顔の無い男 (ニ)
周囲には木板と格子窓。床は畳。木板の壁には二つの寝台が釘で固定されていて、寝台には物々しい枷のようなものがあった。唖然としてまた鏡を見ようとすると、鏡もなくなっていた。その代わりに太い木の格子が一面を覆っていた。
どこだ、ここは。という疑問とともに、ここは僕たちの時代のものではないという直感があった。
「牢獄、ですかね…」
「牢獄……いや座敷牢、ああ、癲狂院か」
癲狂院、昔の精神病患者の病院。しかしそれは病院というよりは監獄であった。
「患者を拘束して隔離するものとせず、自由と尊厳を守る。その考えが伝来したのも一九○○年に入ってから一人の医師が実践してからだからな……それに座敷牢は戦後しばらく続いたし、最初期の癲狂院だからあまり違いはなかっただろう」
拘束という言葉が妙に心に響いた。この状況、僕らも閉じ込められている。そして、もしかしたら失踪した生徒たちもいるかもしれない。しかしまず僕らが出られるかどうか、それが最大の問題だ。生徒たちがいたところで出られなければ元も子もない。
格子窓を覗いてみる。窓はガラスも無く開け放たれていてそこに格子が埋め込まれているだけだが、壊すことは——そもそもこの空間の物を壊せるのか——難しそうだ。何より小さくて頭が入らない。ただ、見ると地面とは距離があるようで、たぶん二階だ。
「出ることは、できますかね?」
「それが、どうも妙だ……結界といって自己完結した閉じた別の空間を造る方法はあるんだが、なんというか完全に閉じている。
この世界、時間自体が元の世界と切り離されている。単純に時間が過去から未来に進む、そう言う世界じゃない気がする」
「……つまり?」
「簡単には出られない。今のところ、思いつかない」
出られない、しかもこんな牢獄みたいな場所で。こんなパワハラ上司と心中することになるかもしれない。ひどい、余りにも酷すぎる。
「とりあえず……あの格子戸、開くのか?」
翠さんは出入り口、と思われる場所を見ている。一片の希望にすがって戸を押してみる。…開かない。今度は引いてみる。……開いた。
「行ってみるか」という声に促され忍足でまず戸外へ最初の一歩を踏み出す。畳の部屋と違い板張りの廊下。しかしそれ以外は何も起こらない。
「歩けますね」
確認するように言って戸の脇にどくと、翠さんも出てきた。何はともあれ彼女も牢から出たかったらしい。
出ると僕らがいるのは長い廊下の端の一室であることが分かった。たぶん向こうの端はL字に曲がっている。見えにくいが廊下の両端にずっと同じような牢が続いているようだ。一室に寝台が複数あったことから狭い一部屋に数人を入れるのだろう。
その時、一人の男とその後ろにもう一人女がついて廊下を曲がって現れた。心臓が掴まれたように緊張する。翠も魔笛を構え臨戦態勢をとる。
しかし二人は僕らには気がつかないようにこちらへと淡々と歩み寄ってくる。その男は後ろ手に拘束されており、足も大股で踏み出せないように鎖で小幅に制限されている。まるで幽鬼のようにぼうっと一歩、また一歩と歩いてくる。そんな男を管理するように女も滑らかではあるがゆっくりと後に続く。
「患者と、看護人か」
翠さんが呟いたのでバレないかとひやりとしたが、変わらず男たちはこちらへ歩み続ける。そして二つ手前の牢の前に来ると男は寝台に寝かされ、鎖で繋がれた。女は牢の鍵を閉めるとさっきとは打って変わって早足で来た道を引き返して行った。男は寝台の上で微動だにせず横になっている。
周囲から、ううっ、ああっ、とかいうよう呻き声が聞こえた。この先にも誰かがいるのだろうか。先へ進んでみよう、どちらからともなくそんな雰囲気になり男の部屋より先に歩み出す。
男、女、若者、老人。牢に入れられているのは性別も年齢も様々でただじっと座ったり横になっている者もいれば、鎖に繋がれた手をしきりに動かして声を上げる者もいる。見ればその手首は鎖と擦れて青くなっていた。
曲がり角に差し掛かる。角の向こうも同じように牢のある廊下が続いていたが、今度は廊下の片方だけに部屋があるようだ。そして丁度曲がり角のところに階段がある。階段も大きな格子戸で隔たれていて進むことはできなかったが、下へと続いていた。二階建てで三階はないか、ここからは行けないようだ。
そして階段に面するように一枚の絵があった。
油絵の自画像や肖像画のようだが、個人が特定できるような精細な筆というよりも、抽象的な、なんとなくこんな人いるよな、という絵だった。題は無かったが、裏返すとサイン特有の読みにくい字だったが「野辺清五郎」という名があった。作者の名だろう。
