崩れた樽が壊れ奥からもブシューという音がする。霧がどうなっているか確認したいが火は使えない。それでも後ちょっととまた栓を開ける。

 上から戻って来い、という声が聞こえた。水浸しになりながら揺れる階段を必死になって上がるが、出口が見えているのに果てしなく遠い。最後の数段となった時、腕が引っ張り上げられ、そのまま「身構えろ」と言われ体が宙に浮く。縄で飛ばされている。

 さすがに飛びながら制御することは難しいようで最後はデイ・グラツィア号の甲板にほとんど墜落した。危うく揺れる船同士に挟まれるところだった。

 行って——岡田京子が声を張り上げると、また軋む音を立てて二つの船が離れる。残されたメアリー・セレスト号はクラーケンの餌食となった。横から翠さんが飛び出してその哀れな船に腕を向けた。

「あのイカ野郎っ!」

 暗闇の中彼女の指先から火花が散ると、拳銃が放たれた。弾丸の行先はクラーケン、ではなくメアリー・セレスト号の船底。一瞬の夜闇。

 次の瞬間、夜闇が突然昼のように明るくなった。次いで鼓膜が破れるほどの轟音。

 メアリー・セレスト号の大量のアルコールが爆発した。メアリー・セレスト号アルコール爆発説。アルコール漏れに気付いた船員たちが救命艇で逃げた末、二度と岸に上がることはなかったという最も有力な話。

 噴き上がる劫火に焼かれクラーケンの足が海上に巨大な松明のように燃え上がる。爆発の音か、船が軋む音か、クラーケンの悲鳴か、大きな低く伸びる音がした。

 

 皆一様に燃え上がる船を見つめている。まだ気分が緊張と高揚に包まれている。

 そのためか幻聴のような声が聞こえた。

「俺は、諦めはしない……絶対に彼女を探し出して、見つけ出して見せるぞ……![#「!」は縦中横]我が愛する女性ひと、その愛さえあれば、愛に満たされた世界にたどり着くことができれば、この呪われた旅は……永遠の彷徨は終わるのだ……![#「!」は縦中横]」

 愛の無い永劫に孤独な旅を続けるフライング・ダッチマン船長の叫びが聞こえた気がした。

 

 そしてビュウと一陣の風が吹き、次第に風は強まり竜巻となった。メアリー・セレスト号竜巻説。発見された船は甲板が濡れ大嵐に遭っていたと推測されるという。猛烈な風の中掴まることしかできない。

 やがて息もできない風の中、手が離れ体が空に吹き飛んだ。なす術なく空を振り回されながら、世界がまた反転した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る