「下には行けなさそうですし……向こうも行きますか」
そう言って牢の廊下を歩き出す。向こうの端は行き止まりで、このフロアはL字型だとわかった。そして一部屋の大きさが向こうに比べ大部屋になっている。
妙に静まり返っている。二部屋目を覗き込んだ時思わず格子にしがみついた。
制服の少女が十人、紛れもなく聖アリンの白い制服だ。
「君たち——」と先を続ける前に翠さんも駆け寄って覗き込む。すると格子の中から「翠さん?」と声が聞こえた。声の主を確かめると髪の短い少女が目を丸くしていた。
「お知り合い、ですか?」
「ああ、占いの……篠井沙耶、だよな?」
篠井沙耶と言われた少女は感極まって泣き出してしまった。他の少女がその背をさすりながら、自身も泣きそうになっている。聞かずとも、ずっとこの空間へ閉じ込められていることを物語っていた。そうしているとまた隣の牢から声が聞こえた。
「あの、翠さん、ですか」
隣の牢を見ると今度は髪の長いややふくよかな体格の少女がこちらを見ていた。「占いの、宮塚亜里沙です」と言うと翠さんも頷いた。この部屋にも十人、消えた少女たちはこの二部屋に閉じ込められている。
「えっと、この牢から出る方法は……」
「いえ、牢からは出られます」
二番目の牢の中から声がして一人の少女が格子戸に歩み寄ってくる。立て付けが悪いのか、彼女が力強くぐいと戸を引くと戸は軋むような音を立て開いた。鍵はかかっていないようだった。
少女は僕よりやや背が低いくらいで細い線だったが、思わずこちらの身だしなみを整えてしまいたくなるような気品と言うべきか、空気を纏っていた。少しすぼんで見える唇や丸みを帯びた鼻は小さいが整った印象を与える。そして何より目。奥二重だがくっきりと大きな瞳は、より一層目そのものの力を際立たせている。印象として最初にぱっと思いついたのは、妖しげな力を秘めた黒猫だった。
「岡田京子といいます。二年生で、演劇部では部長を務めています」
彼女は翠さんとは初対面のようだ。こちらも自己紹介するが、先方はこの「占い師」のことは知っていたようで、怪しげな素性にも特段驚いていないようだった。
そうこうしていると隣の格子戸も開き中から少女たちが出てきた。たしかに格子の中に閉じ込められているわけではないようだ。
「まずは——これまでのことを話したいのですが、こちらの部屋に集まりませんか」
岡田京子が提案した。このような状況でも冷静さをもって行動している、出会って一分くらいなのに、その姿を少し尊敬してしまった。
「……それでは、今のところ戻る術はないということですか」
京子はあくまで冷静に言おとうとしていたが、沈痛さが滲んでいた。他の生徒の間から「そんな……」と消え入りそうな声が聞こえる。希望を持たされて裏切られた、そういう思いなのだろうと気づいて何だか申し訳なく感じる。
二十人にしては部屋は狭く、皆一様に身を縮こまらせて座っている。彼女たちが言うにはここに来て既に一週間ほど経っているのではないかということだった。外の世界ではまだ数時間しか経っていないことを伝えると驚いて顔を見合わせていた。
彼女たちはそろそろ部活が終わろうとしていた午後六時頃、鏡の中に僕が手にしたようなチケットを見つけた。彼女たちも怪しがって拾ったところ、この空間に迷い込んだという。牢からは出られたが他に行き場もなかったため身を寄せ合っていたという。
「ただ、この空間は七不思議によるとどうも常にあの場所、実習棟のあたりに現れているらしい。なにかこの空間を形造る中心……きっかけのようなものが消えれば戻れる可能性はある」
その言葉を聞いた生徒たちはなぜか皆俯いてそわそわとした。何か知っている。その態度が物語っている。
「……何か、気になることがあるのかな」
そう切り出すと皆の視線に促されるように京子が話し出そうとした。
その瞬間、隣の部屋からカランカランとベルの音がして思わず身を震わせる。そして少女たちは恐れるようにきつく抱き合っている。
「何だ、これ——」
隣の部屋を見に行こうとすると地震のような揺れを感じその場に座り込んでしまう。
「あれです、また、あれが——」
京子の言葉が間伸びしたように聞こえ、世界が反転した。
目が覚める。俺は誰だ、何者だ?何を持っている?赤茶けた刃先の槍、黒塗りの木片が連なった鎧、石の勾玉、片面に細工の施された円形の金属板。そして彼女は誰だ、彼女は、そうだ……そして俺は、ああ、そうだった……
さて、私は誰でしょう?
まだ目がぐるぐる回るようだったが少しずつ収まってきた。地震ならものすごい揺れだ。天井は崩れていないか……確認しようと目を開くと太陽と大空が見えた。無事だったか、と思ったが、えっと思考に詰まる。
板壁が、格子が、天井が何もない。その代わり整備された大地の上に立っていて、ぐるりと木の柵で囲われた敷地の中には、木組の高床式倉庫や茅葺き屋根の建物が幾つも並んでいる。そして倉庫の向こうには巨大な櫓のような、回廊と大屋根を備えた建物がある。その姿はまるで教科書で見たことのある——
「これって、弥生時代……?」
そして自分の姿といえば、黒漆が塗られた木の板を、赤く染められた糸で繋いで腹と肩を覆う原初的な鎧姿。手には鉄の刃先をもつ槍が握られていた。思わず離そうとするが手が言うことを聞かない、というより体が自分の意識で動くのを拒否している。渾身の力を込めてわずかに腕が上がったように感じるといったくらいだ。
焦る中傍でざざっという人が歩く音が聞こえた。振り向くがその動きも自分の意識のものではない。ちらりと見えた人々は二十人くらいでその姿は自分と同じ鎧姿。そして何よりも、その顔ぶれは男でなく、明らかに先ほどの少女たち、聖アリンの少女たちだった。
彼女たちが僕の周囲に広がり、数人の顔が見える位置についた。そして集団の先頭の位置には岡田京子がいた。そして通りの向こうにも自分達と同じような兵士の一団が幾つもある。どうして自分たちはこんな古代の戦争ごっこを……いや、ごっこというには余りに度が過ぎている。
何が起ころうとしているのか案じていると、後ろから名前を呼ぶ声がする。
「
翠さんの声だ。そして人形——そういえば身代わりの
だんだんと身体が動くようになったのを感じる。木偶人形がうまく身代わりになってくれている。息を潜めるようにして体を動かそうとすると、横から滑り込むように翠さんが現れた。彼女も鎧姿をしている。
「彼女たちは」
「あいつらは人形を持っていないから無理だ。それに意識があるのかどうかも、外からじゃ分からない」
翠さんが手近な一人を揺さぶろうとするが、見向きさえせずその場で戦いの構えを取り続けている。僕も加勢して他の人に声を掛けるが誰からも反応はない。その時鎧姿の彼女たちが一斉に振り返った。そちらを見てみると、彼女たちの視線の先にはあの大櫓があった。
高台の上には鎧姿の一人の男が立っている。特徴の無い顔。そう言わざるを得ないほど余りにも男の顔には特徴が無く、良く言えばこの景色の一部と言えるほど溶け込んだ顔。
なおも皆その男の方を見続ける。男は衆目が集まったのを確認したように地上を眺め渡すと櫓の中に入って行った。しばらくしてまた男が出てくる。すると場の空気が変わった。迫った戦いの緊張を凌駕するほどの、畏怖のような緊張が兵士の間に張り詰める。
その緊張が最高峰に高まった時、櫓から一人の人間が出てきた。床に垂れるほどの白い着物に、袖や裾は鮮やかな藍や緋色の意匠が施されている。そして両手で金属の円い板を持っていいる。円盤が胸元にあるので、下にいる僕らには丁度顔が隠されてしまう。しかし体つきや物腰から女だと感じた。その印象はまさに、
「……卑弥呼?」
とするとあの女の持つ円盤は銅鏡か。高床式倉庫の村と祭司服姿の貴人の女。まさに歴史の教科書に出てきるような、弥生時代の邪馬台国の中に僕たちは立っている。
そして女がゆっくり手に持った銅鏡を掲げる。胸に飾りがあるらしい。そして銅鏡が顔の高さまで掲げられると次第に唇、鼻と顔が露わになる。だが遠くてよく見えない。そして目元、額と露わになったその時、妙な違和感を感じる。
よく見えなかったがあの顔は——しかし銅鏡がついに天高く掲げられた。鏡面が反射する光が兵士たちに降り注ぎ、目を背けたくなるような眩しさを感じる。それと同時に圧倒的な権威、打ち震えるような神々しさを感じ、思わず自発的に跪いてしまう。見ると周囲の兵全てが地に平伏していた。
男の言葉が心に響くように聞こえる。
〈戦え戦士達よ!この国を、そして女王を守るため!全ての敵を討ち滅ぼせ!〉
オオ…と怒号のような兵士の雄叫びが上がる。兵士たちは弾かれたように立ち上がると大声を上げながら柵の方を睨みつける。その大音声の中、似たような鎧姿の人間が柵を越えこちらに向かってきた。手には長剣を持っている。
〈殺せ!〉
その声とともに兵士が柵を越えてきた男目掛けて突進する。男が長剣を振り上げ斬りかかろうとする。しかしその前に兵士の一人が槍でその体を貫いた。男は腕を上げたまま剣を取り落とし、槍の勢いに任せるように後ろへ数歩退き腹に槍を立てたまま地面に転がり込んだ。兵士が槍を抜くと、一人、また一人と男たちが柵を越えて来た。
戦争だ、僕らはこの国を、女王を守っている。
敵が次々に柵を越え攻めて来る。敵は弓でこちらを牽制しつつ剣を持った者が斬り込んでくる。迎え撃つ兵士たちは前列で木の盾を地面に立て敵の弓を防いでいる。そして剣を持った敵が来ると盾の後ろから兵が飛び出て、ある者は槍で、またある者は剣でそれに応戦する。
あちこちで戦いが起こっている。敵の目指すものは、あの大櫓。前線の兵士が敵を防ごうとするが柵のあちこちから敵が散発的に侵入するためどうしても全ては防げない。すり抜けた敵は大櫓に近い後ろの兵が仕留めている。
これは夢だ、幻だ。たしかにそうであるはずなのに余りのリアリティーに手も足も出ない。操られているせいか、少女たちの動きの方は本物の兵士のそれだった。
一人の兵士が倒れた。敵の短剣で首元をぐさりと刺された。敵は生死を確認する素振りもなく剣を抜き取り駆け出そうとするが他の兵の槍の餌食となった。あの兵は、倒れた兵士のもとに駆け寄ると、それは宮塚という少女だった。目を見開き口から血を流している。
そんな——血を止めようと足の布を引きちぎり傷口に当てた時、大気を震わす低い音がした。笛の音だ。
倉庫の上に一人の兵士が立ち、横笛を吹いている。その音は西宮翠の魔笛だ。魔笛の音を聞いた途端、敵も味方もその場に昏倒した。笛の音が辺りに響くとそれまでの血みどろの戦いが嘘のように静まり返った。眠っているのか死んでいるのか、その違いは血が流れているかを見ないと分からない。
静寂に包まれた戦場を見渡す。すると、一人の兵士は地に崩れながらもまだ槍を頼りに起き上がっていた。その顔が音の出どころである倉庫の方を向こうとこちら側を振り返る。その兵士は岡田京子だった。
彼女は動けるらしい。洗脳と魔笛を受けてなお自力で立ち上がれる。
翠さんのような、
消えいるように笛の音が止んだ。彼女が立ちあがろうとしている。岡田さん——そう叫ぶと彼女はこちらを振り向いた。宮塚さんが、と言うと体がこちらに向き直る。もたついていた足も最初の数歩で足取りが確かになり、すぐにこちらに走り出した。
宮塚亜里沙にはもう息もない。京子が駆け寄ってきてその身体に触れるが、何の反応もない。僕は傷口を押さえながら肺に血が溜まらないよう横にするがもはや絶望的だった。京子の息を呑む音がはっきりと聞こえた。
しかし彼女は躊躇いを振り払うようにがばと立ち上がった。
「翠さんの所へ、速く!」
「でも宮塚さんが——」
「いいんです、
そのまま動かない宮塚亜里沙に背を向けると僕の手を取って倉庫のもとへ走り出した。
倉庫に駆け寄ると上から翠さんが飛び降りてきた。僕たちが来るまでの一部始終には気づいていたらしく、深刻そうな顔で「あの子は——」と尋ねてきた。そして宮塚という名を聞くと言葉を失った。しかし京子が「それよりも」と非情とも言える切り替えの速さで話そうとするので、さすが翠さんも戸惑っているようだった。
「それよりもって、お前……」
「いいんです、たぶん、大丈夫です」
また先ほどの謎めいた自信だ。それだけでは僕ら疑念をを拭えないと気付いたようで、言葉を選ぶように、しかし急ぎながら言葉を繋いだ。
「ここは、夢の中なんです」
「夢?」
「そうです。同じようなことがあったんです。詳細は省きますが、たぶん
「その男っていうのは…」
「顔形は違いますが、たぶんあの男、私たちに演説した、卑弥呼のような女の従者の男です。そしてその男が元いた牢屋の隣の部屋の住人に関係していると思います」
ベルの音が頭に蘇る。この戦場はそのベルの主の空想の産物かもしれない。異空間の仮想空間。固い地面が薄氷のように儚いものに感じると同時に、これほどのリアリティーを空想だと思えない相反する印象の板挟みになる。今最も頼りになるのは——目の前の京子の凜とした姿にこちらが励まされる。頼れるのは、数日分先にこっちに来ている彼女の言葉と観察眼だ。だとするとまずはあの従者の男、あれを問いただすべきだ。
後ろ髪を引かれる思いだったが戦場を後にする。周囲には敵と兵士が倒れているが急いでいるので、生きているのか死んでいるのか分からない。倉庫や住居の間を駆け抜け大櫓へと向かう。外から見ると特に太い木を一本まるごと使った柱が高床に何本も使われ、その上に二階建ての部屋が設けられ、ピラミッド型の巨大な茅葺き屋根が存在感を放っている。
向こうから人の声が聞こえる。魔笛の音が届かなかった場所では当然戦いが続いている。今はまだ持ち堪えているが、敵の数が多く押されている。落ち着いて行動できる時間はそう多くないだろう。
「主祭殿だろうな」
大櫓を登りながら翠さんが呟く。二階へ上がる。広間となっていて物がほとんどないが、奥の中央に蚊帳のような吊られた布の囲いがある。貴人が座る御簾の席だ。
そして三階——神託を得る間、そこにいたのはあの従者の男と卑弥呼の女。従者の男は刃先が赤茶けた槍を持っている。血か。自分も手に持った槍を握り締める。
「お前……何者だ」。
「私は女王に仕え、その言葉を国に伝える者。女王のもとで生き、女王のために生きる」
問われた従者が表情の無い顔で答える。その無表情さは俗世を離れた神への、いやそれよりも隣の卑弥呼本人への崇拝を感じさせる。
その卑弥呼はこちらに背を向け端座している。そしてその横には先ほど掲げた銅鏡——
いや、よく見ると何かおかしい。銅鏡に見えた物はたしかに金属の円盤ではあるがその紋様は適当に裏から叩いて円弧状の凹凸をつけただけで稚拙なものだ。それに銅ではなく、アルミニウム。
「銅鏡じゃなくて……アルミの鍋蓋?」
拍子抜けして口走ってしまう。すると従者の顔がいきなり鬼の形相となって激しい怒りを露わにする。
「違う……!違う!私は断じて偽物ではない!…私は…従者だ、女王の、この女性とここで全てを共にする。これこそが真実だ!」
そう言って槍をこちらに向ける。刺される、と思った瞬間パンと乾いた音がして男の呻く声が聞こえる。その腹を押さえた手から血が流れ出している。煙の匂いがして振り返ると翠がアンティーク調の拳銃を構えていた。
すると突然ぐらりと地面が揺れる。来た時と同じ揺れかと思ったが違う。今度は正真正銘の地震だ。男の呻き声がまた聞こえる。まだ死んでいない。そうしている間にも揺れはますます強まり柱にしがみつくしかない。
「地面が……!」
京子の声がして入り口の方を見ると、高台から見える遠くの大地に真っ黒な線が広がっていく。地割れが起こっている。国が、大地が滅び飲み込まれようとしている。
地割れの大変動の中にあって卑弥呼はその場に静止したように動かない。この女の呪力がこの変動を起こしている、そうとすら思えた。
その瞬間京子が跳び上がって槍を構えた。その槍の切先は男でなく、女に向けられていた。それに気づいた従者の傷付いた体が弾かれたように起き上がり二人の間に入った。
やめろ——!従者の声が聞こえた気がする。次の瞬間、その男の心臓は京子の槍で貫かれた。京子は体勢を崩して槍から手を離すが体はなお卑弥呼の方に倒れかかる。その体を従者が最期の力を振り絞り止めようとするが、足が卑弥呼に勢いよく当たり、女が弾かれる。
その女、卑弥呼は胸にありふれた石を削った勾玉をつけていた。
そして露わになった横顔は——ヨーロッパ人の顔だった。
なぜ、そう思う間も無く一層の激震に襲われる。地割れがここに迫っているのだ。
従者は京子を組み伏せたまま血反吐を吐きながら叫んだ。
「違う……!こんな世界ではない、こんな人生であっていいはずがない!私の世界はこれではないのだ!認めん、断じて認めんぞ……」
突然ジェットコースターに乗ったような浮く感覚がする。地割れに飲み込まれ大櫓が落下していく。二人はどうなった。その姿すら認めることのできないまま世界はまた反転していった。
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